非常勤講師、雨守。
「酷いと思わない? あめもり先生ッ! 武藤先生が怖いからって、誰もなんにも言えないなんてさ」
十二月に入ったばかりの水曜の放課後、木造旧校舎一階の片隅にある美術準備室。キャンバスに走らせていた木炭を脇の小さなテーブルに置くと、俺は目だけ声の主に向けた。
「お前も、だろ? 浅野」
美術部二年生の浅野留美が、への字に曲げた唇をかむ。
「だって武藤先生に睨まれたら、進学危なくなるっていうし」
そして口を尖らせたまま、栗色ショートの前髪の間から覗く瞳を窓の外へと向けた。いまにも今年初めての雪が降り出しそうな空だ。木製の窓枠が、時折風にカタカタと鳴っている。
浅野は俺のデッサンを邪魔するように彫像モデルの前に陣取っていた。前後反対向きにした椅子をまたぎ、背もたれに頬杖をつくと今度は天井を睨んだ。こいつは普段から「セーラー服の下はスパッツだから平気だもん」などとほざいて、同じ姿勢で俺の目の前に座る。
ただ今日は、様子が違う。年末の高校生絵画展の出品も近いというのに、浅野は作品制作が全く手につかないのだ。
「留美ちゃん、はしたないわよ? ほら、足を閉じて」
浅野の隣に立つ三つ編みおさげの深田薫が、鼻の上の黒縁眼鏡を右の薬指で持ち上げながらたしなめる。浅野は不貞腐れながら座りなおすと、左手に持った箱からポッキーを四、五本まとめて無造作に口に突っ込んだ。
「そりゃあ超がつく難関校に毎年何人も進学させてきたって先生だから、とっても偉いんだろうけどさ」
浅野の態度に深田はさらに頬を赤く染め、俺と交互に見ながらおろおろする。
「留美ちゃんたら、お菓子を口にしたまま話したりして……確かに他の先生方も、武藤先生にはペコペコしていますしね」
武藤というのは、県下では進学校と呼ばれ、教師が七十人もいるこのマンモス校でその名を知らない生徒はいないベテラン教師だ。生徒に対してだけではなく同僚にも厳しい態度で接する、いわばこの学校のご意見番だ。
俺はとっくに無駄になっていた下描きをついに諦めた。そして二人に顔を向けた。
「偉いんじゃないの? 俺にはそんな真似、できないがな」
「だって雨守先生は非常勤講師だし。進学に関係ない教科だし。しょうがないよ」
失礼なんだよな。浅野はいつも。
確かに非常勤講師の俺は、授業のある日しか学校に来ない。授業さえしていればいい教員だし、進学指導や生活指導といった校務分掌にも関係がない。勤務日ではない先週末のその一件については、浅野から聞くのが初めてだった。その浅野にしたって、ようやく今日になって俺に『ここ数日抱えていた不安』を口にしたところなのだが……。
「留美ちゃん、そんなことを言うものじゃないわ。雨守先生は……」
言いかけた深田の言葉に被せるように、浅野は目を見開くと一段と大きな声を上げ、ポッキーの欠片を口から飛び散らかした。
「でも変でしょ? 真面目な久美子が武藤先生にあんなに怒られる理由なんてないもの」
奥原久美子は浅野の同級生、二人は幼馴染だ。今までもなにかにつけ、二人で助け合ってきた。その奥原が学校に来なくなった。
そのきっかけは先週金曜の昼休み。突然武藤がホームルーム教室に乗り込んできて「あなた達は全員だらがしない!」と、その場にいたクラス全員に向かって怒鳴りつけたことに始まる。武藤を追いかけるように泣きながら教室に飛び込んできた奥原にも罵声を叩きつけると、武藤は乱暴に戸を閉めて教室から去っていった。その勢いではめ込まれていたガラスが割れたらしい。
確かに浅野の言うとおり、なぜ武藤が激しく怒っていたのか、誰にもわからないままなのだ。
「その直後、留美ちゃんが呼び止めるのも聞かず、奥原さんは学校を飛び出してしまって」
すると浅野はふくれッ面つらを一変させた。
「それより雨守先生、どうしよう? 久美子、学校に来なくなっちゃったばかりか、返事もくれないんだよ?」
そう言って俺の目の前に突き出したスマホを胸に押し当てると、震える声を絞り出す。
「私になんにも言ってくれないなんて初めてだよ。このままじゃ、嫌だよ!」
「俺にどうしろって言うんだ? 一番仲がいいお前にさえ何も話さないのに」
「私達の話、雨守先生よく聞いてくれるじゃん。きっと久美子、雨守先生になら事情を話せるはずだよ。だって久美子、雨守先生のこと尊敬してるし!」
浅野はともかく、奥原は確かに俺の指導には素直な生徒だ。
「お前らがいつも勝手にしゃべるから、ただ聞いてるだけだ。俺は尊敬されるような人間じゃない」
瞬きもせず俺を睨む浅野の隣で、深田は首を振った。
「いいえ、雨守先生は他の先生方とは違いますもの。私もお願いいたします」
窓外に俺が目をそらせたその時、ガタン、と椅子が響いた。
「もう雨守先生なんか知らない!『放課後の幽霊』に殺されちゃえばいいんだ!」
床に置いたカバンを乱暴につかむと、浅野は準備室の戸を開け放って走り去っていった。深田は目を伏せ一礼すると、すぐその後を追っていった。急に冷たい空気が廊下から準備室に流れ込んでくる。仕方なしに自分で戸を閉める。
ふん……『放課後の幽霊』ね。どこの学校にも、よくある噂。この学校の場合、放課後になると旧校舎に幽霊が出る、そんなつまらない噂だ。浅野が煮え切らない態度の俺に腹を立てるのも無理はない。だけど、あんな言い方したら気の毒じゃないか。お前が生まれた時から、ずっとお前に寄り添い、お前を守っている深田に。
深田はもう何十年も前に死んだ女学生だ。この街にも前の戦争で爆撃があったらしい。世間一般には「守護霊」と呼ばれる存在だ。だが彼らは実のところ、先祖というわけでもないし、直接何かをするというものでもない。それに守護霊は誰にでも憑いているとは限らない。
俺にもそんな霊など憑いてはいないが。
準備室の、これもほぼ浅野に占領されていた電気ストーブの電源を落とすと、隣の美術室に通じるドアを開け、そこでキャンバスに向かっていた女生徒の背中に声をかけた。
「なぁ、後代。俺、先に帰るよ」
美術部三年生、後代縁は手を休めると、制服の中ほどまである黒髪を静かに揺らしながら振り向いた。
「はい、後は任せてください。雨守先生」
「いつもすまんな」
「いえ。でも、今日は一段と激しかったですね、浅野さん。無理もないけど」
「ああ。騒がせて邪魔したな」
顔をしかめた俺に、後代は大きく澄んだ瞳を、まっすぐ向ける。
「筒抜けでしたから。でも雨守先生はこれから奥原さんのところに?」
「後代には敵わないな。だがそれを浅野に言ったら一緒に行くだのなんだの、うるさいからな」
「うーん、確かにそうですね。悪気はないだろうけど、奥原さんが余計に参っちゃいそう」
「だろ?」
後代も苦笑したが、すぐに真顔になった。
「雪になりそうです。気を付けてくださいね」
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俺は美術室を後にした。
「よく頑張るな。後代は」
あいつの絵を見るたびに、ため息をつく。後代の才能は高校生としては群を抜いていた。きっと俺と違って愛される画家に……。と、その時、背中に声をかけられた。長い廊下の中ほどで俺は足を止めた。
「あ、あまもり先生」
それは、いつもならとっくに誰もいなくなっているはずの教室からだ。振り向くと、その戸口に立っていたのは国語科教師の比留間だった。俺より年上、温厚そうだが、ただでさえ肩を押されたら簡単によろけそうなほど痩せているのに、薄暗がりの中だからか、顔色が更に青白く感じられる。しかし、話などしたこともない俺をわざわざ待っていたとは。
「比留間先生。私は『あめもり』なんですけどね?」
「あ、こ、これは失礼を」
「別に、かまいません」
非常勤講師は授業のある日、その時間だけ学校に来ていればいい。だから他の教師と直接会うことも稀だったし、実際名前もよく間違えられる。別に不機嫌になったわけではないが、恐縮したままの比留間から次の言葉が出てきそうもないので、俺から先に声をかけた。
「なにか御用ですか?」
「いえ、その……立ち話も、なんですので……」
更に腰を低くした比留間に招かれ、彼が俺を待っていた教室の椅子に、二人だけで向かい会うようにして腰を下ろした。少しして、上目遣いに俺を見上げながら背中を丸めた比留間は話し出した。
「あの。奥原さんのことですが……その、どんな様子かと……」
「奥原? ああ、そう言えばここんところ、授業も部活も来てませんね」
奥原が学校に来なくなった事情を知るようなら、何か聞き出せるかも知れない。だからまるで今初めて気がついたように、俺は天井を見上げた。
「そんな……。美術部にも顔を出していないんですか」
比留間はうなだれて黙り込んでしまった。
「なにかあったんですか? 比留間先生」
比留間は聞き取れないような小さな声で話し始めた。
「実は先週、奥原さんはうちの科主任の武藤先生に、クラスメイトの前で理不尽な、とても酷いことを言われたようなんです。きっと奥原さんは傷ついたままじゃないかと、それが気になって」
「なぜ、奥原は怒られたんですか?」
「それは、私にもよく…」
比留間はまた床に目を落とす。
「でも万が一、奥原さんが不登校になってしまっては良くないと、私は学校長にも対応を伺いましたが」
比留間は目まぐるしく視線を動かす。
「武藤先生を怒らせるような態度をとったであろう奥原さんにも非があることは否めない、という考え方のようで、なんとも…」
学校長がとりあえず日和見になるのは何処の学校も大差はない。だが奥原が反抗的な態度を示すとは考えられない。比留間はどこか床の一点を見つめて続ける。
「奥原さんが……あ、いえ、生徒が傷つくようなことは、決してよくないことです。このまま彼女が学校に来られないだけでなく、もしも……」
「もしも?」
言い淀んだ比留間だが、やがて意を決したように顔を上げ、再び口を開いた。ただ、一段トーンを落とした声で。
「武藤先生の噂ですよ。雨守先生もご存知でしょう? 六年前とまた同じことになってしまっては、取り返しがつかないじゃないですか?!」
また噂か。
六年前、武藤が進路指導で成績についてきつく叱った生徒が、プレッシャーのあまり自殺してしまったのだ、とかなんとか。教師の間では話題にするのもタブーとされ、一方で生徒の間では『放課後の幽霊』として伝わっている、あの噂だ。
「噂は知りませんが、確かに心配ですよね。とりあえず、これから奥原の家、訪問してみますよ」
比留間は初めて頬をほころばせた。
比留間と別れ、下駄代わりの中古の軽トラを走らせる。遠くからでも俺の車だと、浅野には気づかれてしまう甲高い排気音をまき散らしながら。当然ながら非常勤講師の俺に家庭訪問の義務はない。ましてやこんな時の交通費だって当然支給されるわけがない。
『年末の展覧会が近いし、その作品を仕上げないか?』そんな切り口から、奥原の今の気持ちを聞いてみるか。奥原が話せればの話、だけど。
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閑静な住宅街の一角に、奥原の家はあった。輸入物のレンガを組んだ洒落た塀に囲まれた二階建ての、わりと大きな家。既に一階には明かりがともっている。道路に面した二階の角が奥原久美子の部屋なのだろうと、その暗い窓ガラスを見上げた。さっき、そこのカーテンがかすかに揺れたのだ。
門から更に歩き、落ち着いた風合いのドアの呼び鈴を押した。迎えてくれたのは奥原の母だった。実のところ初対面なので、奥原母はドアチェーンを外さないまま眉を顰めた。そして、俺のつま先から頭までじろじろと見つめ、ぼさぼさの髪のあたりでその視線を固定させていた。
「私、久美子さんの学校で美術部の顧問をしている雨守といいます」
すると奥原母の顔がサッと晴れた。
「まあ、雨守先生でしたの? 娘からよく聞いています。ささ、どうぞ」
奥原母はドアを大きく開けると、俺を招き入れようとしてくれた。
「ここで結構です。久美子さん、欠席続きなもので。年末の展覧会の出品、間に合いそうかなぁと。それだけ聞きに伺いました」
「そう……ですか」
奥原母は、困ったように奥の階段を振り向き見上げた。どうやら部屋にこもったきりか。
「ああ、では、また伺います」
駄目だったと、比留間には言おう。こういうのはすぐにどうこうなるものじゃない……経験からの勘だけど。そして一礼して帰ろうとした時だ。
「待って……ください。雨守先生」
やはり俺が来たことを排気音で気づいていたらしい。薄暗い階段の上からパジャマにカーディガンを羽織った奥原が、ゆっくりゆっくり、階段を下りてきた。
その二段ほど後から、裸足の小さな足がついてくる。膝小僧が見えるような着物姿、おかっぱ頭の少女だ。江戸時代くらいに亡くなったのか、いつもしゃべることもなく、ただ優しく微笑んでいる少女。奥原の守護霊だ。だが今日はやはり、この子も寂しそうな顔をしている。
「展覧会まであとわずかだ。作品、仕上がりそうか?」
俺は普段と同じように話しかけた。長いこと奥原は黙り込んだままだったが、少女が奥原のカーディガンの裾を軽く引くようにして見上げている。すると奥原がぼそぼそと答えた。
「……先生、絵だけ。絵だけ、描きに行ってもいいですか?」
肩まで伸びた髪は、いつもはよく手入れされているのに今日はくしゃくしゃだ。それに前髪に隠れて目はよく見えないが、恐らく泣きはらしていたんだろう。なんとなくだが、目元がずいぶん赤く、肌はかさかさに荒れたように感じられた。
「ああ、いいよ。放課後を見計らって裏の通用門から直接美術室に入ればいい。鍵は開けておく」
「ありがとうございます」
言い終えると奥原は目元を抑えもせず、ボロボロと涙をこぼした。床に、大きな滴がいくつも、いくつも続けて落ちた。
「寒くなってきたからな。あったかい格好で来な」
「はい」
小さな声だったが、奥原はしっかりと答えた。そんな娘に向かって、驚いたように目を見開き、震える両手で口元を覆い立ち尽くしている母親に改めて一礼し、俺は奥原の家を後にした。
やはり降り出したか。後代の言ったとおりだ。通りに戻ると、軽トラを雪がうっすらと覆っていた。
「あの、雨守先生!」
ドアノブに手をかけた時だ。慌てたように奥原母が追いかけてきた。
「なんでしょう?」
息を切らし、奥原母は言う。
「娘が大好きだった学校にもいけなくなって、どうしたらいいのか、主人も私も分からなくなっていたんです。あの子が自分から何かしたいなんて言ったのは、こんなことがあってから初めてで。雨守先生、どうか、娘をお助けください!」
俺を見つめるその目は、なにかにすがるようだった。
「助けるも何も、絵が描きたいって、まずはそこからですよ」
奥原母はその目に涙を浮かべ、周囲もはばからず叫ぶように続ける。
「もちろん、それだけでも嬉しいんです。武藤先生とのことは、娘にも落ち度があったと言われると、もうなんとも言えません。主人も私も、誰を責める、というつもりはないんです。ただ娘が、以前のように明るくなってくれさえすれば! 娘が信頼しているのは雨守先生だけです。先生だけが頼りなんです!!」
「……私はただの非常勤講師ですから。」
軽く一礼だけしてゆっくりと走り出した。バックミラーには、傘もささずにずっとこっちを見つめ、だんだん小さくなっていく奥原母の姿だけがあった。
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翌日、登校した俺を待っていたかのように、比留間は美術準備室の前にいた。
「あの……奥原さんに会えましたか?」
「会うには会えましたよ」
「それで、その、学校に来れなくなった原因は、やはり、武藤先生だと?」
「いや、そんなことは一言も」
どうやら期待外れの答えに、比留間は口を開けたままになっていた。
「比留間先生は『武藤先生の暴言で傷ついたから』って奥原に言って欲しかったんですか?」
すると比留間は肩をこわばらせ、一言一言、力を込めた。
「だって、一番の被害者ですよ? 武藤先生に責任をとってもらうにはそれしか!」
「責任って、どう責任を?」
「や! 辞めてもらうんですよ! 学校を!」
怒鳴りだした比留間の態度に、俺は反比例するように冷めていった。
「原因もわからないのに、ですか?」
「そんなの、傷つけられたって証言だけで十分じゃないですか!」
暴論と言えば暴論だ。
「あのさ、比留間先生。学校に来られなくなるほどの暴言を吐かれて傷ついている子が、学校で一番偉いって言われてる先生のこと、そんなふうに訴えられると思う?!」
比留間は、失望したと言わんばかりの目を向けてきた。そして黙り込んだまま、ふらふらと去っていった。あの様子で、今日は授業をするつもりなのだろうか。
それにしても何が原因で武藤は奥原を怒ったというのか。奥原自身が口にするのは今は無理だ。そんなこともわからない比留間や他の教師もあてにはならないが……聞いて回るしかない。
この学校は教科毎、校内に「○○科研究室」という名の職員室が分散している。午前中に俺の授業は全て終わっていたから、放課後までのあいた時間で、めぼしい研究室を回ることにした。
奥原の担任、数学科の田代はアニメキャラクターのフィギュアを職場の机上に並べているような男だ。自分の興味以外のことには関心がないのだろう。だが彼は何故か前のめりに答えてくれた。
それによると国語係の奥原はその日、成績判定に関わるクラス全員の提出物を、昼休みに国語科研究室へと運んだ。その時、たまたま国語研究室の前を通り過ぎた田代は、中から「提出日はとっくに過ぎている」という武藤の怒鳴り声を聞いた。飛び出してきた武藤がホームルーム教室に向かっていき……あとは昨日浅野から聞いたとおりだった。
「ただねぇ、奥原は比留間先生から指示された日に提出に行ったんですよねぇ」
肩をすくめながら田代は付け加えた。それじゃあ奥原には何の罪もないどころか、単純に比留間の連絡ミスじゃないか。だからあいつ、所々言葉を濁していたのか。
「そもそも比留間先生は、普段から武藤先生に睨まれていたんですよぉ」
田代は何かのプリントの裏に登場人物の相関図まで書きだした。
比留間は武藤から「授業がつまらない」「進学指導の実績が何一つない」と、いわゆるパワハラ、アカハラを受けているらしい。田代と比留間はここに赴任したばかりの時、それぞれ研究授業をやらされたそうだが、その時、感想でもないただの嫌味を武藤が比留間にぐちぐちと吐き捨てていたのを、同席した田代も聞いた。その時は流石に気分が悪くなったそうだ。
「いやぁ、僕は教科が違って助かりましたけどねぇ」
それ以来、比留間は研究室に自分のデスクがあるにも関わらず、いたたまれなさから図書館をはじめ、誰もいない会議室や、体育などで生徒がいなくなった教室にその居場所を求めていたという。そんな比留間だから、武藤が教科会で提案した課題提出日の変更など、知っていたはずがないのだ。
そうとは知らず奥原は、比留間に指示された日に提出物を国語科研究室に持っていってしまった。運悪くそこには武藤しかいなかった。
武藤にしてみれば普段バカにしている比留間の名を出されたから尚更怒りが増したのではないか、と田代は言う。これで原因はわかったが、あまりにも酷い話だ。さらに内緒話をするように田代は俺に顔を近づける。ちょっと嫌だな。
「比留間先生、あの日も奥原が帰っちゃったあと、武藤先生に怒鳴られてすっかり滅入っちゃったんでしょうねぇ。ずっと休んでるそうですよ。ああ、いや、勿論とばっちり食らった奥原も可哀想ですがねぇ」
比留間、あいつまで休んでいたとは。
にやけ面をやめない田代は、むしろ奥原の担任である自分がこの騒動に巻き込まれたことを迷惑がっていた。そんな田代だから「昨日俺が奥原と会った」と知るや、己の肩の荷が下りたと早々に安堵したのだろう。道理でぺらぺらと事情を説明してくれたわけだ。
田代と別れた後、放課後までの間に数人の教師から廊下やトイレの一角で「奥原に会ったんですってね」「先生も大変ですね」などと、同情するような顔つきで、ささやくように声をかけられた。これもどうやら田代がぺらぺらと吹聴したからなのだろう。
誰も彼も武藤を恐れ、奥原が学校に来られなくなったことに対応しようともしないのに、「教師が生徒を不登校に追いやっている事実」という、学校にとってはあるまじき息苦しい状況から、自分だけは抜け出したいと考えているのだろう。
教師なんて連中は、自分が正しく、間違ってなどいないと考えているような奴ばかりだ。
だから守る必要がないと判断されてるのか、あるいは見放されてるのか。守護霊が憑いている人間とは、一人も合わないまま、放課後を迎えた。
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そしてまた一人、守護霊の憑いていない人間が、向こうから俺を訪ねてきた。武藤、本人だ。
彼女は戸を勢いよく開け放つと、準備室の戸口に腕を組んで仁王立ちになった。こざっぱりしたグレーのスーツ。それと同色の綺麗に整えられた髪。そして眼光鋭い切れ長の目。
キャンバスの前に座った俺を見下ろすように顎を上げると、その目を細めた。
「あなた。わざわざ生徒の家にまで行ったんですって?」
「展覧会の出品票を渡しに行っただけですよ」
俺は立ち上がりもせず、腰かけたまま答えた。
「それはご苦労様。ところで……あなた、聞いているんでしょう?」
「何をですか?」
武藤は組んでいた腕を解くと、本棚に並ぶ絵画の写真集を引っ張り出し、見るともなくパラパラとめくる。
「あら? しらばっくれて。私が生徒を追い詰めて、学校に来られなくしたって噂よ」
「そんな噂があるんですか。それとも、それは事実なんですか?」
俺の問いに、「パン!」と武藤は写真集を閉じた。そして俺を睨みつけると、さっきまでの落ち着いたトーンではなく、吐き捨てるように怒鳴りだした。
「事実無根よ! 少し叱ったくらいでなによ! 私こそ、いい迷惑よ! そもそも原因は全て比留間先生にあるんですからねッ!!」
「そもそもそういった事情を、私は知らないんですがね」
本当は既に田代から聞いていたけど。武藤は奥原が学校に来られなくなった原因はあくまで自分にはない、と考えているらしい。少し深呼吸すると、大物を自負するかのように落ち着きはらった風を装いながら笑みを浮かべた。
「ああ、そうね。あなた自分の授業以外、学校にいないんですものね。きっと誰もあなたに正しい情報を入れてくれないのでしょう? 『昼間の幽霊』だったわね、あなたの仇名。独り言が多くて気味が悪いって、生徒に噂されているのをご存知?」
「武藤先生が噂を楽しむような方だとは、知りませんでしたが」
その言葉に武藤はむっとしたらしい。
「も、もちろん私は噂など相手にしないわよ、失礼ね」
そう吐き捨てると、また威厳を保とうとしながら静かに続ける。
「とにかく。あの子と話ができる教師が今はあなただけ、ということらしいけど。誰も情報をくれない、気味悪がられている、そんなあなたに勝手に不登校になった生徒が救えるのかしら? よく分をわきまえて、根も葉もない噂にあまり鼻を突っ込まないのが賢明よねえ」
本棚に写真集を戻し、武藤は鼻で「ふん」と笑うと、準備室の戸を閉めもせず出て行った。
すると俺の背後、準備室と教室の間の半開きになったドアごしに、後代が顔を覗かせた。
「ひどいわ。雨守先生にまで、あんなことを」
後代は表情は冷静だが、怒りを込めて低く唸った。
「俺が嗅ぎ回ってると、取り入った奴がいるんだろう。それで探りを入れにきたんだろうな」
「奥原さんの気持ちはおざなりで。本当に醜いわ。あの人」
「ああ、鏡を見せてやりたいな」
「それは名案ですね」
後代は片方の口元を上げると、先に美術教室に戻りキャンバスに向かった。
「すまん後代。教室のストーブ、点けるよ」
「はい」
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それから二人、それぞれキャンバスに向かった。
今更後代に教えることなどないと思うのだが、時折後代は俺のキャンバスを覗きながら頷いたり、質問したり。いつもと変わらないそんなやり取りをしながら、小一時間もした頃だろうか。
普段着のままの奥原が、教室からすぐ外に出られる引き戸を静かに開けて入ってきた(美術室というのは、大きな画材を出し入れするため、たいていの学校では校舎の一階にあり、直接外に出入りできるような構造になっていることが多い)。
奥原の後ろについていきた守護霊の少女も、今日は少し安心したのだろうか、俺を見るなりいつものようににっこり笑う。教室はすでに、ほぼ暖まっていた。
「ここに用意しておいたぞ。奥原」
「ありがとうございます」
奥原はうつむいたまま、こくんと小さく頭を下げ、俺が指さした椅子にこしかけた。少女も奥原と背中合わせになるように、床に体育座りのようなかっこうで腰を下ろす。俺は奥原から少し離れた場所へと、少女に手招きした。すぐに少女は小走りにかけてくる。
「これで落書きでもしてな」
しゃがんで少女にそっと囁くと、にこっと笑って俺からクレヨンと画用紙を受け取り、床に画用紙を広げた。
少女は霊としては珍しく、物体を「持ち」「動かすことができる」。もっとも彼女は特にそれを意識もしていないのだろうが。でも普通に傍から見れば、クレヨンが宙を動いてる怪奇現象にしか見えないから、こんなふうに俺はいつも奥原達からは見えない場所に少女を呼んでいる。
何やら描き始めた少女の頭を撫でる。実際に触れるということは俺にもできないが、掌に風がふわっと起こるような感触はある。立ち上がりながら今度は背中を丸めたままの奥原に声をかけた。
「ブランクがあるからな。下手くそになってるはずだ。あまり気負わず描けばいい」
知らない人が聞いたら嫌味にしか聞こえないだろうが、一日でも間をあけると絵を描く腕が鈍る、というのは事実だ。だからか、奥原はゆっくり振り向くと、小さく微笑んで見せた。
「はい」
今日のところは家を出て、ここまで来られたことが奥原にとっては大きな変化だ。まずはそれでいい。自尊心を粉々に砕かれたんだ。それを取り戻すには、時間がかかるのが当然だ。だから俺からは特に何を話すこともせず一人準備室に戻ると、ただじっと、小さな電気ストーブに手をかざしていた。
すっかり暗くなり、二時間もした頃か。奥原が静かに、準備室のドアをノックした。
「どうぞ」
中に入り、静かに奥原が口を開く。
「雨守先生。明日も今日みたいに、絵を描くだけに来ても、いいですか?」
「ああ。俺も絵を描くだけに来るから」
「あ! そうでしたね。すみません」
普段よく気のつく奥原だが、金曜は俺が来ない日だということを忘れていたらしい。いや……そこまで気が回らないほど、今の奥原はここに来るだけで精一杯なのに違いない。
「いいよ。気にするな」
安心したように奥原は一度頷くと、目を閉じたまま頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました。なにも聞かずに、いさせてくださって」
「また、明日な」
少女もまた奥原と一緒に、ぺこりとお辞儀をしていた。
********************************
翌日、放課後を待たず昼休みに浅野が準備室にやって来た。
「雨守先生、ごめん。あたし一昨日あんな酷いこと言って。今日、先生が来てる気がして、謝りたくて」
穏やかな目をした深田が静かに頷いた。きっと俺の霊波を感じた深田が、浅野の背中を押したのだろう。
「いいよ。気にするな」
すると浅野は急に涙を浮かべ、手にしていたスマホをぎゅっと握りしめた。
「雨守先生、久美子んち行ってくれたんでしょ? 昨日、やっと久美子が答えてくれたの」
「心配させちゃって、ごめんねって
「まだ、怖くて、皆に会うのも怖くて、学校には行きにくいけど。絵を描きに行けるからって
「時間、ちょっとちょうだいって」
しゃくりあげながら話すから、浅野の言葉は途切れ途切れだった。
「雨守先生、それであたし、考えたんだけど……」
深野も頷きながら浅野の両肩に手を添える。
「あたし、直接会ったらきっとまたムキになって久美子の気持ち乱しちゃうから。雨守先生に、久美子のこと、頼んでもいいか……違う!」
いきなり自分の頬を叩いてなにやら一人突っ込みをすると、浅野は普段のだらしない姿勢ではなく、直立したまま頭を深々と下げて叫んだ。
「雨守先生! 久美子のこと、お願いします!」
「私からも、よろしくお願いいたします」
深田まで。二人して泣きながら頭下げてきたら、まるで俺がいじめてるみたいだ。
「俺にはなにもできないがな」
「そんなこと、ないよ!」
「ご謙遜です」
「もういいから。浅野。お前、顔洗ってから授業に行けよ?」
その日、初めて浅野は素直に俺の言うことを聞いた。そして放課後、浅野は自分の作品制作に安心して取り掛かり、奥原が来るまでには気を遣って先に帰る。そんな風にして次の週にかけ、特になんの変化もなく過ぎていった。
***************************
また金曜日。その日も同じように作品制作を進めた奥原は、帰り際に準備室に顔を出すと、初めて自分から話を始めた。もう涙も流さず一言一言かみしめるように。あの日、何があったのかを。ずっと家にいた時、どんなに不安で惨めな思いになっていたかを。奥原に隠れるように立つ少女は、今までずっとこらえていた涙を両方の袖で拭っていた。
「お前は全然、悪くないよ」
顔を上げてにこやかに笑うと来週からは学校に戻りたいと言い、奥原は準備室を後にした。泣きはらした少女は去り際に、今日までに描き上げた絵を俺に差し出すと、まだ腫れた瞼でにこっと笑って見せた。
二人を見送って美術室のストーブの火を落とした時、後代から俺に話しかけてきた。
「奥原さん、最初はただ泣いているほうが長かったけれど、ずいぶん落ち着いたみたい。今日はだいぶ、筆が進んだようですよ」
「そうか」
「傷ついた心をほぐすのには、時間がかかるもの」
「お前が隣にいてくれたからじゃないのか?」
「いいえ。私だって、かける言葉がないですし」
「だいたい俺だって奥原に、ただ絵を描かせていただけだよ」
「それで十分なんです。居心地がいいって、とても大切なことですよ?」
小さく笑った後代だが、突然、はっとしたように顔を上げた。
「雨守先生、それ、なんですか?」
「ああ、これか?」
さっき少女からもらった画用紙を覗きこむなり、後代は息を飲んだ。
「その絵……!」
その時だ。
出て行ったばかりの奥原の悲鳴が聞こえた。俺は教室から上履きのまま直接表に駆け出した。
「離してッ!!」
裏の通用口の手前あたりで、奥原の声が響く。
「奥原さん! 私はずっと心配していたんだよッ?!」
「いやッ!!」
黒いコートに身を包んだ比留間が、奥原の後ろから抱き着いていた。少女は恐怖に震えていた。
「ぎゃっ!!」
悲鳴を上げたのは比留間だ。俺が比留間の右手首を、背中に向けて捩じり上げたのだ。
「なんの真似だ? 比留間」
比留間は左手で右の肩を抑えながら叫ぶ。
「あ、雨守先生! 奥原さんは学校に来ていたんじゃないですか! ずっと!! どうして私に教えてくれなかったんですか?!」
「なんでこんなお前に教えなきゃならないんだよ?」
更に腕を締め上げる。
「い、痛いッ。は、離せ!」
「話さないからこうなるんだ。正直にな!」
「な、なんだってッ?!」
「お前、自分に都合のいいように話してただろ。嫌いな武藤を辞めさせるために人を利用するなんざぁ虫が良すぎるんだよ。奥原! 大丈夫か?」
奥原は自分の両肩を抱くようにして立ちすくんでいたが、俺の声にはっとしたように顔を向けた。
「はい、大丈夫です雨守先生。父がすぐ迎えに来てくれますから」
「奥原さん! 誤解しないでくれ! 君ならわかるだろう?」
比留間が哀願するようにわめいたが、それは無視だ。
「わかるかよ。奥原、こいつに暴行されたんだ。警察に言え。俺が目撃者だ。」
「なんで?! どうして私が警察にっ?」
喚き続ける比留間の脇腹に、俺は左足を軸にして思い切り右の膝蹴りを入れて黙らせた。ぐふう、と呻いて比留間の体がくの字に折れる。次いで俺は、比留間の体を振り回すように歩いた。そして美術室の戸口に立っていた後代にささやいた。
「すまん、後代。親父さん待つ間、奥原を見ててくれ」
「はい!」
俺は比留間を前に、時々奴の腕を折らんばかりにねじあげながら(正確には折れるより先に肩の関節が外れてしまったが)美術室から隣の準備室に移った。
比留間の膝の裏を蹴って部屋の真ん中に強引に正座させると、右腕をだらりと下げ、痛がりはするものの少しばかり観念したようにうなだれた。
そこに後代が顔を出した。
「奥原さん、今帰りました。お父さんすぐ近くに来ていたようでよかった。だいぶ困惑していたみたいだけど。奥原さん自身は心配ないです」
「すまなかったな」
すると比留間がキッと顔を上げ、俺を睨みつけた。
「謝ればこんな暴力が許されると思っているのかッ?」
お前に謝ったわけじゃないが。こういう奴ってどうして皆こう被害者ヅラなのかな。
「あんたが奥原に振るったことは、暴力とは言わないのか?」
「だから私は彼女が心配だったからッ!」
「違うだろ? 自分の心配をしていただけだろ?」
「え?」
「奥原が武藤に罵倒されたことを自分のミスのせいだと思われていないか……いや、それで自分が嫌われていないか、そっちが気になっていたんだろ? 心配だとか抜かして嫌がる女生徒に抱き着いて。ストーカーそのものじゃないか」
「違う! 私はストーカーなんかじゃ」
「これでも違うと言えるのか?」
俺はさっき、比留間のコートから抜き取ったスマートフォンをかざした。
「え?! いつの間に私の! 返せ!!」
「潔白ならこの中に、奥原の写真なんて入っていないよな?」
比留間は目を見開いたまま、硬直した。入ってるんだ……。
「おいおい、人の噂は口にするくせに、自分が生徒から何を言われているのかは知らなかったのか?」
「なんだって?」
比留間はまだ茫然としている。
「あんた、普段黒板しか見ないで授業してるんだろ? 人間相手に授業しろよ。美術のような実技科目ってのは、生徒の本音もよく見聞きできるのさ。あんたがお気に入りの女子生徒、つまり奥原を隠し撮りしてるって噂、結構前からあるんだぜ?」
わなわなと体を震わせ、比留間はギロリと俺を睨み付けた。
「お、お前なんかに……お前なんかに私の気持ちがわかるものかッ! 彼女だけはいつも私の話を聞いてくれたんだ!!」
比留間は俺のキャンバスがかかったイーゼルにパレットナイフを見つけると、それを左手で掴み大きく振り上げた。その一瞬、俺はその比留間の懐に飛び込むと、回転を加えた拳を鳩尾に遠慮なく叩きこんだ。
「お、ぼぁえッ……」
おかしな音を口から発し、よだれを床に垂らしながら、比留間は腹を押さえて崩れ折れる。
「勘違いだ。奥原はただ生徒として、国語係として、教師のあんたの指示を聞いていただけなんだよ」
俺の言葉はもう比留間には聞こえてないか。ああ、くそ。よだれというか、唾液って、後で匂うんだよな。汚いけど、すぐ拭かないと。気を失った比留間の傍らにしゃがみ、そのコートで床をごしごしと拭きだした。ついでに外した肩を、ゴクンッという音とともに嵌めなおしてやってっ……と。
すると一部始終を見つめていたらしい後代は、こんな間抜けな場面に呆れたというより、むしろ心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「雨守先生、右の頬、切れてますよ。大丈夫?」
毛恥ずかしかったのだが、純粋に傷を心配されていた。
「かすり傷……と言いたいが、こういうのが結構痛いんだよな、くそ。後代、すまん。警察を呼ぶよ」
*************************
警察が比留間を連れて行き、俺への聴取も終えて、あたりもとっぷりと暗くなった頃。電話しておいた校長と教頭がやってくるのを俺は待っていた。
「雨守先生、事情は伺いましたが警察に連絡する前に一言……」
開口一番、教頭が校長の顔色を伺いながら言う。俺は憮然としたまま答えた。
「世間体、ですか?」
シラケた態度の俺に教頭はまだ唇を震わせていたが、校長は既に腹を決めているようだった。
「早ければ今夜のうちには報道されるでしょう。教頭先生は、すぐ先生方にメールを。休日ですが明日の朝、緊急職員連絡会を開きますと」
「し、しかし、校長!」
「ここは、雨守先生と私、二人で話をさせてください。いいですね?」
「は、はい」
校長の強い口調に促された教頭は、何度も俺達を振り返りながら、しぶしぶ準備室を出て行った。それを待って校長は口を開く。
「ここに来るすぐ前に、奥原さんの父親から強い抗議の電話がありました。襲われたことについて彼を訴えるそうです。学校も。」
言いながら、校長は眉間にしわを寄せた。
「そりゃ、助かった」
俺の言葉に、校長は一瞬怪訝そうな顔をした。
「彼を訴えるのは私への傷害だけでも良かったんですが。実は私もやりすぎたから、過剰防衛で調べられても面倒なので」
そして切られた頬の傷口の大きさを指先で確かめた。まだ血がにじむ。
「でも学校が訴えられるのは当然ですよ。生徒を不登校に追い込んだのは、ここの教師であることは確かです。さらには身の安全を脅かしたんだから」
比留間の場合、日頃武藤から受けていたストレスが原因となって奥原への歪んだ好意につながった、とも言えるだろう。だからと言って……校長は俺の言わんとすることが分かったようだった。
「もちろん許されないことです。比留間君の行為は私の監督不行き届きとしか言いようがない。ただ奥原さんの父親が言うには、不登校の一番のきっかけは、やはり武藤先生から理不尽に暴言を吐かれたことだと。それが一番、苦痛だったそうです」
「そりゃそうでしょう。自分の過失でもないことを、白昼、大勢の生徒の前で罵倒されたんだ。何がなんだか理解もできないまま。奥原自身もそれが辛かったと、今日ようやく自分の口から言えるようになれたんです」
そう。死んでる人間に例えるなら、『浮かばれない』状況だったのだ。沈痛な面持ちの校長に、俺は声をかけた。
「校長。この際、奥原が登校できなくなっていた原因も、比留間に全て背負ってもらってはどうですか?」
「え?」
校長は自分の耳を疑うかのように、顔を上げた。
「実際、奥原も馴れ馴れしい比留間の普段の言動には困っていたようだし。彼の逮捕が公になれば、さらに校長も話を運びやすいでしょう。武藤先生にしても、そういうことになれば責任は全然ないんだし、少しは奥原に悪かったな、という気にもなるんじゃないですか?」
あの女がそんなに素直な人間であるわけがないが。
「なるほど。武藤先生が行き過ぎた点だけでも謝罪してくれれば、奥原さんのご両親も、理解してくれるだろう」
「だからと言って、直接武藤先生と奥原が会うのは、お互い気まずいでしょうからね。武藤先生にお詫びの手紙でも書いてもらって下さい。俺がその手紙を預かって、奥原に渡しますよ」
「ああ、ああ、なるほど。そうして頂けると助かる!」
顔を上げ、どこか安心したような校長から目をそらし、俺は先に準備室を後にした。
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翌週、比留間逮捕の動揺が学校を駆け抜けた放課後。誰もいなくなった旧校舎の冷え切った美術室に、武藤は一人やって来た。安堵の色を浮かべて。
「私なりに振り返って、大人気なかったところもあったかしらね。奥原さんに一言、お詫びの手紙を書いたわ。あなたが届けてくれるんですってね」
「ええ。校長から、そう頼まれました」
「そう、それはご苦労様」
武藤は人差し指と中指の間に挟んだ封筒を、ぴっと俺の目の前に突き出した。武藤は上機嫌のまま、含み笑いを浮かべる。
「形だけのお詫びでも、それが嘘だとしても。子どもを騙すなんて、ちょろいものでしょう? だって私、全然悪くないもの」
俺は受け取ったその手紙を、無言のまま彼女の目の前にかざした。それを二つに、さらに四つに、ゆっくり、ビリビリと破いて見せた。
武藤を怒らせるために。
ひらひらと舞い落ちる紙片がすべて床に届く前に、武藤は叫んだ。
「あなた! 何をするのよッ?!」
「子どもなら手玉に取れるんですか? そんな心のこもっていない謝罪を、誰も見抜けないとでも、まだ思っているんですか?」
「あなたは何を言ッ……」
武藤は、目を見開いたまま言葉を失っていた。今の声は、俺ではなかったことに気づいたから。
そして俺の後ろ、つまり武藤の目の前に、今日はわざと置いた姿見に、自分の背後に佇む後代縁の姿を見たからだ。武藤は慌てて誰もいない背後を振り返り、再び鏡に恐る恐る目を向けると、瞬きも忘れ食い入るように見つめた。
「う、嘘よ……」
恐ろしく低い呻き声を武藤は漏らす。
「武藤先生、わかりますよね? それが誰なのか」
俺の霊能力の一つ。怒りに我を忘れ心に隙のできた相手に、死者の姿を見せている。縁を。
「あ、あれは私のせいじゃないッ!!」
「なんだ、武藤先生。やっぱり身に覚え、あるんじゃないですか」
話しかける俺を焦点の定まらない目で見つめながら、武藤は叫び続ける。
「違うッ! 違う!違う!!違うッ!!!」
縁は一歩一歩、ゆっくり歩み寄る。そして鏡に向かって叫び続ける武藤のすぐ背後に立つと、その耳元に囁いた。
「変わってないですね。六年前、あの日も同じように、あなたはずいぶん私を怒鳴りつけましたよね」
「嘘よっ!」
武藤は髪を振り乱して叫び続ける。
「縁が死んでから、あんたはボロを出さなかった。偶然にも、奥原が同じ目に遭うまではね。あんたが感情を抑えもせず奥原を怒鳴ったのは、提出物の期日が守られなかったせいでも、日ごろバカにしている比留間の名を引き合いに出されたせいでもない。見られたくない現場を、奥原に見られてしまったと思ったからだ。あんたは咄嗟に自分の身を守るために、奥原を追いこんだ。明確な意思を持って、学校に出てこられないほど、奥原の心を傷をつけたんだ。」
「な? 何を言ってるの?! どこにそんな証拠がッ!!」
「証拠がないのが証拠かな。奥原によればあの日、あんたは国語科研究室で接客していたんだってな。だがその日の来校者名簿に、そんな人間の名は記帳されていなかった。つまり、会った証拠を残してはいけない者、だろ?」
俺の言葉に、縁が続ける。
「それが誰だか当ててあげましょうか? 左右の瞳の色がわずかに違う男性…六年前、その人があなたに渡した封筒にもきっと札束が入っていたのよね? 私にそれを見られたと思って、だからあんなに興奮して私に暴言を吐き続けたのよね? 奥原さんに、したように。」
返す言葉を失った武藤は、蒼白になって立ち尽くした。
つまりは、武藤はなにかの業者から賄賂を受けていたということだ。それを教えてくれたのは奥原の守護霊の少女だ。奥原が作品制作を進めている間、クレヨンで少女が描いていたもの。それはスーツで身を包んだ、どこにでもいそうな姿形だったが、瞳の色が左右でわずかに違った男の顔。そして江戸時代に死んだ少女にはわかるはずのない、アラビア数字が書かれたものが束になったものだった。
六年前、縁の件があって以来、武藤はきっと慎重にはなっていたのだろう。だがこの学校で己に意見する者はいなくなったという慢心からか、本当に師走の忙しさでうっかりしたのか、その業者とまた平日の昼日中に堂々と会った。そして奥原も偶然、そこに立ち会ってしまったのだ。
「嘘よ!嘘よ!嘘よ!!」
武藤が両手でふさいだ耳元に、縁はなおもささやき続けた。
「自分の悪事を隠すために人を傷つけることも厭わない。それでよく平気で『先生』だなんて、まだ名乗っていられますね」
「しらない! しらない! しらない!!」
「醜い人……。いっそ、殺してあげましょうか」
縁は細く開いた流し目に妖しい光を宿らせながら、その体を宙に浮かせ、武藤の背後からその頭を胸に抱きかかえるように包み込んだ。そして武藤の頬を指先でゆっくりと撫で上げる。
「ひッ」
短い悲鳴を上げ、武藤は徐々に白目をむくと、口から泡を吹きながら仰向けにその場に倒れた。頭、打ったよな、今。まあ、いいか。
「なんだかあっけなかったな」
俺の声に、縁はふわりと足をおろすと、前髪をかき上げ床に倒れた武藤を見下ろした。
「ちょっと、物足りないです。もっと馬鹿みたいに泣きわめくかと思ったわ。うんとあざ笑ってやろうと、楽しみにしていたのに」
「十分、みっともなかったさ」
「そうですね」
縁は静かに微笑むと、うつむいて目を閉じた。そして再び顔を上げると、また俺に笑ってみせた。
「これで、雨守先生のお仕事は終わり?」
「ああ。お前の気がすんだんならそれでいい。元々俺はそのためだけにこの学校に来たんだと思ってるから。武藤も教師としては終わったよ。人としては……どうかな? でも、そこまでは知らないさ」
「そう。でも、ありがとう、雨守先生。私の気持ちを、聞いてくれて。私を見つけてくれて」
「お前の心まで、分かったようなつもりはないけどな」
「そこがいいんですよ」
縁は満足したように笑顔を輝かせると、穏やかな光に包まれ、やがて音もなく消えていった。
六年前。
縁は別に、武藤に罵倒されて傷ついたから自ら命を絶ったわけではなかった。あんな暴言をいきなり吐かれる覚えはないと、毅然としていたという。
ただ生まれながらに心臓が弱かった縁は、年末の展覧会に出品する絵を仕上げなければと、翌日も始発の電車で登校し、早朝から自分のキャンバスに向かっていた。
だが、とても冷え込んだその朝、偶然、ほんとうに突然、縁の心臓はその鼓動を止めてしまった。尾びれ背びれをつけて、真実に少しもかすってもいない噂だけが流れた。
そして今年のまだ肌寒い四月。俺はここに赴任してすぐ、誰もいなくなった放課後の美術室の隅、一人キャンバスに向かう縁に声をかけた。
「きっといい絵になっただろうな」
「私が……見えるんですか?」
驚いた縁は目を丸くしていた。
「ああ。訳あって俺には死んだ人が見えるし話もできる。場合によっては力になれる。なにがあったか、聞かせてくれないか」
それが俺と縁の出会いだ。
この世に念を残した者は、生まれ変わることもできず、死んだその場から逃れることもできない。縁は、絵を完成させられなかったことが無念だったのだ。武藤に傷つけられて自殺した、そう伝わっていることが不愉快だったのだ。私はあの女に負けたわけではない、と。
だから最初、武藤への復讐が望みか?と尋ねた俺に、縁はしばらくの間、考え込んでから答えた。
「私が死んじゃったのは、別にあの人のせいじゃないし。でも、もし。もしも私のように嫌な目に遭わされた子が出てきた時は……。考えないでもないかな?」
そしてここ数日。奥原が放課後ここに通っていた間、縁は奥原の心に寄り添ってくれていた。守護霊でもないのに。守ってくれる霊が二人になったから、奥原の心の傷も早く癒されたのだろうか。もっとも縁には奥原に憑いている少女は見えていなかった。霊同士はお互いが認識できないらしい。ただ物理的に形になったものは別だ。だから、少女の『絵』に描かれた人物を見た時、縁は声を漏らしたのだ。
「この人、あの時も……」
生きていれば、きっと多くの人に愛される画家になれていただろうに。縁が向かっていた絵を、そっとイーゼルから外す。もともと真っ白だったキャンバスを、俺は棚にしまった。そして電気を消し、俺も美術室を出た。失神した武藤を一人放置したまま。
図太い神経の持ち主だ。風邪くらいひいても、死にはしないだろう。少し、頭を冷やすといい。
*************************
奥原は再び学校に戻った。最初はぎこちないながらも、また笑顔を浅野に見せられるようになっていた。あれから数日の間、武藤は学校を初めて無断欠勤し、突然だが家人をつうじて退職届が出されたらしい。それは比留間逮捕の報道ほど騒がれもせず、学校中に密かに、浮足立つかのように小さなざわめきとなって走り、すぐに消えていった。
そして迎えた終業式。自己都合で退職を申し出た俺は、「離任する先生」として紹介された。生徒達からは「あんな先生いたっけ?」なんて囁く声も上がっていたが、それもいつものことで。
終業式のあと、俺は呼ばれて校長室に足を運んだ。校長は窓の外に舞う雪を眺めながらつぶやいた。
「これは、私の独り言です。」
校長は壁に掲げられたいくつもの歴代校長の肖像を見上げ、静かに続ける。
「武藤先生の疑惑は……前任の校長も悩み続けていました。教科書の採用に関して特定出版社に便宜を図ったり、優秀な生徒の個人情報を大手予備校に流し、見返りを受けていたり、他にも……。だが彼女は巧妙にも、なんの証拠も残してこなかった。しかし、もし事実なら、もし公になれば、教育界の腐敗はまた世間の矢面に立たされる。比留間君のような、一個人の非違行為とはケタが違う問題になる。真面目に教育活動に従事している他の先生達を、また苦しめることになる。生徒らを、ひどく失望させることになってしまう。そうなる前に、なんとかならないか、と」
苦々しい表情のまま目を閉じると、校長は少し、震えるような声になった。
「そんな時です。ある一人の非常勤講師が、どんな学校にもいる教育者として許されざる者を、あるいは未成年だからと法の目をくぐってふてぶてしくのさばる少年らを、人知れず表舞台から葬っている……そんな噂を聞きました。藁にもすがる思いであなたをこの学校に招きましたが……」
校長は振り向くと、今度は俺をまっすぐ見つめた。
「やはり、あの噂は本当だったんですね」
いつの間にか校長の周りに、一人、また一人と霊が姿を現していた。肖像のかつての校長とか、学校関係者たちだろうか。ただ保身のために悪に対して見て見ぬふりをしてきた後悔からか、道連れを求めるだけの悪霊と化そうとしている連中だ。
なにをうんうんと頷いているんだか。満足したような笑みを浮かべる奴までいやがって。
そんな奴らを一通り睨み回すと俺は答えた。
「噂なんてものは知らない。あんたらのために何かしたつもりもない。波風立つのを恐れて何もしなかった卑怯者どもが。やっと成仏できるとでも思ったか? 生憎だったな。」
俺はゆっくりと目の前に両手をかざした。そこに、実体はない直径50㎝ほどの黒い球状のものが出現した。言うなれば小さなブラックホール。あらゆる霊を吸い込み、無へと葬り去る『闇』、俺のもう一つの力だ。
そこに彼らは恐怖に顔をゆがめながら吸い込まれ、瞬く間もなく消えていった。言葉にすれば、あっけなさすぎるものだが。
校長には見えていなかったにしても、今周囲には『気』の激しい乱れがあったことだけははっきりと感じ取ったようだ。そして顔を引きつらせながら、ただ一人、いつまでも周りをきょろきょろと見回している。その視点が定まらないうちに俺は一言だけ告げた。
「校長、目、覚まして下さいよ。」
俺はこの世に未練を残した死者の声に導かれているだけだ。その思いを晴らすべき対象が、その学校にとっては甚だ迷惑な存在だった……いつも、それだけのことだ。
放課後、奥原が浅野とともに挨拶に来た。
「雨守先生! お世話になりました」
いきなり泣くことないのに。四人で。
「何もしてないよ。俺は」
俺に抱きついてきた少女の頭だけ、静かに撫でた。その後、奥原と少女は最後は笑顔になってくれたが、浅野深田コンビはしばらく泣きわめいてうるさかったから、その辺は割愛しておく。
やがて生徒はもちろん、全ての職員も学校を出て日も暮れかけたころ。
展覧会への出品作品、と言っても奥原と浅野の二枚の絵しかないが、雪で濡れないように梱包したそれを軽トラの荷台に乗せると、展示会場へ向かうために運転席のドアを開けて…息をのんだ。
「縁! 成仏したんじゃ、なかったのか?」
助手席にちょこんと座っていた縁は、澄まして答えた。
「雨守先生のお手伝いも、いいかなって」
「あの場所……美術室の縛りから解かれただけか?」
「ええ、まぁ多分。そんなことより雨守先生、いいでしょう?」
やれやれだな。
「次の学校は、きっともっと酷い奴らがいそうだぜ?」
「おつかれさまです」
「憑いてくるお前に、言われたくないよ」
「そうですね」
俺は誰も映っていない助手席をルームミラーに見ながら一度バックすると、隣の縁に眉を上げて呆れてみせた。そしてアクセルを踏み、通りへと軽トラを走らせる。
雪はいつの間にか止んでいた。
縁は楽しそうに、くすくす笑っていた。