二節 盗蝶記(とうちょうき) その6
後悔していた。
盗作したこと自体ではない。
なぜ俺は衝動的に、川津に権利を渡すなどと言ってしまったのか――そんな胸糞の悪い後悔を、だ。
自身の置かれている立場をすっかり忘れていた。
もう後先がなかったのに、手段を選んでいる余裕などなかったのに。
川津は表面上は怒っていなかった。盗作されていたなどと、欠片も思っていなかったはずだ。たまたま偶然、アイディアがかぶっただけ――彼女の心中にあったのはその程度のものだろう。
だったら俺は何食わぬ顔で、世に発表してしまえばよかったのだ。
ネームは川津から返してもらい損ねて、彼女の手にある。
それを取りにいく気にはなれなかった。明日になれば川津が恐る恐る返しに来てくれるだろうけど、果たしてそれを受け取ることができるだろうか……。
ああ、クソッ。
何が良心の呵責だ。そんなもの、犬にでも食わせておけばよかったものを……。
……だったら、もう一度だ。
もう一度、同じことをすればいい。
俺は時計をパソコンのスクリーンの右下にあるデジタル時計を見やった。
午前一時四十七分。
この時間ならおそらく、寝ているヤツも多いはずだ。
俺はすっくと立ちあがり、机の上に置いたままにしていたキラボシチョウの入ったケースを手に取り、ドアへと向かった。
今度こそ、今度こそきっと上手くやる。
そして俺はプロの漫画家としてデビューするのだ。
念のためアパートの在室表をチェックしに来た。
漫画家が多く住んでいるこのアパートならではのものだ。いざ人手が必要になった時、アシスタントとして呼び出したい目的の人物がいるかどうか確認するために用いられている。
ネームばかりしている俺は滅多に見に来ないが、火美子など連載を持つ――あるいはすでに持っている作家には重宝されているようだ。
ただ、彼女に呼び出された時に部屋に行くと、滅多に俺以外の人物を見かけないのだが……。
〆切間際なのだからもっと増員すればいいものを。慣れている人に頼んだ方がいいというのが火美子の弁だが、まったく変わっているヤツだ。
在室表を見て、俺は愕然とした。
こんな日に限ってアパートにいる作家は俺と川津、そして火美子の三人だけだった。
神様の悪戯にしたって、度が過ぎている。
川津の記憶は昨日、漁ったばかりだ。
さすがに二連続で彼女のアイディアを使ったら、気味悪がられるだろう。
となれば、残るは……。
いいのか――?
心中で自分自身が問いかけてくる。
火美子はこのアパートにいる誰よりも、おそらく俺のことを気にかけてくれている。
アシスタントにもよく呼んでくれるし、作品のアドバイスをしてくれとこんな俺のことを頼ってくれもする。
きっと火美子がいなければもう俺は、とっくに漫画家になることなど諦めていただろう。
……でも、それでも俺は。
今まで諦めずにいたからこそ、もう引き返せないのだ。
たとえこの先に続く道の果てに、地獄があろうとも。
俺は迷いを切り捨て、火美子の部屋へと向かった。
火美子の部屋の明かりは灯ったままだった。
もっとも彼女は照明を消し忘れたまま寝落ちしていることもままあり、消灯していないからといって起きているとも限らない。
というか、出かけるとき以外は基本的に火美子の部屋からは、四六時中明かりが漏れている。
つまり消灯するまで待つという選択肢は取れないということだ。
寝ているか、起きているか、確率は五分五分。
どうか前者であってくれと祈りつつ、俺はドアをノックした。
五秒ほど、心臓の鼓動を聞きながら部屋の前で佇む。
返事はない。
念のため、もう一度同じことを繰り返したが結果は同じだった。
昨日と同じく音には細心の注意を払って、部屋の中に入る。
触れたノブが心なしか、氷のように冷たかった気がした。
後ろ手にドアを閉めて、忍び足で奥に向かっていく。
室内は普段といたって変わった様子はなかった。
多数の漫画が壁に貼られていたり、紐で吊るされている。
どれも完成度が高く、数多ある漫画の中でも一線を画す魅力のようなものがそこにはあった。
おそらく後にも先にも、火美子の描く漫画を超える作品は生み出されないだろう――そう俺は改めて確信した。
火美子は畳の上で、座布団を枕に死んだように眠っていた。
彼女は眠っている時にはほぼ音を立てず、気配さえ消しているような状態になる。まるで影にでもなってしまったかのように。
それでも寝顔はいつもは安らかなものだが、今の彼女は急に気を失ったかのように無表情だった。
あまりにも心配になって、脈を測ったり口元に耳を近づけて呼吸を確認した。
命に別状はなさそうだが、それでも何か違和感があった。
もしかしたら、悪夢でも見ているのかもしれない。
目の下にはクマができている。最近、よく眠れていなかったのかもしれない。
……俺はここのところずっと自分のばかり気にしてて、火美子のことをちゃんと見ていなかったのか。今までとは違う後悔に、胸の内がじくじくと痛んだ。
アイディアを盗むのとは別の意味で、彼女の記憶が気になってきた。
俺はケースを取り出してキラボシチョウを取り出し、ヤツに命じた。
「火美子の記憶を、取り出してくれ」
一瞬、固有名詞を理解できるのかと昨日と同じ疑問が頭をかすめたが、それは杞憂だった。翅から手を放すなり蝶は宙を音もなく叩いて通常のサイズへ巨大化しながら、火美子の耳へと飛んでいく。
そもそも蝶は契約時に、俺の記憶を自身の中に取り入れているのだ。その時点までに俺が記憶していたことは当然、蝶も知っているはずだ。
火美子に舞い降りたヤツは吸収菅を耳の中へ伸ばし、記憶を吸収する。翅の点が、ぽぅぽぅと頭の中に残るような音を鳴らして何度か点滅した。
記憶を吸い終えた蝶に、俺は「ケースに戻れ」と命じる。
ヤツは羽をはためかせて、身体を縮めながらケースの中に戻る。
ケースをポケットに戻した俺は、速やかに部屋を後にしようとしたが――
「ん、ううぅん……」
間が悪いことに、火美子の口からうめき声が漏れた。どうやら起きてしまったらしい。
こうなると、慌てて去る方が怪しい。この場に留まる他ない。
目を開き起き上がった火美子は、ぼんやりした表情で俺のことを見てきた。
「……揚羽ちゃん?」
「あ、ああ。用事があってきたんだが、寝てたみたいだな。起こしてすまん」
「ううん、気にしないで……」
その時、ちゃぶ台の上から『マッチ・マジック・マジチック』のOPが聞こえてきた。火美子のスマホの着信音に設定されているものだ。
それはずっと鳴り続けている。電話がかかってきたのだろう。
だが火美子は蒼ざめた顔で固まったままで、出ようとしない。
「……いいのか、出なくても」
「う、うん……」
「もしかして、担当からの原稿の催促とか?」
「あ、あはは……。まあ、そんな感じ」
目を逸らしつつうなずく火美子。
まさかこんな形で、漫画家のあるあるを目の当たりにすることになろうとは。
「……大変なんだな」
「う、うん。……あ、お茶淹れるね」
火美子は気まずそうにそう言って立ち上がり、キッチンへ向かった。
彼女がお茶を持ってくる間も、電話は鳴り続けていた。画面を見やると、『○○社○○さん』という感じで登録されていた様々な名前の人から電話がかかってきていた。
どんだけの会社から原稿を催促されているんだ。まるで全盛期の手●治虫先生だ。
火美子の持ってきてくれたお茶を飲んでいる最中に、俺は訊いた。
「目の下にクマができてるぞ。ちゃんと寝れてるのか?」
「え、えへへ。〆切が近くて……」
「ちゃんと睡眠をとらないと、作業効率が落ちるぞ」
「わたし、ロングスリーパーだから。毎日満足するまで寝てると、原稿に間に合わなくなっちゃうんだよ」
「ああ、わかるわかる。六時間睡眠でも、まだ寝不足で頭がボーってするんだよな」
「神様って、本当に不公平だよね。ゲームのキャラみたいに、生まれた時点で人に個体差をつけちゃうんだから」
「俺は無神論者だから、恨むべき相手が親しかいないから気楽なもんだ」
「……そっか」
火美子は話している間も黙り込んで、何か考えていた。
彼女を纏っている空気がいつになく深刻なものに思えて、胸中に言い知れぬ不安が立ち込めた。
「なあ、何か悩みがあるなら聞くぞ。いつか言っただろうけど、力になれるかはわからない。でも話すだけども、スッキリするかもしれないし」
「……大丈夫だよ。本当に、大丈夫だから」
笑顔の輝きが、表情から暗いものを霞ませていく。
雲一つない快晴の時だって、太陽がある限り人は真実をその目で見ることはできない。なぜなら宇宙は決して、青いものではないのだから……。
目が覚めた時、そこが自室ではないことに気付いた。
ここは……火美子の部屋か。
確か火美子からアイディアを盗むために部屋に忍び込んで……それで、彼女の様子が変だったから――
記憶を辿っている内に、意識が鮮明になっていった。
ちゃぶ台の上にはスマホがあるから、おそらく外出はしていないはずだ
風呂かトイレにでも行ったのだろうかと、部屋を見回してみて――
「なっ……!?」
俺は目の当たりにした惨状に、呆気に取られた。
部屋の中に飾られていた、火美子の漫画――そのほとんど全てが、無茶苦茶に破られていた。
脳裏に、卒業展示会の後で破られたポスターがフラッシュバックのように甦る。
あの時と違ってこの室内にある漫画の所有権は全て、火美子にある。持ち主である以上、どうしようが彼女の勝手ではあるが……。
俺も端くれとはいえクリエイターである以上、自分の作品が憎くなる気持ちはよくわかる。
思い通りに創れなくて醜くなってしまった作品は、時間を無駄にしたという思いもあってその存在もろとも消してしまいたくなる。特に何年も前の過去の作品は実力不足が一目でわかってしまい、正視に耐えない。
おそらくクリエイターというのはフランケンシュタイン博士の写し鏡であり、身勝手の権現なのであろう。
だからといって、この室内の有様が異常であることは変わりない。
壁掛け時計を見ると、俺が寝てしまってから――おそらく疲労によるもので、意識的に寝ようとしたわけではない――まだ三十分程度しか経っていない。
その短時間で俺という来客がすぐ近くで寝ているにもかかわらず、これだけの数の自作を全て破り千切ったっていうのか……?
一人でやったのだろうかという疑問が浮かび上がったが、おそらくそのはずだ。
もしも誰かがやってきてソイツがいきなりこんなことをやり始めたのなら、必ず火美子と口論になったはずだ。そうなれば、さすがに寝起きが悪い俺でも目を覚ましただろう。
だからこれ等の漫画を破った張本人は火美子で間違いない。
どんな状態でそんなことを行ったのかは、まるで想像できないが……。
いや、知る手段が一つだけある。
俺はポケットの中にあるケースを取り出して開き、キラボシチョウをつまみ出して命じた。
「――俺に火美子の記憶を寄こせ」
蝶は以前と同じように頭上を舞い、金色の鱗粉を俺に向かって降り注がせる。
これで、火美子の記憶が……ッ――!?
『……誰も、誰もわたしの漫画を……ちゃんと、読んでくれない』
なっ、なんだ……これは。
光が届かない漆黒の闇の中から、声が聞こえる。火美子の声が……。
これはもしかして、火美子の……心の声、か?
『わたしが一生懸命描いても、手を抜いて描いても、誰もわからない。誰も気にしない。わたしが描けば、どんな漫画でもいいんだ……』
闇の中に、ぼうっ……と輝く何かが舞い落ちてくる。
それ等は全て、コピー用紙にプリントされた火美子の漫画原稿だった。
彼女の作品は、様々なジャンルがある。少年漫画、少女漫画、青年漫画、成人漫画。バトル、スポコン、ラブコメ、ギャグ、ホラー、日常系……。
一貫性がないものの、どれも評価が高い。
読み切りばかり描いているにもかかわらず、ネットや業界ではすでに凄腕作家として評判になっている。
だが思い返せば、それは異常なことだった。
火美子ことを酷評しているヤツは、誰一人として(・・・・・・)いなかった。普通なら、人気になればなるほどアンチの数が増えていくものだが……。
『どうして、……どうして、どうしてどうしてどうしてっ、どうして誰もわたしの漫画をちゃんと読んでくれないのッ!? あんなに酷い作品もテンプレでしかない作品も焼き増しでしかない作品も……誰も誰も誰も、気付いてくれないッ……!!』
天才過ぎるがゆえ――火美子の持つ先天的な、自作の漫画を神格化させる何か特殊なギフトがあるがゆえに評価を高水準で均一化させてしまい――その結果、自身に向けられるあまりにも異常すぎる賞賛が、却って彼女の心を苦しめているのだ……。
『もうイヤだ……。漫画なんて、描きたくない。こんな世界で、生き続けたくないっ。わたしは餌を貪るだけの家畜の世話なんて、したくないっ……!』
……読者を家畜呼ばわりなんて、作者としては最低だ。読者は間違いなく作者と同じ、知性ある人間なのだから。
だが今の俺には、火美子の気持ちが理解できた。
どんな作品を描いても喜び、賞賛だけする読者達。
ただただ決まりきった内容の感想だけが、自身へ送られてくる。
初めはきっと嬉しかっただろう。褒められて嫌がる人間は、滅多にいない。
だが火美子はその滅多にいない人間になってしまった。
賛美の言葉の過食が原因で……。
作品を描けば描くほど、それが雑誌やネットに掲載されるほどに、自身への賞賛が増えていく。
賞賛の数に比例して、火美子の心は蝕まれていき、精神の歯車が耳障りな音を立てて外れていく。
火美子の世界が、狂い始める。
あらゆるものの色が褪せていくのを皮切りに、五感が段々と鈍くなっていく。
何を食べても味がしない。何を嗅いでも匂いがしない。音楽は全て雑音で、あんなに好きだった漫画も何かの説明書のように無機質なものにしか見えない。
わたしは人形を見た。
せめて読者のみんなが人形だったらよかったのに、と思った。
人形には心がない。漫画のキャラみたいに表情もない。だからわたしがいつでも自由に、思いのままその心の内を描き変えることができる。
RPGの街にいるゲームのキャラみたいに決まりきったことしか言えない人達よりも、わたしは人形達の方が深く愛せる。たとえ自分の考えたことしか言えないとしても、それは裏を返せば考えつくアクションの数だけの反応を返してくれるということなのだから。読者のみんなより、よっぽど血の通っている感じがする。
……でも別に、人形遊びをずっとしていたって幸せにはなれない。
自己との対話で幸福になれる人間は、とっくに哲学者になっているのだから。
わたしが志したのは漫画を媒介に、読者に自身の創造した世界を楽しんでもらう――漫画家。
もちろん、わたしの漫画を楽しんでくれている読者のみんなには、なんの罪もない。
現在進行形で間違いを犯しているのは、どう考えたってわたし自身。
送られてくる感想に不満を抱いたからって、あえて手を抜いたり盗作紛いのことをして読者のみんなの反応を試すなんて、創作者として間違ってる。
わたしはどうしても欲しかった。自身の作品を批判している感想が。
アンチでもなんでもよかったけど、一つ線引きをした。
わたし自身が批判されては意味がない。あくまでも否定されるべきは、作品自体だった。間接的にわたしが罵倒されることはあっても、作品を通さずにけなされたら本末転倒。だからただ適当に現実で犯罪を犯すのは、以ての外。
きちんと漫画で罪を犯さなければならない――そこまで考えた時、違和感を覚えた。
そう、手段と目的が入れ替わっていると……。
ようやく気付いた。
わたし……、おかしくなっちゃったんだ。
こんなのクリエイターの考えることじゃない。こんなの、こんなの……狂人だよ。
なんでこんな風になっちゃったんだろう。
わたしはただ、みんなに夢を届けられるような……、素敵な漫画家になりたかっただけなのに。
ある日、わたしは十脇荘と出版社に行く道の途中に、廃ビルを見つけた。
なんとなしに入り口の戸を引いてみると、驚くほどあっさりと開いた。
中は壁が崩れたり天井が剥がれたりしていてて、すごく荒れて果てた感じだった。
一時期ホラー漫画を描いていた時に資料集めの一環で廃墟巡りをしたことがあったけど、大抵の場所はつい最近人が訪れた形跡のようなものがあった。
埃だらけの床に足跡が合ったり、最近のデザインの空き缶やラベルがついたペットボトル――期間限定品とかだと時期まで特定できる――が捨てられていたり、壁に落書きがあったりとか。
でもここにはそんなものが一切なかった。
長いこと誰も訪れていない、忘れ去られた場所。
街の中にぽっかり空いた、まるでドーナツの輪みたいな空間。
もはや誰の記憶にもない、明日ここだけ切り取られても疑問にも想われないかもしれない――欠落した世界。
時間の流れ方も違うのか、ここにいると身体の中で動いていた時計の針がピタリと止まり、すっと気持ちが落ち着いていった。
入り口にあったポストには、ビルの各部屋を借りていた会社や組織などの名前が記されていた。
製薬会社や法律事務所、不動産会社などが入っていた。
普通ならあまりかかわりのなさそうな会社が一堂に会している。だけどここで働いていた人達は、それぞれの世界に閉じこもって他者とかかわることは滅多になかったんだろうな。同じ雑誌で掲載している他の作家の顔を見たことがない、漫画家のように。
打ち捨てられたビルの中を歩いていると、ポストアポカリプスな世界に取り込まれたかのような不思議な気分になってくる。
本当に亡びた世界に投げ込まれたら、わたしはどうするだろう。
そこではインフラは死んでいるだろうし、安全な水や食料を確保するのも難しいかもしれない。
サバイバル知識は多少あっても、実践したことはない。
もしかしたら一年も経たない内に、息絶えることになるかもしれない。
でもそれはそれでいいんじゃないかな、って思えた。
きちんと自分の努力が反映された結果、失敗するなら全然いい。
理不尽に成功して精神を壊されるよりは、よっぽどマシ。
階段を上って、屋上に向かう。
エレベーターはあったけど、動かなかった。電気が止められているからだろう。
階段を上っていると、絞首刑に処される人になったかのように思えてくる。
十三段――それを上り切れば、人生を終わらせてくれる。
まるで夢のような話。現代人にとってはおとぎ話そのものだろう。
死が罰である時代は、とっくの昔に終わった。
生きながらにして苦しんでいる人が、一体どれだけいることか。
パンデミックが起きても、その現実は変わらなかった。
相変わらず死刑を自死の道具にしようとする人はいるし、自殺のニュースは後を絶たない。
国語が苦手な人でも、希死念慮って言葉なら知ってるって人は結構多いんじゃないかな。
そもそもなぜ死が恐れられていたか、真剣に考えたことがある人が一体どれだけいるだろうか。
戦という惨い地獄の果てに待っており、病気という耐え難い苦痛が呼び起こすものであり、親しい人がいる世界と隔絶された場所へ引き込む悪魔のような存在であったから――死は恐ろしかった。
でも今の日本じゃ、戦争はまだ幾分か先まで起こる気配はないし、医療の発達で命にかかわる病気もある程度治療できるようになってきたし、親しい人なんていうのは家族や親族の中にさえいなくなってきている。友人は言わずもがな。
だから死は脅威じゃなくなって、救いの手みたいに思われるようになった。
……そう、死ねば解放される。何もかもから。
この自己という存在からさえ、きっと。
ふふふという、聞き馴染みの笑い声を耳にした。
わたし以外の人は、このビルの中にはいない。足音も、気配すらもない。幽霊なんて非科学的な存在は、わたしは信じていない。
だからこの笑い声は、間違いなくわたしのものだ。
こんな笑い方もできたんだって、自分でも少し意外だった。
二十一年間生きてきても、まだ自分自身の知られざる一面を見ることができるなんて。
でも当然と言えば、当然かも。だってちょっと前までは飲酒や煙草は二十歳まで禁止されていたし、車の免許だって十八歳以上じゃないと取れない。
新しい自分を知ることができる――それは長生きをするメリットであり、また同時にデメリットである。
自分という人間の新たな一面は、ほとんどがうんざりさせられるものばかりだ。
ここまで自己嫌悪できる生物は、人間以外にいないんじゃないだろうか。
だから人は自己という存在を少しでも隠すべく化粧をするようになったし、ネット世界のアバターで活動する人が出てきた。
でも自分を偽ることができるのは、他の人に対してのみ。世界でもっとも騙したい自分自身に対しては、まったくなす術がない。記憶喪失にでもならない限り。
階段を上り切った先では、空が見えた。
世界中が燃えているかのような、幻想的な紅さ。
空は何色にも染まる。
紅くもなるし、青くもなるし、緑色にだってなることもある。
だけど結局、ほとんどが偽りの色に過ぎない。
本当の宇宙を地球から見ることができるのは、日が沈んで雲に覆われていない夜だけ。
……だったら、わたしがこの世を去るのは夜であるべきだ。
その死を自らが、心の底から望んだものであるという暗喩を示すためにも。
気付いてくれる人はどれだけいるだろう。
多分、いない。
誰も本当のわたしを見てくれないのだから。
……ああ、でも。
もしかしたら、あの人は――
わたしの漫画を唯一ちゃんと呼んでくれたあの人なら、あるいは。
メッセージをちゃんと、受け取ってくれるかもしれない。
わたしが残すであろう、たった一つの遺言を。
死亡時の空の色という、かつてないほど曖昧で漠然とした一節を。
まあ、漫画家なら己の心境は漫画で語りなよって自分でも思うけど、もう書きたくないのだから仕方がない。文章に頼らなかっただけでも褒めてほしい。別に休載するわけじゃないから当然と言えば、当然だけど。
そう、自殺における遺言書なんていうのは、休載のお詫びみたいなのと同じ。結局その人はまた輪廻転生をして、また新たな人生をやり直すに違いない。
わたしが行うのは休載(転生)じゃなくて解脱――ううん、|打ち切り(消滅)。もう二度と現実に帰らず、またこの魂を異なる世界にさえ行かすことなく滅するという決意をもって、自身の命を完全に断ち切る。
もしかしたら失敗するかもしれないけど、それでもこの大海原火美子という存在だけは絶対に命尽きる瞬間に終わらせる。
異世界転移は言うまでもなく、異世界転生においても現代人の本当の望みを叶えることはできていない。
本当に望まれているのは、自己の完全消滅――引き算なのだから。
多くの転移・転生系の作品において強調されるのはイコールかプラスである。今の自分のまま無双するか、あるいは転生時の特典で特殊な能力を与えられる――そのいずれかだ。
ただしそれ等は、今の自分が好きである(・・・・・・・・・・)という前提条件がなければ、気持ちよくはなれない。
転移においてはもちろん、転生とてほぼ全部の作品で現在の自分の記憶が引き継がれてしまっている。
だけど実はほとんどの人が、そんなものは望んでいないはずだとわたしは思う。
せっかく転生できるのに、なぜ今世の記憶を来世まで引き継がなければならないのだろう?
フィクションの作品においては、それを説明することができる。そうした方が転生もの特有の世界観を作りやすいからだ。
現代の世界と異世界を比較するには、前世の記憶が必要不可欠。異世界で現代の知識を活用して問題を解決するというのも、読者が感情移入して爽快感を得やすい構図であるため、そういった意味でも使い勝手がいい。
ゆえに転生ものを成り立たせる構成要素として、記憶の引継ぎは行われる。
けえれども実際に自分が転生するとして、果たして今の自分の記憶を来世に引き継ぎたいと考えている人が一体、どれだけいるだろう?
言い換えれば、今の自分が好きな人はどれぐらいいるだろう――ということだ。
どうしても来世に今世の記憶を持っていきたいなんて考えてる人は、そうそういないんじゃないだろうか。
たかが今世の記憶を引き継いで、それを持っていれば褒められ崇め奉られる世界なんて、不気味極まりないと思わないだろうか?
女神様からチート能力を授けられたとて、今の自分にそれが扱えると自信を持って言える人は、おそらく少数派なのではないだろうか?
わたしは現世の記憶の引き継ぎとかよりも、来世はもっとまともな天才に生まれて、その能力に疑問を抱かないで結果を素直に受け入れる、盲目的な幸せ者になりたいと思う。
間違ってもこんな理屈にがんじがらめにされるような、面倒な性格には生まれたくない。
ビルの縁に立つ。
十四階建てのビルの屋上は、かなり高い。
確かマンションだと十四、十五階建てのほとんどが建築基準法と消防法が理由で四十五メートルになっているってネットか何かで読んだことがある。
とある本によると飛び降り自殺に必要な高さは二十メートルで――もっとも、それ以上の高さから転落した人が生存していたという記録もあるけれど――、その痛みは注射にすら及ばないらしい。
この場所は素晴らしい。
ほぼゴーストタウンの様相を呈しているためか道路を通りがかる人は滅多にいないし、ビルの高さも十分にある。
真下はアスファルト舗装の地面。もしも人が落ちようものなら、潰れたトマトのようにしゃんこになるに違いない。
今日は雲が多くて、夜には空を覆ってしまいそうだ。
それにわたしの一番好きな言葉は、『立つ鳥跡を濁さず』。
遺言書は残さないにしても、身辺の整理をきちんとしなくちゃいけない。
それが全部終わったら、またこの場所に来よう。
きっとその時に、わたしは救われる。
この身体と魂とやらから、解放されるんだ。
高揚感を覚えた。
でも不思議と、物足りなさと引っ掛かりがあった。
……幸せはきっと、後からやってくる。
そう言い聞かせても、否定材料をすでにわたしは持ってしまっている。
これ以上生きたくないという気持ちは、紛れもない本物である。
でも。だったら。どうして、どうして、どうして――
かぶりを振って、頭から追い出そうとする。
できない、できない、できないっ――できないよ……。
なんで、来世で待っててくれなかったの。
どうして、今世にいるの。
それでも、それでもわたしは……この世界から、去るしかないのに。
……………………。
…………。
……。
空を仰ぐ。雲一つなく宇宙の姿がそのまま曝け出されている。
しかし人類は長い時間を経て、今日の好天という宇宙の恩恵を無下にした。ヒトという生き物は自然の姿を歪めることに余念がない。
都会の空は近眼の人が有する視界さながらに、ぼやけている。ぽつぽつと瞬いている星は滲み、暗い夜空を無礼にも煌々(こうこう)とした地上の光で白々と照らし出し邪な、下卑た思想でもって御身を汚さんと欲している――なんてね。
ただの八つ当たりだ。
せっかくならもっと、きれいな空の下で死にたかったっていう、わたしの我儘。
月は白く円くて、きれいだ。
それだけでもまだ、恵まれているって思わなくっちゃ。
いつかあの月だって、こんなにもくっきりと見えなくなっちゃう日が来るかもしれないんだから。
風が吹く。
夜の生温かさを孕んだ風。
わたしはそれに身を預ける。最後まで空を仰いでいたくて背中側から宙へ、重力へと抱かれていく。どちらも非力なのか、抱き留めてはくれない。二人共きっとわたしみたいに、華奢な女の子に違いない。
頭がふわぁっと、重石を外されたような解放感に包まれる。
飛び降りをした時、多幸感に包まれるって本当だったんだ。
幸せ――今まで身に降りかかってきた不運をすべて忘れられる、満たされた気分。
幸福に生きよと、どこぞの哲学者は言ったそうだ。
でも結局のところ生きていて幸福になれる人なんてごく僅かなんだ。だってわたしは今やっと、幸福の全貌を捉えることができたんだから。
自由――もう身体を動かすことさえできないのに、どこまでだって飛んでいけそうな、自由を覚えた。
都会の汚染されているはずの空気が、すごく美味しい。
天だって万華鏡のようにきれいで、どこからか甘い香しい臭いがする。吹き付ける風は穏やかで、わたしを包み込んでくれる。
遠くから聴こえる喧騒は、オーケストラのトランペットの演奏みたい。きっと後からやってくる風切り音のメロディが合わさることで、それは完成する。
かつてない、充足感。みじめに生き続けていたら味わえなかったであろう、陶酔感。
なのに――なんで。
なんで胸の奥に、ぽっかりと穴が開いたような寂寥感を覚えるんだろう……。
イヤだ。イヤだ、イヤだ、イヤだイヤだイヤだ。
「会いたいよ……」
ぽつりと、わたしの口から言葉が零れる。
その一言がトリガーになったかのように、胸の内からずっと目を逸らしていた思いが言葉となって溢れ出てきた。
もう一度、会いたい。それから、色んなことを話したい。
自分がいかに辛い思いをしているかとか、漫画のこととか、人形のこととか、お菓子の美味しい食べ方とか、それから、それから……。
「……好き、だったの」
そう、……わたしは、揚羽ちゃんのことが――好き。
誰よりも真剣に、わたしの漫画を読んでくれて。
漫画を描くのは正直、あまり上手くないけど――時々、わたしが思いつかないすごく面白いアイディアを考えてたりして。
だから揚羽ちゃんにアドバイスしてもらった後は、漫画を描くのが楽しかったし、すごく成長してるなって実感できた。
それになにより、揚羽ちゃんといる時間が一番、楽しかった。
もっと揚羽ちゃんと、色んな事がしたかった。
アニメを一緒に視たり、ゲームをしたり、わたしの料理を食べてもらったりして……。
一緒にどこかに出かけて、遊んで、ご飯を食べて……デートしたりして。
揚羽ちゃんから、プロポーズされたり……ううん。揚羽ちゃんって多分すごい奥手だから、わたしから切り出すことになるんだろうな。
ふふっと、口元から笑声が零れた。
あっ、わたしってこんな笑い方もできるんだ。
また、新しい発見。
そういえば、揚羽ちゃんが笑った顔ってあまり見たことがないな。
どんな風に笑うんだろう?
多分、揚羽ちゃんの笑い方だって一種類だけじゃない。たくさんの笑顔を持ってるはずだ。
一生かけても見きれないぐらいの、たくさんの笑顔……。
ふいに、視界が滲んだ。
ぼやけていた星が、霞んで消えていく。
気が付けば手を伸ばしていた。
遥か遠く。384,403km先の、歪む視界の中で波間に漂うように揺らめく月。
星座の仲間には入れず、太陽系の名にも連ねることのない、孤独な存在。
わたしはやっと逃れたはずの恐怖の迷宮に、また取り込まれていた。
死にたくない。死にたくない、死にたくない。
まだ生きていたい。生きたい、生きたい、生きたい、生きたいのっ……!
揚羽ちゃん――揚羽ちゃんとなら、わたしはもしかしたら――漫画を描き続けられるかもしれない。
誰からも理解されなかった不完全な漫画を、きちんと完成させることができたかもしれない。
でも……、でも、あなたは――
『――俺じゃ力になれないかもしれないが――』
『――力になれるかはわからない』
「どうしてっ、そんなことを言うの……!?』
声が届くことはない――そう理解していても、わたしの口からは衝動的に彼への文句が衝いて出ていた。
「揚羽ちゃんだけなのに……、わたしには揚羽ちゃんしかいないのにっ――どうしてそんなことを言うのッ!?」
叫んだ――ありったけの声で、わたしは揚羽ちゃんへの文句を叫んでいた。
遺言なんて、なかったはずなのに――
魂を完全に消滅させるつもりだったのに――
こんな……、こんなに大きな後悔があったら……。
わたし、わたし……わたしっ。
「バカ……バカッ、バカッ、バカぁ……!」
死ねない……、ちゃんと死ねるわけないよ……!
「揚羽ちゃんの、バカァアアアアアッッッ!!!!!!」
重力が、急に大男のような力強さでわたしの身体を地面へと引き寄せようとする。自分の勘違いに今更気付いても、もう遅い。
手は届かない。声も届かない。この想いが届かなかったのは――他でもない、自分のせい……。
計り知れない喪失感に、意識を失いかけた――その時だった。
「まったく……。そんなにバカバカ言われたら、さすがの俺もちょっと傷つくぞ」
――声がした。
聞こえるはずのない、声。
わたしが今一番聞きたかった、声。
かなり低めだけど不思議と温かみがあって、湖のように濁りなく澄んでいてよく通る……大好きな声。
そっか……幻聴、空耳か。
うん、走馬灯より、ずっとこっちの方がいい。
自分のみじめな人生なんか、死ぬ間際になってまで見ていたくない。
せめて最後ぐらい、大好きな人のことだけを考えていたい。より未練が残りそうな気がするけど、それでも――
ふいに、視界をキラキラした輝きが覆っていった。
まるで山盛りの金粉をひっくり返したみたい。すっごく眩くて、……きれい。
幻想的な光景に見入っていると、わたしの身体がとすっと受け止められた。
ちょっと頼りないけどそれでも確かな安堵感を覚える、温かさ――。
背中と膝裏に腕を回してわたしをお姫様抱っこをしているその人は、顔を覗き込んで訊いてきた。
「大丈夫か、怪我とかないか?」
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俺が尋ねると火美子は呆けた顔をくしゃっと崩して、泣いているのか笑っているのか、よくわからない表情で言った。
「うん……、平気だよ揚羽ちゃん」
「そりゃ、よかった」
「……でも、どうしてここに? それに、その大きな……蝶々(ちょうちょ)……?」
「ああ、キラボシチョウって言うんだ」
火美子の言うように、俺の背後には通常のサイズを遥かに凌駕するほど――翅一枚で一軒家の屋根を覆えるくらいに――巨大化したキラボシチョウがいる。
ヤツは四本の脚を使って、俺の身体が落ちぬよう支えてくれている。
俺はここまでキラボシチョウと共に、空を飛んでやってきたのだ。
こんなことをしたら後々色々と面倒なことになることは容易に想像できたが、それでも火美子が自殺を考えているやもしれないとあっては、手段を選んでいる場合ではなかった。
そんな無茶苦茶をしたお陰でこうして間に合ったわけだし、俺の選択は間違ってはいなかったのだろう。
「まったく、間一髪だったぞ。身体のサイズを変えれるなら俺を運べるぐらい巨大化できるんじゃないかって気付かなかったら、多分間に合わなかったぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「……いやまあ、謝らなきゃいけないのは、俺もなんだけどな」
「えっ……?」
すっかりしょげかえっていた火美子が、戸惑いを顔に浮かべてこちらを見てくる。
罪悪感から目を逸らしかけたが、夜闇を照らす金色の鱗粉を目にすると不思議と勇気づけられた。
意を決して俺は火美子の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。
「俺は……、お前から漫画のアイディアを奪おうとしていたんだ」
「……どういうこと?」
「実はこのキラボシチョウは、人の記憶を奪うことができるんだ」
「人の記憶を……?」
「信じられないと思うが、本当なんだ」
火美子は水族館の薄暗い空間で、一人きりで漫然と水槽を眺めているかのような表情で言った。
「つまり……、盗作しようとしてたっていうこと?」
「そういうことだ。あの、霊媒師のラブコメも……、川津からな」
「そっか……」
訪れた静寂が、酷く重苦しく感じた。
それに耐えかねて、俺は火美子に訊いた。
「失望したよな。俺がこんなヤツだったなんて」
「……ねえ、キラボシチョウでわたしから盗んだ記憶って、漫画のアイディアだけ?」
「いや、他にも色々と……あっ」
火美子のなんとも言い難い、数多の感情が複雑に絡み合ったかのような笑みを見て俺は気付いた。
彼女は俺の頬にそっと手をやって言った。
「同じだよ。わたしも、揚羽ちゃんと……ううん。あなたよりも、もっと許されざることをたくさんしてるの」
「……そうか、そうだったな」
火美子は自身の白くきれいな手を見下ろし、呟くように言った。
「ねえ、揚羽ちゃん。……ちゃんと世間に打ち明けるべきなのかな?」
「盗作とか、焼き増しを?」
「うん……」
正確には火美子が行ったことは盗作紛いであり、バレにくくするためにセリフ回しなど細部を少し変えてある。
だがストーリーラインはもちろん、キャラクターの性格や設定、コマの構図に至るまでほとんどを真似ている。
それでもまったく読者が気付かなかったのは、もはや誰かに記憶をいじられでもしていたんじゃないかと勘繰りたくもなる。
ただまあ、真実がどうであれ、俺の意見が変わることはない。
「墓場まで持っていくべきだろう、クリエイターなら」
「えっ……?」
目を見開く火美子に、俺は確固たる意志の元続けて言った。
「創作者ってのは、読者が作品を楽しむのを阻害する事実は、たとえバレているとしても素知らぬ顔で白を切り通すのが責務ってもんだ。違うか?」
「……詐欺師だよ、それ」
「そういうもんだろ。夢を届ける存在っていうのはさ」
空を仰いだ時、一筋の流れ星が空を裂いた。
「きれいだろ、流れ星って」
「……うん、そうだね」
くすっと一笑を漏らして、火美子は天のある一点を指差して言った。
「でも、月の方がもっときれいだよ。それは紛うことなき、真実なんだから」
俺は一瞬呼吸を忘れた後、火美子の顔を見やった。
途端、鼻に吐息がかかる。
彼女の顔は思った以上に近くにあった。
「朝はご飯派?」
「……まあ、白飯は好きだけど」
「よかった。わたしも好きだよ、一汁三菜」
頬を小さな手で包まれて、そっと唇を重ねられた。
記憶にある中で生まれて初めてのそれは、瑞々しくてとても温かった。
息苦しくなった頃に、ようやく解放された。身体が時間の概念を思い出し、ようやっと胸がドキドキ高鳴っていることに気が付いた。
頬を赤らめて笑みを浮かべている火美子に、俺は言った。
「……意外と強引なんだな、お前」
「うん。でもわたし達、似た者同士だと思うよ」
「それって……、どういうことだ?」
「我思う、故に我あり――だよ」
悪戯っぽく言って、火美子は目を閉じて俺の首に手を回してきた。
求められるままに顔を近づけていくと、寸でのところで不意打ちを食らい、俺はまた唇を彼女に奪われた。
きっと今も俺達を、金色の鱗粉の雪が包み込んでいることだろう――。




