三節 陽暗詩(ひぐらし) : 四章 芽生えるコイゴコロ
両親を殺した翌日の、放課後。
キキキキキキ、キキキキキキ……。
ひぐらしの鳴き声が、暮れかけの街の中に響いていた。
今日は授業が七限目まであったうえにホームルームが長引いたため、乙達が日直の仕事に取り掛かる頃には日が傾き始めていた。
「ふぅ……。日誌の『今日の出来事』って、結構難しいわね」
教室には、乙と河竹の二人だけが残っていた。
「そうだな。こういうの、作文が上手いヤツならすらすら書けるんだろうけど」
「私は現代国語の記述問題とかは結構得意よ。でも日誌のこれは、自分の見の回りのことをつぶさに書かなくちゃならないじゃない」
「別にそこまでディープな内容じゃなくてもいいと思うが……。他のヤツだって適当だろうし」
「ダメよ。常日頃から、与えられた仕事はきちんとこなさないと。割れ窓理論って知ってるでしょ。何か一つ手を抜いたらクセがついちゃって、連鎖的に他のこともいい加減にやるようになっちゃうんだから」
「……河竹って、自分のことを動物に例えるならなんだと思う?」
河竹はパチパチと瞬きを繰り返して顎にシャーペンをやり僅かに顔を上向けた後、「そうね」と呟いてから言った。
「牛……かしら」
「意外だな。河竹とは似ても似つかないと思うが」
「そうかもしれないわね。でも普段は青々とした草原でのんびりと草を食んで、敵が来たら勇猛果敢に立ち向かう。……そんなライフスタイルも悪くないと思うの」
「つまり憧れってことか」
「いいえ、しっかり類似点があるのよ。一言でいうなら、イメージと現実のギャップ……かしら」
「どういうことだよ?」
河竹の表情に、翳りのようなものが生まれた。
それから自嘲的な笑みを漏らし、シャーペンを弄びながら語り出した。
「私って、なぜかみんなからなんでもできる天才……みたいに思われてるじゃない?」
「まあ、そういう評判はよく聞くな」
「でも実際は、今までずっと両親に管理されて育てられた結果、こういう風になったの」
「なんだか今の自分に対して、不満を持っているように聞こえるな」
「実際、そうだもの」
河竹は肩をすくめて続けた。
「牛って聞いたら、大抵の人は草原の中にいるホルスタインを思い浮かべるでしょ。でも実際はほとんどの牛が狭い牛舎の中で飼われ続けて一生を終えるのよ。広い草原の敷地を持てるような資産に余裕がある牧場なんて、今はほとんどないんだから」
「……そこまで酷いかどうかはわからないが、アニマルウェルフェアなんて言葉が外国じゃよく使われてるらしいよな」
アニマルウェルフェア――家畜の動物ができうる限りストレスフリーな生活を送れるようにする活動のことである。
できうる限り動物が野生本来の行動を取れるようにする、というのが趣旨らしい。
「私も家畜達と同じよ。ずっと私らしく生きることを制限されていた。放課後は毎日毎日、習いごとに家庭教師。自由に友達と遊べる時間もなかったわ」
「親に飼われてるも同然だったってことか」
「ええ。……中学時代、限界まで心が追いつめられたことがあってね。本気で自殺することも考えたわ」
河竹は自身の首――頸動脈を手で軽く押さえて笑った。
「知ってる? 首吊りって聞くと大抵の人が高いところから吊るされている様を想像すると思うけど、座った状態でもできるのよ」
「……マジか」
「ええ。脳内を酸欠状態にすることで、窒息死する。ただ、失敗した時の後遺症がちょっと洒落にならないけどね。脳細胞が死んで、記憶力が悪くなったりとか」
「ははは、記憶力低下……ね」
乾いた笑いを漏らして、乙は河竹から目を逸らした。
河竹は不思議そうな顔をして、首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、その……。オイラって実は、結構記憶力が悪いんだ」
「確かにそうかもしれないわね。忘れ物とかも多いし」
「多分、それは……虐待のせいだと思うんだ。父親からの」
甲のいる意識空間にある本棚から数冊の書物が飛び出し、バサバサと鳥のように宙を羽ばたいて飛び回った。
甲はそれ等に指を立てて「しっ!」と注意したが、ヤツ等がそれを理解できるはずもない。
仕方なく騒音の解決を諦め、どうにか意識を再びスクリーンに集中させた。
乙が手元に視線を落として、語り出した。
「子供の頃に長期的に過度な虐待を受けていた人の脳は、右前頭前野内側部の容積が平均19.1パーセントも小さくなっていたらしいんだ。この部分は感情や思考を統べる場所で理性的な行動をするうえで欠かせず、異常を来せば犯罪や自殺など倫理から外れた行動を抑止できなくなる。加えて血圧、心拍数、報酬予測、集中力、意思決定、共感、情動などに関わる右前帯状回も、16.9パーセントの容積減少が確認された。学習や判断等の働きを司る左前頭前野背外側部も14.5パーセント減少していたそうだ。これ等の部分が障害によって損傷すると鬱病になったり、不良みたいに素行が悪くなるそうだ。反社会的な人間へ育っちまうってことだな」
淀みない論述に、河竹はしばし面食らっていた。
ややあって彼女は我に返り、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて乙に賛辞を贈った。
「……でもそれだけすらすらと専門的な言葉がたくさん出てくるのは、すごいわね」
「そりゃまあ、サイトに書いてあったことを音読しただけだしな」
乙が隠し持っていたスマホを見せると、河竹は一瞬ぽかんとした顔をした後、くすっと笑声を漏らした。
「ハンデを持ちながらも、たくましく育ったのね」
「そうかもしれないな。……結局のところ、人間にとって一番の敵は家族なんだよ。親ガチャなんて言葉が一時的に流行ったが、仲間を引き当てられるヤツはそうそういない。生まれた時から多くのヤツは、自分の身と心と価値観を傷つけられないよう、戦うことを強いられている。もしも親に負けたら……大抵の場合、バッドエンドへ一直線だ」
「……一つ、面白い話があるの」
「なんだ?」
「犯罪者の子供には、犯罪者としての遺伝が備わっている――というものよ」
「……なかなかの極論だな」
河竹はくるっと回したペンを机の上に置いて続けた。
「もちろん、全員に当てはまるわけではないわ。ただ、人は遺伝的に性格の傾向を決定づけられているのは確かよ。体内物質の分泌作用などに働きかけることによってね」
「体内物質で性格というと……、オキ……ト……」
甲の手元にある本には、その物質の名前が記されている。
ここは乙の意識内であり、彼は物質名を知っているはずである。
だが思い出せない。
意識と心は別物であり、また甲と乙はまったくの別人だからである。
乙が思い出すより先に、河竹がさらっとその名を口にした。
「オキシトシンね。共感作用に大きくかかわっていて、他者との共存において至極重要になるわ」
「ああ、そうそう。オキシトシン」
「ただし身体は、人間の都合通りにできていない。いえ、正確に言えば、人間社会……かしら。日暮くんは、戦士の遺伝子って知ってる?」
「いいや。なんだ、それは?」
「オランダのある一家に、学習障害と強い攻撃衝動が男子だけに出現するという異変が起きたわ。その原因は彼等の体内でX染色体上の遺伝子であるモノアミン酸化酵素A ――モノアミンオキシダーゼAが機能しなくなってしまったことよ。モノアミン酸化酵素A は役目を終えた神経伝達物質を分解、除去する働きをするのだけれど、機能不全になってしまうと攻撃的な傾向が強くなってしまうようね」
「……役目を終えた神経伝達物質が残り続けると、新しいものが作られなくなっていくからか?」
「そうね。まるで今の人間社会のよう――あら、ごめんなさい。口が滑ったわ」
河竹は口元を押さえて、くすくすと笑い声を零した。
甲の背中をつっと、冷たい汗が伝った気がした。
……もしやこの女は、人外が化けた何者かなのではないだろうか――そんな考えが、頭を掠めた。
乙は黙したまま、何も言わない。視界内に鏡がないため、彼がどんな顔をしているのかもわからない。
河竹は笑みを穏やかなものに戻して先を続ける。
「そういった機能不全のモノアミン酸化酵素AをX染色体上に有している人の遺伝を戦士の遺伝子――Warrior Geneと呼ぶの」
河竹は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩いて行った。
茜色と藍色のグラデーション――空は美しい一枚の絵画のごとき光景をリアルの世界に描き出していた。
「他にもCDH13――T-カドヘリンも暴力的行為の原因になるそうよ」
「……まったく知らないな」
「カドヘリンは神経管形成に関わっているのだけど、特にCDH13遺伝子は扁桃体の形成に携わっているわ。ここに異常が起きると過度な恐怖心を抱くようになったり、攻撃性が人間関係に悪影響を起こすほど強化されたり、アルコール依存症の原因にもなるらしいわ。いずれにせよ、社会を破壊する因子になりうる危険性があるわね」
河竹は窓を開けた。ふわっとカーテンが風に膨らむ。
彼女は夕空に背を向け窓枠に腰かけて、先を続ける。
「それにカドヘリンに異常が起きると、自閉症になる危険性があるの。自閉症はさすがにわかるわよね?」
「重度のコミュ障とか、物事に異常なこだわりを持つようになる広汎性発達障害のことだろ?」
「……スマホは万能ね」
「文明の利器だからな。使わなきゃ損だろ」
河竹は軽く肩を竦めて、話を再開した。
「2014年にスウェーデンのカロリンスカ研究所のチームが、フィンランドの895人の犯罪者を対象にゲノム解析を行ったわ。その結果、MAOA遺伝子とCDH13遺伝子への異常が暴力的な衝動を引き起こすトリガーになっていることがわかったの」
「……遺伝子への異常が、か」
「ええ。幼少期に受けた心的外傷や虐待、性格面の障害などの素因を排除しても、この相関関係は成立したらしいわ」
「つまり育った環境とか、本人の性質も関係ないってことか……?」
「遺伝を性質に含めるかどうかは、いささか悩ましいけれどね。研究者達は犯罪全体の5~10%にこの2つの遺伝子が関与していると推測したそうよ」
日が沈み、夜闇が地上を覆う。
乙が壁掛け時計を見ると、とっくに時刻は七時を回っていた。
とんっと音を立てて河竹が床に下り、「ふぅ」と息を吐いて言った。
「でも結局のところ、たとえ遺伝子に疾患を抱えていたとしてもその爆弾を起爆させさえしなければ、その人が精神異常者になることはほとんどないと私は思うわ」
「導火線に火がつかない限り、爆発しない――ってことか」
「ええ。だから人は幸福な人生を送るべきだし、そういう環境を作るよう努力すべきなのよ。無自覚なテロリストにならないためにもね」
「……ソイツがたとえ、生者の奴隷だったとしてもか?」
閉め忘れた窓から風が吹き込んできた。カーテンは僅かに揺れるだけだ。それはさっきより弱い風のはずだった。
しかしスクリーンから見える室内の空気は、まるでそれが何かの魔法だったかのように凍り付いているように見えた。
河竹が瞬きすらせず、こちらをじっと見ているためだ。一時停止のボタンを押してしまったかのように、ぴくりとも動かない。
甲がホットケーキにハチミツをかけてバターを載せ、それをナイフで塗って丁寧に切り分け、ピースを一つ口に運び食べたところで彼女の表情に変化が起きた。
浮かんだのは喜悦の感情だった。
それはドラキュラが、新鮮な血をたっぷり飲んだ後に紅く染めた唇で作るような笑みだった。
「私達、仲良くなれそうね」
「友達として?」
「そんなの、もったいないと思わない?」
河竹が近づいてきて、手を伸ばしてくる。彼女の手は、スクリーンのすぐ下へと消えた。
目を閉じた彼女の顔がゆっくりと迫ってくる。
スクリーンが上下からの闇にすっと挟まれて飲まれ、真っ暗になる。
甲は紅いクランベリージュースがなみなみ注がれたグラスを宙へ掲げた。
乾杯。
グラスに口をつけ、くいっと傾ける。
それは舌が痺れるほど酸っぱく、そして脳が溶けるほど甘かった。
唇を離した河竹は頬から耳まで真っ赤にしており、瞳は熱に浮かされたかのように潤んでいた。
彼女は肩をゆっくり上下させ、とろけるような笑みを浮かべつつ息を漏らして言った。
「……出夢くんとのキス、とても気持ちいいわ」
「オイラもだよ……、飾利」
「ねえ、もう一度してもいい?」
「ああ、もちろん」
キキキキキキ、キキキキキキ……。
ひぐらしの鳴き声が、現実と意識空間内に響き渡っていた。




