第一章 勇者たち 1. 階段落ち
それ程混んでいない電車内に、その女性がいた。
時々見かける顔だった。
電車で通学していれば老若男女を問わず、見覚えのある人はいるものだ。
彼女もそのうちの一人で、話したことはないし、特に深く意識していたわけではない。どこの駅から乗って来て、どこの駅で降りるのかも知らなかった。
ただ今日は、同じ駅から乗車したはずだ。
大学帰りの俺が、ホームで前に並んでいた人の背中のリュックを何気なく見ていたら、あとで気付けば、そのリュックの持ち主が彼女だった。
いつものように、スマホに目を通していたら、もう少しで乗り過ごしかけた。
慌ててトートバッグを肩にかけて電車を降りた。
あとは一人住まいのアパートに帰るだけで、特に予定はないけれど、乗り過ごすのは気分が重い。
既に止んでいたとはいえ、一時的な激しい雨が、傘のしずくになって構内の床を濡らしていた。
階段を下りようとして、先を行くリュックが目に入った。
例のあの女性だ。
最寄り駅なのか用事なのか知らないが、この駅で降りることもあるのだ。
そう思った時である。
「うわ——!」
階段を踏み外して、転げ落ちた。
床は濡れていて、確かに滑りやすかったけれど、俺の不注意なんかじゃない。
誰かに押されたんだ。
それほど混んでいないので、人を巻き込まずに済んだが、トートバッグは放り出すし、手やズボンはひどく汚れている。
何より七月の上旬で薄着だったため、半袖シャツからむき出しの腕がかなり擦りむいていた。
故意であろうが無かろうが、俺を押した奴に謝罪させねば気がすまないし、打撲や擦り傷の痛みよりも、他の利用客に対して、俺の不注意でないことを分かってもらわないと恰好がつかない。
だが意外なことに、誰一人として申し訳なさそうに寄ってくる者はいない。
それどころか迷惑そうな顔をして、俺を避けて通り過ぎていく人ばかりだった。まるで俺が勝手に転んで通行を妨げているかのように。
——まいったな。
不満げに立ち上がったとき、駆け寄ってきた若い女性が、俺のカバンや散乱したものを拾ってくれている。トートバッグには、大学の教科書やノート、筆記具、携帯電話、それに飲料水のペットボトルなんかもあった。
雨で床が汚れていたので、ハンカチで丁寧に拭いては、カバンに仕舞ってくれていた。
電車の女性だった。
「大丈夫ですか?」
擦りむいて血がにじんでいる俺の腕を、若い女性は心配そうに見ていた。
「ええ。ありがとう」
俺はカバンを受け取って、頭を下げた。
女性と二人で並んで歩いたが、膝も打ったようで足に力が入らない。
喫茶店の前で、女性が立ち止まった。
「少し、休んでいきましょうか?」
「はァ」
曖昧に応じたのは、何だか照れ臭かったからだ。
最後まで、読んで頂ければ、うれしい限りです。
よろしくお願いいたします。