刺殺願望Ⅰ
手に持った包丁の重みをよく感じる。
緊張、高揚、達成感や幸福感。多くの感情が底の底から膨れ上がってくる。
気分がいい。これほどまで気分のいいことに今の今まで触れなかった過去の自分を叱ってやりたいほどに。
滴る血を眺める。
ああ。
ああ……。
「最高だ」
殺人と聞いて、あなたはどんな光景を想像するだろう。良い想像をする者は少ないだろう。俺もそうだ。赤黒くて生臭い、吐き気をもよおすようなものと今でも感じている。
だが、しかしだ。俺の中で確かにその価値観が少し変わったことは確かなんだ。ただ、何がどう変わったのかと聞かれても、正確に答える自信は正直言ってない。分かるのは、俺が変わったきっかけが、『赤い皮表紙の本』だということだけだ。
その本には、図書館で出会った。
俺は大学のレポート課題の資料を探しに、府内の図書館にいた。暑く煩い八月中頃の昼過ぎ。その日初めての会話は、受付にいた若い女の人なのを覚えている。
「今日も勉強ですか? 」
茶に染めた髪を後ろで束ね、薄い化粧にくりりとした目が印象深い美人さん。
「ええ、大学の課題で。毎日来てると流石に覚えられますよね」
彼女はころりと笑って俺の目を見る。
「お兄さん、目立つんで私たちの間では結構知られてますよ」
「俺がですか? 」
「背は高いし、私たちへの対応も良い。何より顔が整ってる」
「アッハハ、それは嬉しいですね。よければ今度お茶でも行きますか」
「お誘いは嬉しいけれど、私彼氏持ちなんです」
冗談だが、これで乗ってくれたなら、積極的にアプローチしていただろうな。
「それは残念」
ふふっ、と笑う姿がとても可愛らしくて、どうしても見惚れてしまう。
「今日はどんな本を探してますか? 」
その時に俺が大学の教諭から出されていた課題は、どんな本でもいいから、その本の著者を自分なりに分析し、原稿用紙にまとめて提出する、ありていに言ってしまえば読書感想文だ。
「面白い本を探してます。論文でも、小説でも」
俺が言うと、それなら、と立ち上がった彼女は、職員用のロッカールームと思しき扉の向こうから、一冊の本を持ってきた。
「私の私物なんですけど、これ、昔にあった事件の犯人が書いた本なんです。なかなかに良い文を書くんですよ、この人。少しグロテスクな表現はありますが、それが大丈夫だったら結構面白いです。どうですか? 」
「お姉さんの勧めとあらば、受け取らない手はないですね」
「ふふっ。返すのはいつでもいいですよ。あ、月曜日と火曜日は休みなので、それ以外の日に」
「分かりました。とりあえず、中をうろついてきます」
「はい。ごゆっくり」
受付の女の人は、柔らかに笑った。
リュックに本を入れて図書館の中をぶらりと歩く。
最近の図書館は、漫画やライトノベルも置かれている。あまりそういうのを読まなかった俺だが、なかなかに面白いので近頃はそういったものをよく読む。他の図書館は知らないが、ここでは映画を見ることもできる。流石にヘッドホンかイヤホンで音が周りに聞こえないようにするのだが、残念ながらこちらは古い作品ばかりで俺はあまり興味がない。
趣味本のコーナーには料理やカメラ、盆栽の育て方、果ては『上手な部屋の汚し方』などと言う、誰が読むのか分からないような本まで置いてあった。
館内をぐるりと一周したが、めぼしい本が見つからなかったので、今日は帰って、勧められた本を読むことにした。
「それじゃあ、この本、お借りしますね」
帰り際、受付に寄ってお姉さんに一声かけた。お姉さんは軽い会釈を返してくれ、俺が見えなくなるまで見送ってくれた。
図書館を出ると、騒がしい子供達と蝉の声が僅かな不快感を俺に抱かせる。降り注ぐ陽光の矢が肌を焼き、ジワリと汗が湧き出てくる。
十何年か前の大災害の影響で大阪の人口が爆発的に増加した。それを補うように高層マンションが建ち並び、第二のアジアンカオスと呼ばれるようになった大阪だが、摩天楼の森には所々、鉄とコンクリートの代わりに木がそびえる箇所がいくつもある。環境保全だかで、国が所有する土地を『自然区域』と名付け、小さな森ほどの植林を行い図書館や市民プール、公園を造って住民に提供している。
スマートフォンでゲームの攻略サイトを見ながら舗装された道を歩く。夏休みということもあって人(特に子供が)が多いが、あまり往来のない道を歩いているので、ぶつかりそうになることもない。
十分もあるけば、一人暮らしのマンションに着く。
改装されてすぐのエレベーターに乗り込み、『3』と書かれたボタンを押す。一分と待たずに三階に着くと三◯六号室へと吸い込まれるように足を運んだ
一人で住むには広い2LKのマンションは、大学進学を機に親元を離れる俺に与えられたものだ。
教科書やノートの入ったリュックをリビングの適当なところに放り、黒のソファーに腰掛けた。手にはもちろん、図書館のお姉さんに貸してもらった本を持っている。
題名も著者名も書かれていない、赤い皮表紙をめくる。中の紙を数ページめくった時、左のページに、たった一言『私はただ、観たいだけだ』とあった。
そのページをめくると、文字の羅列が現れる。
『 』
まず、この本を書けたことに、書くことを許してくれた我が王に、最大の感謝を贈る。
はじめに問おう。君は人殺しをどう思う。思うというか、どう考える。
嫌悪すべきものだろうか。浅ましい蛮行か、思想の現れか、それとも愉悦の美酒か。
私は人を殺した。何人も殺した。正確に記した方がいいかな。二十三人だ。
彼ら彼女らの顔も名前も、どうやって殺したのかや日時でさえ完全に記憶している。何故なら私は彼ら彼女らが大好きだからに他ならない。憎しみなどの負の感情は一切なかったと断言しよう。
そして、もう一つ言えることがある。
君には、素質がある。
私のこの本を手に取り開いた所まではどのような者でも行い得る。だが、ここまで私の言葉を読み得ているという点において、君はイレギュラーだ。
もう一度言おう。桂木新太、君には素質がある。
俺は目を疑った。
「……なんで俺の名前が」
えも言えぬ恐怖が襲う。
しかし、この時の俺に読み進める手を止めることができなかった。殺人犯の綴る言葉が、まるで俺の体にまとわりつき、行動の一切を操っているように。
ページを、めくる。
『人を殺す第一歩』
俺は最初の章を食い入るように本を読み続けた。
物騒な題で始まった本文はとても、そう、とても、面白かった。
この本を書いた者の名は遠時望。二十三人も殺した殺人犯にしては、聞いたことのない名前で、遠時が人を殺すに至った最も始まりの部分の経緯が、事細かに書かれていた。彼の意見に共感できる部分もあり、否定する部分もあり、読み物として彼の文は一品だった。
『人を殺す第一歩』を読み終える頃には、陽が傾き、左から差す太陽の光が窓越しに見えた。
体感ではほんの数十ページを読んだつもりだったのだが、実際には数百ページにも渡って読み進めていたことに気づく。しかし不思議なことに、ページ数の割に、本自体の読み進んだ厚みはそこまでない。まるで一ページに何ページもの紙が圧縮されているようだった。
「晩飯作るか」
栞を挟んだ本をテーブルに置き、キッチンへと向かう。図書館に行く前に買い出しは済ませておいたので、俺にしては冷蔵庫が潤っている。
タッパーに入ったご飯とベーコン、卵、レタスを取り出して炒める。
三十分と経たずできた一人飯チャーハンをテレビを見ながら胃へと流し込む。
食べ終えた食器を洗い、シャワーを浴びてリビングに戻ると、時間は九時を少し過ぎたくらいだった。
また本を読もうと思ったのだが、その日は強烈な眠気に誘われ、崩れるようにベットへと倒れた。
腹の満ち具合と体の清潔感で、心地良い微睡へ落ちていくのがわかった。
わずかに覚醒した意識は、暗闇の中に浮いていた。ここが夢なのだと、どこか頭の奥の方で理解できる。
「やあ、桂木君」
見たことのない男が微笑みを向けている。俺はテレビの画面を見るように一切の反応をしなかった。
「……ああ、そうか。私が許可をしていないから何もできないんだね。すまないすまない。ここでの行動の全てを許可しよう」
そう男が告げると、浮遊するような感覚から急な重力を感じ、何もない真っ暗な足元に膝をつく。
「ぬぁああ! 」
微睡みの意識を無理矢理に起こされ、思わぬ声が出て少し驚く。
「驚かせたようですまない。本当に思っているよ? だから君に制限をかけていないのだから」
「え……えっと」
「あっはっはっは。そうだね。何もわかっていないのだからね。説明をしよう」
男はどこからか現れた木製の椅子に腰掛け、俺にも同じような椅子に座るよう促した。何が何だかわからなかった俺は、言われるがまま椅子に腰掛ける。使い込まれたような椅子は座るとギリシと鳴いた。
「私は遠時望。君は桂木新太君だね? 」
俺はただ首を縦に振った。
「ええっと、あの、これはどういう状況……ですか? 」
「敬語はいいよ。平たく言えば、ここは夢の中、君の夢に私がお邪魔しているって感じだ」
遠時は柔らかな笑みを崩さず答える。その所作からは殺人犯の空気は感じられない。
「はあ……」
「なぜこんなことができるのか、という問いには、今は答えないから、そこは頼むよ。だが最後に話すと約束しよう」
何故と言うか何と言うか、よくできた夢だ。本を読んだイメージから男の顔立ちや体格を想像して、夢でその人物を再現するとは。俺の想像力は豊からしい。
「それと、これは一番大事なことなんだが、ここは現実とさほど差異の無い場所だ。夢とはいえね。君が望めばいつでも私に会える。代わりに、ここでのことは全て現実の君にフィードバックされる。注意することだ」
設定としてはなかなかのものだな。
「はあ……。それで、えっと、遠時……は何故俺の夢の中に? 」
「君に素質があるからだよ」
「素質? 」
「ああ。人を殺す、そういう素質だ」
遠時は不敵に笑うと、こう続けた。
「私は君に私の殺しを教える。それを経て君がどう変わるのか、それに興味がある。そして、そうすることが私の望みを叶える近道なのさ」
「殺しを教える? 」
「ああ。『殺人メソッド』と言ったところかな」
初対面の相手でも分かるほど機嫌良く遠時は笑う。
「今日は挨拶をしたかっただけだ。目が覚めて、君がどう思うかは分からないが、その感情を経て、私に会うかどうかを決めればいい」
椅子から立ち上がると、またどこからか現れた木製のドアを開た。
「ここから帰るといい。私には望めば会える。君にとっての私とは、そういう存在だ」
そう言い残して、遠時はドアの中に消えていった。
真っ暗な空間に残された俺が言われた通り帰ろうとすると、テーブルの上に本があった。
『赤い皮表紙』の本だ。
まるで持って帰れと言われているようなそれを手に取り、俺は、ドアを開けた。