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三節 陽暗詩(ひぐらし) : 二章 幼稚(ようち)なイカサマ

 遊戯部の部室に入るなり、乙は「おおっ」と感嘆の声を漏らした。

「涼しいな。すげぇ生き返る」

「いや、日暮れが暑い思いしてるのはそんなもん着てるせいでしょ」

 浦霧はジトッとした目で、乙のこと――というか、着ているブレザー――を見やって言った。

「……日焼けするのが嫌なんだよ」

「クリーム塗ればいいじゃん。長持ちするヤツとかあるし」

「汗で流れたら、塗り直すのが面倒だろう。それにあのベタベタした感じも嫌いなんだよ」

「日暮って、ホントに男?」

「せ、セリカちゃん……。そういう言い方、よくないと思うよ」

「そーかもしんないけど、でもさー」

 乙は浦霧と戸隠の間で始まった口論を聞き流して、ぐるっと部室を見回した。

 手前側が普通の部屋と同じ床のスペース、奥が畳敷きだ。半々程度だが、部屋自体が大きいためどちらも十分な広さがある。

 床の方には長机二脚にパイプ椅子が四脚。すみには他にも何脚かある。

 壁には棚があり、ボードゲームが所狭しと飾られている。ガラス張りの戸がきっちり閉じられていて、鍵も取り付けられている。盗難防止のためだろうか。

 なぜかキッチンに流し、冷蔵庫まである。近くに運動部用の浴場よくじょうもあるし、この部屋に住もうと思えば不自由なく暮らせそうだ。

 畳敷きの方には大きめのちゃぶ台が一つと、隅の方にホワイトボードが一つ。あとは小さな棚が一つ。そこには比較的安そうなトランプやオセロ盤などのゲームが置かれている。盗まれてもさほどダメージがないためか、鍵などは取り付けられていない。まあ、そもそもドアの方に鍵がつけられているから、部屋に盗難目的の者が訪れること自体ほぼないだろうけれども。

 甲は乙の見る景色を、しっかりと目に焼き付けた。乙が新しい場所に訪れるたびに、甲はこうしてじっくりスクリーンに映る視界を観察することにしている。そこにあるものを意識空間での新しいオブジェクトとして使うことができるようになるためだ。モデリングソフトやペイントソフトの、素材のダウンロードみたいなものだと考えてもらえばいい。箱庭を充実させるためには、必要不可欠な作業なのである。

「で、昼飯はどうするんだ?」

「ふふん、それはねー」

 浦霧は冷蔵庫の方へ飛んでいき、中からおせちでも入っていそうな正方形のデカイ箱を取り出した。

「じゃーんっ! ナミナミ特性のお弁当だよ」

「……デッカ。お前って意外と、すごい健啖家けんたんかだったんだな」

 乙が言いつつ見やると、戸隠は慌てた様子でぶんぶんかぶりを振った。

 視界の隅で、浦霧がやれやれと呆れた様子で肩をすくめる。

「まったく、これだから陰キャは」

「……今日はケンカの特売日なのか」

「女の子がさ、こんなデッカイ弁当を作ってきたんだよ。何かピンと来るものない?」

 乙は僅かに視線を上向けて黙り込んだ。

 乙が真剣に考え込んでいるらしい時に、よくこうなる。

 その間は退屈なので、甲はお茶のお代わりを淹れたり、次のお菓子を何にするか考えたりする。

 ややあって、乙が視線を戻して言った。

「これから大勢、友達でも来るのか」

「……えっと、あの、……日暮くんとセリカちゃん以外には……来ないよ」

「マジか。じゃあなんだ、この三人……いや、松前も来るとしたら、四人で食べようって思ってたのか」

「そゆことー。これ全部、ナミナミが作ったんだよ。すごくない?」

「いや、まだ中を見てないから何とも言えないが」

「変なとこで真面目くんだなー。じゃあナミナミ、中を日暮に見せてあげなよ」

「う、うん。……えっと、どっちで食べるの?」

「あたしはどっちでもいいけど。日暮は椅子派、それとも畳派?」

「オイラもどっちでも。戸隠の好きな方でいいぞ」

 戸隠は困り顔でしばし机と畳を交互に見やった後、最終的にちゃぶ台の方を見やって言った。

「……じゃあ、畳で」

「りょーかい。畳だと、寝っ転がれるからいいよねー」

「……せめて靴はそろえろよ」

「えー。食べる前に靴なんて触ったら、バッチィじゃん」

「脱ぎ方を工夫すればいいだろ」

「足でそろえるのって、それはそれで行儀悪くない?」

 二人が言い合っている横で、戸隠は浦霧が机の上に置いたままにしていた弁当箱の蓋を開けて食器を自身と二人の前に置き、食事の準備をしていた。

 まるで手のかかる息子と娘と、母親って感じだ。

「……準備、できたよ。食事の……」

「あ、ごめんごめん。ナミナミ一人にやらせちゃって」

「ううん、気にしないで……」

 乙はちゃぶ台の上へ目を向けて、「おおっ!」と歓声を上げた。

 戸隠が作ったという弁当は、色とりどりできれいだった。

 小ぶりの御結びに、定番の唐揚げやエビフライなどの揚げ物、レタスを皿に見立てたポテトサラダ、ちくわのウィンナー巻きに稲荷いなり寿司ずし、海苔とチーズを巻いた卵焼き、黄色と赤のミニトマト詰め。

「あの、ミニトマトはハニーマリネになってるから、手づかみでは食べないでね」

「さ、先に言ってよー! 手がもう、ベッタベタ~」

「お前なぁ……。いただきますぐらい言ってから食えよ」

「せ、セリカちゃん、これ、ウェットティッシュ」

「あんがと。いやーでも、美味しかったよ」

「よ、よかった……」

 乙は律儀りちぎに手を合わせて「いただきます」と言ってから、箸を手に取った。

 最初に箸をつけたのは、唐揚げだった。肉好きの乙らしい。

 台湾風で、ザクッザクッと乙が食べている音を耳にするだけでよだれが出てきそうだった。

「おっ、美味いな。ころも歯応ごたえが最高だし、ジュワッとみ出てくる脂が堪らないぜ」

「ふふーん、でしょでしょ」

「なんでお前が得意そうなんだよ……」

「うふふ……。たくさん食べてね」

 なごやかな食事風景を眺めつつ、甲も浦霧の唐揚げを戴くことにした。

 乙が経験したことは甲も意識内で体験することができる。

 こと食に関しては結構面倒で、乙が見ただけではなく、実際に食べてくれなければ味まで再現できない。

 だから乙が食べるまでじりじりしながら待っていたのである。

 机上の皿に、唐揚げを出現させる。それを箸で挟み、口に運ぶ。

 歯を立てると小気味よく衣が砕け、肉のうま味が詰まったジュースが(あふ)れ出してくる。なるほど、確かにこれは美味い。

 その後も甲は乙が食べた物を追体験しつつ、彼等の食事の様子を眺めていた。


「ふぃー、ごちそうさん」

「すごい食欲だったねぇ。日暮一人で、半分ぐらい食べちゃったんじゃないの」

 弁当箱はきれいに空っぽになっていた。弁当箱は三段ぐらいあって、四人分にしても結構量が多かったように見えたのだが……。

「すっげぇ美味かったから。戸隠って、料理得意だったんだな」

「得意かどうかは、わからないけど……。でも、毎日作ってるよ」

「へえ。親が仕事で忙しいとか?」

「うん。小学生の頃から、ずっと……」

「そっか。こんなに美味い料理作れるなら、将来はいいお嫁さんになれるな」

「あ、ありがとう」

 戸隠はほんのり頬を染めて俯いた。

「ねねっ、日暮。まだ時間あるし、トランプでもしない?」

「別に構わないが……。トランプって、何をするんだ?」

「んー、ババ抜きじゃありきたりでつまんないよね。ドローポーカーとかどう?」

「ドロポねえ……。ルールがごちゃごちゃしてたら、ついていけないぞ」

 浦霧は「大丈夫、大丈夫」と軽い調子で言ってから訊いてきた。

「役のランクぐらいはわかってるでしょ?」

「ワンペア、ツーペア、スリーカード、ストレート、フラッシュ、フルハウス、フォーカード、ストレートフラッシュ、最強なのがロイヤルストレートフラッシュ……だっけ?」

「そうそう。スートで一番強いのはスペード、ハート、ダイヤ、で最弱がクラブ。フラッシュとか作る時は、一応スートの強弱も頭に入れておいた方がいいよ」

「ふぅん。……戸隠もポーカーってできるのか?」

「え、えっと、一応……。ネットのゲームとかで遊んだことあるし」

 浦霧は棚からゲームで使うような安っぽいコインを持ってきて言った。

「ゲーム開始時点でのそれぞれの所持金は、十五コイン。毎回全員が一コイン強制で参加費として支払う。ベットは一人一回までで、一コインが上限。五コイン以下の時に限り、オールインを可能とする。……っていうのでどう?」

「ルールはわかったが、カードは誰が配るんだ?」

「ビッグ・ブラインドの次の人――最初にアクションを行うボタンが交代でディーラーを務めればいいでしょ」

「ええと……。今回の場合は三人だから、アンダー・ザ・ガンってことにもなるのかな」

 ひとり言のように呟く戸隠。彼女もそれなりに、ポーカーに関する知識があるらしい。

 そんなわけで、甲は三人がドローポーカーする様を観戦することになった。

 特に何か賭けているわけでもないので、ゲームは雑談と共に穏やかに進行した。

「そういえば、明日の日直って日暮と委員長じゃなかったっけ?」

「えっ、雨沢あめさわは……ああ、この前転校したんだっけ」

 二人は雑談しながら、配られたカードを相手に見えないようにしながら確認する。

 一拍遅れて、戸隠もそれにならう。戸隠は毎回、二人よりアクションが遅れる傾向けいこうがあった。

「うへぇ。あたし、今回はフォールド」

 早々(そうそう)に浦霧が五枚のカードを投げ出す。

「なんだよ、チェンジもしないで」

「……セリカちゃんは、結構堅実なところもあるから」

「堅実つったって……。ドローポーカーなんて、運ゲーだろ。勝負しなきゃ、どうにもなんないじゃねえか。オイラはベットな」

「……じゃあ、コール」

「続きのディーラーはあたしがやるよ」

 乙は改めて、ハンドを確認する。

 クラブとハートの4、ダイヤとスペードの9でツーペアが完成している。あと一枚はクラブの5で浮いている。

「一枚チェンジで」

 当然乙は、クラブの5を交換する。

 代わりに入ってきたのはクラブの9。フルハウスという、かなり強い役の完成だ。

 ポットには五コイン。

 それぞれの点数は乙が十一コイン、戸隠が十二コイン、浦霧が十七コイン。

 二位の戸隠と僅差とはいえビリである。

「えっと……、三枚チェンジで」

 戸隠がカードを渡し、浦霧は山札の上から同じ枚数だけ取って配る。

 ふと浦霧は壁掛け時計を見やって言った。

「そろそろ時間だし、レイズの上限枚数をなくしちゃおっか」

 それは一位に差をつけられている、乙と戸隠にとって都合のいいルール変更であった。

 ポーカーというゲームにおいて、スタック――持ち点――が少ない状況で手っ取り早く逆転する方法が、オールインである。

 オールインは単純に圧をかけられるからブラフ――弱い手を大量のチップを賭けることで強く見せて、相手を勝負から降ろすこと――に使えるし、チップを減らしすぎてその効果がない場合でも勝ってしまえばダブルアップで大きく点数を回復することができる。

 今回のゲームでは、持ち点が五点を切るまでオールインを禁じられていた。

 しかしたった今撤廃てっぱいされたことによって、その戦略を取ることができるようになった。

「あとさ、やっぱり失うものがない勝負ってつまらなくない?」

「……お前、何も賭けなくても熱くなれるって言ってなかったか?」

「そーなんだけどさー。でもいざ始まってみると、こう不完全燃焼っていうか、何か物足りないんだよね」

「……えっと、セリカちゃん。わ、わたしも、ギャンブルはよくないと思う……よ」

「別にお金を賭けるなんて言ってないよ。また指導室にお勤めに行きたくないし。……そうだ。トップが、二位と三位に一個ずつなんでも命令できるっていうのはどう!?」

 乙が何かを言いかけたものの、ぐっと飲みこんだようだった。おそらく『今、なんでもって言ったか?』とかくらだないことを口にしかけたのだろう。

 わりにこう切り返した。

「わかった。だがオイラも一つ、条件を付けていいか?」

「なぁに?」

「二位と三位がコインをゼロ枚にしない限り、勝負は無効にする。きちんと決着がついていない状態で優勝者を名乗ろうなんて、おこがましいだろ」

「……その条件なら、命令権を飲むんだね」

「ああ」

「なら、わかったよ。ナミナミも、それでいいよね?」

「え、えっと、日暮くんがいいなら……」

「じゃあ、決まりね!」

 乙は改めてハンドを確認した。

 9がスリーカードのフルハウス。10以上のフルハウスか、フォーカード、ストレートフラッシュ、ロイヤルストレートフラッシュ以外には負けない。

 ポーカーなんていうのはせいぜいツーペアができていればいい方で、フラッシュやギリギリフルハウスまでが現実的な役である。

 フォーカード以上は麻雀の役満みたいなもので、滅多にできない。

 ドローポーカーのヘッズアップにおいては、スリーカード以上であれば基本的に押した方が勝利の期待値が高くなる。

 相手がいかにフルハウス以上の役を持っていても、こちらから大量のチップをレイズすれば圧をかけられて、小心者ならば降ろせる確率がある。

 テキサスホールデムにおいてはドンクベットは悪手であるが、ドローポーカーではベットの機会が少ないため、いかに強気に出れるかが勝負の鍵になる場合も多い。

 乙はハンドを閉じて、ちゃぶ台を指先で叩いて言った。

「チェック」

 ベットをせずに、相手に手番を渡した。

 スロープレイで相手にベットさせてから、やり返す算段だろうか。

 戸隠はコインを五枚手にして、机上に広げた。

「レイズ、五枚」

 乙に対して、さらに五枚を払うよう要求してきた。

 フルハウスの役ができている今、オッズ的にも勝負を受けるのが正しいはずだが――

「……フォールド」

 乙はあっさりと、勝負を降りた。

「すっごいチャンスだったのに、残念だねえ。いい役できなかったの?」

「さあな」

 乙はさらっと答えて、ちゃぶ台に頬杖をつく。

 次のゲームでは、早々に乙はフォールドをした。ハンドはスペードの2、8、ハートの5、J、クラブのK。役の完成を狙えない、ハイカードだ。

「さっき、チェンジもしないでフォールドをしたことバカにしてこなかったっけ?」

「そうだったかな」

 このゲームでは戸隠が勝ち二十五コインになり、乙と浦霧が十コインと同率二位になった。

 次のゲームでは乙のハンドはスペードとハート、クラブの3のスリーカードが完成していた。チェンジすればフルハウス、あわよくばフォーカードすら狙える。絶好のハンドだ。

 だが乙は――

「……フォールド」

 あっさりと、そのハンドも捨てた。

 その時になって、甲は気付いた。

 乙はさっきからちらちらと、壁掛け時計の方を見やっている。

 おそらく、乙の狙いはきっと――

「ねえ、日暮。ちょっとハンドみせて」

「おっ、おい――」

 ポーカーにおいて、フォールドした相手のハンドを無理矢理見るのはご法度はっと。許されざる行為である。

 にもかかわらず浦霧は有無うむを言わさず乙のハンドをめくった。

「……ふーん。もうハンドでスリーカードが完成してるのに、フォールドしたんだ」

「そ、そんなのオイラの勝手だろ」

「まー、そうだけど。……そんなことするなら、こっちにも考えがあるよ」

 浦霧の顔にニヤリと、悪戯いたずらっぽい笑みが浮かんだ。

 それから一回目のベッティング・ラウンドが終わり、ドローに移ったが――

「あたしはチェンジはいらないよ」

「ほう。よほどいいハンドが入ったのか」

 呑気に訊く乙の言葉を、浦霧は鼻で笑った後――

「ナミナミ。あたしのハンドは、これだよ」

 彼女は勢いよく、自身のカード五枚全部を勢いよくひっくり返した。

 クラブの2、4、6、8に、ダイヤの3。フラッシュドローがついているものの、現時点ではほぼ勝ち目の薄いハイカードである。

 しかもそれにとどまらず、浦霧はスタックの九枚のコインを押し出して――

「オールイン。さあ、どうするナミナミ」

 まだ戸隠のドローが残っており、二回目のベッティング・ラウンドではない。

 戸隠は困惑した表情ではあったが、自身もチップを押し出してハンドをひっくり返した。

「こっ、コール……」

 公開されたハンドはスペードとハートのAにダイヤとクラブのKのツーペア。残り一枚はハートのQ。

 戸隠の勝利で、浦霧のコインは全て奪われてしまう。

 だが浦霧の顔には、勝者のごときふてぶてしい笑みが浮かんでいた。

 それは乙へ向けられ、「ふっ、ふふふ」と嗜虐しぎゃく的な笑声が漏れ出す。

「さあ、さあ。これでもう、勝負から逃げ出すことはできないよ――日暮」

 乙はしばし口をつぐんでいた後、山札へ手を伸ばした。

「ちょっと失礼――」

 その上から、カードをめくっていく。

 おそらく探しているのは、AかK。

 浦霧が乙と戸隠をぶつけて、乙のコインを全て戸隠に取らせようとした――というイカサマを疑っていたのだろう。フォーカードの望みであるあと一枚の3が浦霧のハンドにあったことも、そう思い込んだ理由の一つになっていたに違いない。

 だがAとKは全て山札の中に、バラバラ・・・・に入っていた。

 仕込むなら全て山札の一番下に入れて、他のプレイヤーの手に渡らないようにしておくべきだ。

 今回のディーラーは浦霧で、山札のカードの管理権は彼女にあるからなおさらだ。

 つまりこの時点でイカサマが行われていないことは、ほぼ確定していた。

 浦霧は乙を勝負の舞台に引きずり出すべく、賭けを持ち出した後にもかかわらずわざと敗北したのだ。

「……狂ってるよ、お前」

「ギャンブラーっていうのはね、自分が勝つか負けるかは重要じゃないの。弱腰のヤツがどうしても戦わざるを得ない状況に追い込まれて、ビビる様を見ることに何ものにも代えがたい興奮を覚えるんだよ」

 どことなく芝居がかった調子で語る浦霧。

 戸隠は遠慮がちに苦笑して言った。

「それ、この前観に行った映画のセリフそのまま……だよね」

「あははは、バレたか。でもまあ、日暮がこの勝負をひっくり返せるかは見ものだねえ」

 乙のスタックは九点、対する戸隠は三十六点。

 ここから逆転するには二回のダブルアップが必要であり、勝負を決するにはさらにもう一回オールインで勝つ必要がある。

 ツキが来れば不可能ではないが、これまでの戸隠のハンドを見る限り彼女のラックは相当なものである。一度ならともかく、連勝するのは相当難しいと言わざるを得ないだろう。

「じゃあ、ここでブラインド・アップしよっか」

「ぶっ、ブラインド・アップ……!?」

「そうそう。時間もあまりないしー、三枚ぐらいにしとこっか」

 つまり次回のゲームから、開始時にコインを三枚徴収ちょうしゅうされるということだ。

 乙のスタックは九枚。三回フォールドをすれば、その時点で敗北が決してしまう。

「……そ、そんなの聞いてないぞ」

「しないとも言ってないからね。ポーカーって言えば、ブラインド・アップは基本でしょ」

 話している間にもコインを三枚奪われ、カードが配られる。

 乙のハンドはハートの2、7、ダイヤの10、K、クラブの5。

 役からほど遠いハイカードである。

 アクションは乙からだったが、なかなか動かない。

 おそらく牛歩戦術で時間を稼ぐ算段だったのだろうが――

「あ、制限時間は一分ね。それ以上時間をかけるようだったら、強制オールインだから」

「なっ……!? ひっ、卑怯だぞ!」

「どの口が言うのかねー、それ」

 ニヤニヤと笑って顔を覗き込んでくる浦霧。乙は言葉に詰まり、黙り込んでしまう。

 制限時間をもうけられた以上、タイムアップを狙うこともできない。

「チェック……」

 乙は弱々しい声で言って、机を叩いた。

 戸隠はあわれむような、あるいはいつくしむような――捉えどころのない笑みを浮かべて言った。

「日暮くんって、結構素直なんだね」

「素直って……?」

「こんな口約束、破っても特に日暮くんには不利益なんてほとんどないはずだよ。そもそも最初に賭けを持ち掛けられたときに、断ることもできたよね。それなのに回避目的の条件をつけたとはいえ、簡単に承諾しちゃった……」

「……水を差すのがイヤだっただけだ」

「本当に、そうなのかな? 日暮くんは多分――自分より、相手の望みを優先しがちなところがあるんじゃないかな」

 普段の戸隠からは考えられないぐらい、饒舌だった。

 ゲームの高揚感もあるのだろうか。あるいはこれが、戸隠の本性のようなものかもしれない。

 だが甲には現実に直接干渉する術がない。スクリーン越しの、彼女の笑みを眺めているしかないのだ。

 ややあって乙が言った。

「そうかもしれないな」

 戸隠は「くすっ」と一笑を漏らして、自身の持つ全てのチップを押し出した。

「オールイン。どうする?」

 乙はカードを浦霧に返して「フォールド」と言った。

 戸隠はカードを返す前に、ハンドを公開してきた。

 スペードの2、ハートの4、5クラブの3、6。チェンジするまでもなく、ストレートが完成していた。

 首の皮一枚繋がった――だがもはや、勝機はほぼないと言っていい。

 戸隠はよほどハンドが悪くない限り、もうオールイン以外してこないだろう。

 コインは残り六枚、状況は風前ふうぜんの灯火である。

 乙が項垂うなだれたように、スクリーン内の光景が傾いた時だった。

「ねえ、日暮。チャンスをあげるよ」

 浦霧の声に、乙はそちらを見やった。

 浦霧は悪魔さながらの邪悪さが滲み出る笑みで続ける。

「次のハンドで絶対にオールインするなら、コインを三十三枚|貸してあげる」

「三十三枚って……」

 乙は戸隠のコインを確認するように見やる。

 三十九枚――乙のスタックと融通ゆうずうしてもらえるコインをちょうど合わせた枚数である。

「ただし、このゲームのみ特別ルールでやらせてもらうよ。ドロー前に、四枚公開した状態でスタートするの。で、ドローでカードをチェンジしてから勝負。どう、面白そうでしょ?」

 ドローポーカーとテキサスホールデムの大きな違いは、相手のハンドを確認できるかいなかである。

 テキサスホールデムではコミュニティ・カードと呼ばれる五枚――フロップ時点では三枚――のカードと、ハンドの二枚のカードを組み合わせて役を作る。

 つまり相手と自身のハンドが半分以上割れた状態で、ゲームが進行する。

 だからこそ単なる運ゲーではなく、奥深い心理戦へと発展しているわけだ。

 一方のドローポーカーは、自身のハンド以外に確認できるものはない。ただ強い役を作ることに終始している。

 それだけの情報で相手のハンドを絞り切ることは難しく、ベットする時に頼りになるのは自身の役の強さと度胸――相手の様子を参考にできる人もいるかもしれないが、それはごく限られているだろう――のみである。

 ドローポーカーが運ゲーと呼ばれる所以ゆえんは、その情報量の少なさにある。

 だが今回のルールではお互いのハンドの内、四枚が公開されている。

 オールインでは心理戦もへったくれもあったものではないが、カードをチェンジする時の参考ぐらいにはなるだろう。

「……それも映画の影響か?」

「うん。まあ、映画じゃ公開されるのは四枚じゃなくて、三枚だったけどね」

 乙は顔を俯け、組んだ手を見下ろした。

 しばしもくした後、一度うなずくように視界が上下して、乙が口を開いた。

「わかった。その条件に乗ろう」

「まあ、今の状況じゃそうするしかないよね。ナミナミも、それでいい?」

 戸隠は軽くうなずきつつ言った。

「うん。日暮くんが、それでいいなら」

 浦霧はカードをシャッフルし、乙の方から交互にカードを配った。

 カードが五枚そろった後、ハンドを確認する前に乙は浦霧に訊いた。

「公開するカードは、オイラ達が自分で決めていいのか?」

「どぞどぞ。映画でも、そういうルールだったし」

 乙はカードを確認した後、四枚を公開した。

 スペードとハートのK、ダイヤとクラブのJ。あと一枚はせられている。KとJのツーペア――悪くはない。あとKかJが一枚そろえば、フルハウス。かなり強力な役が完成する。

 戸隠が公開したカードはハート、ダイヤ、クラブのA。それとダイヤのK。もしも隠されている一枚がスペードのAだった場合、乙の勝機は限りなく薄くなる。

 いや、そもそも――

「うわっ、もうAのスリーカードが完成してんの!? ナミナミってホント、めっちゃラッキーガールだよね」

「えっと、まあ……わりかしね」

 Aのスリーカードは、ドローポーカーにおいてもかなり強い役である。ストレート以上の役が極端に作るのが難しいため、カードの中で最強のAがスリーカードになった時点で確変かくへんに入ったようなものである。麻雀で例えれば両面りゃんめんのダブリー、将棋なら飛車角二枚共が手中にある状態での王手だろうか。

 乙はボードをしばしにらんだ後――視界の縦幅が狭まったことでわかった――、カードを三枚手に取って浦霧の方へ放った。

「この三枚をチェンジで」

「えっ、いいの?」

 浦霧が戸惑いの声を上げたのも、無理はない。

 乙が捨てたカードはハートのKと、ダイヤとクラブのJ。

 フルハウスの芽をつぶした――それは同時に、完成していたツーペアを放棄したということでもある。

 だが乙はいたって平然とした声で答えた。

「ああ、構わない」

 浦霧は眉間みけんしわを寄せつつもカードを受け取り、代わりのカードを三枚乙の方へ配った。

 それを乙はめくって公開する。

「えッ……!?」

 カードを見るなり、浦霧と戸隠はそろって驚愕きょうがくの声を上げた。

 乙のハンドに新たに加わったのは、スペードのQ、J、10。

 すでに公開されているスペードのKと合わせると、フラッシュ――あるいはストレートフラッシュ。もしくは最強のロイヤルストレートフラッシュにリーチをかけている。

 後は伏せられているカード次第だが、すでに乙のハンドが放つ威圧感は半端はんぱないものになっていた。

 戸隠は額にっすらと汗を浮かべて言った。

「……すごい強運だね」

「波が来ただけだろう」

 流れ――ではなく、波。まさに河など容易たやすくねじ伏せる、大海の圧。

 運とはただ待つのではなく、己が持つ重力で引き寄せるものなのである。

 そう信ずるがゆえ、発された一言――なのかもしれない。

 だが甲は、見逃さなかった。

 乙が袖に隠した・・・・・、三枚のカードを。

 カードを公開する前に、乙は袖に隠していたカードをちゃぶ台の上のものと入れ替えていた。

 つまり乙のハンドは全てあらかじめ、事前に仕込んでいたものである。

 その証拠は、乙の袖を探れば見つかることだろう。ハンドに並ぶはずだった五枚のカード――伏せカードとスペードのKと入れ替えた二枚を合わせて――があるはずだ。

 ゆえに万に一つも、戸隠に勝ち目などないのだ。

 そんなこともつゆ知らず、戸隠はダイヤのKをチェンジする。

 代わりに公開されたカードは――スペードのA。

「うわっ、Aのフォーカードじゃんっ。マジパない」

「……たまたま、ツイてただけだよ」

「でも日暮にはストレートフラッシュの可能性があるし、まだ勝負はわからないよ。ほらほら日暮、早くその伏せカードを――」

「その必要はないよ」

 戸隠は涼しい顔で言って、自身の伏せカードをオープンした。

 公開されたカードは――スペードの9・・・・・・

 それは乙がストレートフラッシュを完成させるために必要な――彼が勝利するため・・・・・・に必要な、最後の一枚・・・・・

 戸隠はすっと持ち上げた左手で乙を指差し、彼に告げた。

「チェックメイト。わたしの勝ちだよ」

 スクリーンが真っ暗になる。

 乙が目を閉じたのだろう。

 熟した林檎が地に落ち、一しゃく八寸ほど先にいたあり達がむらがるまでかかる時間ほどの沈黙が続いた。

 乙が目を開いた後も、つぶる前となんら変わることのない景色がそこにあった。

 二人が欲しているのは、乙の敗北宣言。

 彼が負けを受け入れるその時を、口を閉ざして待っている。

 だが乙が口にした一言は――

「すまんな、オイラの勝ちだ・・・・・・・

 彼女達が予期していた言葉とは真逆の、勝利宣言・・・・

「え…………?」

 昼下がりの穏やかな陽光が、ふっと影に掻き消される。

 呆けた顔をしている二人の前で、乙が伏せられていた最後のカードをめくった。

 公開されたそれは――今までゲームにまったく登場していなかった、幻の一枚。

 変幻自在へんげんじざい、あらゆるカードに成りわるワイルドカード。

 唯一アルファベットが並び・・、人々が『切り札』と呼称するそれは――

「じょっ、ジョーカー!?」

 厚くメイクされた顔で唇を歪ませ道化どうけわらう――記されたカード名はJOKER。

「ロイヤルストレートフラッシュ。これでチェックメイト――だったか?」

 茶化したような口調で、乙は問いかける。

 呆気あっけに取られている戸隠は、それに答えることができない。

 ややあって、浦霧が「ははは」と乱造品らんぞうひんの笑声を漏らして言った。

「ゲームの前にジョーカーは抜いたと思ったんだけど……。途中で混ざっちゃってたみたいだね」

「ご、ごめん。わたし途中でシャッフルに失敗しちゃったし、あの時気付かないで入れちゃってたかも……」

 二人は知るよしもないが、ジョーカーが今まで山札に混ざったことは一度たりともない・・・・・・・・

 乙があらかじめのぞかれていたジョーカーを袖にずっと忍ばせていたのだ。

 あまりにも単純で、低俗ていぞくなイカサマ。

 それを感づかせないために乙はあえて厭戦えんせん的な態度を貫き、そのうえ自らイカサマを疑ってみせた。

 細工さいくを疑う人間がまさかイカサマをしてくるはずがないという、心理的盲点を突いた一手だった。

 甲はスクリーンの前で、パチパチと乙に向けて賞賛の拍手を送った。

「ブラボー、ブラボー。たまには楽しませてくれるじゃないか」

 乙は引きこもりで交友関係が狭く、おまけに野菜嫌いでロクに甲の食事のメニューを増やしてくれないが、気まぐれに余興を与えてくれる。

 まあ、人間というのは生きているだけで喜劇悲劇を演じているようなものだから、誰にでも・・・・代わりがつとまると言えば、それまでだが。

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