出発の朝
準備のために馬車馬のように奔走し続けた三日後の早朝、ハリーとエリスは出発の時を迎えていた。夜が明けて間もない、朝日が眩しく輝き清々しい風が夏らしい匂いを運んでくる。幌馬車の御者台に座ったハリーは、朝の空気を大きく吸い込んだ。
この旅は解決するまで終わらない旅だ。そして戦いだ。何日かかるのかわからない。解決するのかもわからない。だが、ハリーは必ず勝利して我が家に戻ってくるのだと決意を固めた。エリスの平穏を取り戻すために戦うのだ。そのためには、問題を解決していきて帰り、この村でしっかりと根を下ろした生活をしなくてはならない。この我が家に必ず帰ってこなければならない。
そうなると、考えなくてはならないのが留守中の家の管理であった。家は住人を失った途端に不思議と痛みだす。いろいろ考えた末に、村の小さな食堂で働く十六才の少女アステスに頼むことにした。アステスもハリーと同様の食い詰めた流浪者だった。昨年の冬に流れてきて、死ぬ寸前を憐れみ深い食堂の主人夫妻に拾われた。食堂で給仕として働き始めた当初は骸骨のようにガリガリのやせっぽちで、絶えず首を左右に小刻みに振り続け目も死んだように暗かったが、近頃は首の振りもまったく治まり、控えめながら笑うようにもなり、少しばかりだがふっくらとしてきた。元々の器量の良さが映え始め、エリスには悪さをする村のワルガキ連中も、アステスの前で背を正してカッコを付けるようになるほどだった。エリスもアステスが大好きなようで、暇を見つけてはアステスに会いにでかけていた。
事情を詳しく話さなかったが、幸いにも食堂の主人は快く了承してくれた。アステスも普段の一部屋住まいとは違った一軒家での生活に心が弾んだようで、飛び上がるようにして引き受けてくれた。
次に求めたのは大型の幌馬車であった。ハリー一人なら馬車などなくともはできるが、エリスを連れてとなればそうもいかない。長旅となれば荷物も増えるので大きめの幌付きの馬車がいる。時間があれば買い付けることもできるが、その時間がない。ハリーは大型の幌馬車を所有する裕福な家から手当たり次第に頼みに行った。しかし、よそ者のハリーを門前払いにする家が多く、話を聞いてくれたところでも馬と荷馬車は大切な財産であり簡単に手放せるものではなく、やはりよそ者のハリーには売ってくれなかった。隣の村まで走り同じように頼んで回ったが、全く相手にされなかった。汗と砂埃と披露にまみれて座り込んだハリーは途方に暮れた。どうにかしなければと思案にくれたハリーは、最後の賭けで比較的ハリー親子に好意的なブリングストンに頼むことにした。ブリングストンは裕福な農家ではなかった。代替の馬や荷馬車がすぐに揃えられるような家ではないだろう。だが、他に当てがないハリーは戸口で土下座して頼み込んだ。
「そこまでいうなら、おめぇ、帰ってくるんだろうな。帰ってくるんだったら売ってやる。帰ってこねぇなら売らねぇぞ?」
長い沈黙の末に吐いたブリングストンの言葉にハリーは思わず両手で顔を覆った。涙がこぼれた。ハリーは嗚咽をこらえ「必ず」と答えた。ブリングストンは幌馬車の代金として二束三文の値段を告げた。ハリーは用意しておいた上質の農耕馬が5頭買えるくらいの代金をブリングストンの手に押し付けて、何度も礼を言って受け取った。
翌日は荷馬車の改造に暮れた。荷台に両端の補強板と補強材を取り付け、それに旅の荷物を箱詰めして積み上げて括りつけた。片側は棚にして最下段は寝袋に仕立て直した布団を置いて寝床をつくる。最上段には薪を積んである。幌は厚手の布になめし革を繋いだものをかぶせて補強した。これなら少々の雨が降っても大丈夫である。更に、傭兵団の飯炊き時代に身につけた工作技術で、一番肝心な馬車の足回りを軍隊仕様に改装した。武具をまとい矢を積み込んだ軍用の荷馬車は、時には追撃を振り切るために何時間も走り続けなければならないこともあり、極めて頑丈な構造に作られている。農家の荷馬車では材質自体が弱いことが多いので軍用ほどの耐久性は見込めないが、補強によってそこは埋め合わせた。代わりに重量がかさんで馬に負担がかかることになったが、四頭立てで組むことで解決した。餌の確保は、夏という季節柄、よほどのことがない限り大丈夫だろうと踏んだ。
その後は、ダイダーに薬草関係の世話を頼んだり、家の中の片付けをしたり、手紙を書いたりと、飛ぶように消えていく時間を惜しんで走り回った。
エリスが御者台に登ってきた。目を涙で赤くして、唯一人見送りに来てくれたアステスとの別れを惜しだ。アステスはエリスを心配してか、ずっと表情を曇らせてエリスの手を握り続け、か細い声で何度も「気をつけて」を繰り返した。エリスも最初こそ気丈に笑顔を作っていたが、途中からはわんわんと泣いてアステスにしがみついていた。
アステスに、ハリーは家は好きに使うようにと改めて言った。ハリーが用意できる代価はそれぐらいしかない。気兼ね無く自由に羽を伸ばしてもらいたかった。
エリスがアステスの手を離す。ハリーは手綱を打った。ニ頭の馬が身を震わせ馬車が進み始めた。
唯一人手を振るアステスが小さくなっていく。代わりに青い空が広がる。いくつかの柔らかそうな雲を浮かばせた、晴れわたる水色の空だった。
「パパ、どこへ行くの?」
「エスタータに行く。そこに友達がいるんだ」
ハリーは遠くを眺めながら言った。
あの日以来すっかり元気を取り戻したエリスも、パパの視線を追い遠くを眺めながら微笑した。ただ、エリスにはあの夜の記憶が全く無かった。地震があったことすら覚えていなかった。あまりの不自然さにハリーの恐怖感は更にました。
「エリス、馬車の旅なんて初めてだわ。パパは?」
「若い頃にね。エリスが生まれる前のことだけど」
「どこに行ったの?」
「いろいろだよ。色々な所へ行った。これから行くエスタータにも行ったよ」
「どんな所なの?」
「エスタータかい? 大きな都市で見たことがないくらいに賑やかなとこだよ」
「うわっ、楽しみ!」
「楽しいぞ!」
エリスには、旅の目的を「パパの忘れ物を取りにいく旅」と言ってある。準備に奔走する中で咄嗟に思いついた説明だった。ハリーは上手いこと言ったと考えていたが、エリスは微妙な顔をして「ふーん」と短く答えただけだった。
「あのね、パパ」
エリスは、急に語調を変えた。
ハリーは身を固くした。まさか、あの夜の記憶が……
「な、なんだい?」
「エリスね、またボボってからかわれたの」
ハリーはほっとした直後、やれやれと溜め息をついた。エリスがボボというミドルネームのことで愚痴をこぼすのは、もう何回目になるのだろう。ハリー・ラスの娘、エリス・ボボ・ラス。ハリーは素晴らしい名前だと確信している。しかし、エリスはそうではなかった。
「みんな、エリスって呼んでくれないの。ほら、ボボって、ちょっと…んー…その…、変わってるから。エリスもね、もしボボっていう子がいたら、もしかしたら、からかってるかも知れないしぃ…」
今までも、エリスは手をかえ品をかえ愚痴を言ってきていた。ハリーも手をかえ品をかえてエリスをなだめてきた。今度はすこしレベルを上げたなだめ方をしてやろう、とハリーは咳払いをした。
「エリス、それは偏見というものだよ」
「ヘンケン?」
「偏った見方という意味さ。解かりやすく言うとだね、ニワトリを見て、飛べないから鳥じゃないって決めつけるようなものかな」
「決めつけるっていうことなの?」
「自分が思ったこと、それ一つだけにね」
「でも、ボボってヘンだと思うわ。ヘンでなくてもヘンだと思うわ。エリスじゃなくてあのクソガキ達が」
「言葉づかいが悪いぞ、エリス」
「…ごめんなさい」
「エスタータにいる友達に会えば変だと思わなくなるよ。パパの親友なんだ。エリスに名前を分けてもらった人だよ。とてもいい奴なんだ。彼に会えばボボが好きになるよ」
「そうかなぁ」
「そうさ。約束してもいい。周りの言うことなんて気にしなくていいんだよ。外野は外野さ」
「外野って?」
「その他大勢」
「何なの、それ?」
「そのうち解かるよ」
「ふーん」
解かったような解からないような表情を浮かべて、エリスは遠くに目をやった。その澄んだ鳶色の瞳が、ぱっと明るく揺れた。
「あのね、エリス思うんだけど、パパって、おヒゲをソッたら若く見えると思うの。剃ってみない?」
お勧めの形で訊いてくる時は、エリスがそれをすごく望んでいる時の証だった。ハリーはエリスに見えない方の顔半分に困った表情を浮かべた。残りの半分でハハハと笑う。
「これはパパのこだわりだよ。パパこだわりの髭だから、剃れないなぁ」
「ふーん」
上手い言い逃れだと思ったのだが、エリスは、また遠くに目をやってしまった。がっかりしているようだった。
いずれは、ハリーとエリスの本当の出会いを伝えなければならない時が来るだろう。これだけは避けては通れない。真実を伝える怖さがあるが嘘はつけない。ハリーはエリスに誠実でありたかった。しかし、今はまだ早すぎる。事実を消化して理解するにはエリスはまだ幼い。衝撃だけが残る恐れがある。
時は遠からず訪れるだろう。その時にエリスの審判が下る。
「パパ」
「なんだい?」
ハリーが見ると、エリスの顔が空を向いていた。ハリーも上を見上げた。
「あのトリさん、なんていうのかな!」
「んー…」
ハリーは目を凝らした。群れで飛ぶ数羽の鳥がゆっくりと旋回している。見たことのある形だったが、ハリーは鳥に詳しくなかった。詳しくないというかまるっきり知らない。
「カリか何かだろ」
「本当にぃ? パパはヘンに物知らずなんだから、アヤシイわ」
ハリーは随分な言い草だと思ってむっとなった。
「……随分だね」
「だって、ハトがどんなトリかも知らないじゃない」
ハリーの喉が詰まった。イタイことを憶えていたもんだ。
「し、知ってるぞ。チュンチュン鳴くやつだろ?」
答えた途端に、エリスの口から「はあああああっ」という、長くて重い呆れた溜め息が漏れた。
「それはスズメでしょっ。ハトはポッポロだよ。前に教えてあげたのに」
はっはっはっ、と笑うしかなかった。
「こりゃ、一本とられたね」
「パパも、勉強がまだまだね」
リズムを合わせて言ったエリスは、ふふっと柔らかい笑顔を浮かべた。ハリーが知らないエリスの母親はとても美人だったに違いない。眩しいぐらいの笑顔だった。
ハリーは、ふと真顔に戻った。
「エリス、ノルンて何か、わかるかい?」
それはアトリーと名乗った何者かが口にした言葉だった。
文脈から考えて名前であることは確かだろう。そして、エリスを指した名である可能性が高い。
気に食わないないな。そうハリーは思うのだが、それはハリーの我儘だった。
「エリス」はハリーが付けた名前である。別の名前があっても不思議ではない。「ノルン」というのがエリスの真の名前なのだろうか。それはそれでいい。問題なのは、「ノルン」がエリスの真の名であった場合のその後だ。何時、誰によって付けられたのか。その背後にはとんでもない何かの影が見える気がした。
「知らない」
エリスは、ぶんぶんと頭を振った。最近お気に入りの、うさぎみみに括った髪が揺れる。
「そうか。ならいいんだ」
フラットヤンハーに行けば、答えが見つかるのだろうか?
それはどんな答えなのだ?
ハリーは内心で吐息をつきながら視線を前に向けた。広がる快晴の空だったが、ハリーの目には雨が降る直前の不穏な空と映った。