秘密基地への暗号的なあれ
高校の最寄り駅から二駅。
そこから十分ほど歩いて右に曲がって裏路地に入る。
沈む太陽の光と人々の声に満ちていたはずの世界はたった一度の右折で光も音もない空虚なものへと移り変わる。
まだ微かに背中を撫でる光と声に後ろ髪を引かれるような思いをふりきって、ほんの数メートル先すら見えないそこをまるで自分の存在を証明するように足音を立てて歩く。歩けば歩くほどに光は阻まれ音は壁に吸収されて消えていく。
ぼんやりとした光が見えてきた。数分前まではあったはずのオレンジ色の眩しいまでの光とは違うぼんやりとして今にも消えてしまいそうな、けれどこの暗闇においては何よりも安心する光が。
その正体は一軒のバーの店内から漏れ出る照明。
店の名前は「方舟」。今日も来るはずもない客を待って健気に照明を灯している。
「……こんにちは」
「……」
扉をくぐりマスターへ挨拶。今日も彼は喋らない。
「ミルクのロック。氷抜きで」
「……」
もはや言い慣れた意味不明な注文。
マスターはちらりとこちらの顔を見ると頷き、酒の並ぶ棚に見せ掛けた隠し扉を開いて通るように促す。
俺はそれに頷いて地下へと続く階段を下って『先生』のもとへと帰っていく。
◇◆◇◆◇
「やっぱおかしいですって。一般的な高校生の帰宅風景と言うにはあまりにも異質過ぎる」
地下を降りると見える扉。鍵を開けてなかに入ってただいまよりも先に愚痴がでた。
先生はそれを受けてまたかと言うように肩をすくめる。
「安アパートに引っ越したいとでも言うつもりかい? 勘弁してくれ。ただでさえ上は君が学校に通うことをよく思っていないんだから。これ以上無茶を言えば私の首がとぶよ。物理的にね」
今日も変わらず先生はヨレヨレの白衣とぼさぼさの長い黒髪でだらしなくソファに身を預けながらおかえりの代わりに答えを返す。
ちなみに先生と言っても別に教師だとかそういう意味じゃない。モルモットとして育った俺に勉強やその他諸々の一般常識を教えてくれた人というだけの話だ。今は俺の監視役兼同居人兼人質みたいな立場に立っている。
この人との関係はそろそろ十年にもなるはずなのに、俺はそれ以上のことを何も知らない。先生が何をしてきた人なのかも今の状況をどう思っているのかも、名前すら知らない。
にもかかわらず、間違いなく俺がこの世界で一番信用できるのはこの人なのだから俺の交友関係の浅さが伺える。きょうび幼稚園児でももうちょい広いコミュニティ持ってんだろ。先生俺になに教えて来たんだよ。算数とか国語より友達の作り方教えてくれ。
閑話休題。
「分かってる。そもそも前の学校であんな騒ぎ起こしておいて別の学校に通えてるだけありがたい話ですよ。でもさ、それでもせめてあのくそダサい合言葉だけでもなんとかしましょうよ。なんですかミルクのロックって。牛乳に氷入れただけじゃねえか。しかも氷抜きだから結局ただの牛乳だし。帰ってくる度にあれ言うのほんと恥ずかしいんですよ」
誰が考えたのか知らないけどセンスがヤバい。
せめてもっとカッコいい名前のお酒とか合言葉にして欲しいよね。例えば……モヒートとか?ミント味なんでしょ?知ってる知ってる。ゴールデン〇ンバーの曲で言ってたし。
つーかそもそもこんな裏路地の客が来るわけないバーに合言葉とかいらねえんだよなぁ……。顔パスにしろ顔パス。
「それは無理」
「なんでですか?」
「あれボスが考えたから」
先生にしては珍しく陰鬱な表情で答える。たぶん先生的にもあの合言葉はないなって思ってるんだろう。
一方俺はと言うと逆に納得してしまった。
何しろボスというのは俺をモルモットとしてあらゆる薬品やらなにやらぶち込んで人外にしてしまった組織を作った頭の良い狂人共の頭だからだ。
組織の名前は『救世の方舟』。主な活動は超常的な能力を持った人間の製造。平たく言うと『超能力者』を作ること。組織の最終的な目的は製造した超能力者を活かして『世界を救う』こと。
これだけ聞けば連中の頭がおかしいことはよくよく理解していただけたことだろう。ついでに中二病も大概にしろとも思うだろう。
ただ、タチの悪いことに連中は優秀だった。優秀で残忍で狂っていたから数多の非人道的な実験と犠牲者の果てに超能力者を完成させてしまった。それが俺。ありとあらゆる身体能力が人間の枠組みを超えてしまった化け物。車にひかれたら車が壊れるし、殴ってみればコンクリの壁がぶっ壊れる。銃で撃たれたら弾丸がひしゃげるし、そもそも銃弾とか遅すぎて手で掴める。
もっとも俺を作った奴等からすれば俺はあくまで人間の能力の延長線上でしかないらしい。なのですぐに関心をなくして今ではもっとそれらしい超能力者の開発にご執心になっている。例えば指先から火を出したり地面を凍りつかせたり。
っと、話が逸れた。まぁ、要するにあれだ。命とか尊厳とかそういう一切合切を無視して未だに中二病こじらせてる狂人共の頭なんだから、そりゃセンスもイカれてるよねって話。
秘密組織の本拠地に合言葉が必要なのは百歩譲って理解できてもこのセンスは絶対理解できない。学校にゴスロリで来ちゃう奴並みに理解できない。
そういやあいつ色々知ってるぽかったけど大丈夫か?変な奴なのは間違いないけど知り合いが死ぬのはあんまりいい気持ちしないんだけど。
「そう言えばさ、今日クラスメイトの女子に脅迫されたんだけど……」
なんだろうね。ここだけ見ると俺めちゃくちゃいじめられっ子じゃん。てか実際いじめられたし。
これ出るとこでたら勝てるんじゃないだろうか。いや、証拠ないし無理か。なんなら名誉棄損で金どころか命持ってかれそう。
超能力なんて金の前では無力だなぁとかなんとか考えていると、先生が心なしかだらけきった居ずまいを正してこちらを見据える。
「あぁ、君を監視してる連中から話は聞いている。何も問題はないよ。六十六番、君が心配してるようなことにはならない」
「……そう、ですか」
安心院の様子からして何かしらの対策はしてありそうな感じだったけど、この様子を見るにそもそも安心院の命を狙ってすらいなさそう。
秘密主義の組織にしては秘密を知られたのに殺さない選択を取るのは不思議だけどどうせ聞いたところでこれ以上の答えは得られないのだからとりあえず満足しておこう。
と、湧き上がる好奇心に自分の中で折り合いをつけているとカサリと紙と紙がこすれる様な音がした。
視線を向けてみると先生が何やらプリントのような物を机の上に並べている。
目が合うとまるでいたずらっ子のように先生は笑った。
「さ、夜の勉強の時間だ。おっと、『夜の』とは言っても別にエロい勉強じゃないぞ。期待させてごめんな?」
「何日も同じ白衣着てまともに身だしなみの手入れもしてないような女に欲情するほど飢えてないんでむしろ良かったです」
「は? 汚い方が興奮するって言ってただろ?」
「人の発言と性癖勝手に捏造すんのやめろ」
このあとめちゃくちゃ夜の勉強(英語)した。