血濡れの皿のヨカナーンよ
ヘロデ・アンティパスはペレアの領主である。彼には二人の妻があり、初めの妻はナバデアの王の娘ファサエリス、次の妻は彼の兄弟の妻であったへロディアである。へロディアは優れた美貌を持ち、彼が前夫の下でもうけたサロメもまた、類稀なる美貌を備えていた。
ところが、夫の不誠実に対して、我慢ならなかったのはファサエリスである。彼女はアンティパスがへロディアを偏愛したことから、離婚に際してアンティパスを非難するべく、ナバデアの実家へ申し入れをすることに決めた。
彼女は去り際に、父母の秘め事に関する呪いを娘にかけることを思いつく。彼女はへロディアの娘サロメに向けて、さり気なくこう囁いた。
「貴女はいずれ偉大なお方の血を求め、その血で両親を濯ぐでしょう。それは貴女の罪であり、貴女の罪がご両親の罪への禊となるのです」
サロメは意味が分からずに、しかし恐ろしくなって、彼女の母に縋りつく。ファサエリスは愛おしいものでも見るように目を細め、次いでアンティパスに宣告する。
「貴方の罪はいずれ暴かれましょう。不誠実は、神の最も嫌う罪です」
ファサエリスの分厚い唇、着飾った衣装に、アンティパスは強い嫌悪感を抱いた。何故なら、分厚い唇は法螺吹きの証で、言うまでもなく着飾った衣装は虚飾の証であるからだ。
彼は不倫の為に気が大きくなっており、薄い唇に紅を塗る、肩に身を寄せるへロディアの美貌の為に、普段よりなおも大胆になっていた。彼はそれらの虚飾と傲慢の罪に気づかずに、前妻に向けて言い放った。
「お前の言うことなどどうでもよい。何せお前は私の妻ではないのだから。すぐさま私の前から消えろ。忌々しい醜女よ」
言われなくともと、ファサエリスは肩を怒らせて宮殿を去っていく。とはいえ彼女の帰る場所も、宮殿に他ならないのであるが。
彼女が引き連れた付き人は、故郷へ戻る道中に、彼女の以下のような姿を見ている。
冷え込みの酷いある夜に、砂の上に茣蓙を引き、月光欲をする彼女は、青く煌々と照る月に向けて咽び、涙を流していた。
彼女は薄い麻布を七枚を重ねて、身を縮こませている。彼女が砂に濯ぐ涙は、青く丸い月光に輝き、それが頬を伝う道筋はなおはっきりと輝いた。そして彼女の胸の隙間、彼女の最も無防備な、七つの布の切れ目にある、谷間の中へと涙が落ちる。その谷間は満たされることもなく、ただ空のままで流れ落ちていく。全ては忌まわしきアンティパスのこじ開けた、綻び穴の為であろう。
彼女が一人月を眺めていると、一人の男が現れる。放浪者のように汚れた服、長い顎髭は胸まで伸び、決意に満ちた瞳は勇ましく思えた。
ファサエリスは彼に釘付けになる。彼女は彼の瞳に映る、月のような輝きに恍惚とした。身なりこそ貧しいが、その力強い瞳に燃える使命感は、確かに正しい人のものであった。また、真黒な髪の毛は、夜にさえ鈍色に輝く艶やかさである。
暫く彼女はこの二つの月と、その月に映える美しい黒髪に見惚れた。そして、放浪者が何度か、赤い唇を動かして、もしもしと声をかけると、ようやく我に返ったのである。
「心に寂し気な穴があるお方、貴女の心に安らぎを齎す方角はいずこか」
「凛々しいお方、私の心に安らぎを齎すのは、これより東の方角です。と言っても、砂嵐で足跡は、とうに消えてしまっていますが」
ファサエリスは彼がサロメに告げた呪いの相手でないことを祈った。しかし、放浪者はそっと微笑み、彼女の足跡がくっきりと残ったままの道を進んでいってしまう。彼は本当は幻だったのか、冷たい夜風が一つ吹き抜けると、砂嵐と共に彼女の視界から消えてしまった。
ファサエリスはわなわなと身を震わせ、砂の上に蹲って、再び泣き出してしまう。今度の涙は彼女の無防備な部分を伝って、重力に逆らうように不思議な冷たい夜風に煽られ、しっかりと胸の内を満たした。
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ある時、アンティパスはへロディアと共に、町で支持者を集めるヨカナーンなる男のうわさを聞いた。彼はこの者が祝福をしてくれれば、へロディアとアンティパスの恋仲はますます人々の認めることになるだろうと考えた。
彼は町で教説をするヨカナーンを、兵士達に探させる。兵士達は細心の注意を払って、ゴリアテでも身の毛がよだつような巨大な平たい剣と、戦場で最も恐れられる長槍、獣の絵を描いた魔除けの盾、黒い斑点を付ける弓矢を持って出かけた。
彼らは人集りのあるところを直ぐに見つけることが出来た。何故なら、そこには言葉で言い表せないような不思議な魅力があったためだ。鼻腔をくすぐる肉汁の香りや、砂漠のオアシスのような清廉な雰囲気に導かれ、兵士達はヨカナーンと思しき人物を見つけたのである。
「噂に聞くヨカナーンか。貴方に頼みがある。陛下がお呼びなのだ」
ヨカナーンと思しき人物は、先ずは盾に視線を向ける。そして兵士の顔を見つめると、その長い髭を揺らして口を開いた。
「先ずはその手に持つ、盾を捨てなさい。次に人を傷つける武器も。それとも、私の肉体のどこかに恐ろしいところがあるのですか?」
兵士は不思議なことに、彼のいう事を聞かなければならないと感じた。先ず盾を捨て、次に平たい剣を、そして長槍と、弓矢も地面に置いた。ヨカナーンはそれを確かめると、兵士たち一人ひとりの額に人差し指と中指を付けた。
「まだ、人を傷つけてしまう武器を持っておられます。それも捨てて下さい」
兵士達は既に手に持つものを全て地面におろしていた。彼らは両手が開いているのを何度も確かめ、やがてふと、額に置かれた手を思いついた。
兵士の一人が懺悔を始める。一人、また一人と、彼はヨカナーンに告白した。そこには、彼らの苦しみも混ざっていた。
「貴方達に従いましょう。きっと貴方達のことも、主は救って下さるでしょうから」
ヨカナーンを囲んでいた群衆が道を開ける。地面に残された武器を見て、人々は兵士達に連れていかれるヨカナーンを、喝采で見送った。
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ヨカナーンを招き入れたアンティパスは、彼を盛大にもてなそうとした。しかし、ヨカナーン自身が多忙なことを理由に、手短に用事を済ますことを求めた。
風呂を沸かせ、湯浴みを済ませ、めかしこんだへロディアが、アンティパスに連れられてやってくる。彼女は聡明そうな瞳を閉ざして、長い睫を強調するように、アンティパスの隣に座った。
「ヨカナーンよ。私達二人が永遠の愛を誓いあっていることは疑いない。さて、貴方は私を祝福してくれるだろうか」
光の降り注ぐ宮殿を支える無数の柱が、ヨカナーンに言葉を促している。武器を持たない兵士達の期待の眼差しも、彼に向けられていた。
期待に胸を躍らせるアンティパスとへロディアを、ヨカナーンは沈着に見つめる。ターコイズの指輪、ラピスラズリの耳飾り、遠くエジプトから取り寄せた黄金の腕輪の数々が、富と繁栄を物語っている。
やがて姿勢を崩すほど待たされたアンティパスは、やはり報酬が必要なのかという考えに至り、彼への土産物を準備するように耳打ちをした。しかし、ヨカナーンは、報酬が与えられるように動き出す前に、二人を交互に見て、率直に答えた。
「いいえ、それは、出来ません」
「何故?これほど愛し合っているのに?」
へロディアが悲鳴のような声を上げる。それはアンティパスや、護衛の兵士達の総意でもあった。
「陛下は勘違いしておられるようですが、貴方は既に永遠の愛を誓った人を裏切ったのです。それがどれほど罪深いことなのか、身に染みてわかっておられるはずでしょう。それは貴方の愛の証ではなく、不道徳の証ではないですか」
「この男を捕らえよ!牢にぶち込んでしまえ!」
王は顔を真っ赤にして怒鳴った。兵士は慌ててヨカナーンを拘束する。彼は動じるでもなく、二人の憤慨する顔を、真っすぐに見上げていた。
「どうしたことです、ヨカナーン。貴方自身が人を傷つけるなど!」
「私は傷ついた人の思いを述べたに過ぎない。貴方達の言うように人を傷つけたのは、他ならぬ彼ら自身でしょう」
兵士はヨカナーンの口を塞ぐ。これ以上の狼藉は、彼の首が飛びかねない。彼らは初対面から、この放浪者にひどく惚れ込んでしまった。それだけに、これ以上、彼に危害を加えることは望まなかった。
彼はされるがままに投獄され、兵士達に拘束を解いてもらうと、彼らに向けて小さく微笑んで見せた。
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へロディアとアンティパスは苛立ちを紛らわすべく、歓迎の宴の為に用意された食事を直ぐに運ばせた。雑魚寝の食卓を囲むのは、暗い表情のアンティパス、へロディア、そしてその娘サロメであった。
背の低い円卓の上に並べられたものは大層豪華で、都の周辺では生育の悪い最高級の葡萄、蛇も垂涎の甘美な味の、真っ赤で食感のいい無花果、そして楽園に生育するような林檎である。痛むことなく齎された最高の食材は、いずれにしてもその日のうちに食べねばならなかった。そして、生野菜に植物油をかけたものを色どりに添え、肉汁の溢れるステーキに、鮮度の良い鶏卵を用いた卵焼きなど、御馳走の数々が並んでいた。
つい先ほどまで癇癪を起こして暴れていたアンティパスも、失礼な放浪者の物言いに唇を噛んでいたへロディアも、これらの前では顔が綻ぶのを止められない。サロメは二人より一足先に、舌鼓を打っている。これらの食事を極上の舞踏を観覧しながら頬張る。考えただけでも喜ばしいことである。
舞踏も一流の芸人たちの仕事である。一糸乱れぬ完璧な舞踏から、乙女の煩悶が零れたような乱れた情熱的な舞踏、物珍しい火を食う芸者に、油に息を吹きかけて火を噴く芸人、さらにアルビノの髪をした奏者の、キタラの演奏も物珍しい。ひとたび惚れ込めば怒りなど静まり、へロディアもアンティパスも快楽に身を委ねて食事を楽しんだ。
「サロメ、楽しいか?」
アンティパスは妻の連れ子に耳打ちをする。彼女は一杯に食事をとり、特に果物はたらふく平らげていた。
「踊りたいほど楽しいです!」
「ならば踊ってみてはどうだ?」
アンティパスは喜びに胸を躍らせた。彼は彼の望むままに、舞台を支配することが出来た。円卓を囲み雑魚寝をしていたサロメは、舞台の中央に躍り出る。丁度演技をしていた芸人二人が、踊りを中断して彼女に手解きをした。彼女は手解きも受け入れつつ、さらに自由に踊ってみせる。その姿の愛らしさを、アンティパスが喜ばない筈がない。
「素晴らしい!サロメや、何か欲しいものがあるか?なんでもあげよう」
サロメは踊りを褒められて、嬉しそうに歯を見せて笑った。
「先程の客人の顔をお傍に置いておきたいです」
宴会場が凍り付いた。サロメは無邪気に期待の眼差しを向ける。アンティパスは、思わず強張った顔で何とか笑顔を作り、諭すように言った。
「あの罪人の顔が欲しい?もっと良いものも用意できるぞ。そうだ、我が領土の半分だってあげよう!」
「領土もいいけど、私は二つの月が目に付いた、あの人の顔が欲しいの。あの月の中で映えそうな、真黒な髪の毛が欲しいの」
サロメはアンティパスに上目遣いをする。男としても王としても、彼は娘に言った言葉を取り消すことは出来なかった。
「あの者の首を持ってきなさい」
王の沈んだ声が響く。宴会場にどよめきが起こり、武器を捨てた兵士達が手近のフルーツナイフを鷲掴みにして牢獄へと駆けて行った。
劇場は凍り付いたまま、舞台に上がったサロメが首を傾げる。アンティパスはそれ以上、料理を口に運ぶことが出来ない。へロディアは視線を外して、ぶつぶつと独り言を呟く。
やがて兵士が戻ってくると、銀の皿一杯に血が滴り落ちていた。皿の上のものを見て、サロメは目を輝かせる。黒く艶やかな髪の毛が、朱に滲んで色づいている。真っ赤な唇は少し青ざめて、鮮血に半分沈んでいた。彼女は食卓にこれを運ぶと、固くなったそれに唇を重ねた。
それを目にしてしまったへロディアが、思わずえずく。アンティパスは顔を顰め、額に手をつけて首を振った。
「サロメを天に返しなさい。この子は呪われた子だ」
兵士が皿を持ったままのサロメを抱き上げる。溢れるどす黒い血が、点々と床を汚していた。
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まだ人々が天に張り付いた星々が回るのを、仰ぎ見ていた頃のこと。揺り動くものが天体か、それとも人かも判然としない頃。その頃から今まで伝わる、狂気と罪の物語。サロメの皿は甘美であったか、酷い味がしたのかは、当の本人にしか分からないことであった。




