第一章第六節
第六節 クリス・ヒーヴェル 皆川響子
「クリス!!クリス!!」
またか……。そんな思いを胸に嘘百パーセントの愛を叫ぶ。
「お父様~!!お帰りなさい!!」
クリス・ヒーヴェルは父の帰りをあまり快くは思っていなかった。いつも自分に見合う人間の写真を持って帰ってくるからだ。つまり、クリスは独身だ。だが、二十一の齢で結婚というのも、五十年前ならともかく、現代では酷な話だ。その美貌から沢山の求愛は受けてきたが、そのほとんどが自分の顔、そして財産目当て。嫌になるのも無理はない。自分の本質を理解してくれる人間は、母親と、最近知り合った皆川響子だけ。彼女はとても気持ちの良い性格だった。ロサンゼルスに本社を構えるファッションの大会社、ダイアン・シンフォニーの副社長なだけはある。二十三歳にして既にオーラが違う。五十になろうという幹部達を手足のように使い、なおかつその人望も失われてはいない。悪く言えば化け物、良く言えば超化け物。そんな人と仕事ができたのは、運が良かった。しかし、今は父が帰ってきた。これからまたあの見合い写真攻撃が始まるのかと思うとうんざりする。別に父が嫌いなのではない。ただ、少しうざったいだけなのだ。しかし、今回はうんざり攻撃を受けるばかりではない。反撃の目はクリスにある。
「クリス~~。今回は気に入るぞぉ~。今回は彼、クルーザー・マグモンド!!ワシントンの貿易商でな、物凄い金持ちなんだよ!!お前も気に入る顔立ちだと思うのだが…!!」
クリスの父親は二階に即座に移動し、センスの良い薄緑色のソファーに腰掛けている娘の正面に座った。手には写真があり、中に写っている男は確かに万人受けする顔をしている。
「お父様。私は結婚はまだ先にしようと思っているって何度も言ってるじゃない」
「そんな事を言わないでくれハニー。この結婚が決まればわがヒーヴェル財閥は安泰するんだよぉ~」
「お父様、会社の為に私に不自由を強いるっていうんですか…?」
「あ…!いや、そういうことじゃないんだよ。ただ、お前にとってもいい選択だと思うのだよ。お母さんもそう思うはず……」
「お母様にもう見せたの?」
「いや、会社で見当たらなかったから、とりあえずお前に先にと思って」
クリスの父親と母親が営んでいるのは、不動産である。かなりの大手会社との連携があり、有名で力の強い大きな会社である。だが、わずか一代限りで作った会社。まだまだ発展途上。色々な会社と提携を結び、更に大きな会社にしていかなければいけない。クリスの父、ロクス・ヒーヴェルは本気でクリスの幸せを考えてはいる。いるのだが、全ての物事に有益性を求める合理主義者なのは間違いない。
「私の答えは分かってるはずよ。ノー」
「むうぅ~…!せめて、会うだけでもどうだ!!それなら彼の良さが少しは分かるはずだ!!」
「じゃぁ、条件をつけるわ」
待ってました、と言わんばかりにクリスの目が輝く。
「何だ?」
「何でも一つだけ願いを叶えるって」
「はははっ!!いいだろう。何だって叶えてやるさ!!今回はどこに行きたい?アカプルコか?地中海か?」
「話が早い!さすがお父様!!だから大好き!!」
もちろん詭弁である。
「いや、会ってくれるならの話だ。いいかい?」
一瞬最愛の娘、クリスのおだてにコロっと目的を忘れかけたロクスだったが、即座にキリッとした顔で娘相手に商談の構えだった。
「オーケイ。分かったわ。会ってみる。仕事がない時間にね」
「ハッハ~!!よしよし、良い子だ!!」
「じゃぁ、私仕事の時間だから、出かけてくるわ」
父娘ともども良い笑顔で話し合いは終わったようだ。クリスは床に置いてあったシャネルのショルダーバッグを腕にかけ、玄関へ向かう。玄関の扉を開けた所で、二階でニヤニヤしている父親に振り返る。
「私が今度行きたいのは日本なの。でも、別にお金は出してもらわなくていいわ」
クリスの父親が不思議な顔をする。
「何故だい?さっき願いを叶えるって言ったじゃないか」
「ええ。願いを叶えるのは別の願いだから。私日本に引っ越すの」
「あぁ、引越しかぁ。引越しなら確かに私の許可が必要だな。母さんにはもう言ってあるのかい……………って、なにぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!?そんな事許せるはずがないだろう!!断じて許さんぞ!!」
クリスはコートのポケットからICレコーダーを出して、再生のボタンを押した。そのICレコーダーのスピーカーから聞こえてきたのは、先ほどのやりとり。『はははっ!!いいだろう。何だって叶えてやるさ!!今回はどこに行きたい?アカプルコか?地中海か?』
この部分を何度も何度も再生する。
「お父様、お母様にはもう言ってあるの。お母様はお父様がオーケイと言ってくれたら行ってもいいって。それじゃ、出発は十二月七日。もう飛行機のチケットも取ったし、決まった事だから。それじゃ、ね」
クリスは満面の笑みでウインクを一つサービスした。父は手すりの向こうで笑った娘を見て、腰が砕けた。あの行動力はまさしくヒーヴェル家のもの。血は争えんということか。しかし、日本に行くとは……やはり何か引き寄せるものがあるのだろうな……。と、一人寂しさを募らせる。そして、男泣き………哀れ、父親よ。
フェラーリのドアを開け、シートに座ると携帯を取り出す。着信メモリに入っている“皆川響子”の文字を選択し、通話ボタンを押した。何回かのコール音がなったが、運良くつかまった。
「あ、響子?クリスだけど、今大丈夫?」
『えぇ、大丈夫よ。仕事は部下に任せてあるから。私は椅子に座って優雅にティータイム。これぞ出来る女ってやつよ』
流暢な英語で返されると、本当に日本人か疑いたくなる。日本人の女性というのはもっと慎ましいというイメージがあったのだが……。そんな性格では大会社の副社長なんて任されることはないか、という結論に達して、クリスは笑みがこみ上げる。
「ふふっ。出来る女は恐いわ。そうそう、さっき私の父と相談して、日本に引っ越す件を話したらオーケイが出たわ」
『うそっ?!あんなに頑固そう…んんっ。失礼。一本筋を通している方がそうも簡単に許すなんて、どんなマジックを使ったの?』
「ふふっ。それは会ってのお楽しみ。私はこれから仕事があるんだけど、夕方には終わる予定なの。響子は何時位に仕事が終わる?」
『今日はそんな難しい仕事もないから、急な仕事が入らない限り八時には終わるわ。終わったら私から連絡するから。あ、レストランの予約をする必要ないからね』
「サンキュー。それじゃ、今日も張り切っていきましょ!!」
『オーケイ。また後で』
そして携帯の電源ボタンを押し、クリスは真っ赤なフェラーリを走らせた。
クリスの仕事はモデル。身長は百七十センチジャスト。髪はブロンド、瞳は透き通るようなブルー。スタイルは胸は控えめだがすらりと伸びる股下八十八センチ。綺麗なスレンダーという言葉をあてはめてもなお余りある超セレブである。しかも料理はできて運動神経抜群、語学力も抜群。母国語はアメリカ語、他はポルトガル語(母親がブラジルで生まれた白人で、十歳頃までブラジルに住んでいた。今でも別荘はブラジルにある)、そして行ってみたい国ナンバーワン、日本国の言語である。凄すぎて言葉もない。苦手な食べ物は、納豆とタコ、というアメリカ人らしさ満点である。全米でナンバーワンモデル、というわけではない。雑誌や広告のモデルが主な仕事である。大きなファッションショーのモデルになりたいのか、というとそうでもない。彼女は将来ファッションデザイナーになりたいというのである。ちゃんと学校も卒業しているし、学校にいる間にも仕事をこなしてきた。が、そのままファッションデザインの仕事に就くより、下の人間達の苦労を味わってからでも遅くない、という建設的な思考により、今はモデル活動をしているのである。その仕事の中に、ダイアン・シンフォニーからのオファーがモデル事務所に届いた。ダイアン・シンフォニーはアメリカのロサンゼルスに本社を置き、イギリス、フランス、イタリア、中国、日本、カナダに支社を置く大会社である。そして、その仕事の現場に副社長である皆川響子が居た。副社長なんてでかいポストを与えられている彼女が現場に来るなんて、どんな会社なんだ、と疑った。身長が百五十センチちょっとの身体で、小さい印象しか持てなかった。日本人は大抵身長が低いと聞いていたが、これほどまでとは。しかし、クリスが皆川響子の声を聞いた途端、彼女の大きさが分かった。えも言われぬ畏怖感、というか、オーラのようなものを感じた。もしそのクリスの考えを聞いたら、響子の弟である正優は『殺意でも感じたんじゃないですか?』とでも言いたいだろう。姉は偉大だが、正優にとっての恐怖の大王を具現化したような人物だったからだ。しかし、そんな態度をとるのは弟にだけ。仕事の事となると、真剣な眼に凛とした態度、そして的確な指示。これ以上ないというほどの力強さがあった。そして、クリスは、響子がファッションデザインもできると知り、自分の夢を語ったのだ。その夢にかける想いに感動を覚え、彼女達は非常に仲の良い友人となった。響子は竹を割ったような性格で、クリスはアメリカ人らしいアメリカ人だった。性格も合えば趣味も合い、より一層二人はお互いを好きになっていった。出会ってから三ヶ月、クリスは日本の事を響子によく聞いた。納豆は本当に食べているのか、ちょんまげは売っているのか、というくだらない話ばかりではあるが、日本に興味を持っているのはよく分かる。その時の会話の流れで、「私の実家が日本にあるんだけど、行ってみたい?」と響子が言うと、「イエスイエスイエース!!!!」と大興奮のクリスがいた。響子が、「自分が帰る時に一緒に遊びに来たらいいじゃない。で、帰る時も一緒に……」と言うと、クリスは、「日本に遊びに行くのではなく、日本に住みたいのよ」と言ってきた。響子はあまりの行動力にあ然としてしまったが、突飛は大歓迎。いつも新しいアイデアは変化が起こしてくれるもの。それに、綺麗なお姉さんが家に増える、という衝撃を弟がどのように反応してくれるかを楽しみにしていた。という事で、両親の了解を得て、響子の帰国に合わせて、という条件でクリスは見事日本に住んでみる、という大チャンスを得た訳である。そして、先程の父と娘のやりとりに移行するわけであった。なんとも大胆な行動力である。現在、二千一年十一月一日。約一ヵ月後には日本に降り立つ。それで胸が一杯だった。
ディナータイム。響子が選択したレストランは、超高層ビルの立ち並ぶ豪華なスウィート………ではなく。ただのファミリーレストランだった。そりゃぁ予約なんかいらないでしょう。木曜日は人もそんなにいないので、すんなり四人座りのソファーへ座る事ができた。しかし、大会社の副社長ポストのくせに、かなりのケチだなぁ、とクリスは思った。
「ねぇ、私がお金を出すから、もっと良い所で食べましょうよ」
クリスがコートを脱いで隣に置く。
「あらあらあら。これだからお嬢様は。いい?ここのハンバーグステーキは高級レストランなんかで食べるより安くて、早くて、合理的なの。いいからいいから。ここのお代は任せなさい」
と、にこやかに言って来るのだから、困ったものだ。
「それにしても、よくあなたのお父さん、許してくれたわね」
待ってました、と言わんばかりにICレコーダーを出すクリス。再生ボタンを押すと、響子に手渡す。そのスピーカーに耳をつけると、最後まで聞いた頃には響子の顔は純粋な笑いが半分、苦笑が半分であった。
「まったく……あなたの行動力には驚かされるわ……」
「お褒めにあずかり光栄よ。あなたにそんな事言われたくないけどね」
「はははっ。それもそうかっ。……って、店員来ないわねぇ。ちょっと、店員さん?」
響子に呼ばれた女性店員は動けなかった。背後に立つ男が居た。その男は手に銃を持っていて、女性店員の腰辺りにつきつけている。さすがアメリカ、恐ろしい確立で犯罪を体験するものだ。と響子は思った。
「マリー、俺はお前の事を愛しているんだ!!だから本当にあの女とは何もなかったんだ!!頼む、信じてくれ!!」
その異常さに気付いたのか、他の店員、客が慌てふためき出す。そのうるささに怒りを覚えたのか、その男が天井に向かってバァンッ!!!!とその空間のどの音よりもでかい音で静けさを生む。女性店員は今の音に失神してしまった。
「お前ら、そこから一人も動くな!!動いたら殺す!!」
犯罪者のお決まりの言葉を放つ男。しかし効果は絶大だった。そこにいる全員が身をすくめ、座り込んでしまった。身長は百八十センチ前後、茶色い髪にアロハシャツを着て、下は黒のチノパンツをはいている。銃の種類は恐らく警察官が持っているのと同じ型で、ニューナンブ。
「ふー、ふー、ふー……」
荒い息遣いで客を見渡し、マリーと呼ばれた女性を机の上に寝かせた。扱いそのものは丁寧で、彼がマリーに惚れているのは間違いないようだ。
「ガッデム!!!!」
と言いながら机に思い切りパンチをくれた。どうやらここに至るまでの過程は計算で起こしたものではないようだ。こんな事になってしまって、最悪だ、という男の心理状態を読み取ったのは皆川響子とクリス・ヒーヴェルだった。他の客達はそこまで冷静になる事はできなかった。しかし、響子は空手を長くやっていて、精神修練を行っていたせいか、非常に頭が冷静だった。そしてクリスも長刀の修練をしていて、精神修練も終えていた。彼女達はとにかく冷静になろうと努めた。警察に連絡をしようと携帯を出し、男に見つからないよう机の下で全ての音の設定をミュートにする。そして警察に電話をしようとした瞬間……。
ピルルルルルル、ピルルルルルル
という携帯の音がどこからか鳴ってしまった。男ははっとして携帯の存在に気付いた。
「お前ら、携帯を捨てろ!!いや、俺の元に一人一人やってこい。そして携帯を俺に渡せ!!お前から時計回りだ!!」
と、指を指されたのが運悪く響子とクリスのいるテーブルの隣だった。左隣という事は、次に自分達が携帯をもっていかなくてはならない。ばれたら恐らく何かされるだろう、という結論にいたり、警察への連絡は諦めた。
隣のテーブルにいたカップルが携帯を持ってその男に怯えながら近付き、携帯を男のいる机の上に置き、また元の席へ戻った。次は響子とクリスの番である。クリスは日本語で響子に言いながら席を立つ。
「私は手を止める。響子は敵に一発を……」
「ごちゃごちゃ言うな!!そのイエローも一緒に連れてこい!!」
「分かってるわよ……」
と、クリスと響子が恐さを装う。男は右手に銃を持っており、自分の胸の前に持ってきている。何もされないと思っているからだろうか、人を撃った事がないからだろうか、クリスと響子に銃を向けてはいない。クリスと響子は携帯をポケットから出し、机に置こうとすると、二人とも携帯を空中に放り投げた。何が起こったのかを判断するのに一秒程の時が過ぎる。その一秒の間に事は起きていた。クリスが携帯を左手で空中に投げると、男の目がそちらに向いた。その瞬間に男の銃を持っている右手に自分の右手を右側に添え、左手を銃の撃鉄が落ちる所に手を置く。そして銃の発射口を天井に向けたまま自分の全体重をかけて男の右手首を捻り、左肘を相手の右肘にかけ、男を床に押し込める。その状態ではすでに指に力が入らない、が、男の腕は太く、クリスの体重は軽い。数秒の間があればクリスを振りほどいてしまうだろう。だが、その数秒の間に、響子が渾身の力を右手に蓄え、男のわき腹をとらえていた。そして次の瞬間……
「だぁりゃあああああぁぁぁっ!!」
メキッ
「ぐぎゃあぁぁぁぁぁあぁぁあぁぁぁ!!!!!!…………」
皆川響子の小さい身体に何故あれだけのパワーがあるのか分からないが、彼女は冬服に厚い筋肉を秘めている男のわき腹に下段正拳突きを行い、あばら骨を四本折るという快挙を成し遂げた。その痛みに男は気絶し、銃をクリスが奪い取り、その店内は大喝采が空間をうめた。
その男はロープで縛られ、警察が来るまで気絶したままだった。救急車もその男の為に呼ばれたようなもので、他の客達には被害はなかった。響子とクリスは警察の事情聴取を受け終わって、ようやく開放されたかと思うと、こんどはマスコミが二人の周りに群がった。確かにマスコミ的には絵になるだろう。銃を持って人質をとった男を、ルックスも良いモデルのような女性と、日本の可愛らしい女の子(響子の身長が低い為十代半ばだと勘違いした)が一瞬にして倒したというのだから、そりゃぁ話になる。しかし、カメラを向けられた途端皆川響子は……
「この服はダイアン・シンフォニーの新しいモデルなんです!!是非お買い求め下さい!!定価三万四千円で売り出し中です!!パリでも人気のスタイルなんで、是非お買い求め下さい!!」
と、クリスの服を指差し、眼が商売モードになってしまった。インタビュアーがどのように犯人を倒したかを聞いても、服の宣伝をするばかりで、いい加減マスコミも帰っていった。クリスは響子の良い宣伝材料として使われてしまった。ここへ来てクリスは、響子がこの若さで副社長のポストに入る事ができたのか、理解できた気がする。しかし、響子のおかげで鬱陶しいマスコミは消えた。何も食べていないお腹がグゥー、と鳴り出した。
「あんっ!!まだ宣伝したりないわよ!!」
とがっついてる響子を逃げるマスコミから引き剥がす。
「響子、私お腹減ったの。響子が選んだファミリーレストランでこんな目に遭ったんだから、今度は私のリクエストにこたえてもらうわ」
「はぁ~~~い……分かりました~~……」
「それにしても、響子のカラテ、とんでもない音がしたわね」
「ほほほっ。か弱い女性がそんなはしたない事しませんわ」
「か弱い女性はだぁりゃぁぁぁ、なんて言葉は使わないけどね……」
と、二人は夜の街に消えていく。
その報道がなされた時、クリスの両親とダイアン・シンフォニーの社員は口の中に入れている食べ物を全て吹き出したという。
ちなみに、クリスが関節技をとった男の肘と手首も軽く折れていたらしい。どっちもどっちで恐い女性達であった。
十二月一日、皆川響子は実家、つまり日本の自分の家に電話をしていた。皆川正優に連絡をしようと、国際電話をかけているところだった。しかし……コール音が鳴り響くが、いつまで経ってもつかまらない。
「おかしいなぁ…日本時間でも、もう学校も終わって、晩御飯でも食べてる時間のはずなのに……」
携帯電話にもかけてみる、が、全く繋がらない。
「ん~、どうしたんだろ?携帯にかからないなんて事今まで一度もなかったのに」
昔、響子が日本に居た頃、仕事が遅くなる事を正優に伝えるために電話をした時、正優が響子の電話をとらなかった事がある。その時正優は携帯を家に置き忘れて友達と外に遊びに出て行ったらしい。正優が家に帰ると、響子がリビングで待ち構えていて、正優が構える間もなく、響子の後ろ飛び回し蹴りが正優の側頭部にジャストミートした。二日間起き上がれなくて、響子のねちねちとした嫌がらせ、もとい看病を体験した正優は、二度と携帯は手放すまいと心に決めたという。それを知っているからこそ、おかしく感じた。何かあったのではないか。少し心配になったが、まぁ、それくらい素行が悪くなっている方が鍛えがいがあるというもの。放っておくことにした。
十二月二日、深夜十二時五分、アメリカのロサンゼルスは非常に良い天気だった。しんと静まり返る高級マンションにはベランダがあるのだが、そこから眺める景色はなかなか気に入っていた。自慢で弟に見せてやりたいものだ。……しかし、こんなマンションに住んでいて、所得が人に言えない位高いのに、こんなに若さが溢れているのに、こぉんなに可愛らしいのに男ができないのは何故か?それは、私が高嶺の花だから?はぁ、罪な女。アメリカに越してきてからもう一年半。一向に男が寄り付かない。……とまぁ、それは響子ががっつきすぎてるせいもあるのだが、響子の酒癖が悪いのだ。合コンに参加すると、得意の空手で何人もの男を殴ったり蹴ったりしてしまい、男達に敬遠されている存在なのだ。ついたあだ名はマーダー・リトル・ハムスター。
「ふぅむ……繋がらないから、直接行って驚かしてやろうかな。その方が面白そうだし」
チャラーラー、チャラーラー←ロッキーのテーマ
電話がかかってきた。クリスからだ。
「はい、もしもし」
「響子、弟さんに連絡はついた?」
「いや、それがね。連絡つかないのよ。まぁ、どっか遊びに行ってるんでしょうけど」
「高校生なんでしょ?私若い男の子と話すのあんまり得意じゃないんだけど」
「なぁにを言ってるのよ。あんなもん奴隷と一緒よ。高校二年生なんてガキの中のガキなんだから」
「もう今の会話で既に弟さんの苦労が分かるようだわ」
「ほほほほほ。うちは厳しい教育してますから」
「ふふっ。じゃぁまた連絡するのね」
「いや、しないわよ」
「……え?」
「もちろんしないわよ。一回でも電話したんだから、チャンスはあげたわけよ。でもそのチャンスをものに出来ないようなやつにはもう連絡する必要はないわけ。つまり、当日急に行って驚かせてやるの」
「………はは…はは……」
クリスは、本当に響子と「友達」でよかった、と思った。
「クリスはお父さん達と話つけたの?」
「もちろん。私はもう必ず行くって言ったら、何故か援助金まで出してくれたわ。意外と簡単だった」
「オーケイ。楽しくなってきたわね。東京で行きたい所ピックアップしておきなさいよ」
「は~い。了解。それじゃぁ、これ以上お仕事の邪魔しちゃ悪いから」
「ん、まぁ、何にもしてなかったけどね」
「それじゃぁ、六日ね。ロサンゼルス空港で」
「えぇ。良い夜を」
と、電話を切った。響子は高級マンションのベランダで赤ワインを飲みながら新しいデザインの服を考えていた。ペンを置き、外に目をやると、月が出ていた。寒い冬空に昔の事を思い出していた。
私が八歳の頃、両親が死んだ。父親も母親も、多分普通の家の親より何倍も優しい人だった。イタズラにはちゃんと怒ってくれて、失敗には笑顔で返してくれる、本当に良い親だった。両親の写真はあるけど、イメージの中にある両親の顔と少し違うイメージだ。写真の中の父は記憶の父より大分ダンディな感じだし、母は記憶より優しい感じ。でも、写真は人のイメージより克明に残してくれるものだ。最愛の親が交通事故で亡くなり、おじいちゃんが色々世話をしてくれた。両親は基本的に家に居ない人達だったけど、暇ができると帰ってきては、父は私と正優を抱きかかえて一人空中回転機になってくれて、母は馬鹿者ども、美味しいご飯ができたわよ、と言って皆の頭をポンポンポンと叩いていく。そして、普通の家よりも大きな家の中で、言うほど美味しくは無いけども、いつもの味のご飯を皆で囲んで食べる。正優は小さかったからほとんど覚えていないし、私はあの子よりは幸せか。少しでも覚えているんだから。亡くなった時は、私は学校にほとんど行けなかった。おじいちゃんには心配かけたもんなぁ。登校拒否みたいな状況になっていて、おじいちゃんが仕事で忙しいのに、毎日家に帰ってきて慰めてくれた。大きな熊のぬいぐるみを持ってきてくれた時は心惹かれたけど、意地みたいなのもあって、反応できなかった。でも、おじいちゃんが仕事に戻った後、一緒にベッドで眠ったっけ。で、その光景を隠れ見ておじいちゃんは安心した、って言ってた。今となっちゃぁ、何であんなに意地になってたんだか……。その内友達が遊びに来るようになって、学校にも行けるようになって、精神的に安定した頃、あの出来事が起こった。小学三年生の今位の季節。黒いスーツを着た男の人が二人、おじいちゃんの家に訪ねてきた。その時はお手伝いさんが掃除をしていて、私が出た。
「君が皆川響子ちゃんかい?僕達はお父さんの会社の部下で、箱山淳一と言います」
普通のおじさんだった。後ろのおじさんも普通だった。ただ、ネクタイの柄が変な柄だった。箱山淳一と名乗った男のネクタイにはアルファベットの「H」。後ろの男は「M」と書いてあった。しかし、同じ色で形も同じ。小学三年生ながらに、ペアルックを男二人でしているというのが変に思えた。
「お父さんとお母さんによくしてもらった者なんだよ。よければお父さんとお母さんに挨拶していいかな?」
「今お手伝いさんが掃除してるから待ってて」
「分かりました。賢いお嬢さんだ。お父さんとお母さんが亡くなって寂しいかい?」
「寂しい。でも、寂しいなんて言ってても帰って来ないから、大丈夫」
「……これはまた、とても強いお嬢さんだ。うちに来て欲しいくらいだ。なぁ」
箱山といったおじさんは隣に居た仏頂面の背の高い男に始めて話を振った。その男は鋭い眼で私を一瞥し…
「いや、彼女は候補にはあたらない」
と言った。その時は変に思わなかったが、うちに来て欲しいって言っておいて、候補って扱いはなかったんじゃないか。それに、お父さんとお母さんにお世話になったって、挨拶に来るには余りにも遅すぎるだろうとも思う。
「すまんね。こいつは話が苦手で。お手伝いさんを呼んできてくれるかな」
「うん」
そしてお手伝いさんを呼びに行って、仏壇のある部屋まで案内した。その時カード…多分会社の証明書みたいなものをお手伝いさんに見せていたから、特に不信には思わなかった。男達が仏壇の部屋に入って行った。私はふすまの外で盗み聞きをしていた。数分間何も音沙汰がなかったが、中から話し声が聞こえた。
「やはり家族も知らないか……」
箱山と名乗った男の声だ。
「……やはり、本当に死んだのでは?」
「ふん…そういう報告が上がってこないから確認に来たのだ。しかし、無駄骨のようだがな。まぁ、灯台下暗し、なんていう古い手を使うほど馬鹿ではない。やつらはうちで一番キレる厄介者達だからな」
「………………」
会話の内容を理解しきれない。どういう事?お父さんもお母さんも死んでないって事?じゃぁ何で家に帰ってこないの?そういう思いが渦巻いてきた。そして、何か知っているのであれば、そこに居る二人に問い詰めたい。そう思った。しかし…。
「早く奴等を消さないとわた……」
「馬鹿っ!!そんな事をここで言うな!!」
ひそめた声だったけど、はっきり聞こえた。奴等を消さないと……つまり、二人はお父さんとお母さんを殺したがっていて、それで家に出向いたんだ。
「……もういいだろう。行くぞ……」
畳の部屋で正座でもしていたのだろうか、絹と畳の擦れる音が微かに聞こえた。その音が鳴った瞬間に私はふすまの隣にあった部屋に入る。ふすまを閉める音、そして床を歩いていく音。そして玄関の扉の音が鳴るまでそこにじっとしていた。暗闇が私を襲ったかのように猛烈な恐怖感に襲われた。眼が何処を見ているのか分からない。空間がぐにゃりと歪む。お父さんとお母さんが生きている?そして何故か狙われている?小学三年生の身ではとてつもない事件に入り込んだ、と思った。その夜、おじいちゃんが帰ってきた時に、夕方に箱山淳一という男の話した内容を全て話した。おじいちゃんは私の話を何でも信じてくれる人だから、すぐに会社に電話をして、箱山淳一なる人物に連絡をした。ところが、会社にそんな人物はいなかった。それどころか、お手伝いさんも何も見ていないと言ったり、監視カメラが玄関についているのだが、全く何も映っていなかったりした。私は訳が分からなくなり、泣き叫んだ。おじいちゃんは優しく私を抱きかかえ、警察に連絡してくれると言ってくれた。
おじいちゃんは私と正優を連れて、家の屋根裏に登った。そこには天窓がついていて、屋根に上がる事ができた。屋根に上がると、月が見えた。おじいちゃんは、そこで色んな月にまつわるお話を面白おかしく聞かせてくれた。そして、お父さんとお母さんの昔の話を一杯してくれた。正優は小さかったからすぐ寝てしまったけど、私は全部覚えている。その日は、やはり寒い星空がまばらに見える夜だった。
あれから十数年。何の音沙汰もない。私自身、あれは夢だったのではないかと思っている。しかし、身体が覚えている。あの恐怖感を。今私がこのファッション会社の副社長をやっているのは、お金の為だ。お金があれば、調査ができる。あの箱山淳一という男を捜す為。正優には何も言っていないから、のんきに暮らしているだけなんだろう。……それでいい。あの子に余計な心配はかけさせたくない。ただ普通の人間に育って、普通の暮らしをしてくれればいい。恵まれた環境で一人にさせるのは抵抗があったが、昔からの私の教育のおかげで変な風に育たなかったのは嬉しい。だから、私はあの子を守る為に、遊びたいのも我慢して仕事をする。男が寄り付かないというのも、もちろん誘いは断っているし、誘いが来ないような立ち居振る舞いを忘れない。私はあの男に会って、全てを問いただしたい。真実がどこにあるか、見極めたい。今飲んでいる赤ワインの色が、妙に癪に障った。血の色のように見えたから。
出発時刻、十一時三十二分発、東京羽田行き、国際便。そこに二人の女性が居た。クリスの日本で住みやすくする為の大きな荷物は後で届くようにしているらしい。そこいらの手配もばっちりで、後は乗り込むだけだ。クリスは期待に胸を躍らせ、響子は弟に久々に会えるのを楽しみにしていた。久々にいじめたい、という願望のあらわれなのだが。
「結局弟さんと連絡取らなかったのね。イタズラレディー」
「おほほほほ。その方が面白いんなら、やらない道理はないわ。それより、クリス、日本に着いたら何したい?」
「そうねぇ。寿司、天ぷら、うどん、そば。あとは…」
「食い気ばっか…」
「ノンノンノン。あともう一つ」
「何かしら?花より団子のお姫様」
「ボーイフレンドをつくりたい」
「…………リアクションできない位に驚いた。これまた行動派だこと」
「ふふっ。私も二十一歳の女。お父様のいない日本で恋人をつくれたら最高だと思って」
「じゃぁ、うちの弟を夫にしなさいな。ぴっちぴちの十七歳よ」
「ふふふっ。私が気に入れば本当にそうなるかもしれないわよ」
「あなたと親戚になれるんなら弟なんて惜しくはないわ」
「ひ、ひどい言われようね」
「んふふ。本気よ」
と、そこで飛行機に乗る時間になったようだ。乗務員が客のチケットの切れ端を渡していく。
「それじゃぁ、行きますか」
響子がそう言うと、クリスは少し考えてこう言った。
「そうね」
そう言って、クリスは正優がいる日本への航空機に足を踏み入れた。