第七話
室内には誰も居なかった。
ドアを開けると食卓が真っ先に目に入る。典型的な2DKの間取りだ。
くすんだ薄茶色の卓上には、しわくちゃの千円札が二枚と、真っ赤な口紅の付いた吸殻の入った灰皿と剛士の母親が書いた伝言と思われる紙切れが無造作に置かれてあった。
千円札一枚をポケットに入れた剛士は、次に伝言の紙切れを目を通しもせずにゴミ箱にくしゃっと放り投げた。そして薄汚れた白い冷蔵庫の上に目を配り、上に置かれているライターを見つけると、千円札とは別のポケットに徐にねじ込んだ。
剛士は火遊びが好きで、よくこうやって母親のライターを持ち出しては所構わず手当たり次第ありとあらゆる物を燃やしていた。
されど一般の男の子が少年期によくするように、昆虫などの生き物を燃やし殺す事だけは絶対にしなかった。
前に一度、剛士の火遊びに付き合わされてる最中、こいつは害虫だからいいだろうと晶が何気に蜘蛛を焼き殺したのだが、その直後「なにすんじゃあ、おめーは」と後ろから思いっきり剛士に蹴飛ばされた事があった。
冗談めいて剛士に小突かれることは多々あった晶だったが、本気でやられたのは後にも先にもこの一回こっきりだ。
背後からであった事と、そのあまりの痛さにしばらく蹲っていたので、その時の剛士がどんな形相をしていたのかは晶には知る由も無かった。
次に冷蔵庫を開けた。凡そビールやジュース等の飲料水しか並ばれていないその中から二本の牛乳ビンを取り出すと、一本を晶に渡し残りの一本を一気に飲み干す。
体格の良い剛士は水分を良く採る。給食の牛乳を七本飲んでケロっしていたという偉業は、クラスの伝説として皆の記憶に刻み込まれている。
その分、汗もよくかく。殆ど汗の出ない乾燥肌体質の晶には、もうすぐ冬だというのにだらだらと健康的に汗を流す剛士を暑苦しく、また羨ましくも密かに思えていた。
晶は何時も乾き、剛士は何時も湿っていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何時ものようにモノが乱雑に溢れ返る子供部屋の二段ベッドの下段に剛士は汗を拭きながら腰を下ろした。続いて晶は体を掻き毟りながら床のモノを掻き分けて胡坐をかいた。
そのモノとは殆どが膨大な数の漫画本だった。剛士は毎日の食事代として食卓に置かれてある千円札の大半を漫画に費やしていたのだ。
小規模ながら住宅建築の設計事務所を営む晶の家庭は、クラスの中でも比較的裕福な部類だった。しかし父親の方針で小遣いはあまり渡されてはいなかった。
文学系の小説などは無条件で買い与えられるのだが、漫画や俗物書などの類は僅かな小遣いから捻出しなければならない。
漫画に限らず無類の本好きである晶は、その性分を古本屋と図書館通いで賄っていたのだが、剛士が大の漫画好きである事を知って以来、ここに通う事も欠かせぬ習慣となっていた。
足元には鉄腕アトムや仮面ライダー等の、俗に言う『正義の味方』モノが多く転がっていた。
最初は問題児である自分に近づいてきた晶に、剛士も内心不信感を抱いていた筈である。
しかし、アトムの作者の神を本当に感じられるのは昭和二十年代の作品群であり、ライダーの作者の天才を本当に感じられるのは昭和三十年代の作品群であると、自分が生まれる遥か以前の漫画史を然も見てきたかの様に語る晶のお得意の知ったかぶりな薀蓄にノックアウトされたのか、次第にふたりは打ち解けるようになった。
それらの漫画本を肴に色々と作品への想いを語り合うのが彼らの至福のひとときであり、そこには教室では絶対に見せないふたりの顔があった。
「ほんとにあきらは、よー知っとるわ。マンガのことでもなんでもかんでも」
その日も講釈に熱弁をふるう晶を大きな眼を開け、まじまじと見つめる剛士だった。それに気を良くしたのか、珍しく晶も子供っぽい照れ笑いを浮かべる。
「まるで、ひょろん家みてーじゃわぁ。ヒョロヒョロあきらのひょろろん家じゃあ」
それを言うなら評論家だろと晶は笑いながら突っ込んだ。
「クラスのアホどもは、全然なんもわかっとらんわー。手塚せんせいや石森せんせいや、ここにいるあきらがどんだけすげーかっちゅうことを」
そういう剛士はクラスで一番成績が悪い。自分のことは完全に棚に上げている模様だ。
ボリボリと仮面ライダースナックを床に食べ散らかしながら、剛士は急に真顔になって「いっぺんワイが、おめーの代わりに、みんなをまとめてぶちくらわしてやるけーよ。あの気味わりー化粧した妖怪オバンのセンコーもな」と晶の鋭い目をじっと見つめながらつぶやいた。
こくりと頷く晶。それを見届けると剛士は、大輪のひまわりのような満面の笑みを浮かべ、こう言った。
「この正義の味方のホンミョウタケシがの」
仮面ライダーの主人公である本郷猛をもじった駄洒落混じりに、厚い胸元を大きな掌でどんと叩く。
その瞬間、唐突にドアを開く鈍い音がした。