魔導都市エスタータにて
エスタータは魔導都市として古くから栄える都市である。都市の中心部-この部分だけでもかなりの大きさだが-には、石や魔導加工物で造られた古い高層建築が立ち並び、いにしえの魔法文明の残り香を現代に伝えている。立地が良くて生まれたわけでもなく、計画的に作られたわけでもなく、魔力の地場云えに魔法関係者が特異点的に集まって村となり町となり、いつしか都市となった。いわば炭鉱で栄えた町のような性格をしている大都市である。
エスタータはその歴史の途中で貿易の中継地としての役割を与えられ商業都市としても発展した。それは新しい都市部を川に沿って南へと大規模に拡大させた。今や大都市の風格を備え、安全と暴力、魅力と危険を、混然として抱えている。入都は誰でも自由に行なえる。一般的な町の関所などはない。
ハリーはエスタータの中央を貫く大きな通りに馬車を走らせ、中心部へと向かった。田舎くさい幌馬車はかなり目立つようで、道行く通行人が奇異の視線で眺めてくる。
経た年月から言うと些か実態にそぐわないが、便宜的に新都市部と呼ばれているこの地区は、御世辞にも安全とは言えなかった。一見騒がしい町並は、その活気の影にどんよりとした暗さを漂わせている。通行人の大半は、どこのものとも知れぬ流れ者である。街の汚れかたには不浄感があり、田舎とは違う緊迫した空気が流れている。
武器を一つも持ってないハリーは、少しピリピリとして通行人に注意を払った。
「人がすごい沢山いるね!」
ハリーの気も知らず、エリスは無邪気にはしゃいでいた。すぐ隣に危険が潜んでいるなどとは、猫の毛ほども気づいていない様子だった。
「わっ、あの人耳が長いわ。パパ、パパ、見て見て!」
「これこれ、エリス、人を指さすもんじゃありません」
「だってぇ…、うわっ、あの人、怖い顔ぉ」
じろっと睨むエルフの男と、むっとした怖い顔をしたおそらく傭兵だろう旅の男の視線を感じながら、ハリーは内心で冷や汗が流れる思いだった。はっはっはっと、ちょっと乾いた笑い声がこぼれた。
田舎育ちのエリスが、都会のもの珍しさにはしゃぐのは無理もないことだった。人の多さや、そのファッションの多様さ、人種の多さに店の多さ、速度ある空気といったものは、都会独特で田舎にはない。 悪く言えば怖いもの知らず、よく言えば好奇心旺盛だった。ハリーには当然、エリスが後者に映っていた。
なんとも可愛いじゃないか。さすが俺の娘!
エリスの素直な驚きと喜びに水を差したくはないハリーは、エリスの「分別」にか細い期待を込めながら暖かく見守ることにした。しかし、背中にハンマーをしょった酔っ払いに怒鳴られたときには、さすがのハリーも、手綱をぴしぴし打って馬車の速度を上げた。エリスの「あ、酔っ払いだわ、だらしないわね、昼間から」という言葉が耳に届いたらしく、
「やかましいっ、このクソチビ!×○□◎×(表記不可)しちまうぞ!」
と、目と歯を剥いたのだ。
慌てて安全なところまで逃げのびた後、ハリーはエリスの頭に手を置いた。
「エリス、とりあえず、さっきの言葉は忘れなさい」
「はい、パパ」
「エリス、不用意に迂闊なことを言っちゃ駄目だよ」
「パパ、言葉が難しい」
「うっかりと下手なことを言っちゃいけないよ」
「だってさ…」
「人には、色々な事情というものがあってだな…」
「ヘンケンを持っちゃいけないのね」
「うーん、ちょっと違うなぁ」
ハリーは上手い言葉が思いつかず唸った。まことに社会勉強は難しい。
「ところで、パパ、さっきのおっさんの言葉なんだけど…」
「忘れなさい」
「はい、パパ」
そうこうしているうちに、ハリー達はエスタータの中心部に到達していた。町並はガラリと代わり、肩を擦りあわせるように立ち並ぶ細長い建物は、どれも年月を感じさせる黒ずんだ色をしていた。見上げるとのしかかってくるような圧迫感を感じる。しかし、それは歴史の重みであり、町は静けさと奥ゆかしい雰囲気に包まれていた。
ゴミや危なそうな人が見えなくなり、代わって木々の緑とローブを着た魔法使い達が目につく。魔導都市と呼ばれる所以がわかる。やはり幌馬車は目立つらしく、道行く人々は相変わらず珍しげな目をこちらに向けてくる。
ハリー達の馬車は石造のとても大きな建物の前で止まった。高くて横幅が長い建物だった。窓の数から見ると三階建てである。エスタータの魔法研究院の建物であった。魔法研究院の前には大きな噴水の付いた広場があり、待ち合わせの人や食事をしている人、日光浴をしている人などがいた。
「さ、着いたよ」
「中にはいるの?」
「そうだ」
先に降りたハリーに続いて、エリスも荷台からぴょんと降りた。背筋を伸ばすように体を反らして、エリスはあくびを一つした。
「疲れただろう」
「ちょっとだけね。でも、パパよりはマシだと思うわ。座ってただけだもん」
「パパは疲れたよ。ずっと運転してたから」
「じゃ、エリスが代わってあげるわ」
エリスの目がきらっと輝いた。
「そんなことをしたら、心配で余計に疲れちまうぜ」
「まっ、失礼しちまうぜ」
二人で笑いあった後、ハリーとエリスは、短い階段を上がって研究院の中に入っていった。
研究院の中は、外から見て思ったのと違って天井が馬鹿みたいに高かった。全体がきれいで柔らかい白で統一されている。ひんやりとしていて静かであり、非常に落ち着いた空気に満ちていた。ハリーはほっとした心地になった。
正面の会談の前に置いてある案内板を見つけたハリーは目的の場所を確かめてから、上を見上げてんあーと口を開けているエリスの背中をポンと叩いた。
「ブサイクだよ、レディ・エリス」
しまった、とばかりに口に手を当てるエリスの肩に手をやり、ハリーは歩き出した。
「パパは用事を済ませてくるから、その間あそこの休憩室で待っていなさい。くれぐれも大人しくね」 「はーい」
ぴょんっとうさみみを揺らして、エリスは休憩室へとたったと駆けていった。大人しくと言ったばかりなのに、走るとは……まあ、いいか。
エリスが休憩室に入るのを見届けたハリーは踵を返し、二階へと続く階段を上がっていった。
エリスが休憩室の扉を開けると中の人達がお喋りを一斉に止め、視線の集中砲火を浴びせかけた後、一瞬の間を置いて雑談を再開させた。
エリスはドキッとしたが、一連の現象が余りに整然としていたため、それ以上は(なんで一斉にエリスを見るのかだとかの)訳が解からず無視することにした。パパに言われた通りここで待っていなくてはならないので、少しぐらいヘンな人に囲まれていてもここで待っていなくてはならない。手近の空いている席に腰掛けたエリスは、テーブルに両手で頬杖を着いた。
暇だった。村なら誰かが必ずエリスの相手をしてくれるのに、都会の人は誰もエリスにかまってくれなかった。
「ムカンシンというやつだわ」
エリスは小声で呟き、足をぶらぶらさせながら、目だけで周囲を観察した。
白っぽい部屋の中で何人もの黒っぽい服を着た人達がお話している。ちょっとした影絵のようだった。まじめな顔をしている人、難しい顔をしている人、楽しそうに笑っている人。
「飽きた」
動きが少なくてこの影絵は面白くなかった。エリスは頬杖を外してテーブルに突っ伏した。さっきまでは面白かったのに。パパがいたから。パパがいないと、なんてつまらないのかしら。タイクツだわ。あと、どれくらいかかるのかしら?
エリスは、はあっと溜め息をついた。溜め息をついたエリスは、ぱちぱちと瞬きをした。目線の先にいる、テーブルに独りで座っている男の人と目が合っていた。エリスは頭を上げた。やっぱり目が合っている。男の人がエリスを見ているのだ。かなりじっと見ている。エリスもじっと見返した。
知らない人と話しちゃいけませんとは言われているが、目を合わせてはいけませんとは言われていない。目を合わせているだけでは失礼だと思ったエリスは、にっこり微笑んでみせた。すると、男の人もにっこりと微笑んだ。
ほら、これでユウコウカンケイが成立したわ。
男は端正な顔立ちをした背の高い赤毛の持ち主だった。他の人と同じ、だぶだぶの服を着ていた。赤毛の男は席を立つとエリスのテーブルに近寄ってきた。
「同席してもいいかな?」
優しい口調だった。パパより少し声が高かった。特に断る理由もないので、エリスは、
「いいですよ」
男は礼を言いながらエリスの隣の椅子に座った。
「見かけない子だね」
「今日始めて来たんです。パパと」
「そうなんだ」
そう言った赤毛の男は、あっと言って席から立ち上がった。
「ちょっと待っててね」
そう言って、男は休憩室を出ていった。しばらく待っていると、男は、コップを持って帰ってきた。 「これをあげるよ」
男は、コップを差し出しながらそう言った。コップの中身はジュースだった。エリスは受け取るかどうか、迷いに迷わなかった。知らない人から物をもらっちゃいけません、と言われていたが、ジュースなら別にいいだろう。飲んだら無くなるし。
「ありがとうございます!」
にっこり笑ったエリスに、赤毛の男もニッコリと笑った。
「君のお名前は?」
「エリスです」
エリスが答えると、赤毛の男は急に真顔になった。のぞき込むようにエリスの顔を見つめ不思議そうに首を傾げた。
ちょっとヘンかも、この人。
「そのうさぎみみ、可愛いね」
エリスは思わずうさみみの付け根を押さえた。最近お気に入りなので誉められるとうれしかった。
「ありがとう。お気に入りなの。お兄さんの髪の毛も奇麗よ。赤くて」
「いやぁ、うれしいなぁ」
赤毛の男は照れたように笑った。少しヘンだが悪い人ではなさそうだ。
「お兄さんのお名前は?」
エリスが尋ね、赤毛の男が答えようとしたとき、休憩室の扉が音を立てて開いた。随分乱暴な開け方だったので、エリスも赤毛の男も他の人もみんなが振り返った。
振り返った人々の中で、エリスだけが目を丸くした。休憩室に入ってきたのはエリスのパパだった。
パパはみんなの視線などお構いなしに、ずかずかと入ってきた。エリスに目を止めた後、一瞬きょろっと室内を見回し、またエリスのほうに顔を向けた。しかし、視線は、エリスを僅かに外していた。
「おい! ボボ!」
「ハリーじゃないか!」
驚いた声を上げて、赤毛の男が立ち上がった。ボボの名前に反応して顔をしかめたエリスは、表情を一転させ、うさみみを跳ねさせていた。
「ええーっ!」
エリスのばかでかい声に何人かが耳を塞いだ。ハリーとボボと呼ばれた赤毛の男も耳を塞いだ。
「あなたが、ボボ?」
「そ、そうだけど……」
ボボは、びっくりした表情のまま固まっていた。エリスのばかでかい声にかなり驚いたのか、半身になっていた。
「エリス、彼がボボだよ。パパの親友の、ボルトリー・ボーエンスタンだ」
「ええーっ!」
二回目の絶叫によって、耳を塞いだ人の数が増えた。
「エリス、大声はやめなさい!」
「だってだって…」
「悪いなボボ。エリスのやつ張り切って、いきなり得意技を披露だ」
かなりのでっかい嘘だった。パパ、ひどいっ、とエリスは頭のどこかで抗議したが、今はそれどころではなかった。まさかこのお兄さんが、あの「ボボ」の本宅さんだったなんて…!
「大きくなっただろう。この子がエリス・ボボ・ラスさ」
パパがエリスのフルネームを紹介した途端、ボルトリー・ボーエンスタンは「えっ」と目を大きくした。
「本当に付けたのか?」
「あたりまえだ」
パパが当然のように言い放つと、ボボは頭に手をやり、すまなさそうな表情でエリスに顔を向けた。
「ごめんね、エリスちゃん。やめとけと言ったんだけどね…、ボボなんて、嫌だろう?」
エリスは完璧にアセってしまって、ややひきつった顔で笑うしかできなかった。図星という言葉の意味を身体で理解したエリスだった。
「知らない人…」から始まる一連の言いつけを破り倒したエリスにガミガミと説教をしたハリーは、夜、ボボを訪ねていた。ガミガミと説教されたエリスはしゅんとしてベッドに潜り込み、いつにない寝つきの早さで眠っている。旅の疲れが出たのだろう。
ボボは宿屋の好意で屋根裏部屋を貸してもらって住んでいた。有望な魔術士は師匠の所に住み込むものだが、ボボはまだ有望かどうかも分からない「ひよこ魔術士」であるため、まだ師匠に付いていないのである。住み込み修業はまだまだ先のことらしかった。
昔のボボは戦士だった。ハリーと同じく食うために傭兵になったクチである。新参の戦士ボボと若き魔法戦士のハリーは、戦場で肩を並べて戦った日から親友になった。
ハリーはエリスを拾った日を限りに傭兵を辞めたが、ボボはその後も傭兵稼業を続けて金を貯め、魔法を学ぶためにエスタータに来た。ボボ曰く、人々が病気にかからない世の中にしたいから、その為にできることをしたいのだそうだ。ボボと交わし続けている手紙の一つに、彼の心意気がそう綴られてあった。
エリスが眠るまでには些か時間が掛かるだろうと思っていたため、ハリーは予定より早くボボの家に着いていた。宿屋の主人である人の良さそうな中年女性に挨拶した後、ハリーはボボの部屋の扉を叩いた。 驚いた顔をして扉を開けたボボに招かれて、ハリーは部屋の中へと進んだ。ボボは勉強中だったらしく、机の上に開かれたままの厚い本と書きかけの紙があった。ボボはそれを片づけながらハリーに椅子を薦めた。ハリーは薦められた椅子に腰掛けた。
一つだけのランプに照らし出されたボボの部屋は質素だった。テーブル、ベッド、タンス、椅子一脚、本棚。それで全てであった。傭兵時代に稼いだ金の半分が研究院の授業料として消えたらしい。魔法の勉強には長い時間が必要である。何らかの収入源を確保するまでは残った金でやりくりせねばならないため、質素に暮らす他はない。
「見ての通り、何もないけどね」
片づけを終えてベッドに腰を下ろしたボボは、穏やかに笑った。いくらか年を取っているが、あの頃と同じ笑顔であった。
その日の戦闘が終わった後にも、この傭兵には似つかわしくない笑顔を浮かべていた。殺伐とした冷笑を浮かべた傭兵達に囲まれて、ボボだけはこの柔らかい笑顔を浮かべていた。変わった奴だとハリーは思っていた。早死にするだろうとも思っていた。しかし、ボボはずば抜けた戦闘技術と類希なる判断力で激戦をことごとく切り抜けてみせた。戦士として、ボルトリー・ボーエンスタンはまぎれもなく達人だったのである。
「どうした、ハリー?」
回想から引き戻されたハリーは、小さい咳払いをして首を振り、口元を引き締めて厳しい表情を作った。
「ああ……」
「ハリー?」
「答えを聞かせてほしくてな」
「ああ、そのこと…」
ボボには、ハリー達の到着に先立って、事情を説明する手紙が届いているはずだった。ハリーが何を頼もうとしているのか、ボボは知っているはずである。
「力を貸してほしい」
ハリーは眉間に深い皺を刻んでボボの目を凝視した。ハリーの頼みとは、つまり、一緒にフラットヤンハーに行ってほしいということだった。それはボボにとって非常に難しい要求であった。フラットヤンハーに行くということは、研究院での勉強を中断するということを意味する。研究院は勉強の一時中断を絶対に認めない。期間を空けて修めることができるほど魔法修養は甘くはない。だから、研究院は中断を認めていないのである。
中断するということは、研究院を抜け、研究生を辞めるということに他ならない。再び研究生となることは可能だ。だが、そのためにはもう一度高額な入学金を支払い、難関である入試を突破しなくてはならない。それが簡単の対極に位置する難事であることを、ハリーはボボの手紙によってわかっていた。
ボボは、当然のごとく顔に難色を浮かべた。ボボが躊躇するのは当たり前のことだった。死と隣合わせに稼いだ金を注ぎ込んで、どうにかこうにか研究生になったのだ。生半可な気持ちで足を踏み入れた道ではない。
だが、ハリーにとってボボは今回の旅に絶対に必要だった。ハリーにとって信頼できる頼れる者は、ボボをおいて他にない。事がハリー個人の事というのであればこんな無理は言うまい。しかし、エリスのためとなれば、無理を押し通してでも打てるだけの手を打ちたかった。
「無理を言っているのは、俺も重々わかっている
「うん」
「経緯は手紙に書いておいたと思うが…」
「読んだよ」
「ダイダーという魔術士が言うには、アトリーと名乗る化物は、かなり無理な状態でエリスの中にいるらしい。このまま放置しておくと、発育、生長に、重大な支障が出る、と言われた」
「…………」
「それも、無事エリスが死ななかったらと仮定した場合だそうだ…」
ハリーは口を閉ざした。ボボは答えを返さず、頭を振って俯いた。
沈黙が、しばらくの間部屋を支配した。ハリーは目を伏せ、時の流れるのを待った。
「ハリー」
ハリーは目を上げた。俯いたままのボボが上目遣いでこちらを見ていた。
「変わったな、ハリー」
予想外の言葉に胸を突かれ、ハリーは一瞬言葉が出なかった。
「そうか?」
「そこまで大事なものを抱えた君は見たことが無い。あの頃の君は、自分の命すらチップのように賭けていた。正直言って、こいつは早死にするなと、何度も思った」
「俺も思っていた」
ボボが、ふっと苦笑を漏らした。
「なんだ。自分で自覚してたのかい?」
「いや、そうじゃない。俺はお前が早死にするだろうなと思っていたんだ。こんな場違いな奴が生きていけるわけないってな」
ボボは、今度は声を立てて笑った。面白そうに笑った。
「へえ。こんな死にやすい場所で生きていけるのは、僕ぐらいだろうなと思ってたのになぁ」
「その死にやすい場所に、また一緒に行ってほしい」
ボボは笑いをゆっくりと納めていった。
「正直言って、俺にあの頃の力はない。あの頃だって、お前がいなければ死んでいただろうと思うことが何度かあった。俺はそれを解かっていたし、今でも忘れていない。今度の戦場は、俺一人では、たぶん死ぬかも知れない。いや、死ぬだろう。何故かは分からんがそう思う。でも俺は、たとえ死んでもいいんだがな、それでもエリスがなんとかなるのならな。しかし、もし万が一、エリスが…」
「変わったよ!」
ボボが遮った。何か、ふっ切れたような口調だった。
「変わったなぁ、ハリー」
そう言ったボボはふと首を傾け、上のほうを見上げた。
「いや、変わってないかもね。決めたら走る、君はそういう奴だったから」
「ボボ…、すまん」
ハリーの声に、申し訳ないという思いが滲んだ。
「いや、いいんだ。魔法の勉強は、やろうと思えばどこでもできるさ。そうだろう? 僕もエリスが可愛いと思う。なんとかしてやりたいと思う。一緒に行こう」
ボボは穏やかな笑顔だった。胸が詰まったハリーは椅子に座ったまま深く頭を下げた。
「……恩に着る!」
「実を言うとね、もう決めてたんだよ。でもまあ、決心するというのは、これでなかなか儀式が必要なときもあってね」
あっさり決められたわけでは決してあるまい。葛藤をねじ伏せて自分を殺してくれたのだ。ハリーにはそれがよく解かっていた。その上、気を使わせないように気を使う。ボルトリー・ボーエンスタンという男は、そういう男だった。
肩を起こしたハリーだったが、その頭はうなだれたままなかなか上がらなかった。それを引き起こしたのはボボであった。
「ハリー、前置きは終わりにして、詰めた話をしよう。フラットヤンハーの場所は分かっているのかい?」
頭を上げたハリーは居住まいを正してから答えた。
「ああ。バルクス平原だ。アイシン川に沿って北上して、ブランタンの森の北端にあるそうだ」
「ダイダーさんの情報か?」
「そうだ。ダイダーは信用できる。病気がちなエリスをよく診てもらってるし、俺も世話になってる。いい加減なことは絶対に言わない人間だ」
「女性か?」
「そうだが、何か問題あるか?」
「いや。なら信用できると思ってね。君の女性を観る目は厳しくて冷たいからね」
ハリーは居心地が悪そうな表情でそっぽを向いた。ボボはくすっと笑った。
「で、フラットヤンハーとやらはナニモノなんだい?」
ハリーは気を取り直すように息を吐いて、ボボに向き直った。
「それが、さっぱりだ。ダイダーが言うには、フラットヤンハーは全てが不明の遺跡なんだそうだ。今までに多くの調査がされたらしいが、何もでなかったし何も分からなかったそうだ」
ボボは束の間沈思した。顔だけ斜に構え、斜めにハリーを見てきた。
「ハリー、何も分からないのに、何故危険だと分かったんだい?」
「分かっちゃいない。思っただけだ」
「ハリー」
ボボは少し睨むような目付きになった。その目は余計な言い回しは飛ばせと催促していた。
「何も分からない遺跡というのが、最も危険が潜んでいやすい」
「ダイダー曰く、かい?」
「ダイダーは昔、風人だった。そいつらの常識だそうだ。今の技術でわからないものには、今の技術を凌駕する謎があるんだそうだ。研究家連中は調査と調査結果を重視するが、風人や盗掘の連中はそれに伴うリスクを重視する。死んだらおしまいだからな。」
「謎には危険が付き物か」
「風人も命知らずの馬鹿か経験の浅い奴等以外は決して手を出さなかったそうだぜ。フラットヤンハーにはな」
「まさに、いわく付きというやつだねぇ」
ボボは耳たぶをつまんだ。
「アトリーとかいう化物については?」
「なんと言うか、精霊に近いが精霊ではなく、半ば融合しているようなとかなんとか…」
「そんなものが、何だってエリスに?」
「知るもんか、こっちが聞きたいぜ!」
ハリーの声は大きくなった。ボボが慌てて指を口に当てた。時間が時間である。騒いでは大家に迷惑をかけることになる。続けるハリーの声は小声を行き過ぎて囁き声になっていた。
「あのクソッタレ、俺のエリスを、ノルンとかいう名前で呼びやがって…」
「なんだい、それ?」
「知るか!」
ハリーはいまいましそうに囁き声で吐き捨てた。あの夜のことを思い出したハリーの胸に、苦々しい胃液のような気持ち悪い酸味が広がる。散々考えて苦労して付けた名前を差し置いて、ノルンなどと!
あの夜に思ったこととは全く正反対のことを考えながら、ハリーは腹を立てていた。
「話は変わるけど…」
ボボはランプに目をやり顎に手を当てて言った。
「エリスには…、本当のことを?」
「まだだ。時期が来れば話すつもりではいる」
そうか、と言って、ボボは遠くを見るように目を細くした。
「バルクス平原は……あの子を拾った場所に近いな。あの場所がどこなのか、もう正確には思い出せないけど。なあ、ハリー…」
ボボは、細いままの目でハリーを見た。ハリーは目を逸らした。無性に苛立たしくなり、ハリーは眉間をややしかめた。ハリーとエリスが実の親子ではないということを、嫌でも思い出させる、それは事実であった。
「もう忘れたよ。関係ないだろう。エリスは、その頃のことを全然憶えてないんだ。あの子の中では、そんな事は存在してないんだよ。生まれた時から俺達は親子だ。それでいいさ。何か問題でもあるのか?」
ハリーは凄むような口調で言った。ボボは答えず、再びランプの炎に視線を向けていた。
「バルクス……フラットヤンハー…」
そう呟いた後は、ボボは沈黙してしまった。その沈黙の静けさに、ハリーの苛立ちは一層強くなっていった。
ボボが考えていることをハリーは正確にわかっていた。それはハリーも考えたことだからだった。否定して無視したかったが、できなかった。ハリーの直感が声高に叫ぶのだ。
「…エリス……アトリー…」
ボボのぼそぼそとした呟きが、またハリーの耳を刺激した。
「……ノルン」
繋がっているのかもしれないという予感が、ハリーの脳髄をチリチリと灼いた。