一節 蜘蛛男 その1
僕は日課の地下掃除を終えて、一階に上がった。
ここのところ、物価が上がりすぎてペットの餌代に困っている。もう少し景気がよくなってくれないかと軽くため息を漏らしつつ、掃除用具を倉庫に戻しに行こうとした時だった。
カサカサ……。
世間でGだの、太郎君だの、あるいは――まあ、呼ぶもおぞましい黒い虫が、廊下を這っていた。
潰すと卵を産むと言うし、死骸が辺りに散らばるのもイヤだ。
慌てて殺虫剤を取り行こうとした時には、すでにどこぞの物陰に姿を隠してしまっていた。
この家は無駄にものが多い。特に祖父が残した書物が、廊下にまで溢れている。
僕も本は好きだが、こんなに多いと逆にうんざりしてしまう。本の山岳地帯なんて世界遺産にもならないし、観光地にもなりっこない。作った本人には自己満足の景勝地になりうるやもしれないが、それを譲り受けた僕にはいかんともし難い邪魔ものでしかない。
書物の中には今じゃ絶版になっている貴重品もあるらしく、下手にゴミに出せないのも質が悪い。
かといって、業者に任せる気にもならない。好きな女をネトラレて喜べるのは、官能小説の中だけの話だ。
「……やれやれ」
本日、二度目の溜息が漏れる。
梅雨が明けて気温が高くなっていたから、そろそろそういう季節だとは思っていた。
しかしまあ、実際にヤツを目にして実感が湧いてきた。嫌な実感だ。できることなら、ティッシュにくるんでダスト・ボックスに放り込んでしまいたい。
だが現実逃避をしたところで問題が解決しないことは、重々承知している。僕だってガキじゃないのだ。プレイしないゲームはクリアできないし、買わない宝くじは当たらない。宝くじに限っては、購入した方が損する気がするけど。
僕はひとまず掃除用具を倉庫に押し込んで、街へ出た。
この辺りは随分と昔ながらの店が残っている。
豆腐屋さん、八百屋さん、精肉店、魚屋さん、駄菓子屋さん、タバコ屋さん、金物屋さん、手芸用品店などなど……。
いわゆる商店街があったり、好き勝手な場所に店を構えていたり。
そのせいかどことなく懐かしい匂いが、この町には漂っている。
ただ僕が用があるのは、そういう人が集まっている場所じゃない。
夕暮れになって、誰もいなくなった公園。
もう影すら遊んでいないはずのその場所に、一人の男がいた。
年齢は六十代後半ぐらいか。顔はすっかり皺だらけで、白い髭をサンタみたいに口から顎までかけて生やし、胸の辺りまで下げている。そんなに伸ばしていたら実生活を送る上でも何かと困りそうなものだが、いつ見てもその髭が剃られていることはない。失顔症の僕にとっては、まあそういうぱっと見てわかりやすい特徴があるのはありがたいのだが。
黒いタキシードに、シルクハット。片眼鏡をつけて、杖をついている。
マジシャンのような恰好だが、トランプは持っていないし、シルクハットから鳩を出しているところを見たこともない。
彼はベンチの上に置いてある木製の長方形の箱を、愛犬の頭のように撫でている。
それは漢方医が持っているような、大きめの薬箱だ。
前面や側面に、おびただしい数の金色の取っ手がついている。薬箱には無数の引き出しがつけられているのだ。
もしもカメラでそこの部分をアップで映したら、さぞ不気味な画がとれることだろう。シミュラクラ現象で人の顔になんて見えた日には、全身に鳥肌が立つやもしれない。
僕が老夫に手を上げると、彼も目を細めて――笑っているのだろう――同じように手を上げ返してきた。
髭に覆われた口が開き、しわがれた声が発せられる。
「今日はどのようなご用事で?」
「蜘蛛を買いに来たんだ」
「蜘蛛ですか。種類は?」
「アシダカグモだ。一匹でいい」
「かしこまりました」
老夫はズボンのポケットからリングケースほどの紺色の箱を取り出し、薬箱の最下段の右から二番目の引き出しを開けた。そこには様々な大きさのアシダカグモが入っていた。
アシダカグモはカニになりそこねたようなやや小さい頭から八本の脚を生やし、ぷっくりとした卵のような胴体をつけている。頭のある口部分からは二対の触覚みたいなものが突き出ている。あるいは違うものかもしれない。僕は蜘蛛愛好家ではないので、よくわからない。色は湿った土のような茶色で、大部分が塩を振りかけたように白んでいる。
かなり気持ちの悪い見た目ではあるが、彼もまた食物連鎖の一端を担っており、それが我々人間にとって至極有益なのだから邪険に扱うわけにはいかない。つまり害虫ではなく、むしろ益虫なのである。
ヤツ等は箱の中で身動きせず、ただその場に佇んでいた。まるで時が止まってしまったかのように。
老夫が手を伸ばし、胴体をつかんでもそれは変わらなかった。
老夫が持つケースに入れられてもそれは変わらず、そのまま蓋が閉じられた。
「はい、どうぞ。五十円です」
僕はポケットに入れておいた五十円玉を差し出し、アシダカグモが入ったケースと交換した。
「確かに頂戴しました。ありがとうございます」
「いや。最近、商売の調子はどうだ?」
「おかげさまで、好調でございます。この間も、お得意様がクロドクシホグモをご購入されていきました」
「クロドクシホグモって、確か世界で一番危険な毒を持つ蜘蛛だったよな。そんなの、何に使うんだ?」
老夫はニヤッと笑っただけで、答えはしなかった。
夕日が遠くの稜線にかかり、矢のごとく差してきた光に僕は思わず目を細めた。
老夫は薬箱を手に取り、杖を地面につき直して言った。
「そろそろ今日は店仕舞いにします」
「そうか。……なあ、アンタは家に帰ったら誰か待ってる人とかいるのか?」
「いいえ、おりません。蜘蛛が待っているだけです。あなたは?」
「僕も特にはいない」
「そうですか。お互い、独り身で寂しいですね」
「気楽でいいだろ」
「ハハハ、確かに」
僕と老夫は公園の出口へ向かった。こんな風に彼と並んで歩いたことなどなかったので、少し不思議な気分だった。
二つの影が真っ直ぐ前に伸びている。それは黒い二匹の化け物のようでもあった。
公園の前は直線と左右、三本に道が分かれている。
僕は家がある方向へ、つまり真っ直ぐに進む。老夫は右へ曲がるようだった。
「それでは。……ああ、そうそう」
立ち去ろうとした老夫は、ふと思い出したように振り返って言った。
「蜘蛛はですね、ただ腹を満たす餌を求めているんじゃないんです。もっと別の、あるものを食すことで生き長らえることができるんですよ」
「あるものって?」
老夫は薬箱を持った手で、自身の胸を叩いて言った。
「恐怖ですよ。恐怖」
「……餌が怖がってるのを、楽しんでるってことかい?」
「まあ、その認識で間違いないでしょう。彼等が糸を吐くようになったのは、餌が恐怖する様を少しでも長く堪能するためなんです」
老夫の声音はまるで子供が玩具について話す時のように弾んでいた。
「ですから、蜘蛛の前ではできうる限り恐怖心を消すことです。そうすれば彼等もまた、あなたのことを対等な存在であると思ってくれるでしょう。しかし万が一、少しでも恐怖心を抱こうものなら……」
バサバサバサッ――
近くの木から、一斉に烏が飛び立った。ヤツ等の鳴き声が、世界の終焉を嘲笑う死神の声のごとく響いた。
「……いや、これをあなたに言う必要はないでしょう」
老夫は軽く杖でアスファルトの地面をつついて言った。
「水を弾くほど頑丈な地面があれば、雑草の生える心配はない。そんなあなたに、草むしりの重要性を語るのは時間の無駄というものでしょう」
「それは、どういう……?」
「いえいえ、なに。こちらの話ですよ。はっはっは」
老夫は彼らしかぬ声量で笑いを漏らした。
それからシルクハットをかぶり直し、軽いお辞儀と共に言った。
「それでは、またのご利用をお待ちしております。あなた様に、幸があらんことを」
「あ、ああ……」
老夫は腰を曲げてゆっくり歩き、どこぞへ去っていく。
僕は釈然としない気分のまま、帰路に就いた。
一節 蜘蛛男 ~害虫を食らう益虫~
家に帰った僕はケースを開き、アシダカグモを家の中に放した。
アシダカグモは家の中にいる害虫を食らってくれる。
そしてめぼしい餌を食べつくすと、そのまま外へと逃げていく。
まさに自然界がもたらしてくれた掃除屋さんだ。
アシダカグモはしばらく床の上を這っていた後、本の山の中へと入っていった。
これでいい。後は放っておけば家の中の害虫を食らい尽くして、ヤツ等がいなくなったら勝手に家から出ていってくれるだろう。
人は家を建て、自然界から切り離された安全な空間を作り出そうとした。
しかしそれは叶わず、今もなお住宅の中でさえ食物連鎖は起きている。
特にゴキブリは質が悪く、食中毒やアレルギー症状、喘息の原因にもなる。
だからヤツ等を見つけたら、一匹残らず駆除するべく努力をすることが家主の義務なのだ。
さらに厄介なのが糞で、本体を倒してもそれは残り続ける。ヤツ等を長生きさせればさせただけ、それは増え続ける。
糞には多くの病原菌が含まれている。赤痢菌やサルモネラ菌は食中毒、大腸菌は下痢や腹痛、チフス菌は高熱や頭痛の症状を引き起こす。
前述したアレルギー症状も糞や死骸によるもので、粒子状のそれを吸い込むとくしゃみや鼻水が止まらなくなり、最悪呼吸困難にさえなる。
また糞からは集合フェロモンが発生し、ヤツの仲間を引き寄せてしまう。しかもそのフェロモンは長いこと残るため、二次発生の要因にもなる。
それだけ危険な生物であるにもかかわらず、無知蒙昧な輩はわざわざ捕まえたヤツを家の外に逃がすお涙頂戴な喜劇の一部始終を撮り、嬉々としてその動画をネットに投稿したりしているようだが。
軽い疲労感を覚え、そろそろ風呂にでも入ろうかと考えた時だった。
ピンポーンと呼び鈴の音が聞こえた。
玄関のドアを開けると、段ボール箱を抱えた宅配業者が立っていた。
「ちわーっす、お届け物です。これにサインお願いします」
「ああ、はい」
僕は伝票とボールペンを受け取り、サインをした。
段ボール箱はそこそこ重かった。
家に入りひとまず箱を下ろし、鍵とチェーンをかける。
箱の中にはペットの餌が入っている。
とりあえずまずはそっちから済ませて、その後に風呂に入ろう。身体を洗ってから臭いがつくのも、バカらしいし。