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FLATYANHER ~2万年の狂気~  作者: 氷上砂刻
2/9

覚醒するフラットヤンハー

 ナタリー達は、出発してから二度目の夜を迎えようとしていた。現在位置はトルメトンの南西にある、小さな林の間の道を抜けたところである。

 前日はトルメトンで宿に泊まったが、二泊めの今日は野宿だった。野宿といっても木のかげ軒の下、あるいは川辺や森の中でする静かで暗いものではなく、三十人を超える野営であり、遊牧民の小規模集落ような趣である。

 この辺りは民家も無い街道沿いではあったが、トルメトンの強力な自警団の兵力の力で比較的安全な地帯となっていた。そのため、夜盗や盗賊団に襲われる危険は小さい。加えて、屈強な護衛が十人も目を光らせているし、いざとなったら自分達で戦えもする。そのため、空気は和んでいた。

 食事を終えたナタリーは近くに誰もいない所まで歩き、草の上に寝転がって体を伸ばした。馬車で同じ姿勢を取っていたせいで、体がきしみを上げていた。うーんと大きな息を吐きふうと力を抜く。気持ちのいい脱力感がお湯につかったときのように全身を浸す。

 ナタリーは空を見上げた。薄闇は濃さを増し星が輝きを帯び始めていた。広大な黒い絨毯の上にばらまかれた星々は、そのうちにまばゆい光を放ち始めるだろう。

 お腹も一杯になったナタリーはそのまま眠りたい誘惑に駆られた。向こうに戻ったって場所が変わって毛布に包まるだけで、大した違いはないことだし。

 しかし、睡魔はぷいっと去っていってしまった。その後を追いかけるかのような風が、弱い風がさささと音を立てて吹いていった。話し声が遠くに聞こえ、身近に佇む静寂が存在感を増す。

 ナタリーは、ごろんと仰向けになって、ちりばめられた光の砂を眺めた。月光に照らされて青くなった細い雲が、何条か浮かんでいる。

「ナタリー」

 頭のほうから声がした。ロレンだった。

「いいかな?」

「もちちろんよ」

 ナタリーは上半身を起こした。その隣にロレンが腰を下ろした。

「危ないよ。一人で離れちゃ」

「子供じゃないわ」

「大人でもどうにもならない時がある。賊の危険が無いわけじゃないし、理由のわからない行方不明だってあるんだ」

 ロレンは真摯なまでに真面目な顔をしていた。冗談ゼロの顔だった。

「いなくなられたら困るんだよ」

 ロレンのためらいがちなその言葉に、ナタリーは内心でえっと声をあげた。

「明日はフラットヤンハーに着くね」

「うん…」

「あのさ、これが一段落したら、二人でレカーンの泉に遊びに行かないか?」

 ナタリーの顔は紅葉して熱くなった。ロレンの誘いが意味することはただ一つである。「レカーンの泉」は、別名「誓いの泉」。恋人達が一生を誓いあったりする場所である。

 ナタリーは、恥ずかしさのあまり目を伏せようとした。しかし、ロレンの真摯な顔にナタリーの瞳は吸い付いて離れなかった。

「……うん、いいよ…」

 ナタリーはやっとのことでそう言った。ロレンがほっと安堵の息をついた

「よかった」

「うん…」

「ええと…、明日があるから、行くよ」

「うん」

 ナタリーは微笑んだ。ロレンが静かに立ち上がった。

 ロレンが何度か振り返りながら遠ざかっていく。ナタリーは胸の前で手を合わせたまま、じっと、ずっと見送った。

 ロレンの姿が見えなくなった直後、ナタリーは天を仰いで拳を握り締めた。

「やった!」

 物凄く気合いの籠もった囁き声を星空に向かって咆哮した後、ナタリーは仰向けに倒れ込み、そのままゴロゴロと右へ左へ転がった。うれしさが後から後から込み上げて胸一杯になってもまだ溢れてくる。とても一人では抱えきれない。といっても誰にも分けたくはない。独り占めだ。

「もう駄目、眠れないわ、いやんっ」

 何かを抱きしめるように胸を抱いたナタリーは葉っぱがつくのもお構いなしに、小一時間、ごろごろと転がり続けた。そしてそのうち、そのまま、寝た。

 翌日、正午を回ってしばらくした頃、星組を中心とした調査団はフラットヤンハーに到着した。

 高さ三十メートル、直径四十メートルの巨大さは、数字からの想像ではわからない実物の迫力で、全員の心を圧倒した。そびえ立つ威容は人工建造物ではなくまるで岩山であり、ひび一つない外観はそれが耐え抜いてきた太古からの時間の重みを余すことなく伝播してくる。

 ナタリーは無言になったロレンの隣で言葉を失い息を呑んでいた。それまでの惚気の幸福感(夢見心地)は吹き飛んだ。

『あれは、おとなしいものじゃない』

 あの時のロレンの言葉が浮かんだ。風雨に晒されて黒くなったフラットヤンハーは晴天の青い空を背景にしているにもかかわらず、そこだけ闇が佇んでいるような錯覚を与えてくる。内側に秘めた凶暴さをにじませているようだった。

「この中に入るの?」

「……そうらしいね」

 ナタリーは正直ゾッとした。こんなものの中に入って出て来れるのだろうか。確かにここは探検され尽くした遺跡で、これまでにも沢山の人達が中に入って失望はしただろうけど、無事に出てきている。しかし、信じられない。いまこの塔に入って無事に出てこられるのだろうか。

 二人とは反対に回りでは、調査の準備に取りかかった者達の熱気とやる気で満ちていた。口々にかけ声を上げながら、装備やテントなどの器材を降ろし、何人かは塔の周囲を馬に乗って回っている。ナタリーは、急に取り残されたような気分になった。

 ふと、遺跡のすぐ近くまでやってきている森の木が、ナタリーの目に留まった。普通の緑色をした木だった。それが風に吹かれて、ちょっとざわめいた。

 ナタリーはロレンを見上げた。

「大丈夫よ。私たちも行きましょう」

 ロレンは頷いたが無言だった。気乗りしていないのは明らかだった。けれども、ここまで来て任務を放棄するわけにはいかない。ナタリーはロレンの手を取った。ウラシムが言ったようにこれは決して軽はずみな動機で行なわれる調査ではないのだから。ロレンの手を引いたナタリーは何かを手伝うべく、指示をもらうためにイースの所へと歩いていった。

 宿営地の設営や水場からのルート確保など大方の準備が終わり、一息入れた後、調査報告や会議や朝礼などが行われる大テントの中で、直前の最終ミーティングが行なわれた。

 今日は一階部分の下見的な調査を行なうということだった。日暮れも近いし疲れもあるため、他は翌日へ回すらしい。妥当な判断だった。一階部分は全部で四室あり、最深部に二階と地下への階段がある。構造は単純だし、見取り図は完璧なものがあるので迷子の心配はない。

 徹底的な調査が目的なので、各部屋に明かり置きながら最深部まで行き、その後、本格的な光源の設置と調査を行なう。全ての階層を調べるのに一週間以上かかるだろう。それが終了するまではここを離れず、テントに寝泊まりすることになる。もし何かの発見があれば直ちに伝令が中枢院へ走り、大規模な調査団が出発することになる。当然、先発隊の任務は一週間を過ぎても続行となり、何時変えれることになるのやら見当もつかなくなるだろう。

「中では何があるかわからない。落盤はないだろうが注意を怠らないように。毒を持った小動物が最も警戒すべき対象だが、我々の熱気で追い払おう」

 小柄で小太りな中年イースが楽しげな表情で挨拶した。応えるように野太い歓声があがる。

「何か見つけたらすぐ声を出せ。手柄を独り占めにするんじゃないぞ。そんな奴がいたらウォージー天秤型魔方陣全二十巻の筆写をさせてやる」

 ブーッというどよめきが起こった。

「組長がやったらどうなるんスか?」

「私の場合は、一つならば独り占めがオッケーだ。筆写したものが家にある」

「きたねぇ!」

 笑声があがった。

「では諸君。いざ、未知なるものを求めて出発だ!」

 怒号の様な歓声が湧いた。

「いよいよね」

「そうだね」

 ナタリーは笑顔を閃かせながらロレンに言った。ロレンもやる気になったらしく、いつもの穏やかな表情に若干の活力を交えていた。

 先頭に立ったイースから、調査隊はフラットヤンハーへの調査突入を開始した。入り口は高さが三メートル、横幅は二メートル半あり、トロールでも通れる大きさがある。それがそのまま通路の大きさになる。中には一切光源が無いから行く道は真っ暗闇である。手に持った松明やカンテラで闇を払うように前進する。

 安全が確保された所から順次光源が世知されていき、くじ引きで予め決った順番に添って調査担当者が残って、壁面などを丁寧に調べていく。

 ナタリーは例によって最高尾にいた。ロレンも隣りにいる。調査担当の順番も一番最後である。順当に行くと地下ニ階第七室の調査を担当することになっている。一階は全部四室なので出番は明日以降の予定だ。

 ナタリーは、もしか何かが見つかるとすれば一階ではないかと考えていた。遺跡には侵入者を欺く罠やダミー通路が仕掛けられていることが多い。それらはその施設を正当に利用するものを守るための防衛機構であり、正当な利用者の利便性を損なうようには作られないことが多い。別に「最初の発見者」になりたいわけでもないし、出しゃばってナタリーより先輩の人達に疎ましがられたくもないので、自然とここにいた。

 そういうわけで、ナタリーは一階第4室の調査担当を引き当てたかったのだけれども結果はハズレ。残念だったが良い面もある。先頭付近に位置するのはまず無理だし、仮に真中ぐらいにいるとナタリーは星組で一番背が低いので、自動的に人の壁に囲まれることになる。二列縦隊だから普段の移動の時よりマシだろうが、窮屈な思いをするのは間違いない。そんなことなら一番後ろでのんびりしていたほうが良い。ロレンも隣にいることだし、結局の所、後で行なわれる検討には加わることになるのだし。そこで中心を占めればいいのである。調査が終わり段階が研究に入れば確実に出番が回ってくる。ナタリーは「我がオツム」に自信がある。調査ではケツでも研究で先頭が取れれば誰もが大人の女と認めてくれるだろう。いや、認めざるを得ないはず。しかもフラットヤンハーである。今度という今度は今度こそ。

「うふふ」

「どうしたの?」

 ナタリーの薄笑いに気がついたロレンが眉をひそめて尋ねた。

「いえいえ。楽しみだなぁ、と思ってね」

「へえ…」

 ロレンは、表情に訝しさを残したまま前を向いた。

 遂に調査隊はナタリー達を最後に、全員がフラットヤンハーの内部へ侵入した。調査隊を見送った生活班や兵士たちが自分の仕事に取り掛かった。



 ナタリーは緊張していた。鼓動が早かった。ナタリーはこういうところへ来るのは生まれて初めてだった。

 フラットヤンハーはとにかく巨大な建物だった。学士棟の一番の大きな部屋よりもさらに大きな部屋が続いている。部屋と部屋を繋ぐ通路も大きい。内部は誇りが分厚く堆積し土のようになって覆っていて、光がなくても育つキノコのようなものやシダのような植物が生えていた。戦闘が長い鎌で進路を確保して進んでいくのだが、意外に足元は固くシッカリしていてしっかりしていて、十分通常の革靴で歩いていけた。蛇などの小動物や有毒の洞窟性生物などに注意が払われたが、今のところは大丈夫そうだった。

 ナタリはー最初の部屋で様々なものに目を奪われてしまい、きょろきょろとしているうちに隊から少し遅れそうになった。ウキウキとした高揚感がじわじわと湧いてくるので、隊に付いていくことを忘れそうになってしまう。

「ナタリー、遅れてしまうよ」

 低い囁き声でナタリーを呼ぶロレンの声に苦笑してごめんなさいと返し、ロレンの顔を見て、すこし息を呑んだ。ロレンは今までに見たこともないとても厳しい顔つきをしていて、ナタリーのよく知る温和で子供にもお年寄りにも(もちろん女性にも)好かれる、微笑みの絶えない美男子とは全くの別人だった。

 ロレンは何かを嗅ぐようにスンスンと鼻を鳴らし、野生の狼を想起させるような隙のない鋭い目を周囲に配っていた。何かを警戒しているようだった。そういえばロレンの父親は猟師で、その影響で15歳くらいまでは野生児のように山で遊んでいたという話を思い出した。

 なるほど。これは小動物などを警戒するロレン流の万全の態勢なのね。

 だが、第2室に進むとロレンはさらに険しい表情になって何かぼそぼそとつぶやきはじめ、第3室に入ると首を傾げて立ち止まり、焦燥感に眉の歪んだ不安な表情を浮かべて「絶対におかしい」とはっきり聞こえる程の声を出すに至って、ようやくナタリーは異常に気がついた。

「ロレン、どうしたの? 何がおかしいの?」

「いや……」

「具合でも悪……」

 その時、先頭の方で歓声めいた声が上がった。ナタリーとロレンは戦闘方向へ頭を向けた。先頭はちょうど上下の階への階段がある第四室に入ったところだろう。第四室に何かがあった。何かとはこの場合、「新発見」を指す。

「何かあったんだわ!」

 列の前から後ろにへと波のように喜色が伝わってきた。わっと喜びの声を上げて両手で天を突く前列の人につづいて、ナタリーも拳を握りしめて喜びに顔を綻ばせた。鳥肌が立ち、体の芯から沸き起こる熱い歓喜がどんどん膨れ上がっていく。

「なんてこと!見つけたのよ私達!」

「その…ようだね」

 ロレンの声はびっくりするくらい暗かった。ナタリーは、あれっと首を傾げた。ロレンは全然嬉しそうではなかった。それどころか、眉間に縦皺を刻むほど厳しい、そのうえ怯えているような気色があった。

「ど、どうしたの?」

 ナタリーは訊いたが、ロレンはためらっているような素振りを見せるだけで答えなかった。黙ったまま、何かを探るようにあちこちに目を配り、匂いをかぐように鼻で息を頻繁に吸っている。

 その間に、ナタリーとロレンを残してみんなは第四室へと押しかけていった。第三室に残っているのは二人きりとなってしまったが、それでもロレンは動こうとしなかった。

 ナタリーも走って行きたい衝動に駆られたが、ロレンから離れたくはなかった。ナタリーはロレンの隣で膨らんでくる焦りにも似たものに耐えなければならなかった。ロレンの沈黙はさほど長いものではなかったが、ナタリーには余りに長く感じられた。そのうち、とうとう我慢できなくなってしまった。

「どうしたのよ!」

 声が少し荒くなったナタリーに対して、ロレンは実に真剣な顔を向けてきた。

「ずっと変だと思ってたんだ」

「変?なにが変なの?」

「ここには匂いが無い」

 ナタリーには、とっさにどういう意味なのかわからなかった。

「千年以上経っているのにカビ臭さも埃っぽさもない。この広い空間にこれだけ菌類とシダ類が繁殖しているのに、どういう仕組みか全然わからないんだけど、全然匂いがしないくらいほど換気されているだ。これはおかしいよ」

「だって、それはこの遺跡が変化しているからでしょう。だから向こうの部屋で発見があったんだし」

 ナタリーは第四室の方向を指でさした。

「眠りから覚めたんだわ。だから私達、ここに来たのよ」

「そう。目覚めたんだよ。フラットヤンハーは目を醒ましたんだ」

「良かったじゃない。調査が何かの成果を得たってことなんだから」

「良くないよ!」

 ロレンは怒鳴るように言った。それは切羽詰っているという感じだった。ナタリーは冷水を浴びせかけられたように冷静になった。

「君はこの圧迫感を感じないのか?」

 ナタリーはハッとして周囲を見回した。光源が乏しく薄暗い。時折ゆらめく炎のせいで気味悪さが醸し出されている。しかし、ロレンに言われてナタリーは気が付いた。見かけの無気味さの向こうにはっきりと感じられる強大な威圧感がある。暗き静寂の中に座したとてつもない圧迫感。忘れていたのだ。ここは一切が不明のフラットヤンハー。自分達はその腹の中にいるのだということを。

 ロレンの言葉が警句であることに、ナタリーは今更ながら気が付いていた。ぞっと寒気が走り、浮ついた気分も焦りにも似た感じも霧散していた。不安の黒い雲が、タリーの内心に生まれ、急激に大きくなり始めた。

「フラットヤンハーが重要な施設だと仮定すれば、当然何らかの防衛設備があったはずだよ。例えば、賊だとかからの。フラットヤンハーのこの第一階層にそれがあるとしたら、僕達は最も深いところに誘い込まれたことになる」

 ロレンの静かで低い声にナタリーの不安が膨れ上がったとき、第四室から金切り声のような悲鳴があがった。ナタリーの不安は瞬時に恐怖にすりかわり。極大に膨張した。

「逃げろ!」

「像が動きやがった!」

「逃げろぉ!」

 叫び声はまるで爆発音のようだった。恐ろしい悲鳴が上がるのとほとんど同時に、第四室から学士達が雪崩のように駆け込んできた。先頭はアンディだった。アンディの顔は恐怖と恐慌に色を失い、溺れかけた子供のように歪んでいた。

「おまえら、逃げろ! 逃げるんだ!」

 アンディの口から唾と一緒に絶叫がほとばしった。

 ナタリーは急に手を引っ張られ、出口に向かって引き摺られるように走り出していた。ロレンの手がナタリーの手を思いっきり握り締めていた。その痛みに顔をしかめながらナタリーは何がなんだかわからないまま、つんのめりながら走った。

「逃げろ! 逃げろ!」

「ぎゃああああっ!」

 第四室のほうからひきつった絶叫が上がった。口々に発せられた悲鳴や叫びが混ざりあい、凄まじい恐怖を伝えてくる。ナタリーの心臓は悪魔の冷たい手で掴まれたように竦み上がった。ナタリーは悲鳴を上げることもできなかった。声が出ず呼吸すら出来たかどうかもしれず、もつれる足を必死で動かした。よろめく度にロレンに引っ張りあげられ、ナタリーの足は中を走り爪先は床を滑った。

 第二室に入った。左の奥に通路があった。緩いカーブを描きながらロレンとナタリーは走った。異変を察して走り始める人が視界の隅に映る。その後を慌てた複数の足音と悲鳴が追う。その中には、はっきりとわかる絶命の声があった。

 耳を塞ぎたいほどの苦痛に満ちた断末魔の悲鳴は、まるでこちらに手を伸ばしてくる死霊のように心臓に突き刺さってくる。力が抜ける。足に力が入らない。

「助けて…ぐべぇっ!」

 後ろのすぐ近いところで潰れた絶叫が上がった。ナタリーは短い悲鳴をあげた。聞き覚えのある声だった。星組の女性……なんだっけ、思い出せない。

 ロレンの疾走は容赦が無かった。半ば腕一本でナタリーの体は釣り上げるられた魚のようだった。ひょっとしたら腕が折れているかもしれないと思ったが、それよりも、みんなの足音がどんどん減っているのがわかることの恐ろしさに、痛みどころか掴まれているという感覚すら感じなかった。

 死が近くに迫っている。ナタリーの目に涙が滲んできた。

 第二室を出るとき、走りながらロレンが振り返った。ナタリーはその瞬間を見ていた。ロレンの両眼が絶句するように剥かれた。ごうっという轟音とともに空気がビリビリと震え、ロレンの顔が愚連の赤に染まる。一瞬顔を歪めたロレンは、何かを振り切るように前へ向き直った。

「アンディ、急げ!」

 ロレンが叫ぶ。

「あぎゃっ!」

 答えるように悲鳴が上がった。悲鳴はアンディのものではない。

「ルシト! くそっくそっ、くそったれぇ!うわあああ!」

 発狂したようなアンディの絶叫が耳を打つ。

「後ろを見るな!」

 ロレンが叫んだ。ナタリーに向けられたものだった。ナタリーにはとても後ろを見ることなどできなかった。嗚咽が込み上げる。涙が溢れる。ナタリーは腕で目を拭った。

「走れ、ナタリー!」

 ゼイゼイと乱れた息の中で発せられた言葉は、懇願のようだった。

「助けて、ロレン…!」

「守ってやる!絶対に守るから!ナタリー!走れ!」

 もはや掠れて声にならない叫びだった。ロレンは走れ走れと叫び続けた。息を吸うことも吐くことも忘れて、ナタリー必死にロレンの後に続いた。

 第二室を抜け第一室と繋ぐ通路に入った。通路は直線だった。その向こうに第一室があり、直線上に出口がある。午後の太陽の光が小さな点になって見えた。

 もう心臓が止まりそう。こんなに短い距離なのに、肺が破れ、足が砕けそう。

 通路を走り抜け、第一室に入ったときだった。突然ナタリーの左腕と右足に衝撃が走り、走る姿勢のまま、ロレンと一緒に宙を飛んでいた。風だった。奥から強烈な風が吹いたのだ。それは、肌が痛いくらいの熱風でもあった。

 第一室の中程までの数メートルを飛び、かろうじて足から着地する。前のめりに崩れかけたナタリーの鼻を、生々しい血臭が突いた。あまりの濃密さに吐き気が込み上げた。吐き気をこらえた直後、思い出したかのように激痛が腕と足を走る。

「くっ!」

 ロレンの呻きが聞こえた。ロレンの背中に4つの血の花が咲いていた。

「ロレン!」

 ナタリーは絶叫した。

「行け、ナタリー!」

 ロレンも絶叫した。

 ナタリーは再び宙を舞っていた。ロレンが力任せに放り投げたとは理解できなかった。ナタリーは宙を舞う中で、ガシャンっという音を聞いた。何本ものナイフを束にしてその尖った先をテーブルの上に落とした様な音だった。

 肩口から床に転がったナタリーの左足首を、何かがえぐっていった。焼けるような激痛が全身を打ちのめした。気を失いそうなほどの痛みだった。ナタリーは悲鳴をあげた。

「ロレン!」

 ナタリーはロレンを求めて、力の入らない両手を、体の後ろで支え棒のようにして、上半身を起こした。その途端、ナタリーは絶句して硬直した。

 足をえぐったのは、天井から突きおろされて床に接した、長い槍だった。整然と並んだ高密度の槍の群れは、剣山のように無数であった。数が多すぎて、第一室の奥の壁すら見えなかった。それの最前列が、ナタリーの足の肉をえぐり取っていったのだ。だが、ナタリーの目を奪ったのは、それではなかった。

「あっ……あ、ああ……」

 ナタリーの唇が震えた。息が上手くできなかった。痛みすら、どこかへ忘れた。ナタリーの凝視する先には、槍に貫かれてぴくりとも動かないアンディがいた。糸繰り人形のような不自然な姿勢で、アンディは床に近いところで静止していた。あの愛嬌のある無骨な顔の中で、生気を失った剥かれた目がナタリーを見つめていた。

 ナタリーは声が出なかった。強ばった喉からは、ひゅうひゅうという掠れた呼気の音しかでなかった。

 がたんと音がして、槍の群れが一糸乱れぬ動きで天井へと引き揚げ始めた。速い動きであった。それにつられてアンディの体も上昇していく。

 途中で、アンディの千切れた腕が落ちてきた。生命を失った体の一部は、床に落ちるとべちゃっという湿った音を立てて、ごろりと転がった。追いかけるように細い血の筋が滴り落ちた。

 ナタリーは悲鳴を振り絞った。甲高い悲鳴が何度も空気を引き裂いた。悲鳴がこだまして行く先は、まったくの無音。何の気配もなかった。

 松明やカンテラの光が失われてゆき、フラットヤンハーは再び暗闇と静寂に包まれようとしていた。生の気配と入れ代わるように、濃密な血の匂いがたちこめる。

 ナタリーは体をくの字に曲げた。胃が痛いくらいに締め上げられ、喉を駆け上った胃液が口から溢れ返る。それは、二度三度、立て続けに体を突き上げた。

「……ロレン、ロレン……ロレン!」

 不意に風が吹いた。死の予感があった。雷の閃光を浴びたようにナタリーは体をびくっと震わせ、無我夢中で呪文を唱えた。印を切るために合わせた手がぶるぶると震えた。手が血糊に塗れていた。

 辛うじて完成した防壁の呪文の効果で、ナタリーの体は黄色い光に覆われた。それを目に見えぬ風の刃が襲った。風の刃はナタリーの体表寸前で食い止められ色濃いオレンジ色の火花を散らしたが、風圧によって枯れ葉のように跳ね飛ばされたナタリーの身体は三度宙を舞っていた。宙を舞う間のグチャグチャの視界は、外の日の光に白色に染め上げられた。文字通り叩き出されるようにして、ナタリーはフラットヤンハーの外に転がり出た。


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