1☆愛
日常は緩慢に俺の首を絞めてくる。
しがないサラリーマンの俺は、ある日会社へ行くのをやめた。
通勤電車と逆方向に走る電車に飛び乗り、海を目指す。
子どもの頃みたいに開放感を味わいたかった。
「真っ赤なポルシェ?こんなところに不釣り合いだな」
上着を手に引っ掛けて、ネクタイを緩めながら歩く。
「!!!じゃない!!」
女の声がした。言い争っているらしく、男たちに囲まれて喧嘩でもしている様子だった。
「どうしたんですか?」
俺はわざわざ揉め事に首を突っ込んだ。
「あなた!一緒に来て」
女が俺の腕をとり、車のところまで走った。
「乗って!」
男たちは彼女が車に乗るとは思っていなかったらしく、今ごろ慌てて追っかけてくる。
女はキーを刺し、エンジンをかけた。
俺は助手席で彼女が荒っぽく運転するのを見た。
湾岸道路を抜けて、まちなかに入る。男たちの車が後を追っていたが、女は振り切ってしまった。
「状況を説明してくれないか?」
「ただのドライブよ」
「嘘こけ」
「なにもかも嫌になったのよ!ねえ、私といっしょに逃げて!」
いっしょに死んでと言われなかっただけでもみっけもんだ。
「おい、運転手さん。どこへ逃げる気だい?あてはあるのか?」
「地の果てまで」
「……」
どこで歯車が狂ったかな?まあいい。俺も日常から逃げてきたところだから。
すれ違うパトカーが、サイレンを鳴らして方向転換。追いかけてくる。
「あんた何やったんだ?」
車をとめると、速度違反の切符を切られた。
山瀬愛。女の免許証に書いてあった。
「罰金払わなきゃ」
憂鬱な表情で愛は言った。
ぷっくくくく。
思わず緊張が解けて笑った。愛もあはははと笑った。
「実は私、スパイなの」
また何か思いついたな?俺はお遊びにつきあってやることにした。
「国家機密を盗むのか?」
「産業スパイよ。会社のデータを持ってるわ」
「へえ?」
「これを裁判所に提出したら、間違いなく汚職事件になるの」
「お食事券?」
「汚職事件」
封筒の会社名の印刷を見て、ギョッとする。俺の勤めている会社じゃないか!
「それはやめといたほうがいい」
「どうして?」
「俺が失業するからさ!」
「あら?今ここにいるってことは失業したんじゃないの?」
「まだ、首の皮一枚で繋がってるんだよ!」
「ふうん。どう、しよう、かな……」
愛は面白そうに笑った。