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三節 陽暗詩(ひぐらし) : 三章 素晴らしきゲイジュツ

 キキキキキキ、キキキキキキ……。

 ひぐらしの鳴き声が響き渡る逢魔おうまが時。

 夕日が地上を照らし、世界が紅く染まりゆく頃。

 乙はとある公園を訪れていた。

 大した遊具はなく、自動販売機さえ見当たらない。

 健全な高校生が訪れる場所にしては、いささか寂しすぎるように思われる。

 だが乙は迷いない足取りで園内に踏み入れる。

 彼の眼は真っ直ぐに、ベンチの方へ向けられていた。

 そこには一人の老人がいた。

 黒いタキシードを着て、頭にはシルクハットを乗せている。

 杖を手にしているものの、それで身体を支えているようには見えない。立ち姿が樹木のように安定しているためだ。

 口を覆うように生えた髭は長く、逆さにふくらんだ入道雲のようであった。

 乙は老人に向かって、軽く手を上げて言った。

「よお、来たぞ」

「ごきげんよう」

「例のせみ、一匹くれないか」

「ああ、申し訳ありません」

 老人は少し肩を落とし、笑みを崩さぬまま眉根を寄せて言った。

生憎あいにく、今日は入荷できておりません。何分、希少なもので」

「そうか。じゃあもう、アレは殺すしかないか」

「……アレ、とは?」

「いやなに、こっちの話だ。じゃあ、蝉がいないなら特に買うものはないな」

「ああ、お待ちください」

 かかとを返そうとした乙を呼び止めて、老人は言った。

「蝉はおりませんが、その代わりにひぐらしがおります」

「……ひぐらしって、今鳴いてる?」

「はい」

 しばし黙り込んだ後、乙は訊いた。

「そのひぐらしも、蝉と同じ……?」

「はい、同様の能力・・を有しております。ただひぐらしの場合は、基本的に夕刻と夜にしか能力を発揮できません。その強さも蝉と比べるべくもないのですが、ただし潜在能力はあると思われます」

「潜在能力ねえ……。まあ、安定はしないけどある条件下・・・では蝉をしのぐかもしれないってことか?」

「そう考えていただいて、問題ないかと」

 愛想あいそよくうなずいた老人は、首を傾げて乙に問う。

「それで、どうでしょう。一匹、50万円程度で」

「さすがに蝉に比べて安い・・な」

「やや能力面でおとりますからね」

 乙は軽く鼻を鳴らして、ポケットに手を突っ込み――ふと思い直したようにバッグを開けて、中から財布を取り出した。それはぶくぶく太っており、中には万札がぎっしりと入っていた。

 乙は手早く札を数えて、老人に渡した。

 受け取った老人も数えた後、二度ほどうなずいて言った。

「はい、ちょうどいただきます」

「ひぐらしは例のケースに入れてくれ。長持ちさせたいからな」

「もちろんですとも」

 老人はベンチの上に置いておいた薬箱の引き出しの一つからひぐらし――蝉の一種ということもあり、姿はイメージ通りである。幼子が絵に描くような単純な黒球の眼がついた平たい頭、そこからこぶのように大きな盛り上がりの下に、段々となっていて緩やかに先細りする胴体がついている。

 翅は意外にも芸術的な模様――枝分かれした細い木が躍っているようである――がついており、透明だ。確か翅脈しみゃく、というのだったか。

 足は虫らしく細くて、どことなくアームチックで機械的だ。

 まあ見ていてあまり気持ちがいいものではない。蝉は食べることができるようだが、乙は口にしたことがない。甲も別に食べたいとは思わないので、それに関しては一向に困らない。

 老人はポケットから黒い箱状の物――リングケースほどの大きさだ――の蓋を開き、ひぐらしを近づけていく。サイズ的に入りそうもないが、箱に近づくにつれてひぐらしのサイズは小さくなっていき、リングケースに全身が収まってしまった。

 ケースを閉じた老人は、それを乙に手渡した。

「どうぞ。能力を行使させたい時は蝉と同様に取り出して、命じてください」

「どうも」

 受け取った乙は、それをズボンのポケットに入れた。

「次回来る時までには、蝉を仕入れといてくれよ」

「わかりました。値段は以前と同じ、百万円で構いませんか?」

「ああ。金だけはあり余ってるからな」

 乙はそう言って身体をかえしつつ言った。

「また来る」

「はい、いつもご贔屓ひいきいただきありがとうございます。あなた様に、幸があらんことを」

 手を振る老人を尻目に乙は公園の入り口に向き直り、歩き始めた。

 ふと甲は遠くの空に、黒雲が立ち込め始めているのに気が付いた。


 家に帰ると、屋内おくないからミーン、ミンミンミン……と弱々しい蝉の声が聞こえてきた。

 乙は靴を脱ぎ捨てて、居間の方へ歩いて行った。

 室内の備品などはごく普通――ソファ、テーブル、テレビに絨毯じゅうたんなど――だったが、一般庶民なら目を疑う異様な光景がそこにあった。

 二人の人間――中年の男女が生気の抜けた顔で、向かい合わせにソファに座っている。

 彼等に挟まれるようにしてあるテーブルには、大量の札束がエンパイアステートビルさながらに高くきっちりと積まれていた。

 その札束のビルの傍に、一匹の蝉がいた。

 ヤツこそが、この家の中に弱々しい鳴き声を響かせているのだ。

「……蝉の寿命はあと三時間程度か。その前にこの二人は始末しないとな」

 そう呟きながら、乙は台所に向かう。

 軽く流しで手を洗った後、その下の収納スペースの戸を開き、取り付けられていた包丁差しを物色しだした。

「……でも解体用の鉈とか結局洗わなきゃいけないから、凶器を別のものにする必要はないよな」

 そう呟いて早々に戸を閉じて立ち上がり、居間へと戻った。

 ソファに腰かけた男女は、まったく微動びどうだにしていなかった。まるで人間そっくりのオブジェクトであるかのように。

 乙は口の端を軽く吊り上げて、こらえきれないように笑声を漏らしながら言った。

「父さん、母さん。今日まで育ててくれてありがとう。特に父さんは、たくさんオイラに愛の鞭・・・をくれたよな。本当、感謝してるよ。本当だよ」

 乙は肩で息をし、「だから――」と言葉を継いで、ダイニングから持ってきていた椅子を振り上げた。

「そのお返し、たっぷりしてやるから――なッ!」

 バキッ――鈍い音が、ダイニングに響いた。

 断続的な打音は、段々と間を置かずに――何度も何度も、乙の笑い声と共に鳴り続けた。

 乱れる映像を甲はポップコーンとメロンソーダを楽しみながら眺めていた。やはりエンターテインメントのお供と言ったら、この二つであろう。

 奏でられるハーモニーは生まれて初めて耳にするが心地よく、ショパンやモーツァルトの楽曲をはるかに超える名作であった。

 特に骨がへし折れ、頭蓋骨が割れて脳がひしゃげる音が最高だった。この映像はおそらく、何度もリピートすることになるだろう。

 また折れた椅子の脚の尖ったところで肉を貫き、それで力任せに引き裂く様と言ったら。乱暴極まる赤き噴水と夕日が織りなす幻想的なこの一コマは、たとえどんな映像作家にも再現できやしないだろう。

 やがて乙が疲れ果ててへたり込んだ後には、ソファの上に頭から血を流して全身がれ上がった死体が転がっていた。

 それは皮肉にも、さっきよりずっと人間としての存在感・・・を放っていた。

 今日は素晴らしい一日だ。

 新進気鋭しんしんきえい芸術家アーティストによる処女作をこうしての当たりにすることができたのだから。

 乙は満足そうな笑声をしばらく漏らした後、女性――乙の母親だ――の方を見やって言った。

あんた・・・が悪いんだからな。こんなヤツと結婚したんだから」

 それからふらふらと立ち上がった後、乙はボソッと呟いた。

「……鉈、取りに行かねえと」


「これで全部、と」

 乙は切り分けた肉塊をいくつかの袋に詰めて、額の汗を拭った。

 人間というのは知っての通りそれなりに体積があり、処理したものを圧縮しようと思っても限界がある。

「後はこれを焼いてって、透明にするのか。骨が折れるなぁ」

 スクリーンに、床に転がる椅子が移る。それから乙のうつろな笑い声が聞こえてきた。

「まあでも、捨てる場所はきちんとしとかないとな」

 そうぼやきながら、乙はスマホである場所を地図で表示した。

 マークされているところには洞窟があり、その奥に地底湖が存在する。

 洞窟の中は暗く、かつ地底湖は透明度が非常に低いうえ水深もかなりある。

 危険な場所のため滅多に人が訪れず、地底湖に沈んだものを捜索するのは困難であることが予測される。

 ここに隠すことができたら、まず発見される可能性はないだろう。

「宅配は足が付きやすいし、金で人をやとってもなぁ」

 金で買えないものの一つに、完全に安全な殺人の隠蔽いんぺい手段、特にスマートな死体処理方法なんてものもあるのかもしれないな――と甲はワッフルを食べながら思った。

「いざとなったら、コイツを使ってみるか」

 乙はポケットから黒いケースを取り出した。中には小さくなったひぐらしが、ぴくりとも動かずに入っている。

「……その前に、実験しとかないとな。ちょうど明日は河竹との日直だしな」

 ケースにうっすら映った乙の顔に、ジョーカーのような笑みが滲み出てきた。

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