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FLATYANHER ~2万年の狂気~  作者: 氷上砂刻
9/9

途中

 ナタリーから経緯を聞いたハリー達は、翌朝早く、フラットヤンハーに向かって出発した。調査隊全滅という一言に、ハリーの全身は、かつて戦場へ出る直前に味わった緊張感を凌駕する「恐れ」に固くなっていた。

ハリーは馬車を飛ばし、半日を待たずしてフラットヤンハーを捕えていた。ブランタンの森の陰から、フラットヤンハーが姿を見せた。ハリーは、睨むようにそれを見た。天気は快晴にもかかわらず、朝の清々しい光の中ですら、その巨大な塔は、まがまがしい漆黒に塗り固められているようだった。

 ハリーは馬車の速度を落とした。フラットヤンハーの前方に広がる風景は、焼け野原という以外になかった。今にも煙が上がりそうな黒い炭の色が広がっていた。その所々に、真っ黒な大小の塊が点在している。馬車や馬、そして、焼け焦げた人であった。

「酷い有り様だね…」

 ボボが、どこか呟くような口調で言った。

「臭いが無いな」

 ハリーは、鼻をひくつかせながら、怪訝な顔で首を捻った。普通漂っているはずの、焦げ臭ささや肉の焦げた悪臭が全く無かった。

「あっ…」

 ハリーは、思い出したように幌の中を振り返り、エリスに「外を見てはいけません」と念を入れて言いつけた。こんなものをエリスが見たら、向こう何年か悪夢にうなされてしまう。

「理由はわからないけど、クサいよりはマシだよ」

 前に向き直ったハリーに、ボボが顎を擦りながら言った。

「それもそうだ」

 ハリーは手綱を打った。フラットヤンハーの外壁に辿り着く。それから、焼死体が見えなくなる塔の反対側に、外壁に沿って馬車を走らせた。

「この辺でいいだろう」

 ハリーは馬車を止め、御者台から降りた。ボボも降り、エリスも飛び降りてきた。ナタリーも降りてきた。足首の傷は酷く、歩くこともままならないが、寝ているつもりもないようだった。

「大きいね」

 エリスが、首が折れそうなくらい上を向いて言った。

「大きいな」

 ハリーは微笑みながら言った。エリスの無邪気さが愛しかった。

「さて、ハリー、で、どうやって屋上に上がるんだい?」

 ハリーは、知るか、と答えたかった。高さ三十メートル。外壁はつるつるで、道具もなく、素手。人間業では不可能だ。魔法で飛べれば話は別だが、できる者は、ここにはいなかった。

「ということはだな」

 ハリーの無言を答えと受け取ったボボは、ちょっと気の毒そうな顔でハリーを見た。

「例のやつでいくしかないな」

 ハリーの眉が寄った。例のやつとは、アトリーのことである。しかしエリスはまだ起きている。

「眠らせよう」

「ふざけるなっ」

「眠るまで待つのか?」

「そりゃそうだ」

「ここで?」

「問題あるか?」

「こっち側も焼け野原にならなければいいけどね」

「ウッ…」

「眠らせよう」

「ふざけるな!」

「他に手は?」

 しるか、とハリーが叫ぼうとしたとき、後ろから声がかかった。少年の声であった。ぎょっとしてハリーが振り返ると、エリスが立ったまま目を閉じていた。

「僕がやる」

「勝手に出てくるな、この野郎!エリスに負担がかかるだろうがっ!」

 ハリーは思わず怒鳴った。エリスの隣にいたナタリーが、びっくりして身を縮めた。

 エリスの身体を借りるアトリーの口元が、少しだけ笑ったような形になった。

「ごめんなさい」

「なっ……!」  ハリーは言葉を失った。驚いた顔で、二、三歩たじろいだ。

 謝りやがった…

「でも、これしかないから。許してほしい。それと、ナタリーさんは連れてはいけない」

 アトリーの話しぶりは、前日に比べて、はるかに流暢だった。良く言えば人間らしかった。しかも、今回は起きているエリスを押し退けて現れた。フラットヤンハーの近さが関係しているのであろう。

 アトリーに手で指されたナタリーは、訳がわからないといった表情のまま、身を固くしていた。ナタリーの顔色は悪く、まるで幽霊のようだった。足も悪い、体力的にも不十分、では足手まといになる。

「こいつの言う通りだ。あんたはここで待っていてくれ」

「え……か、彼女は一体…?」

 呆然としたナタリーの声に、ハリーは思い出した。ナタリーには、アトリーのことや他のことを説明していなかったのだ。

「カレだ。元凶だよ」

 ハリーは、細かい説明を避けるため、断切るように言った。ナタリーは、ハリーが隠している何かに気づいたらしく、表情を激変させた。

「ちょっと待って!」

「いけ、アトリー」

 ハリーの命令に応じて、ハリー、ボボ、アトリー憑きエリスの三人の体が、地面から飛び上がった。地上からは、ナタリーの懇願の叫び声が聞こえてくる。三人は、それを振り切るように上昇し続けた。

「何故、ナタリーさんを連れていくことができないんだい?」

 ボボがアトリーに訊いた。ハリーの考えはわかっても、アトリーがナタリーを止める理由がわからない。

 アトリーは、実に淡々とした口調で答えを返した。

「すぐ死んでしまうから」

 ハリーは、ハッと鼻を鳴らした。

「ご立派。冷淡な判断だな。子供とは思えねぇよ」

 ハリーは嫌みったらしく言ったが、アトリーは表情を動かさず無言だった。

 ハリー達はぐんぐん上昇し、高度はフラットヤンハーの背丈を超えて屋上に出た。巨大な円形の盆のような屋上には、長い年月の間に腰を下ろした苔や背丈の短い植物が生い茂っていた。密林に生えているような植物が高密度で繁殖しているその上を、ハリー達は飛んでいき、ちょうど中心付近の場所に、ゆっくりと降下していった。

 ハリー達の足が「地」に着くやいなや、長方形の箱のような物体が、植物達が造り上げた薄い層を突き破るように、フラットヤンハーの内部から出現する。跳ね上がった土や千切れた植物が、雨の様に降りかかってきた。

「何だってんだ、畜生っ!」

 腕を翳して防ぎながら、ハリーは罵り声を上げた。

「イタッ!」

 二、三発塊を被弾したハリーの隣では、頭に直撃を受けたボボが痛がっていた。エリスのことを思い出して慌てたハリーだったが、アトリーが憑いているせいか、エリスには不思議と土や何やがあたらなかった。一瞬、ハリーの中に、アトリーへの感謝の気持ちが生まれたが、すぐに取り消し、逆に腹を立てていた。

「このガキ、先に言っておけってんだ!」

「ごめんなさい」

 アトリーは、無表情だったが、口調は素直だった。ハリーは、それ以上何も言えず、しかめっ面のまま黙り込んだ。

「いやぁ、まいったね、こりゃ」

 ボボが苦笑しながら、あきれたように言った。顔や服に、小さい土や草の切れ端をくっつけている。

「まったくだぜ」

「わあっ、すごい! どうなってるの!」

 突然、エリスのばかでかい声が鳴り渡った。どうやら、アトリーが引っ込んだらしい。

「なんで、なんで、パパ?」

 エリスは、全然訳がわかってないらしく、目を大きくして騒いだ。どうやら、さっきの記憶が全く無いようである。

 説明しようとして、ハリーはやめた。「エリスの中に、もう一人いてね…」などと言えるわけがない。それに、できるならば、憶えてないほうがいい。事が済んだとき、氷が溶けてなくなるように、跡形もなく全てが消えれば、それに越したことはない。

「あれぇ、エリス、寝てたのかい?」

 かなり無理のある、苦しいごまかし方だった。しかし、それでも、エリスはちょっと困ったような表情を浮かべて、必死に思い出そうとしていた。成功である。

「わかんない…。そうかも…」

「さあ、今から中にはいるぞ」

 すかさず流す。

「うん!」

 エリスは元気良く頷いた。その後、ちょっと首を傾げた。

「パパ、何しにいくの?」  ハリーは口元に微笑を浮かべた。

「忘れ物を取りにさ」

 忘れ物とは何なのか。ハリーの中で答えは決まっていた。ハリーが知らない、エリスの過去だ。ハリーとエリスとの、空白を埋める事実なのだ。

「ハリー、剣はどうしたんだい?」

 不意に、ボボが訝しげに言った。ハリーは、あっと呻きを上げた。

「しまった。下に忘れてきた」

「パパって、忘れっぽいの?」

 エリスのパンチの効いた皮肉に、ハリーのやる気はちょっとだけ削がれた。

「どうしよう」

「無くても一緒だろう。役に立つかどうかわからないし」

 ボボが言った。含みの多い言い方であった。フラットヤンハーの中にいる「敵」に、今時のタダの剣が通用するのかどうか。はっきり言って期待は薄い。なにしろ、古代文明期の魔導施設である。魔法、魔術、魔導器全盛時代の産物に、鉄の剣が効くとは思えない。

「せいぜい、つっかえ棒がわりだな」

「いらないだろう?」

「この中、危ないの?」

 横から、エリスが不安そうに言ってきた。ハリーはエリスの頭に手を置いた。

「少しだけな。でも大丈夫だよ。パパがついてる」

 何が大丈夫なのか、ハリーにもわからない。全く根拠の無い、強がりもいいところであった。それでも言わねばならなかった。エリスが頼りにしているのはハリーであり、エリスはハリーを信じている。無から出発した二人を強固に結びつけるこの信頼に、ハリーは自信と誇りを持っている。この信頼とエリスを守るためなら、ハリーは全てをなげうってもよかった。

「よし。行こう!」

 ハリーは力強く声を発して、長方形の箱に開いている入り口から、中に入っていった。エリスを挟んでボボが乗り込むと、入り口は閉じて明かりがついた。広さは、大人が十五人は乗れるぐらいある。埃もなく、きれいなものだった。一瞬の鎮静のあと、ハリー達は下降感を感じていた。

「下に降りているな」

 確認するように、ハリーは言った。この箱は、屋上と、恐らくフラットヤンハーの中心部とを、上下に繋ぐ移動装置らしい。下降感はごく僅かで、移動速度はそれほど速くはなさそうである。

「パパ…、恐い…」

 急に、エリスがしがみついてきた。ハリーはエリスの肩を抱いた。

「大丈夫。パパも初めて乗った。不安はわかるよ」

「そうじゃないの。恐いのは…、何だか見たことがある気がするの…」

「……大丈夫だ。パパが傍にいる」

 ハリーは抱く手に力を込めた。概視感などという不確かなものではなくて、エリスの記憶が恐怖を呼び起こしているのは明らかだった。この先の短い時間の間に、エリスの記憶は次々と蘇っていくだろう。ハリーは覚悟を決めた。蘇る記憶はエリスを苦しめるだろう。それはハリーをも苦しめる。

 受けてたってやる。エリスを支え、そして、一緒に耐えるのだ。耐えなければ、事実という忘れ物は、取り戻せない。

「大丈夫だ」

 腕の中で見上げてくるエリスの目を優しく見つめて、ハリーは穏やかに、だが力強く言った。

「うん……!」

 エリスはハリーの胸とお腹の中間あたりに顔をぎゅっと埋めた。

「ずいぶん長いな。深いのかな。それとも遅いのかな」

 ボボが言った。

「両方だろう」

 ハリーは、首を捩じってボボに顔を向けた。

「気を抜くなよ。こういう時にはパターンというものがあってな」

「パターン?」

「あっ、エリス知ってる」

 ハリーとボボの顔が、揃ってエリスに向いた

「カミュのお母さんが話してくれたお話の、主人公の少年の名前!」

 二人の注目を浴び、エリスは得意げな笑顔だった。

「へえ、どんなお話なんだい?」

 ボボが和んだ表情になって訊いた。

「エ・リーアハンスの冒険」

「なぁぁぁにぃぃぃ?」

 ハリーは眉をハの字に歪めて唸るような声を上げた。

「あのババア、エリスにあんなクサレ話を……エリス、もうその話は聞いちゃ駄目だ。そんなショタの話…!」

「しょた?」

「ショタ?」

「お前の病気の兄弟分だよ!」

「えぇ?」

「少女を少年に代えてみろ!」

「なっ、い、否! 否ぁぁ!」

「ああっ、またボボさんが発作!」

「エリス、触るんじゃありませんっ。病気がウツル!」

「何の病気なの?」

「心の病気だよ。世の中いろんな人がいるからね」

 ハリーがそう言った時だった。箱の内部の光源の色が白から緑に変わった。それから、誰かの声が聞こえた。その声ははっきりと聞こえてきた。何かの言葉らしかった。しかし、聞いたこともない言葉だった。

「何だこりゃ?」

 ハリーが言った瞬間、緑は赤に変わった。

「どうやら、危険信号のようだよ」

 ボボの声に緊張がみなぎる。ボボの顔は、キリッと引き締まっていた。

 不意に、下降感が弱まった。箱の降下速度が落ちてきているのだ。到着するらしい。

「ボボ、念のためだ。障壁を張れ」

ハリーはエリスにわからないようにさり気なくボボに耳打ちした。

「え、だけど…」

 ハリーはボボにウインクした。魔法を使うのはもちろんハリーだ。エリスにバレないようごまかすのだ。ハリーの表情をみて総てを理解したボボは、ダブルグッドのに構えた。

「OKだ!わかった!」

 神妙な顔をしたボボが嘘っぱちで手を動かした。

「見ていなさい、エリスちゃん。今から魔法を使うよ!」

 赤い光の中で不思議な動きをするボボに、エリスは釘付けだった。その陰で、ハリーはこっそりと呪文を唱えた。黄色がかった薄い光がハリー達を包む。光は濃密さを増していき、3人を包む被膜となった。

「すごーいっ!」

 エリスがバカでかい声を出したと同時に下降感が消えた。箱が停止する。扉が音もなく開いていった。エリスを抱いたハリーとボボは、自然と別れて壁際に寄って身構える。開いた扉の向こうは真暗だった。何も見えない。ハリーは目を凝らした。暗闇の奥に焦点を合わせようと、目を細めた。と、その時、突然暗闇の奥のほうで、何かが爆発したような赤い光が閃いた。ハリーの全身に鳥肌が立った。

「伏せろ!」

 ハリーの叫び声をねじ伏せて空気を引き裂く鋭い音が耳を突いた。何かが高速で飛んで来た。

 ハリーは腕で顔を守りながらエリスを守るように身をよじった。その間にも、腕の隙間からハリーは目を凝らしていた。弓矢よりも速すぎて何なのか確認できないが、飛来した何かを障壁が次々と跳ね飛ばしていく。太古の仕掛けに対して現代の防壁魔法が効果を上げているかと思ったのもつかの間、飛来物幾つかが防壁を突き破った。防壁を貫いたナニカは、血の気が引くような物凄い音をたてて箱の奥の壁に衝突し、気味の悪い金属音を挙げて床に転がった。それが何か確かめようとした時、ボボの悲鳴が上がった

「がはっ!」

「ボボ!」

 飛来したものがボボの腹に突き刺さっていた。それは槍だった。鉄の槍が刺さっていた。槍の表面には何かの文字がびっしりと刻み込まれていた。

 槍の攻撃が突然止んだ。不自然なほどの静寂が訪れた。一転して何の音も聞こえない。生命の存在が、3人以外に全く感じられなかった。ハリーの全身に粘ついた汗が噴いてでた。

 膝をついたボボが唸り声と共に槍を力任せに引き抜いた。ボボの力ある眼光が致命的な傷ではないことをハリーに伝えてきた。防壁のおかげか、ボボの腹を抉った鉄の槍は、はらわたまでは届かなかったようである。

「アバラが折れたかと思ったよ…」

 ハリーの内心に焦燥感が湧き上がった。第二陣の槍が来るかも知れない。一刻も早くここから離れる必要がある。

「ここはヤバイ。逃げるぞ!」

「パパ、恐い!」

「心配するな、エリス。『アンパットちゃんの買い物』でも思い出していなさい!」

 ハリーは頭を抱えているエリスを引っ張り起こし脇に抱え上げた。腹を押さえるボボに手を貸し、箱の中から外に出る。ハリーは小声で呪文を唱えた。ボボが持っている槍の先端が青白く光り始めた。光は月明りのように柔らかかったが、照らし出す範囲は松明よりも広かった。

 青白い光に照らされフラットヤンハーの内部が姿を現した。広い通路であった。壁は滑らかで飾り気は一切無い。戦略的に建設された城の内装のようだった。通路は前方に少し伸びたところで、十字路になっていた。

「壁際へ寄れ!」

 通路の中央は危ない。先程の槍の襲来は侵入者への排除攻撃である。仕掛けられた罠はあれ一つとは限らない。移動中には防壁を張ることもできない現状では、弓矢より速い槍を防ぐ術はない。壁に張り付いて当たらないことを期待する以外になかった。

 ハリーは「急げ、急げ」と連呼しながら、通路を右へ折れた。どこか一息つける場所を見つけだしたかった。しかし、通路を曲がってしばらくして道は跡絶えてしまった。行き止まりへの道を選択してしまったようだ。

「くそっ、ミスった!」

「ハリー、奥の左だ。扉がある!」

 ボボの叫びにハリーは咄嗟に目を凝らした。確かにあった。突き当たりの左側に壁とは異なったものがある。形状からして扉の可能性が高い。

 突然、ハリー達のすぐ近くを何かが風を巻いて通過していった。直後、べしゃべしゃべしゃという激しい音が聞こえてきた。通路の奥の壁にぶつかって弾けた粘液状の何かがへばり付いていた。ハリーの頬がひきつった。何かはわからないが、当たったらまずいことになりそうだった。

 再び風を切る音がして着弾音が鳴った。嫌な湿った音を立てて、粘液上の何かが壁にへばりつく。

 タイミングを図って、ハリー達は左側の扉へと走り寄った。ハリー達は扉の正面に立った。だが、扉は開かなかった。扉ではなかったのか。扉だと思ったのは、ただの模様にすぎなかったのか。

 また、着弾音が聞こえてきた。

「くそったれっ!」

 ハリーはボボを離した手で、模様の真中を殴りつけた。すると、叩いた所が微妙にずれた。模様ではない。やはり扉だったのだ。ハリーは歓喜に声を出しかけて、しかし引っ込めた。

 開かないのは何故だ。壊れてるのか?

 なにしろ、造られてからの年月が半端ではない。大体、壊れてないほうがおかしいのだ。そうだ。そうに違いない。きっと壊れているのだ。なんてこった。まるで(表記不可)じゃないか。あっ…いや、待て待て。それでは困る。こいつの外壁と同様、堅牢健在であってもらわなくては困る。鍵だ。鍵に違いない。鍵が掛かっているに違いない。絶対そうだ!

「無理矢理開けるしかない。ボボォ!」

 ハリーはバチンバチンとウインクした。即座に意図を理解したボボが、右手をぐるぐる回して叫んだ。

「開け、ゴマァ!」

 併せてハリーが、魔法錠の解除魔法を唱えた。だが、扉は開かない。失敗だ。

「もう一度!」

 一度で駄目なら二度試みるまでだ。開くまでやるしかない。

「パパ、煙が出てる!」

 エリスが叫んだ。振り返ったハリーは「げっ!」と呻いた。壁に張り付いた粘液が煙を噴き上げていた。

「毒ガスかよっ、この野郎!」

 念入りすぎるフラットヤンハーの仕掛けに、ハリーの全身を焦燥感と手を繋いだ戦慄が二人三脚で走り回った。

「もう一回だ、ボボ!」

 頷いたボボは激しく腕を振り回し、最後の一回転の後、びしっと扉を指差した。

「開け、このバカタレがぁ!」

 ボボの一喝。すると、見事に扉が開いていった。

「すごいわっ、ボボさん!言葉づかいは悪かったけど!」

 エリスの賞賛に、ボボは痛そうに腹を押さえたままピースサインを出してみせた。

「後褒美はキスがいいな」

「却下だ、バカ野郎!」

 ハリーはボボの肩を引っ掴み、開いた扉の中へと突き飛ばした。その後を追いかけて、ハリーも走り込んだ。ハリーがくぐった後、扉は音も無くピタリと閉まった。

 中は随分と広い部屋だった。テーブルと椅子の組み合わせが、整然と、いくつも並んでいる。青白い光に照らされたその光景は無気味だったが、まともな明かりがあれば、エスタータで見た休憩室のように見えるだろう。

 向かい側の壁に、さっきと同じ形をした扉が見えた。壁の向こうにも、部屋か通路があるようだ。

「……とりあえず、休憩しよう…」

 そう言って、ハリーはエリスを下ろした。ハリーの息は上がっていた。立て続けに使った魔法のせいだった。魔法は体力を使う。ハリーは体力には自信があるのだが、七、八年ぶりに魔法を使うと、さすがに疲れてしまう。しかも、もう一仕事、ボボの怪我を治さなくてはならない。

「ボボ、今のうちに怪我を治せ」

 言いながら、ハリーはボボに歩み寄り、腹の傷に手を当てた。 「魔法でお怪我を治すの?」  ハリーの背後から、エリスが興味津々の声で尋ねてきた。ぎくっとしてハリーが首を回すと、すぐ後ろで、エリスは目をきらきらと輝かせていた。 「エリス、見ちゃ駄目だ」 「えええぇ…、どうしてなのぉ?」  不満たっぷりに、エリスが眉を寄せた。 「あー…、血が一杯出てるから」 「平気よ、それぐらい」 「あっそう、じゃあ見てもいいよ。でも、木苺ジャムが食べられなくなっても、パパは知らないからな。あとは、トマトソースを使った料理もね。そうだな…スパゲッティとか、スープとか。うわぁ、おいしいのになぁ」 「エリス、見ない!」  エリスは大きな声でそう言うと、後ろを向いて目を覆った。その隙を突いて、すかさずハリーは治癒の魔法を唱えた。 「どうだ?」 「痛みが消えた。塞がったよ」  ハリーとボボは小声で話した。 「おええっ、血塗れだぁ! 吐きそう!」 「いやあああっ!」  わざとらしいハリーの絶叫に、エリスは悲鳴を絶叫した。ハリーの陰で、ボボが我慢できないといったふうに苦笑する。ボボと目を合わせたハリーは、一つ溜め息を吐いて頷いた。  頷いたハリーの顔を、赤い色が染め上げた。今まで点いていなかった部屋の光源が、嫌な赤色を発したのだ。ハリーは眉間に皺を寄せた。どう考えても好意的とは言えない、血のような赤だった。恐らく、フラットヤンハー全体が、この色に染まっているのだろう。 「いかにも、といった感じだな」 「ばい菌が入ったからね」  ボボが、のんびりした声で穏やかに言った。  ハリーは槍にともした光の魔法を解いた。 「次に何が起こると思う?」 「そりゃあ、ばい菌をやっつける」  ハリーは、眉間だけでなく鼻にも皺を寄せた。 「ばい菌側としては、どうやって嫌がらせを続けようか。このまま、この部屋にいるほうが、嫌がらせになるか?」 「移動してほしい」  声は少年の声だった。はっとしてハリーとボボが振り向くと、目を閉じたエリスが厳しい表情で立っていた。アトリーが、また覚醒したのだ。二度目は、さすがにハリーも驚かなかった。 「どこへ?」 「あっちから部屋を出て、左側へ進み、通路を右へ曲がって二つ目の部屋に。そこの二階下に、僕の躰がある」 「…何だって?」 「躰に戻って、あいつらを止める」 「あいつらっていうのは何なんだ!」 「虫。侵入者をやっつける兵隊なんだ。あいつらは、ものすごく強いんだ。死なないから。このままだと、殺されてしまうよ!」  ハリーは音高く舌打ちした。 「急いで!」  アトリーは、エリスの口を借りながら、すぐそこにいるように喋っていた。 「ここから行けよ!」 「駄目なんだ。ちょっとだけ遠いんだよ」 「ハリー、言う通りにしよう。それしかない。こっちには、ガラのついた鉄棒しかないんだし」  ボボは、腹を突き刺した槍を振ってみせた。ハリーは、鼻から思い切り息を吐き出した。 「わかったよっ!」  不意に、扉からガリガリという耳障りな音が聞こえてきた。音は無数に聞こえてきた。虫が群れをなして迫ってきているのだ。ハリーは気配を感じていた。おぞましい数の虫が、侵入者を喰い殺そうと、すぐそこにいる。  ガリガリという音は、反対側の扉からも聞こえてきた。音はだんだんと増えていく。何匹いるのか見当もつかない。 「本当に、行けるのか?」 「行くしかない。僕はこのまま宙に浮いていく。それでノルンの身体は守ることができるよ」  腹を決めるしかなさそうだった。ハリーは、乱れる呼吸を無理矢理整えた。 「くそっ、虫めっ。噛れるものなら噛ってみやがれ!」 「扉は僕が開ける。合図したら走って!」 「先頭は僕が行こう」  ボボが前に出た。手に持った槍を、確かめるように握り直す。  歩き始めたボボの後を、ハリーが追う。二人と宙に浮き上がったアトリーの三人は、出口となる反対側の扉へと向かっていった。出口と言うよりも、地獄への入り口だ。ハリーは内心で毒突いた。 「いくよ」  ハリーは殺意にも似た光を瞳に宿らせ、ぐいと顎を引いた。 「その前に言っておくがな、ノルンじゃなくてエリスだからな!」  アトリーは、苦笑するように口元を綻ばせた。 「走って!」  アトリーの叫びと同時に、扉が開いた。


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