フラットヤンハーからの生還者
一夜明けて、太陽が全身を現わしているにもかかわらず、いまだに微かな霧が漂っている。川の近くだからなのか。森が孕んでいる霧が流れ出ているのかわからないが、高い山の中で迎える朝のようだった。
エリスは昨日のシチューの残りを温めようと火の前にいる。ハリーとボボは昨日助けた女のそばに座り込んでいた。
女は、左足首の傷以外は見た目よりも軽症だった。自力で魔法治療をしたらしく、両肩の傷はほとんど塞がっていた。背中側の左腕の付け根と右太股の裂傷は、エリスに内緒で、ハリーがこっそり魔法で治療しておいた。 エリスにはハリーが魔法を使えるということは秘密にしてある。2人共の過去は伏せ、一般人の父娘だということを演出するためだ。
左足首の傷は重症で簡単には治せなかった。傷が深く筋肉や腱にも損傷が及んでいる。それほどの傷を癒やすことは、ハリーの技量では不可能だった。熟練した治療師でなければ、下手をすると足が動かなくなるという事態を招きかねない。それでも傷口を塞ぐ程度はしておく必要があったため、ハリーは治癒を施したが、それもやりすぎると魔力症に掛かってしまう危険があったので血が止まる程度にしておいた。魔力症という一種の中毒症状は誠に厄介なもので、死ぬ危険があるばかりでなく、一度かかってしまうと治るのに驚くほど時間が掛かるのである。
傷の手当のために脱がした女の服は、エリスが川で洗って干してあった。それを見たボボがハリーに言った。
「この女性、学士だ」
学士という聞き慣れない言葉にハリーは首を傾げた。
「王宮魔導士だよ」
「つまり、王様お抱えの秀才というわけか」
ボボは首肯した。ハリーは青ざめた女性学士の顔を眺めやった。その学士とやらが何故血塗れになって倒れていたのだろうか。しかも、こんな森の中で。
服と一緒に置いてある女の履物は街で履くような軽装なものではない。厚い革を使った旅用の靴を履いていた。あまり使い込まれていないところをみると、買って間もない新品だろう。しかし、靴とは逆に服はどう見ても旅用の服ではなかった。ボボに学士であるとわかったように、研究院の中で着用するような特徴のある制服である。簡単に言ってしまえば、学士である女にとっては普段着のようなものだろう。徒歩で長距離を旅するには似つかわしくない。簡単な旅なので服には気を使わず、しかし、靴は気分的に買い揃えた。その旅の途中で追剥か賊に襲われた。ハリーはそう結論づけた。ボボも首肯して同意した。
女が呻き声を上げたので、ハリーとボボは女の顔に視線を向けた。女は目覚めたらしく薄く目が開いた。
「目が覚めたか?」
ハリーは穏やかに言った。気がついた女はびくっと身体を震わせて、怯えた目でハリーを見上げた。女の目の中に恐怖の色が強いことにハリーは気がついた。これだけの傷を負ったのだ。よほど恐ろしい目にあったに違いない。恐怖するのは当たり前だった。
ハリーはもう一度呼びかけた。しかし、女は答えず首ごと捻って周囲を見回していた。状況が良くわかっていないようだった。
女が苦鳴を上げた。身体の傷が痛んだのだろう。ハリーは見かねて落ち着くように言った。
「ひどい傷なんだ。安静にしてろ」
女はハリーの顔を凝視し唇を震わせた。
「ひどい混乱状態だ」
ボボが囁くように言った。ハリーは上目遣いでボボを見て頷きを返した。
「名前を教えてほしい」
女は小刻みに首を振るだけであった。
「名前だ。あんたの名前が知りたいんだ。不便でしょうがない」
ハリーは最後まで言うことができなかった。女は顔を歪めたと思ったら、涙をこぼして泣き始めたのだ。ひどい目にあった人間は、精神が落ち着きを取り戻すまでは錯乱してまともな行動が取れないことがある。そういった例をハリーは傭兵時代に数多く見てきていたが、まさにその典型的様相だった。
「だめだ」
ハリーは首を振ってボボを見た。ボボも仕方ないといったふうに首を傾げた。
ハリーは立ち上がって踵を返し、火の傍に居るエリスの元へと向かった。
「あのお姉さん、ひどいの?」
ハリーがそばに座ると、エリスは開口一番そう訊いてきた。ハリーは真面目な顔をして頷いた
「よっぽどひどい目にあったようだよ」
「かわいそう…」
エリスは木の棒で火の中をつついた。
「時間が経てば、治るさ」
エリスは口をつぐんだまま頷いた。ハリーはふとエリスの髪がばらけているのに気がついた。
「エリス、うさぎミミにはしないのかい?」
エリスは黙ったまま首を振った。何だかすねたような顔つきだった。
「エリス?」
エリスはハリーを一瞥しただけで無言のまま顔を伏せた。こういう時のエリスは、何か言いたいことがあるのだけれど言えずにいる。促すと逆効果なのでハリーはじっと待つことにした。しばらくすると、エリスは顔を上げてハリーの顔をじっと見つめてきた。
「パパ、あのね…」
「なんだい?」
ハリーがそう言うと、エリスは堰を切ったように喋り出した。
「エリス、昨日夢を見たの。薄暗い所で、知らない男の子と話していた夢。エリスの口が、勝手に何かを喋って、男の子も何かを喋ってた。でね、声が無いの。何も聞こえないの。でも、エリスも男の子も、一生懸命に喋ってた」
ハリーは小さく頷いた。男の子というのはアトリーかもしれない。何を喋っていたのだろうか。一生懸命になって話す内容とは、どのようなことなのだろうか。
「エリス、昨日の事は憶えているかい?」
エリスは首をフルフルと振った。
「あんまり憶えてない…」
エリスは、火掻き棒代りの小枝を、ぽいっと放り捨てた。
「本当のこと言うとね、エリス、何日か前にもヘンな夢を見ていたの」
「どんな夢?」
「へんてこなものを飲まされる夢。ボタンを小さくしたような物をね、すごくいっぱい一度に飲まされるの」
「嫌だったのか?」
「すごくイヤ。白い服を着た男の人が怖い顔をして、飲めって。怖かった…」
「それより前にも、嫌な夢を見たのか?」
「ううん」
エリスを首を振った。
白い服の男。フラットヤンハーで実験を行なった研究者達であろう。彼らにとっては、エリス達は実験動物のようなものだったのだろう。小さなボタンとは恐らく薬物だ。古代では固形の薬が一般的だったという話を、どこかで聞いたことがある。
一番嫌だったことを一番最初に思い出したのだと仮定すれば、薬物投与は毎日、それも複数回、強制的に行なわれたのだろう。毎日薬を飲まされ、毎日水槽に沈められたのだろうか。たった四歳程度の幼い子供が。ゾッとしたハリーの肌は泡立った。
「だめだ、ハリー。錯乱してて、手に負えない。アレはしばらくかかるよ」
ハリーが振り替えると、困り果てた顔をしたボボが頭を掻いていた。
「フラットヤンハーは延期にしよう。明日までここで待つ」
エリスの事を考えれば一日も早くフラットヤンハーに向かいたかったが、女をここに放って行く気には到底なれなかった。エリスの話を聞いたせいか、ハリーは少しでもより人間的に行動したくてしょうがなかった。
ばさっ、という音がした。エリスが小枝で火を突いたのだ。ハリーはいたたまれなくなった。沈んだ顔のエリスは、小枝で何度も焚火の中を突き刺していた。
その日の夕刻、眠っていた女が再び目を覚ました。顔はやつれていたが、前回と違って目には理性があった。本当の意味で意識を取り戻したのだ。
「ここは…?」
横になったままの女の声は弱々しかったが確かだった。
「アイシン川とブランタンの森の境目です」
「貴女の名前は?」
ボボが答えた後に、ハリーが単刀直入に訪ねた。女は理知的な目を真っ直ぐにして、明瞭に返答した。
「ナタリーです。ナタリー・ヒューレン」
「俺はハリー・ラス。こっちはボルトリー・ボーエンスタン。あそこにいるのが、俺の娘のエリス」
「君は学士ですね?」
ナタリーという女はぎこちなく頷いた。ナタリーは頷いた直後、はっとして顔を突き出した。
「そうだわ…、他の人はどうしたんでしょうか。私の他に、誰かいませんでした?」
ハリーとボボは顔を見合わせた。
「いや。俺達が見つけたのは、あんただけだ。あんた、血塗れで倒れてたんだ」
ナタリーは息を呑んだ。潤んだ目が一際辛そうに輝いた。
「ああ、やっぱりそうなんだ…。夢じゃなかったんだ……みんな、死んじゃったのね…」
ナタリーは顔を覆って肩を震わせた。押し殺した嗚咽が手の隙間から漏れた。ナタリーは身体を丸めて咽ぶように泣いた。ナタリーは何事かを祈りのように呟いていた。耳を澄ますと、それは「ロレン」と繰り返しているのだとわかった。恐らくナタリーの恋人だったのだろう。他の仲間と一緒に、殺されてしまったのだろう。賊は盗れるものは全て盗り、男と売れない女は皆殺しにする。この女が生きて逃れられたのは不幸中の幸いであり、ロレンという恋人が殺されてしまっているということはまず間違いなかった。
「気持ちは察するよ。ひどい目に遭ったな。何か力になれるのなら出来るだけのことをしたい。俺達は訳あって用事を済まさなきゃならない。その後であんたを送っていこうと思う。だから、何があったのか話してほしいんだ。何があったのか、それによって送っていく場所が変わってくるから。あんたが賊か何かに襲われたというなら…」
ナタリーは首を激しく振ってハリーを遮った。
「違うのか?」
ハリーは意外さを隠せなかった。
「じゃあ、何があったんだ?」
ナタリーは顔から手を離し涙に塗れた目でハリーを見上げた。両目から涙が一つ二つ零れ、鼻を啜ってからナタリーは言った。
「私たちはフラットヤンハーという遺跡の調査に来ていたんです。そこで…」
ハリーは無意識に舌打ちしていた。強烈な立ちくらみのような目眩に襲われ、ハリーは倒れそうになるのを必死で堪えていた。
…フラットヤンハーフラットヤンハーフラットヤンハーフラットヤンハーフラット……
「ハリー?」
ボボの声。遠かった。
青ざめたハリーは、文字通り、絶句していた。