第一章第五節
第五節 悲しみの中で…
リオンとリノは口や鼻から血を流し、目を見開いたままお互いを見つめ合っている。正優は二人の瞼に触れると、目を閉じさせた。そっと。できるだけそっと。
そうしなければ、リオンの首やリノの首を折ってしまいかねないからだ。……?
何故首が折れるなんて事が思い立ったのか?何故かは分からない。しかし、頭の中でこう叫ぶ別の正優がいた。『目の前の敵を殺せ』と…。
目の前に居る大きな物体は生きている人間を見て、凶器である自分の体を翻す。
先程まで生きていたリノの母を殺めた右手を握った。灰色の物体は床を踏み、はじけた。一蹴りで正優の眼前まで移動すると、大きく、それだけで凶器になる右拳は正優の頭を首からもぎとる為に振り下ろされる。灰色の物体は侮ったのだろう。普通の人間には対応できない速さで動き、しかも周りにいた人間達は普通の人間。正優が戦士である確立は低かったのだ。そして、振り下ろされた右腕は、正優が無造作に上げた左腕によって止められた。灰色の物体の右腕は、車の窓から腕を出して鉄骨に勢いよく腕をぶつけた様にひん曲がっており、悲痛な叫びをあげた。
「がぁぁぁぁぁぁぁ!!!!き、貴様はぁ~~!!」
灰色の物体は声を荒げる。正優はその大きな物体が喋られる事に多少の驚きはあったが、顔色一つ変えず眼前に居る物体を睨む。
「ぐぐ……戦士だったのか……いや、戦士だったとしても、攻撃を受けただけで俺の腕を折る事ができる戦士…貴様、S級戦士か!!」
ぺらぺらと喋るその物体は右腕をだらんとさせながら立ち上がり、後退する。正優は自分より遥かに大きいその物体に恐れや不安は一切なかった。頭の中に確実な情報として、自分の方が強いという情報が伝わってくる。そして、相手の動きがスローモーションに見える。だらだらと動いているようにしか見えない。
しかし、喋っている言葉は通常の速度で聞こえてくるし、認知できる。視覚だけが異常発達したように感じられる。そして、抑えられない鼓動がある。『殲滅したい』
「ぁぁぁぁぁあああああ!!」
正優は右手のひらの中にある空気を掴み、殺すつもりで殴ったことなどないその手で、一つの物体の動きを止めた。それは一瞬。少しだけ。ほんの少しだけ相手の方へ近付こうと地面を蹴る。すると、信じられない事に体が宙を走った。そしてそれがさも当然の事のように自分の右手は相手の顔にめがけてパンチを繰り出す。それはわずか零コンマ一秒の世界。灰色の物体の顔は粉砕し、脳しょうがぶちまけられ、脳に爆弾が積んであったかのように爆発した。正優の体は灰色の物体にぶつかり、何とか速度を緩められた、が、そのまま壁に激突し、壁に灰色の物体がめり込む。一瞬すぎて、何が何だか分からなかった。状況を冷静に分析できるよう、壁からゆっくり、ゆっくりと離れる。そうしないと、またとんでもない速さで宙を駆ける事になる事を頭では分かっていたからだ。
辺りを見回す。暗い部屋を見回す。所々に赤黒い斑点が見える。そして、眼に入る景色は――――――
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」
城の地下。ディミ・エンプティの周りにはバイザーの死体が積み重ねられていた。十秒。それがこの景色を生みだした時間。ディミの右手には日本刀があり、日本刀の刀身は血が少し滲んでいた。血を拭い、次に顔に飛び散っている血を拭っていると、後ろから声をかけられた。
「姫ー!!」
「海。城の状況は?」
「大方鎮圧しました。が、隊長クラスが見つかりません」
「……まずい状態ね。海はここの穴を塞いでおいて。私はセーちゃんの所に行ってくる」
「皆川殿のおられるのは東の塔、二十五階です」
「分かった。すぐ戻る」
「了解です。くれぐれもお気をつけて」
海は何の心配もなさげに言った。ディミの体を案じての言葉ではない、何か別の意味が含まれている。ディミもその別の意味を把握しているのか、首を軽く縦に振り、信じられない速度で走り出す。
暗かった地下厨房を越え、階段に差し掛かったとき、大きな人間のものではない声が届いた。威圧感が先程のバイザーの数十倍はあるだろうか。ディミは舌打ちをしながら声の方へ走り出す。眼前に大きなガーデンが広がる。明かりがさんさんと照る、花の生い茂った綺麗なガーデンは、何人かの人の血を浴びて汚されていた。目の前に居るバイザーは今まで相手にしていたレベルのもの
ではない。体格がまず違う。三メートルはあるだろうか。指の爪はただ存在するだけで殺傷能力を秘め、優しく撫でるだけで人を殺してしまう殺気が漂っている。
一番の特徴は、背中に羽のような物が付いている。木の枝のように一本の基幹から枝分かれしていて、それがあまりにも多くある為羽に見える。ディミは日本刀を両手で持ち、顔の右頬の辺りに両手を持ってきて、刀を敵に向けた。敵はディミの殺気を感じとったのか、大きな雄たけびと共に、戦闘が開始された。
最初に駆け出したのは大きな体躯の化け物だった。ディミは先程の体制を崩さず待ち構える。バイザーはディミの威圧感を無視してそのまま大きな手を振りかぶり、叩きつける。その手に、先程から構えていた日本刀でその叩きつけてきた手を受け止めた。いくら上級バイザーとて、目にも留まらぬ速さで振り下ろされた手が日本刀の刃と邂逅すれば、胴体と切り離されるのは必然。かと思えたが、ディミには何の衝撃も得られなかった。
『フェイント…!!』
ディミの左半身に衝撃が走る。バイザーが、ディミに当てるはずだった手を空振りさせ、その反動で体を回転させて左足のかかとでディミの横腹を蹴った。否、横腹ではなかった。ディミは片腕で防御を行っていた。しかし、表情一つ変えないディミ。だが、その印象とは別に、大きな音と共にディミの体は吹き飛ばされる。その勢いは、丈夫すぎる程の壁に穴を開けてしまう速度だ。しかしディミは壁が近付くと、足を伸ばし、壁に足が着いた瞬間、自分の脚力を最大限に生かして速度を殺した。そのまま壁を蹴ってガーデンの上空十五メートル程まで軽く跳躍し、バイザーのいる辺りに向かって落ちてゆく。ディミの日本刀が太陽に照らされ、七色の光線を弾く。ディミの視界に映るのは血色に染まった哀しいガーデン。バイザーはディミが降りてくる場所を察知し、バックステップで移動する。ディミは先程いたバイザーの位置に着地…をする寸前に日本刀をバイザーの腹を目がけて投げ放った。予想以上の速さの日本刀が、見た目どおりの殺傷能力を以ってバイザーへ飛翔する。しかしバイザーは避ける事もせず、ただ日本刀が腹に向かってくるのを待つだけだった。腹に力を込め、通常では考えられない硬度を誇る表皮が完成された。と、日本刀がバイザーに到着する前に、ディミの爆発的な駆け込みで日本刀に追いつき、右手で柄を取り、バイザーの額へと狙いを変えて襲う。
ガキィィィィン!!
しかし、日本刀は使い物にならない状態に折れてしまい、折れた日本刀の刀身がディミの左頬を掠める。バイザーはにたぁっと笑い、ディミの顔面に右腕のパンチを入れる。力を入れるには難しい体制だが、バイザーは腕を振り回す。それだけで脅威。ディミは自分の移動している速度プラスバイザーの腕の速度のパンチを顔面に貰う…かと思いきや、バイザーのパンチはディミに当たらなかった。いや、届かなかった。ディミの目の前に急に出来た黒いもやもやがバイザーの腕を
飲み込んでいたからだ。ディミはそのままの速度を利用し、バイザーを壁に叩き
つける。壁が余程堅固なのか、ヒビが入る程度で済んだ。しかしバイザーは硬く、大したダメージはないようで、うめき声一つも聞こえなかった。しかし、バイザーは焦っていた。バイザーの手を黒いもやもやが飲み込んで離さないのだ。ディミはバイザーから二メートル程距離を取り、言葉を発す。
「私の名前はディミ・エンプティ。お前の主人は何ていう名前?教えれば楽に殺してあげる」
「……」
バイザーは何も喋らない。今ディミが闘っているのは確実に上級バイザーだ。幾度となく戦場で壊し続けて来たバイザーの事だ。体を見ただけで分かる。上級バイザーが人間の言語機能を搭載されている事ももちろん知っていた。黒いもやもやはバイザーの手を侵食し続けている。バイザーの右腕をもう肩の辺りまで侵食していた。
「話しなさい。それができなければ、ここで死ぬまで。少しずつ体を消されながら、異次元で活動し続ける羽目になるわ」
「………」
黙秘。しかし、その黙秘は何か意図があるように見えた。黒いもやもやが肩から肩甲骨のあたりにまで進み、羽の根元に到達した瞬間、黒いもやもやはガシャン、という音と共に急に消え去ってしまった。鏡を蹴り破った時のように、もやもやはきらきらと庭園に差し込む光を反射させながらふっと消えた。代わりにバイザーの元の腕があるべき場所に戻っていた。
「能力キャンセル?!」
ディミの驚きを余所に、ディミの体は空を舞っていた。離れた場所にいるバイザーが右ハイキックを行っていた。もちろん距離的には届くはずもないのだが、現にディミの頭は揺さぶられている。恐らく新技術。意識が揺れる。目の前がゆらゆらとしている。空中を回っているので、視界にバイザーが入っても反撃が出来なかった。鉛のように重いパンチがディミの顔を貫いた。先程足場にした床にダンッ!!という音と共に叩
きつけられた。軽い脳震盪を起こす。バイザーは攻撃の手を休めないつもりだ。ディミは気配を察知し、すぐ立ち上がる。バイザーに正対しながら、一足飛びで背面にある壁まで移動した。頭が揺れているので、ディミは経験のみでバイザーと戦う事となる。バイザーが弾けた。全身の勢いを乗せたパンチを音と勘で左に首を傾け、避ける。あと数センチでディミの顔に届いたであろうそのパンチは、大きな石塊を作った。ディミは体を捻り左肘をバイザーの右腕に振り下ろす。振り下ろした肘は硬いバイザーの皮膚をいとも簡単に貫いた。先程刀で全く傷つけられなかった腕が思い切りひん曲がってしまった。皮膚は硬いせいでひび割れ、バイザーの肉に刺さってしまった。身の丈三メートルのバイザーは断末魔のような大きな声を出す。ディミの眼は明らかに別人のものだった。眼の輝きは失い、猫のようなぱっちりした目は敵を蔑む鋭い死神の鎌に変貌していた。右腕を左腕で庇うバイザーは、ディミの眼を見た瞬間、逃げ出した。バイザーの基本思考に恐怖は無い。上級バイザーには指揮をしなければいけないので多少の感情はあるのだが、ここまで
の過剰な反応が呼び起こされる事はまずない。バイザーは城の中に逃げようと、太い足が唸り声を上げ、白の入り口近くまで一気に移動する。ディミに背中を見せる形となるが、バイザーの前に一瞬にして回り込んだ。ディミの眼前にもう揺れは一切無い。体の全てが硬い皮膚に覆われていることをバイザーは後悔した。ディミの肩からの体当たり、崩拳と呼ばれる中国拳法をバイザーへと繰り出した時、バイザーには何が起きたか全く分からなかっただろう。音速で繰り出された崩拳で、いつの間にか体が全てひび割れ状態になってしまい、三十メートルはある庭園の端から端まで吹き飛ばされる。中国拳法は大地に足を踏み下ろし、その反動を利用して攻撃する技が多い。大理石の床は、ディミの足元だけひび割れ、威力の高さを物語っていた。バイザーは大きな体を壁に叩きつけられ、もう虫の息になってしまった。と、肩甲骨の辺りに生えてい
た羽が消えてなくなってしまった。どうやらある一定以上のダメージを受けると、能力キャンセルの力はなくなってしまうようだ。その証拠に、バイザーの体は先程ディミが放っていた黒いもやもやがバイザーをまた覆っていた。今度は能力が
キャンセルされる事もなく、静かに全身が飲み込まれ、クロノスペースへと呑み込まれた。
「未完成か……」
ディミの一言でその戦闘は終わった。……かに思えたが、ディミは背後にまた新たな気配を感じた。
ブォンッ!!
大きな音と共にディミの元居た場所にバイザーの腕が空振る。ディミは背後の気配を察知して、すぐに前方へと飛び込み前転をしていた。転がりながら、器用に後方にいるバイザーと向かい合い、また戦闘に入る準備をする。いつもの戦闘では上級バイザー何十対と戦っているディミは、この様な連戦では疲れるはずも
ない。先程受けたダメージも、蚊に指された程度……とまではいかないが、受けていないようなものだった。ディミが型を構え、戦闘体制に入る。しかし、急激にディミの体から力が抜けてしまう。
『副作用が今になって……!!』
まどろむ意識の中、大声で助けを呼ぼうと、息を吸い込んだ瞬間………
ドシャァァァァァ!!
バイザーは爆発物が頭の中に仕込んでいたかのように、頭部から首の辺りにかけてすっ飛んでしまった。ディミの暗くなっていく視界に映った人物は、第三の眼を額に付けた皆川正優だった…。
城の地下。先程ディミが海に譲り渡した場所。そこに数名の人物が話し合っていた。海と、もう二人。一人は黒装束を身に纏い、顔さえも黒い布で覆っている巨躯の男と、逆に白く和風の装束を身に纏う女が居た。
「臨昇。シン。城の中はどうだ?」
「私が見た所、バイザーは物量で攻めてきたようです。……しかし、戦士の常駐するこの城をそうやすやすと落とせないのは分かりきっている敵が、能力キャンセルを持ってはいるものの、隊長レベルが上級バイザーしか出して来ないというのに、悪い予感を感じます」
黒ずくめの男が答えた。この男の名は大文字臨昇という。
「私も同意見。物量って言っても、城に入り込んだバイザーはたかだか二百位でしょ?戦で千体以上も送り込んでくる奴らが、それだけの数で、しかもただの上級バイザーが指揮するっていうのは気になるね…」
白装束のつり眼の女が答える。この女の名はカイリ・シンという。
「ふむ。最適効率数という訳でもなさそうだ。…能力キャンセルを持った敵が現れると、この岩壁も崩れるであろう。臨昇、お前がここに残れ」
「了解しました」
「シンは東の塔に今すぐ向かい、警備の強化を頼む」
「了解…って、何で東の塔なの?あそこはA級の奴らが出張ってるから大丈夫でしょ?」
「今、要人が来ておられるのだ」
「要人ってーと、あの過去からディミが連れて来るっていう…?」
「その通りだ。あの者の警備は強化しすぎてしすぎる事は無い。さ、早く行け」
「了解」
カイリは霞のように一瞬で消えた。
「海様は…?」
「わしは姫の後を追う。副作用が起きているやもしれぬでな……」
「了解しました。ここはお任せ下さい」
「頼んだ」
海はそう言うと、ディミの駆け抜けた方へ走って行った。途中、何匹かのバイザーに出会ったが、コンマ一秒足らずで頭を刎ねると、ガーデンの方へ向かった。と、そこには先程客人として招かれていた皆川正優が、上級バイザーであろうものの首から上を吹き飛ばしていた。
ブシュー………
バイザーの鮮血が吹き出る。皆川正優は動かない。海も動かない。いや、動けない。
『な………何という殺気…!!そして、私にこれ程の恐怖を与えるとは……』
白浜海の体はいう事を聞かなかった。目の前に居る怪物を肌で感じ取っていた。あの殺気、そして怪物のような気迫。過去に五回感じた事のあるもの。そして、過去の五回は誰によってかというと…。
「……ひ、姫!!」
ディミが倒れたバイザーの少し前にうつ伏せになっている。離れて見ても動いていないのが分かる。恐らく能力の副作用であろう。ディミの方へ足を向けようとした瞬間…
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
突如皆川正優が叫び声を上げた。その叫び声に海が感じたものは、先程あった恐怖でも、怪物じみた気迫でもなかった。それは、哀れみだった。
コツーン…コツーン…コツーン…コツーン…
昔、何処かで聞いた事のある音。これは、靴と長い廊下が共鳴させる音だ。
コツーン…コツーン…
段々近付いて来る。不思議と心地よい感覚だ。何がそんなに心地よいのか……?
コツーン…コツーン…
とても懐かしい者が歩いてくる。そんな感じがしてたまらない……。
コツーン…コツーン…………
音が止まった…?
ガラガラガラ…
扉が開かれる音だ。音の方へ顔をやるが、瞼が開かない…
コツ…コツ…コツ…
部屋の中に入り、一直線に俺の方へ向かってくる。これは……誰だ……?
「……う……いま…だ……ん……………ら………」
音が飛び飛びで聞こえない。そしてすーっと意識が遠のく。とても懐かしい感じがする…。
正優の目の前には白い壁しかなかった。右側に窓があるのか、白い光が体の右側に当たっているのが感覚で分かる。
「起きましたか?」
女性の声だ。声のした方へと首を向ける。そこに居たのは髪の長い女性…。正優よりは年齢が上であろう事は分かる。落ち着いた佇まいをしており、見るだけで癒しを与えてくれる。
「よく寝ていらしたので、急に動くような事は止めて下さいね」
「あの、ここは…」
「城の二階にある救護室です。現在、ここで手当てを受けているのはあなただけしか居ませんが」
「救護室…?何で俺が救護されてるんだ…?」
「覚えてないのですか?あなたは上級バイザーと戦い、一撃の内に奴らを仕留めたんですよ?」
「バイザー…?」
「やはり記憶の混濁があるみたいですね。……とにかく、体に異常はありませんが、安静になさっていて下さい。今から精神安定が可能な能力者を呼んで来ますから」
救護室……というより、正優には、広い保健室のような感じがした。まぁ、どちらもあまり代わり映えはしないのであろうが。髪の長い女の子は椅子から立ち、学校の引き戸ドアに見えるドアから出て行った。
「バイザー?バイザー。……あ」
正優の頭の中に、昨日の出来事は反芻される。記憶の混濁…というより、記憶を無意識の内に隅へと追いやってたという感じだ。正優は命の最後を見てしまった。人間が死ぬ所を初めて見た。猫が道端で車に轢
かれて死んでいるのを見た時だって、辛い気持ちになったのだ。人間が死んだ所を…。それも数秒前まで一緒に遊んでいた二人の子供が、目の前で…。
「うぅ……」
吐き気を催した。普通の生活をしている一般人なら当たり前である。
「その後、俺は確か、あいつを…。あれがバイザーか……」
バイザーを思い出す。すると、額に少し熱が帯びるのを感じる。
「何だ……?」
周りを見渡すと、先程の女性が居た机の上に鏡がある。ふと眼に入った自分の顔。そこには…。
「な、何だ!!」
額に眼がついていたのだ。
「何だよ何だよ……俺は化け物になっちまったってのか?!……いや、化け物か。あんな事をした位だもんな…」
正優はあの塔の中での出来事を思い出した。
正優は突如部屋の床から現れた化け物を倒すと、リオンとリノを床から突き出た鉄から救い出し、二人の両親の横に寝かせてやった。キィー…と、その部屋の唯一の出入り口であった扉が開かれる。あまりにも遅い戦士の入場だった。
「こ、これは………」
正優はその戦士の顔を見る。戦士も正優の顔を見る。
「貴様がやったのか?!」
そう言うと、戦士は手から光るものを帯びさせた。どよどよと手にまとわり付いているという感じだろうか。正優はその手を見ている。すると、頭の中から情報が伝わってくる。
《あの光る物体は粘着質のもので、あの物体が他のものと触れ合うとそのものを溶かしてしまう。射程範囲は五メートル弱。直線にしか飛ばせないが、手のひら、足の裏から出せる》その情報は、文字でも声でも感触でもなく、ただ、頭の中に浮かんだ情報だった。予感という表現が近いだろうか。それにしてははっきり現れた感覚。正優はその戦士の手の動きを(正優が見ると、その手はスローモーションに見えた)見続け、光る物質が自分に向かって射出されるのを見た。その瞬間、正優は左足に力を入れ、右に避ける。戦士はこちらを目でも追い切れていなかった。急に目の前から消えたように感じたのだろう。正優はバイザーに与えた
一撃の十分の一程度の力で彼の体を押した。戦士は、扉外の螺旋階段上になっている鉄の作りの壁にめり込んだ。
「が、はっ……」
戦士は壁にめり込み、後頭部を打ったのか、気絶し、床にドサッと倒れこんだ。正優は何となく、目の前に居る戦士ならこれ位の力で上手く倒せる予感がしていた。そしてその通りの結果になったのだった。
「俺は…」
目の前に居る戦士が壁から剥がれ落ち、正優の足元に転がる。
「どうしたら………」
心臓が二つあるようだった。胸と、額に一つずつ。頭にドクドクと脈打つ感じ。そして、正優の頭の中に映像が浮かんだ。先程の、情報が浮かぶという表現が一番合うだろうか。《中庭へ行け》その情報が浮かんだ時、正優は弾けた。中庭への道なんて頭では分かっていない。体が未知なる道を学校の帰り道のようにする
すると移動していく。そして現れる大きな怪物。額が熱くなる。誰かが見ている気がする。ただ、情報が頭に浮かぶ。《ヤツを殺せ》《ヤツを殺せ》《ヤツを殺せ》《ヤツを殺せ》《ヤツを殺せ》《ヤツを殺…》
グシャッ!!
右手が怪物の頭に刺さっている。その瞬間、吐き気に耐え切れず吐しゃ物をさらけ出す。その気持ち悪さに気を失う…。と、そこまでが覚えている記憶だった。それで、正優はここに運び込まれたという事か…。
ガラガラガラ!!ダン!!
「セーちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!」
と、ディミが正優に抱きつこうと、全力ダッシュで飛んだ。
「ん?ディ……」
ドキャァァァァッッ!!
「んぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ディミの会心の一撃で正優はわき腹にダメージを負った。と、そこに先程の髪の長い女性が男を連れてやってきた。
「ど、どうしました?!」
と言って入ってきたのだが、その場面に出くわせば一目瞭然でディミの仕業であることが分かった。
「ディミちゃん。怪我人にフライングボディーアタックはやめてね」
「は~~~~い」
聞き分けのいい幼稚園児とその先生のような会話をしている所に、正優は腹をうずくめる事しかできなかった。
「あの、彼が死にそうになってるんで、シュートさん。助けてあげましょうよ」
哀れみを込めて言ったのは先程髪の長い女性が連れてきた男性。フラント・シューマーという男である。シュートと呼ばれた髪の長い女性はフリマス・シュート。第四救護室の管理者で、治療を主な仕事とする人物である。
「あ、そうね。ディミちゃん。ちょっとどいてね」
「先生、セーちゃんは大丈夫ですか?」
ディミは正優に抱きついていた腕を放して、シュートに尋ねる。
「お前に原因があるだろうが……」
と、消え入りそうな声で正優がディミに言う。
「大丈夫大丈夫。乙女のやわい攻撃で駄目になるほど男の子は弱くないよ」
その場に居た男二人は、ディミは別だ、と言いたかった所だが、言うと旗色がかなり悪くなる気がしたので言うのはよしておいた。
「さて、あなたのお名前は?」
シュートがベッドに隣にあった椅子に座って居なおす。
「セーちゃんだよ」
ディミが自慢げに言う。
「じゃぁ、セーちゃん」
「シュートさん。ノらないであげて下さい。不憫でなりません」
シュートがシューマーに諭される。正優はもうどうでもいい、という感じでふてぶてしくわき腹を撫で回している。
「皆川です」
「皆川君ね。体調はどうですか?」
シュートは正優の額に手をおいた。少ひんやりとした手が正優の心を少し落ち着かしてくれた。こういう能力でも持っているのだろうか?
「大丈夫です。記憶の方も戻りました」
と言った正優の言葉に、三人は驚いた。
「き、記憶を覚えているのかい?あの時君がした事を」
シューマーが冷や汗を流しながら正優に問う。
「は、はい。覚えてます。最後の庭園みたいな所で、そのバイザーとやらを殺した所までは……」
「セ、セーちゃん、それを思い出してもなんともないの…?」
「え?何で?」
三人の困惑と正優の困惑は別のものであった。普通の一般人というものは、人が死ぬ、という現場に顔を付き合わせると、正気を保つ事は難しくなる。多少の恐怖や畏怖感、吐き気等を起こすのが普通であるのに対し、正優はバイザーを殺し
た所までを覚えていて、なおかつそれがさも当然であるかのごとく話したのに、
三人は驚いたのである。兵士になった者でも、初陣では死体を見た途端吐いたり戦意を喪失したりするものだが、この少年にはそんな兆候が全く現れていない。
まるで暗殺者と同じように。一方の正優は三人の驚いた顔に困惑した。
たかが人が死んだだけ、という感覚が身につきまとっていた。その感覚は自然。至って普通だった。喜びや悲しみを感じないわけではない。ただ、人の死、という感覚がそれほど悲しむような事象ではないように思えていた。
「セーちゃん、眼が…」
ディミが正優の顔を見ると、額にあった眼が閉じてきていた。能力の発動に伴う外見の変化というものは例がある。能力を使うと、身体に紋様のようなものが浮かび上がってきたり、腕が怪物のような大きな腕になったりする。インパクト的には、正優の額に眼が現れるという変化は他のものに比べて印象が薄い位のもの
だった。
「何だ…?」
正優は少し遠くにある鏡を見た。自分の額に眼がある。第三の眼だ。酷く冷たい感じがした。まるで別の誰かの眼のような感じがした。急に眠そうに瞼が閉じていく。そして完全に眼が閉じられたとき、瞼がなくなり、普通の額が残るのみとなった。その瞬間、正優の中には異常なまでのフラッシュバックが起きていた。先程まで死という概念が恐くも何ともなかったのに、瞳がなくなった途端に死の記憶が大量の痛みと辛さと悲しさを持って正優の脳に投影されてしまった。
「ぐぅぁぁあぁああああああああ!!!!!!!!!」
急に頭を抱えて暴れだしてしまった正優を、シュートとシューマーがおろおろとしてしまう。それが当然の反応だが、ディミは違う。彼女はいつ如何なる時も不偏の心を持つ。その心こそが戦場で幾多の戦いを切り抜ける為の武器となったのだった。冷静に正優の内情を診断した。
『第三の眼が消えてなくなり、更にその直後に頭を抱えて苦しむという事は、あの眼が感情、もしくは記憶を抑え込んでいたという事。彼に最近起きた出来事で痛みをもたらす事象といえば、能力の開放に伴う一時的な頭痛、もしくは記憶の奔流、
あるいはその両方か。その二つの可能性が高いなら、今はベストな人材がいる』
「先生は彼の痛みを和らげる為に治療を、そしてその能力を発動している間、シューマーの能力で彼の記憶を読み取り、いつものように精神が安定する位置まで引き上げて」
「「了解」」
ディミの判断を受け命令されると、彼らは指示通り動いた。フラント・シューマーの能力は他人の精神を具現化させる。具現化された現象はシューマーしか感知できない存在である。その具現化された精神は、シューマーに安定させるか従順にさせるかの二択を選択させられる。そして選択した後は、パズルのように綺麗
に組み合わせていく事によって、そのものの精神を安定させる事も従順にさせることができる。従順にさせるようにするには多大な時間と、
自身の精神力を使うことにもなるので、多用はできない。副作用は、そのパズルが失敗した場合、そのものの精神は崩壊してしまうことである。正優に彼を使うのは少し躊躇われたが、躊躇している場合ではなかった。今処置しておかなければ、彼の精神が崩壊してしまう危険性だってあるのだ。戦争がない日本で暮らしていた彼は、人の死を体験し、訳の分からないものではあるが、生物のように見えるバイザーを自分の手で殺して…いや、壊してしまったから…。
フリマス・シュートは医療班に身をおいているだけあって、治癒能力を持っている。彼女の能力では、外傷、内傷の治癒、病原菌の死滅が主な能力になっている。副作用はシュートの一時的筋力低下である。筋力低下といっても、通常の生活をする分には差し障りもなく暮らせるのだが、戦闘まではできない、という程度である。しかし、長い時間能力を使うと、立っていられなくなるという事もある。二人の治癒が行われている間はディミにできる事はなく、医務室の外に出た。そして少し冷えた空気が彼女の頭に冷え渡る。
「また一人、死を背負った人間が生まれた……私のせいで……」
朝に似合わぬ涙が一つ、彼女の頬をつたった。
城の中ではバイザー達の急襲が原因で起こった被害の改善に忙しかった。その中で、国王と、国の役員、そして大きな発言力を持っている兵士達は会議を行っていた。死者は四十三名、うち四名は兵士。うち三十九名は最も厳戒な態勢が敷
かれていた東の塔に集中して起きている。東西南北にかまえる塔の中で、被害が出たのは東の塔のみ。明らかに東の塔には何かがあるという考えから、東の塔を
中心に調査を行ったところ、おかしい所がいくつかあった。何故か東の塔の階段で待機していた戦士達はバイザーと遭遇していない点。二十五階にはA級の戦士がいたが、その戦士が壁にめり込んだ後、床に倒されただけの点。バイザーは人間だと判断すると、例え相手が降伏していても殺してしまう。あそこまで派手に
やられていた戦士がまだ生きているという事は有り得ないのだ。ちなみにA級戦士の彼はまだ目覚めていない。そして最後に、二十四階と二十五階にいる人間達だけが殺された点。この状況は兵士達、役員、そして国王を非常に混乱させた。二十四階の下である二十三階では誰一人バイザーの存在には気付かなかった。少し時間が経ったときに、上階で何か大きな音がしたというのである。二十三階には兵士が二人いたのだが、その二人も何者かによって気絶させられていた。しかしそれは大きな音が聞こえた後の話で、バイザーが二十四階から二十五階に天井
を突き破って移動した事までは確かなようである。しかし、二十四階にどうやってバイザーが侵入できたのかが分からない。もしかしたら、SANの新たな科学技術なのかもしれない、と非常に危惧していた。しかし、今混乱に陥っている城に攻撃を仕掛けてくれば、悠々とまではいかないまでも、確実に大打撃を与えることができる。しかし、一晩明けた今でも実行に移してはいない。何かが噛み合わない状況で、ディミ・エンプティがその会議に途中参加した。
「東の塔の一件は恐らく皆川正優のせいでしょう」
会議に参加している者は騒然とした。今は父という立場を越えて、特別な一兵士と国王という権力の違いがはっきり見渡せる会議での発言である。国王の顔は真剣な眼差しで、ディミの顔に緊迫感が突き刺さる程である。
「皆川正優というのは…?」
「私が時間移動で見つけてきた人間です」
おぉ……
会議が一時騒然となる。
「皆、静まってくれ。今はその話をしている場合ではない。ディミ。その皆川正優という者は今は…?」
「今は第四救護室にて治療を行っている最中です。彼は能力の覚醒による暴走、そしてそれに伴うバイザー迎撃の記憶の奔流によって激しい頭痛に見舞われています。治療に携わっているのはフリマス・シュートとフリント・シューマーです」
会議に参列している者達がどよめく。
「やはりディミ様の能力で時を越えると、能力が開放されるようですな」
「しかし、これで希望は繋がった……」
「だが東の塔の一件は…」
「静まれ静まれ。まずはディミの話を聞こう」
役員たちのどよめきは国王の言葉にかき消される。喋り声がなくなったのを見計らって、ディミは再度話し始める。
「私は彼を城の大広間まで案内しました。そこで白浜海と会いましたが、その時、バイザーが城を襲撃してきたというアナウンスが流れました。皆川正優は白浜海が東の塔の二十五階まで移動させたそうです。私はその後、地下の第三厨房の近くの大ロビーで敵と交戦。十八体を倒しました。そこで、白浜海と再度合流し、その場を任せ、私は皆川正優の守りを固めるべく、移動していました。その途中、明らかに上級バイザーと思しき気配を感じたので、中庭に行きました。その敵には能力キャンセルという新しい技術を持った上級バイザーが現れました」
「能力キャンセル?!」
再び会議室がどよめき出す。しかし国王が止める。
「皆のもの、多少我慢して聞く必要がある。もう少し結末まで聞いてもらえまいか?」
どよめきは段々と消えていった。そしてまたディミが話し出す。
「能力キャンセルは非常に脆い技術のようです。ある程度のダメージを負うのか、もしくは能動的な能力をキャンセルするか、最初から上限が決められているかは分かりませんが、私の能力をキャンセルすると、能力キャンセルの元であるバイザーの背中にある羽のような物体が消え、そして能力キャンセルをする事ができなくなったようです。そのバイザーを倒した後、背後に新たなバイザーが現れ、対応しようとした所、時間移動の能力の副作用により、眠気に襲われました。その時救いに現れたのが、東の塔の二十五階にいるはずの皆川正優でした」
どよめく事はなかったが、国王と役員、兵士達は顔色が少し変化した。能力の発動した後すぐには、確かに超人的な能力が開放されるが、意識を保つ事が難しく、
すぐに失神してしまうのが普通なのだが、皆川正優は東の塔の二十五階から兵士にも見つからず、尋常ではない速度で中庭まで移動し、ディミを助けたという事は、かなり特
殊な事例なのである。いや、異常というべきか。
「彼は吐しゃ物をさらけ出し、気を失い、倒れました。その時私も能力の副作用により倒れました。恐らく私と皆川正優を運んだのは白浜海でしょう。声が聞こえましたから。以上、報告を終了します」
………………………………………。
静寂が会議室を侵食する。誰も声を放てないかわりに、色々な考えを思い浮かべる事ができた。一分程だろうか。静寂の間を国王の発言で満たす。皆がその発生源に顔を向けた。
「ディミ・エンプティの報告通りであれば、東の塔の問題は一つ減ったわけだ。だが、まだ謎が残っている」
ディミに眼を向けながら国王が言った。ディミは訝しげに言う。
「謎が残ってる……?どういう事ですか?」
顔見知りの役員が重々しい雰囲気でディミに状況を説明する。この役員はディミがあまり得意としている人間ではなかった。ボルカウス・クーガー。軍人たたき上げの人間で、頭が硬く、正直好きになれない人間だった。しかし、国の為に働く姿勢は何よりも強い意思が感じ取られ、国王には頼りにされている人物である。齢六十になろうというのに、身体の方は屈強な戦士のそれと変わらないほどである。海の先輩で、海に槍術を教えたのは彼だった。しかし彼は能力の発動が行われていないので、戦線から離れる事となった。
「バイザーの侵入経路が分からない。二十三階の人間は全くバイザーの存在を感じ取れなかったという話だ。そして二十四階の五号室と
六号室、そして二十五階の五号室しか被害が出ていない」
「…?おかしいですね。いくら能力キャンセルを持っていて外部からの侵入が可能だったとしても、外壁から侵入すればその形跡が残るはず」
「そういう事だ。この謎には何かあるのではないかと国王と話し合いを行っていた。白浜海にも話を聞かなければならんな」
ふぅ…とため息をついて椅子の背もたれに体重をかけるクーガー。
「今白浜海は何処に?」
ディミがクーガーに尋ねる。
「バイザーの侵入経路だと思われる地下にできている穴の調査に向かわせている。月心と大文字臨昇が同行している」
「分かりました。私も調査に行きます」
と、椅子を後ろに引き、立ち上がろうとする。
「待ちなさい」
国王に呼び止められる。
「は、なんでしょう」
あくまで父という関係はこの場にはない。最高の権力を持つものと、特殊な能力を持ち、権力を持つ兵士の関係。それは覆ることのない……
「お前の連れてきた皆川正優という男はかっこええんか?!」
いや、覆る事もあるようだ。会議室の空気が一変して変化する。クーガーはまた始まった、というように、左手で顔を覆っている。
「国王、今はそんな話をしている場合ではございません。この国を案ずる事が第一の……」
「細かい事は気にするなといつも言っているだろう。こうゆう砕けた雰囲気が頭を冷静にする事もある。なぁ、ディミ!!っていねぇ!!!!」
国王がクーガーからディミに顔を遷移させた時、もう既にディミはいなくなっていた。
「あんのやろぅ、照れやがって……さすがわしの娘だけあって可愛いじゃねぇかぁ」
本当にこの国の一大事という自覚があるのかどうかは分からないが、今までの深刻なムードが消えたのは国王の力とも言えるだろう。まったく、ふざけた国王だった。
皆川正優は治療を終えていた。今はベッドの中で安静にしている。シューマーはもう部屋の中にはいなかった。シュートは机でなにやら書類をまとめている。窓から差し込む光は淡いものではなく、はっきりとした太陽の光であった。皆川正優はまどろみから覚醒へと頭を切り替えている途中であった。シューマーの能力は、初陣の戦士が精神状態が最悪な状態(戦友が死んだり腕がなくなったり)から生還した時、戦士をまた戦場へ送り出すことができるように精神を安定させるのである。それのおかげか、悲しいという感情はありつつも、時が過ぎて記憶にもやがかかったという感じで、吐き気を催すというほどではなかった。皆川正優はとんでもない所へ来てしまったという後悔はもちろんだったが、今、正優の中に渦巻いている感情はもっと別の感情が席巻していた。
「俺……憎んでるんだ…あの化け物を……」
その小さな声にシュートは気付いたようだった。
「起きましたか?」
シュートが正優のベッドの横に置いてある椅子に座りながら言う。何やら衣類を持っているようだ。
「あ、はい……。あの、ディミは今何処に…?」
正優が知っている人間はディミしか居ない。彼女を頼りにしているという事で彼女の場所を聞いたのではない。むしろその逆。問い詰めたかった。自分自身に起こった出来事と、そしてバイザーと呼ばれる者の目的。頭がまとまらない今の状態ではいい考えも思い浮かばない。せめて話を聞かなければ。
「あら、一国の姫をディミなんて呼び捨てして。そんな関係なんですか?」
「いいからあいつの場所を教えて下さい!!」
正優の迫力に一瞬たじろいでしまう。シュートは医療班とは言っても能力を開花させたものである。能力が開花した者は個人差があるが、身体能力が大幅にアップする。最初は突然の身体能力の開花に戸惑うものなのだ。正優の情報は既に聞いている。東の塔二十五階からとんでもない速度で中庭まで移動し、上級バイザーの頭をはねた、というとんでもない事をしでかしたのだ。その彼の身体能力は恐らくシュートの上をいっている。暴れられたらかなわないと考えたシュートはディミの居場所を教える事にした。
「彼女は今、会議に出席しているはずです」
彼女は頬に冷や汗をかきながら的確に情報を伝える。
「彼女に会いたい……」
その言葉は好いた者への言葉などでなく、憎しみと困惑を含めた言葉のように感じた。その言い草に彼女は少しの怒りを覚えた。ディミは自分の身も省みずこの国を守る為に走り続けている。英雄ともいえるべき彼女に対してのこの言い草は、この国の人間でない事を知っていたとしても苛立ってしまう。その心情が口をついて出てしまいそうになる時…。
「私はここだよ」
ディミが救護室のドアの前に立っていた。さすがにシュート程度での実力では、音も気配も感じない。完全な隠密の技である。シュートも戦士として決して劣っているわけではない。ディミが遥か上にいるという事だ。
「先生、ごめん。二人にしてもらっていいかな?」
「……はい」
シュートは少し考えたが、ディミの提案に賛成した。二人になった所で、人間…いや、この世のどの生物もディミを倒す事なんていうのは不可能だろう。そういう結論に達し、シュートは引き戸を開き、軽い会釈を加えて出て行った。
シュートが救護室を出て行くと、ディミは先程までシュートが座っていた椅子に腰掛ける。
「セーちゃん。まずは謝るわ。ごめんなさい」
「…………」
「セーちゃんを勝手に連れてきて、危険な目にあわせて、本当にごめんなさい」
「…………」
「でも、生きてて良かった」
「俺はさ……」
急に喋り出した正優の言葉に耳を傾ける。
「人が死ぬのを見たんだ」
「うん」
「その中に、死ぬ前まで俺と一緒に遊んでいた男の子と女の子がいて……」
「…うん」
「その子達は、俺のくだらない遊びに付き合ってくれて、楽しそうに笑ってたん
だよ…」
「………」
「そしてその子達が笑ってくれた時、嬉しかったんだ。俺でも役に立てるんだって。そしたらさ、死んだんだよ。目の前で。…俺に礼を言ってくれようとした瞬間に…」
「うん…」
「俺………の……うぐっ…せいっ…でっ……ひぐっ…」
「セーちゃんのせいじゃない!!絶対に!!」
ディミはここ最近で一番焦ったのかもしれない。シューマーの能力が効いていない。効いていれば泣くはずはない。…いや、そういう事ではない。自分と同年代の男の子の、弱い涙を見た事がなかったからだ。戦士達は涙を流さないかわりに血を流す。それが戦争の悲しみだった。そして、彼女の経験に涙を流す男の子をどう扱うかなどという知識は到底知るはずもないのである。彼女はうずくまる正優の背中に高価な割れ物を触るように手をおいた。そして、その温もりは正優も久し振りに感じた人の温度だった。