あの頃のように
唯が総務部に配属されてから、一ヶ月ほど経った頃の、ゴールデンウイーク明けの朝。
「おはよう、君もいまの電車だったんだね」
出勤途中、背後から聞こえてきた低い声に、もしかして自分かな、と思いつつ振り返った唯の視界に飛び込んできたのは、朝からさわやかな一哉の笑顔。
「あ、おはようございます、大槻先輩」
笑顔で応えると、一哉の表情が一瞬だけ複雑そうなものに変わった気がしたが、ほんとうに一瞬そう見えただけにも思えたので、唯は深く気にしなかった。
「そういえば、昔もこの沿線だったっけ」
「はい。先輩もそうだったんですね」
「ああ、就職してから一人暮らしを始めたんだ。実家のほうは、弟にまかせて大丈夫そうだったから」
「そういえば、真央とこないだ久しぶりに遊んだんですけど、私が先輩のいる会社の、しかも同じ部署に配属されたって言ったら、すごく驚いてました。そんな偶然あるんだねって言って」
「大学では離れたのに、真央とまだ仲良くしてくれてるんだね、ありがとう」
そう言って一哉がこれまた魅力的な笑顔で笑ったので、不覚にも唯の胸はどきりと高鳴ってしまった。
「い、いえ…真央って、見た目はちっちゃくて可愛いって印象なんですけど、中身はすごくさっぱりしてて付き合いやすいんですよね。高校時代も、男の子も女の子も友達がたくさんいましたよ」
「あれはさっぱりっていうか、細かいことにこだわらなさ過ぎるだけだと思うんだけど……にしても、男も友達ばっかりだったのかい?」
苦笑いしていた一哉が、ふと気付いたように訊いてきたので、やはり妹に近付く男は気になるのかなと思いつつ答える。
「彼氏はいないって言ってましたけどね…高校の頃は毎日会ってたから、もしできてたらわかると思うんですけど、大学に入ってからはわかりません、すみません」
「いや、謝ることじゃないよ。でも、やっぱりあの性格じゃ寄ってくる男もいないのかな。彼氏でもできれば、あいつももう少し女の子らしくなるかと思ったのに」
「え、真央に彼氏ができるの賛成なほうだったんですか? 私てっきり、『妹にちょっかい出す男は許さん!』てなことかと…」
「まさか! 弟と二人で、『あいつはもう少し食い気より色気が出たほうがいい』って言ってたぐらいなのに」
それは意外だった。真央は何だかんだで可愛らしいし、二人の兄たちから溺愛────もちろん、悪い虫は近付けさせない、といった風にだ────されていると思ったのに。真央同様、二人の兄たちもそういう意味ではさっぱりしているほうなのだろうか。
「朝からずいぶん仲よさそうじゃないの~」
背後から、にまにま笑いを浮かべて声をかけてきた存在に、唯は心臓が止まるかと思うほど驚いてしまった。
「おおおおお、おはようございます、藤子先輩っ」
「おはよう、鳴海さん」
「おはよう。いやあ、あんまり仲良さげだから、声かけるのためらっちゃったわー」
藤子はすっかり、誤解している様子だ。
「ち、違いますよっ 大槻先輩とはすぐそこで会って、先輩の妹の真央の話が出たからつい盛り上がっちゃっただけでっ」
「ああ、唯ちゃんの高校時代の同級生なんだっけか?」
「はい。この間久しぶりに会ったし、つい嬉しくなっちゃって」
「えー、それだけなのー?」
「それだけですよ?」
「なーんだ、そんな妹さんなら、小姑の問題もなくていいと思ったのに」
「だからー、私と大槻先輩はそんな関係じゃないって何度も言ってるじゃないですかーっ」
などと、唯は誤解をさせまいと必死だったから、自分の背後で一哉が小さくため息をついたことに気付かなかった。唯がそれを知るのは、もっとずっと後の話である……。
そして、会社に着いて身支度を整えて、始業時間前に仕事の準備を終えたところで、始業時間を報せるチャイムが鳴り響いた。
連休前に藤子に教わった簡単な仕事をおさらい代わりにこなしながら、唯はパソコンのキーをたたく。少々心配だったが、連休を経ても一度覚えたことはそうそう忘れなかったようで、ホッとする。
「…で、この課長や部長の承認の印をもらってから、その部署に持っていくんだ。これは…営業部と経理部か」
「はい」
「じゃ、ついてきて」
同じく新入社員の木内に説明しながら、一哉が唯と藤子の背後の通路を通過しようとした時、藤子が思い出したように声をかけた。
「あ、大槻。悪いんだけど、経理部行くならついでにこれも持っていってくれない? 主任に渡してくれるだけでいいから」
「いいよ。主任だね」
言いながら書類を受け取って、一哉は木内と共に総務部の出入り口から廊下へと出ていった。それを見届けてから再び机上に視線を戻した藤子が、小さく声を上げた。
「先輩、どうしたんですか?」
「しまった、これもだったわ。大槻もう行っちゃったかしらっ」
「あ、私持っていきます。ちょうどいま立ったところだし」
「そう? ごめんなさい、お願いね」
脚の速さにはあまり自信はないが────身長のわりに運動はあまり得意でなかったので、学生時代はよく「見かけ倒し」と言われたものだ────いま出ていったばかりだから何とかなるだろうと思いつつ、早足で後を追う。幸いにもあまり大柄ではない木内が一緒だったからか、思ったほど先にまで行っていなかったので安堵の息をもらす。
「大槻先輩!」
その声に、一哉と木内が振り返る。
「小林さん? どうかしたのかい?」
「これ、藤子先輩がうっかり忘れてしまったそうで…一緒にお願いしますとのことです」
少々乱れた呼吸を整えながら、唯は手に持っていた書類を渡す。
「うん、わかった。でも、そんなに慌ててこなくてもよかったのに。転んだりしたら、危ないだろ」
学生時代、慌てた時に何度か一哉の目の前で転んだりつまずいたりしたことを彼が覚えていたと悟って、唯の頬がかあと熱くなる。そのたびに、「慌てなくていいから」と優しく諭されたことも、記憶にハッキリと残っていたから。
「そ、そうですね…気をつけます」
何も知らない木内は不思議そうだ。そこに、更に別の声が割って入ったのは、その直後のこと。
「大槻ー。なーに新入社員の女の子困らせてんだあ? セクハラでもかましたか?」
一哉と同じくらい背が高くて眼鏡をかけた、見知らぬ男性社員だった。
「人聞きの悪いこと言うなよ、大崎」
「あっ 違うんです、大槻先輩は何も悪くないんです。私が勝手に、過去の恥ずかしいことを思い出しちゃっただけで……」
まだ頬の赤みはひいていなかったけれど、自分のせいで一哉が変に誤解されてはマズいと思い、唯は慌てて顔を上げた。目が合った瞬間、新たに現れた男性が「あ」と声を上げた。自分を知っているのだろうか?
「君、総務の小林さんでしょ。モデルみたいなコが入ってきたって、うちの営業部でも評判だったんだ。しかもあの鳴海さんと組んでるから、すごい目をひくんだよな」
買いかぶりだ、と唯は思う。藤子はともかく、自分など十人並みの容姿でしかないのに。背が高いから、目立つだけだ。
「どっちがセクハラだ、大崎。女性の容姿について何やかや言うのもセクハラの一種だぞ」
「褒めてるのに?」
「本人が褒められてると思わなければ、同じことだろう」
誰でもない自分のことを言われているせいで、何だかとても居心地が悪い。そんな唯に、大崎と呼ばれた男性が再び声をかけてくる。
「ああ、もし背のこととか気にしてたらごめんね。でもこれは感嘆からの言葉だから、自信持って、堂々としてたらいいよ。そのほうが、女の子はもっとずっと綺麗になるんだから」
そんなことを言われても、恥ずかしくなるばかりでとても自信など持てそうにない。
「もうやめとけ、大崎。言えば言うほどドツボにハマってるぞ、お前。小林さん、こいつこれで悪気はないから気にしないでね。営業だから、口が異様に回るだけで」
「大槻、お前こそ俺に対して失礼なことを言ってるじゃないか」
「いいから、まず自己紹介しろ。このままじゃお前、ただの失礼な奴で終わるぞ」
「それは嫌だなあ。では改めて。大槻や鳴海さんの同期で、営業部の大崎弘也です。小林さん、これからどうぞよろしくね」
「あ、小林唯です、どうぞよろしくお願いしますっ」
言いながら、深々とお辞儀をする。木内は何も言わずに軽く会釈をしているだけなので、既に彼と面識があるのかも知れない。
「名前が似てるし、背格好も似た感じだから、よく間違われてね。入社当時からすごく迷惑してるんだけど、これでも根はそんなに悪い奴じゃないから。何か言ってきても、『ああまた何か言ってる』と思って聞き流してればいいよ」
「大槻、それはフォローしてるつもりなのか?」
「さてね」
口ではそんなことを言い合っているが、二人の表情や雰囲気は楽しそうなので、もともと親しいが故の軽口なのかも知れない。しかし、いつまでもこんなところで立ち話をしている訳にもいかない。
「あ、私、いい加減仕事に戻らないと……それじゃ皆さん、失礼致します」
「あ、うん。よかったら、今度一緒に食事でもしようねー。二人だけじゃ嫌だったら、大槻や鳴海さんも一緒で構わないから」
笑顔で言う大崎にぺこりと頭を下げて、再び総務部へと戻る。後に残された一哉と大崎が、どんな会話を交わしていたか、まったく知らないままで。
「いやー、小林さん、外見はカッコいい感じなのに中身は可愛いなあ。俺、マジで口説いちゃおうかなあ」
「やめとけ。つい最近、平井に危うく罠にはめられるところだったんだから、よけいな恐怖を与えないでやってくれよ」
「あー、平井なあ。あいつのやり方はスマートじゃなくてダメだよな。女の子はもっとこう、ちゃんと段階踏んで口説かないと。けどお前も、何か大事にしてるっぽくないか? 何となく、他のコに対する時とどこか違う気がするんだよな」
「……さあな」
唯は、何も知らない…………。
* * *
それから三日ほど経った日の、仕事帰り。会社から家までの間にある途中駅の中のビルから出てきた唯は、背後からどこかで聞いたような声で名前を呼ばれて、振り返る。半信半疑だったのには、理由がある。だって以前ならいざ知らず、現在のその人が自分をそんな風に呼ぶはずがないと思っていたから。
「唯ちゃん」
と……。
「大槻…先輩……?」
すると相手────こちらもやはり仕事帰りらしい一哉は、少々複雑そうに苦笑いを浮かべてみせた。
「こんなところでどうしたんだい? 君の家はまだ先の駅じゃなかったっけ」
「あ、さっきまで藤子先輩と一緒に、駅ビルで買い物してたんです。先輩は、電車の時間があるから先に行っちゃいましたけど」
一哉に促されて、駅前の広場の少しひとけの少ない方へと移動する。
「俺、一人暮らし始めたって言っただろ、その最寄駅がここなんだよ」
「そうなんですか…あ、ありがとうございます」
一哉が自販機で買ってきてくれたオレンジジュースを受け取って、「お金…」と言いながらバッグから財布を取り出そうとするが、一哉に手で制されてしまった。
「いや、俺がちょっと話したいことがあったから、おごらせて」
「そういえば…先輩、さっき私のこと……」
そこまで言いかけたところで、自分の分の缶コーヒーを一口飲んだ一哉が、少々気恥ずかしそうに唯をまっすぐに見た。
「いや、さ。真面目なのは唯ちゃんのいいところだと思ってるし、会社なんだから当然だとわかってるんだけどさ。唯ちゃんに他人行儀に呼ばれると、何か無性に淋しくなっちゃってさ」
その言葉を聞いた瞬間、唯の記憶の一部が刺激された。
そうだ。五年前のあの頃は、一哉のことを名前で呼んでいた。特別な何かがあった訳でもないけれど、「『お兄さん』と呼ばれると、弟の一斗とどっちでもいいように思われてるみたいで嫌だから、ちゃんと名前で呼んでほしい」と、いかにも双子の片割れが考えそうなことを言われて、名前で呼ぶようになったのだ。いまは個人的なつながりなどほとんどないに等しいのに、唯のことをそういう風に思ってくれているのかと思うと、何となく嬉しかった。自分なんて、単に妹の真央の友人としか思われていないと思っていたから。
「いまは昔とは違うし、もう唯ちゃんも立派な大人の女性だけどさ、名字や『先輩』とか言われると、やっぱりすごい淋しいっていうか、さ…。あっ 嫌だと思ったりするかも知れないし、いくらただの昔馴染みっていっても、他の男を名前で呼ぶことを嫌がる相手がいたりするかも知れないし、単なる俺のわがままだから、聞き入れてくれなくても全然構わないんだっ ただ、真央とおんなじように思ってた相手によそよそしい態度とられるのが、こんなに淋しいことだとは思わなかったっていうかさ、何ていうのかな、可愛い妹分に距離置かれちまった気がするっていうか…って、何言ってんだ、俺っ」
大きな身体をしていながら、まだ若い少年のように完全にテンパってしまっている一哉は、何だか可愛らしくて……あの頃既に自分よりずっと大人だと思っていたのに、いまの一哉は当時の唯と同じくらい────否、もしかするとそれよりもっと純情かも知れない────ウブに見えて、当時の一哉、更に会社でそつなく仕事をこなしている一哉と同一人物とはとても思えない。
「えっと…要するに、『あの頃と同じように接してほしい』ということでいいんでしょうか……?」
そんな風に思われていたなんて、全然信じられなかったけれど。
「…まあ。ぶっちゃけちまえば、そういうことに…なる、かな」
「えと…会社とか、そっち関係の他の人がいるところでは、さすがにできないので、プライベートの時のみになりますけど……それでも、よろしければ…」
気恥ずかしくて、少々小さな声になりながらも告げた言葉に、一哉の表情が先刻までとはうってかわって輝き始めた。
「マジで!? 怒る相手とかいるんじゃないの!?」
「えっ いませんよ、そんなひとっ いまもあの頃と同じように、こんなデカい女に言い寄ってくる人なんていませんし」
「嘘だろー。大学にもいなかったのかよ?」
「背だけなら高い人はたくさんいましたけど、その上で頭が固いとなると、やっぱりダメみたいです。でもしょうがないですよね、これが私の性分なんですし」
自分で言ってても、ちょっと胸が痛くなるけれど。いま告げた通り、それが唯なのだから仕方がない。
「世の中の男は見る目ないなあ」
「あはは、やっぱり仲がいいんですね。藤子先輩とおんなじこと言ってますよ」
「ああ、鳴海さんとは入社当時から妙にウマが合うからなあ。まあ、お互い恋愛感情はないけど」
「藤子先輩には、昔から一筋だっていう彼氏さんがいますものね」
実をいうと、今日の買い物も藤子が「デートの時に着る服が欲しい」と言い出したので、実現したようなものだった。まあ、藤子は私服のセンスもかなりよいと思っていたので、唯も藤子の見立てでいままで着たことのないようなタイプの服に挑戦することができて、とても楽しかったが。
あんな風に、いつまでも一人の相手を一途に想い続けられる恋ができたらよいなと思うほど、憧れずにはいられない恋だった。
「……それじゃあさ。何の問題もないところで、さっそく昔みたく呼んでみてもらえないかな?」
「えっ い、いまですかっ? 少し時間おいて、心の準備をしてからじゃダメですか?」
「えー、時間おいちゃったら『やっぱり恥ずかしくってダメ』なんて言い出すんじゃないのかい?」
「う」
さすがに一哉は唯の性格を把握しているらしい。
「いいじゃん、せっかく久しぶりにのんびり話せたんだし、その勢いでさ」
実にさりげなく、すいーっと一哉が唯のそばに歩み寄ってくる。その楽しそうな笑顔を見上げていた唯は、顔が一気に紅潮していくのを感じた。やっぱり一哉は自分より上手だと思わざるを得ない。
「ほら、唯ちゃん。お兄ちゃんだよ、昔みたいに呼んでごらん」
「え、と……い、いち…」
「ん?」
期待に満ちた瞳が唯を見下ろしている。
「いち……」
「はい、もうちょっと」
五年ぶりに呼ぶ名前が、こんなになかなか出てこないとは思わなかった。
「い、いちや、さん…………」
やっとの思いで切れ切れにだけれどその名を呼んだ瞬間、一哉の瞳と笑顔がこれ以上ないというほどに輝いた。それに比例して、唯の心の中の羞恥のゲージはもう限界まで振り切れそうだった。
「はい、よくできましたー。やっぱ唯ちゃんには、そう呼ばれるほうがいいな、俺」
唯の頭を優しく撫でながら、ほんとうに嬉しそうに一哉がそう言った瞬間。
「何だ、やっぱりお前らデキてたんかよ?」
いつの間に迫っていたのか、一哉の背後から大崎がにゅっと顔を出して何気ない口調で言い放ったので、唯はもちろんのこと、一哉まで飛び上がって驚いてしまった。背の高い一哉の背後からやってきたので、一哉はおろか、唯も気付かなかったのだ。
「こんな公衆の面前でいちゃいちゃしやがって……見てるこっちのが恥ずかしいったらないぜ」
「いちゃいちゃなんてしてないっ!」
「それ以前に、そういう関係でもありませんっ!」
すっかり暗くなってきた空に、ふたりの焦りまくった声が吸い込まれて行った…………。
少しずつ埋まっていく、あの頃と現在の間…?