雨の匂い
玄関を出たときから、嫌な予感はあった。
「こりゃあ、ひと雨降るよ」
もう十年も前に亡くなった祖母の嗄れ声が、脳裏に蘇る。
「お空がこんなに明るいのに、どうして雨が降るって分かるの?」
今日のように晴れているにもかかわらず、祖母が「ひと雨降る」と言う度に、僕は決まってそう尋ねた。まだ、声変わりという言葉も知らないころの話だ。
何度もしつこく尋ねる僕に対し、祖母は曇った表情を見せることはなかった。ただでさえ皺くちゃな顔に、さらに皺を寄せて笑った。
「なぜって、そりゃあ雨の妖精さんの声が聞こえるからさ」
そのやりとりは、祖母と僕の間の言わば「お約束」のようなものだった。
今になって思えば、最初は、年老いた祖母の口から「雨の妖精さん」などという愛らしい言葉が出てくるギャップが可笑しくてたまらなかったのだと思う。しかし、毎回、祖母の言ったとおりに雨が降ると、僕は段々と雨の妖精なる存在が本当にいるのではないかと思うようになり、「妖精さんは、目に見えるの?」とか「妖精さんは、どんな声をしているの?」などと、随分話をせがんだものだった。
「いつか僕も、妖精さんの声が聞こえるようになるかな?」
「そりゃあ、聞こえるようになるさ。晴樹は婆ちゃんの孫だもの」
祖母は自信たっぷりに言ったが、僕の二十五年の人生の中で、雨の妖精の声が聞こえたためしは、まだ一度もない。
ただ、絵に描いたような青空の下、ペインティングオイルにも似た微かな匂いが鼻孔をくすぐると、懐かしい嗄れ声が聞こえてくるような気がするだけだ。
僕は、普段から玄関先の靴箱の取っ手に引っ掛けてあるビニール傘を手に、自宅であるアパートの部屋を後にした。