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迷子

 娘の白い足は、刃のように鋭く切れる葉や尖った石などで傷だらけだった。しかし、そんなことには一切構っていられない。

 暗く緑深い森の中を、わずかな月明かりだけを頼りに娘は走り続ける。汗はあごからしたたり落ち、艶やかであろう長い黒髪は乱れていた。時折振り返ることで、ますます髪が乱れる。

 守らなきゃ。この子だけは絶対に守り抜かなきゃ。

 まだ二十歳にもならない娘の腕には、赤ん坊が眠っている。生まれてまだ一月も経っていない子は彼女の必死さも知らず、起きる気配はない。だが、今はその方がよかった。

 こんな所で泣かれては、追っ手に気付かれてしまう。赤ん坊を抱く女と、本気で走る若い男達では、その足の速さは歴然だ。

 この森を抜けた先にある山へ入ってしまえば、少しは時間を稼げる……かも知れない。

 犬は連れていないだろうから、山狩りをするにしても一度村へ戻って準備をすることになる。その間に、たとえわずかでも先へ行けるはず。

 計画も勝算も、娘には何もない。ただ、その手の中で眠る赤ん坊を守る、という強い思いだけだ。

 彼女の強い思いを森の主が聞いたのか、明るくなる頃に娘は何とか森を抜けた。

 足は血だらけだったが、休む訳にはいかない。目の前にそびえる山へ入り、山を越えて……その後はその時のこと。山の向こうに何があるか、知らないから。

 それどころか、山の中にどんな獣や魔物がいるかさえも知らない。人を喰う存在が目の前に現れれば、追っ手に捕まったも同じだ。

 しかし、同じ人間であるはずの追っ手の手にかかるよりは、その方がいっそあきらめもつく。

 荒い呼吸を繰り返し、のどが乾きすぎて痛い。今ここで誰かに襲われても、まともな悲鳴一つ出せないだろう。

 このまま声を失ってもいい。それでこの小さな命が守れるなら。

 ローバーと呼ばれる山へ、娘は足を踏み入れた。険しいという話だけは聞いていたので、正直なところ娘に山を越えられる自信はない。かと言って、後へは戻れない。

 だから、ひたすら前へ進むだけだ。

 今いる場所は、まだふもとの方なので木々が少ない。隠してくれる物が少ないということは、見付かりやすいということ。空が明るくなってきたので、なおさらだ。早くもっと奥の方へ入らなければ。

 そう思った矢先だった。

 ばさっという大きな羽ばたきの音が近くで聞え、びくっと肩をすくめた娘は足を止める。

 すぐそこに現れたそれを見て、娘の緑の瞳が大きく開かれた。一気に血の気が引き、傷だらけの足ががくがく震える。

「あ……あ……」

 やはりまともな悲鳴は出ない。いや、声が出せたところで、悲鳴にはならなかっただろう。驚きと恐怖で、声にもならないかすれた音が口からもれているだけ。

 目の前に男が現れた。さっきまでいなかった位置に立っている。

 青い双眸で娘を見ている男の背には、白く大きな翼が広がっていた。

☆☆☆

 いい天気だ。まだ少し冷たいが、春の風が吹いて気持ちがいい。

「ネマジー、外で練習して来るね」

 短い黒髪に緑の瞳をした快活な少年が、家の中に声をかけた。少年の名はツキという。

「おぅ。獣達に迷惑かけんようにな。それから……何度も言わせるな。爺いと呼ばれとるみたいだから、ジーと伸ばすんじゃない!」

 家の中から老人の声が返ってくる。爺と呼ばれても仕方がなさそうな声だが、本人は認めたがらない。

「今のは外から呼び掛けたから、そうなっただけだよ。行って来まーす」

 怒鳴られるのはいつものことなので、気にしない。ツキはモザの村を出て、いつもの練習場所へ向かった。

 モザの村はローバーの山の頂上付近にあり、村を出るということは山を少しばかり下りることになる。

 ちゃんと住めるように拓かれているモザの村とは違い、木々あり斜面ありその他障害物ありの場所で、ツキは魔法の練習をするのだ。

 師匠は共に暮らすネマジ。ちゃんと聞いたことはないが、たぶん六十になるかどうかという年齢だ。

 彼はとある大きな街に住んでいて、有能な魔法使いとして城で活躍していたのだが、色々な権力闘争に巻き込まれ、嫌気がさして街を出た。そして、たどり着いたのがモザの村……というのが経歴らしい。

 あくまでも本人談なので、どこまで本当かわからないが、少なくともツキに教えられる程度の腕はあるということだろう。

 もっとも、ある程度の基礎を教えた後は「おのれの努力次第だ」と、どうしてもツキがうまくいかなくてアドバイスを求める時以外、彼の方から何も言わなくなった。

 なので、ツキはこうして自主練習に励むのである。村の外へ出るのは、何がどう作用して村の誰かにケガをさせたりするかわからないからだ。危険要素は少しでも減らす方がいい。

 村から離れる間もツキは頭の中で呪文を繰り返し、魔法が効果を現した時のことをイメージしていた。

 そんな彼の耳に、泣き声が入ってくる。小さな子どもの声だ。村の子の誰かがケガでもして、泣いているのだろうか。

 ツキが声のする方へ向かうと、そこには確かに子どもがいた。でも、見たことのない子どもだ。

 モザの村の人達はみんな、真っ直ぐで長いプラチナブロンドなのだが、泣いている子は明るい金の髪だった。しかも、ゆるやかなウェーブがかかって肩まで伸びている。

 村人以外の誰かを見るのも初めてだし、そんな髪の色もツキは初めて見た。

 着ている物は、薄いピンク色で肩辺りがふんわりした半袖ワンピース。ツキはワンピースなんてものは知らなかったが、顔つきや雰囲気からどうやら女の子らしい、というのは推測できた。その身長から、だいたい五歳か六歳といったところか。

 魔物が姿を変えて誘い出している、なんてことはかけらも疑わず、ツキは女の子の方へとゆっくり近付いた。

「どうしたの?」

 その声に、女の子が顔を上げた。明るい緑の大きな瞳がこちらを見る。かわいい顔が涙でぐしょぐしょだ。

「おうち、わかんなくなったの……」

 つまり、迷子という訳だ。ツキがしゃがんで見たところ、女の子がケガをしている様子はない。

「どっちから来たの?」

 ツキが尋ね、女の子は周囲を見回す。だが、山の中の似たような光景しか広がっていないので、その方向が指されることはなかった。

 もっとも、似たような光景であろうとなかろうと、来た方向がわかるくらいなら迷子になんてならない。

 女の子の目から、また涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

「あ、泣かなくていいよ。心配しないで。ぼくが一緒にいてあげるから、恐くないよ。名前、言えるかな? ぼくはツキって言うんだ」

「んとね……」

 女の子が何か言った。だが、えらく長い。しかも、ツキにはなぜかまるで聞き取れないのだ。

 彼女が口にしたのは、これまでに聞いたことのない言葉だった。どこか魔法の呪文ぽく聞える。しかし、それならそれでツキも魔法は使えるのだし、多少は復唱できるはずだ。

 それなのに、たった今聞いたばかりの言葉が一言も口にできない。

「えっと……ごめんね、よく聞き取れなくて。もう一度言ってくれるかな」

 女の子は小さく頷き、もう一度言ってくれた。……やっぱりわからない。

 ツキは頭を抱えた。

「わかんない?」

 ツキのその様子に、女の子が心配そうな表情で尋ねた。

「うん。ごめんね。ぼく、耳が悪いと思ったことはないんだけど」

 二度も言われたのに、最初の一語すらも発音できないなんてことがあるのだろうか。

 女の子とはこうして問題なく会話ができているのに。女の子の発音がそこだけ悪い、という訳でもない。自分の名前を言っているのだから、それはありえないだろう。

「じゃ、ツキのわかりやすい言い方でいいよ」

 こんな小さな相手から、代替(だいたい)案を出されてしまった。このまま首をひねっていても仕方がないので、ツキは女の子の案にのっかる。

「そう? じゃあ……」

 二度聞いた中で、何となく「ハ」と「ナ」に近い音があったような気がする。あくまでも「気」だけだが。

「ハナちゃん、でいいかな。それに似た言葉が聞えたような気がしたから」

「うん、いいよ」

 名前の話をしているうちに、ハナちゃんはすっかり泣きやんでいた。

 さっきはよくわからなかったが、よく見るとハナちゃんの目には白目がほとんどない。大きな丸い目は、きれいな新緑の緑で占められている。

「ハナちゃんは人間じゃない、のかな?」

 聞いていいものか悩んだがスルーすることもできず、ツキは尋ねた。

「うん」

 ハナちゃんはあっさり答えてくれたが、自分が何者であるかまでは言わない。隠しているのではなく、そこまで説明するに考えが至らないだけのようだ。

 彼女がどんな存在であれ、子どもには違いないということだろう。

「んー、どうしようかな。ハナちゃんのお父さんかお母さん、いませんかー」

 立ち上がって周りに声をかけてみたものの、返事はない。

 それはそうだろう。ハナというのは、たった今ツキが勝手に命名したものなのだから、「ここです」と返事が聞える方がおかしい。

「ネマジかフウに相談しようかな。ぼくだけじゃ、どうしていいかわからないし」

 もう一度しゃがんでハナちゃんと視線を合わせ、村に来るかと聞いてみた。ハナちゃんは嬉しそうに元気よく「うん!」と答える。

 今日の魔法の練習は中止し、ツキはハナちゃんと手をつないでモザの村へ向かった。

「ツキはニンゲンなの?」

「そうだよ。この前、十五歳になったんだ。ハナちゃんはいくつ?」

「んー……」

 ハナちゃんは難しい顔をして考え込む。

「ごめんごめん。きっとハナちゃん達はぼく達みたいに年齢を気にしないんだね」

 妖精にしろ魔物にしろ、長命な存在は正確な年齢を自分でもあまりわかっていないことが多い。大雑把に百年、なんて言い方をすることもあると聞く。

 どこまで本当の年齢に近いのかはともかく、生きる年数をあまり細かく覚えていないのだ。ハナちゃんもきっとそういった存在なのだろう。

「ハナちゃんは妖精なのかな」

「ううん、ちがうよ」

 ツキが今まで見た妖精は手のひらサイズ。人間と変わらないサイズの妖精もいると聞くが、ハナちゃんは違うだろうなぁ、と何となく思っていた。やはりそうではないらしい。

「じゃあ、魔物か魔性……そんな感じには見えないしなぁ」

「ハナちゃんはマモノじゃないよ」

 自分で言う辺り、彼女は「ハナ」という名前を気に入ってくれたようだ。

 それはともかく、魔物でもなく妖精でもないなら、彼女はどういう存在なのだろう。

 相手が子どもで会話の要領を得ないため、ほとんど収穫もないままモザの村へ戻って来た。

「ツキー」

 呼ぶ声がして、ツキはそちらを向いた。真っ直ぐなプラチナブロンドの長い髪に濃い青の瞳をした少女が、手を振りながら駆け寄って来る。幼なじみのフウだ。

 ハナちゃんのことを相談しようと思っていたので、ちょうどよかった。

「その子、どうしたの?」

 やはりプラチナブロンドの村人ばかりの中に、金の髪は目立つのだ。そうでなくても狭い村のこと、見慣れない顔はすぐにわかる。

「村の外で迷子になってたんだ。どうしてあげればいいかわからなくてさ、とりあえず村へ戻ってフウに相談しようと思って」

「迷子の相談って言われてもねぇ」

 と言いながらも、頼られてフウも悪い気はしない。昔からツキはのんびりした性格で、しっかり者のフウは同い年ながら面倒をみるという立ち位置だ。

 だが、お互い成長し、ツキが魔法の練習をするために一人で行動することが増えたため、最近では面倒をみる回数が減ってきている。

 なので、たまにこうして相談をもちかけられると、テンションがちょっと上がったりするのだ。

 フウはしゃがむと、ハナちゃんと視線を合わせた。

「帰る場所、わからないの?」

 ハナちゃんは小さく頷いた。ツキが横にいるものの、見知らぬ場所に来て少し不安なようだ。ツキの服をぎゅっと握っている。

 それを見たフウは、笑ってみせた。

「私はフウ。ツキの幼なじみ……えっと、つまりうーんと小さい頃からの友達よ。あなたの名前、教えて」

「ハナちゃん」

「ハナちゃん?」

「あ、違うよ、それ。ハナちゃんっていうのは、ぼくが勝手につけた名前なんだ。ハナちゃん、さっきぼくに言った名前の方、もう一度フウに言って」

 ハナちゃんはまた、ツキが聞き取れなかった長い名前を口にした。フウもわからなかったらしく、目が点になっている。

「フウ、わかった?」

「わかんないけど……わかった気がする」

「フウにはわかるのか。やっぱり人間のぼくじゃ無理なのかな」

 フウは白翼人(はくよくじん)と呼ばれる種族である。ツキの住むここモザの村は、白翼人の村なのだ。

 彼らは人間とほとんど変わらない姿を持っているが、必要な時にはその背に白い翼が現れる。魔法は人間と同じように鍛錬した者にしか使えないが、翼で飛ぶことは誰にでもできるのだ。

 その翼をねたんだ人間に騙され、殺されかけた彼らの先祖が、人間が簡単に来ることのできない山頂に村を作って住むようになった、と言われている。

 その話が事実かどうかはともかく、白翼人はそのほとんどが山頂に住んでいるのだ。

 たまに人間の街に隠れ住んでいる者もいるが、その時は少し尖った耳をプラチナブロンドの長い髪で隠す。それさえ見せなければ、人間に紛れることは造作もない。

 村では隠す必要がないので、小さいが上部が少し尖ったフウの耳も今は見えている。この村で白翼人でないのは、ツキとネマジだけだ。

「私が考えたことが当たってるかどうか、まだわかんないわよ。ねぇ、ハナちゃん。あなた、もしかして竜……その姿からして花竜(かりゅう)じゃない?」

 ハナちゃんは首を傾げる。

「とう様がそれっぽいこと、いってたかなぁ」

 ハナちゃんのその言葉に、フウが息を飲む。

「ツキ、ハナちゃんを見付けた場所へ早く連れてって。大変なことになるかもよ」

「え、あの、フウ?」

 急に立ち上がったフウに腕を掴まれ、目を白黒させながらツキは再び村を出たのだった。

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