変わるもの、変わらないもの
一話だけ掲載したままでお休みしてしまってすみません。
お待たせしてしまいましたが、第二話です。
唐突に現れた自動車と男性に、唯は困惑を隠せなかった。何がどうして、こういうことになったのだ?
「わーい、いち兄、ありがとーっ!」
「お前だけならまだしも、お友達にまで迷惑かけてるっていうんじゃ、仕方ないだろうが」
軽く頭を小突かれているが、そんなに痛くないのか真央は全然こたえていないように笑っている。茫然としている唯に気付いたらしく、相手の男性がゆっくりとこちらに向かって歩いてきて、そっと会釈をしてきた。
「えっと、真央のお友達の方かな? 初めまして、真央の兄の大槻一哉です。このたびは、真央がわがままを言ったようで、面倒をおかけしてほんとうに申し訳ない」
「あ…初めまして、真央と同じクラスの、小林唯といいますっ わがままだなんて、とんでもないっ 真央は何も悪くないんですし」
「そうよー、全部野村が悪いのよー」
「それでも、受験生なのに無理させてるのは事実だろ」
「うー」
それを言われると弱いらしく、真央は小さく唸って黙り込んだ。
「でも…お兄さん、前にお見かけした時とずいぶん雰囲気が違う気が……」
少し前の春休みに真央に誘われて家に遊びに行った時、家に隣接している真央の両親が経営している飲食店の中をちらりと覗いてみたのだが、両親と共に忙しそうに働いていた男性────「家を継ぐために頑張っている」と真央が言っていた兄であろう────と、顔は間違いなくそっくりなのだが、あの時はずいぶん短く刈り込んでいたはずの髪が、いまは風にふわりとなびくぐらい長くなっていて、同一人物とは一瞬わからないぐらいだ。
そんな思いを胸に言葉を紡ぐと、相手はああと言いながら軽く前髪をかき上げた。
「それは多分、双子の弟の一斗のほうでしょう。一卵性だから、顔はそっくりってよく言われるんですよ」
「え……」
「あたし前に話したの覚えてない? うちのお兄たちは双子だって」
「あ」
そういえば、聞いた覚えがある。会う機会も写真を見る機会もなかったので、「兄が二人いる」という情報以外、忘れてしまっていたようだ。
「顔はそっくりだけど、性格は全然違うのよ。いち兄はいかにもイマドキのナンパなおにーちゃんだけど、かず兄のほうは単純明快な体育会系だもん」
「誰がナンパ男だ、こら」
ぐりぐりと真央の頭に拳を押し付けてはいるが、冗談だと双方ちゃんとわかっているらしく、楽しそうだ。兄や姉がいない唯は、とても羨ましくなってしまう。
「まあ、それはともかくとして。唯ちゃん、でいいんだよね? 送っていくから、真央と一緒に後ろに乗って」
「えっ そんな、悪いですよっ まだ電車も十分ありますし、私は電車で…」
思わず遠慮してそこまで言いかけた唯だったが、じっと自分を見つめてくる二対の瞳に気圧されて、最後まで言い切ることができなくなってしまった。
「あのね、唯。このまま独りで帰して、何かあったりしたら、あたしたちがどんな気持ちになると思う? まず、学校から駅に行くまで10分程度だけど歩くでしょ? でもって、いまのこの時間じゃ、電車も満員よね? 確か20分くらい乗るのよね、痴漢だって出る可能性もあるし、その上家の近くの駅からも歩くんでしょ? その間、『唯は無事だろうか、変な人に出くわしてないだろうか』って、ずーっっとあたしたちに心配かけたいの? こんな遅くまでマネージャーの仕事に付き合わせて、唯に何かあったりしたら、あたし一生後悔して生きていくことになるけど、それでもいいの~?」
そんな大げさな、と言いたいところだけど、自分の手を両手でしっかり握る真央の目は真剣そのもので。これで唯にほんとうに何かあったら、本人の言う通り、真央は一生自分に対して傷を背負っていくことになりかねないと思えるほどの気迫で、さすがの唯も「大丈夫」とは言えなくなってしまった。
「う…!」
「という訳で、唯ちゃん。うちの妹のためにも、ちゃんと家まで送らせてくれないかな。俺も、自分の妹と同じ年の女の子を独りで帰らせるのは、すごい抵抗あるし。何かあったら、唯ちゃんの親御さんにも申し訳立たなくなっちまうよ」
そこまで言われてしまったら、もう唯には断ることはできなくなってしまって、「よろしくお願いします…」と言いながら頭を下げるしかできない。
真央に手を引かれて乗った車の後部座席は、そんなに新しめでもないけれど綺麗に掃除されていて、乗り心地も決して悪くはなかった。
「あ、後輩のコたちはいいの?」
「ああ、あっちは自転車だし、同じ方向の男の子たちが送ってくれるって」
ならばよいのだけど…。
「それじゃ、行くよー。ちゃんとシートベルトしてくれな」
大学生になってから免許をとったと言う割に、一哉の運転は慎重なだけでなく手慣れていて、急発進も急ブレーキもすることなくスムーズに進んでいく。運転には性格が出るというから、真央は「ナンパ」と評したけれど、一哉は優しく気配りのできる性格なのかも知れないと、唯はぼんやりと思った。
「…そういえば、唯ちゃんの第一志望の大学って、F大なんだって? そこでA判定出てるなんて、すごいなあ。尊敬に値するよ」
「い、いえ、勉強ぐらいしか取り得がないというか……他がさっぱりな分、それくらいは頑張らないとと思って」
「唯は、弟さんや妹さんのために、できるだけご両親に負担をかけないところを目指したんだって。えらいよね」
唯があえて言わずにいたことを真央が付け足したので、思いきり慌ててしまう。
「べ、別にそればっかりが理由って訳でもないんだけど…っ」
「それでも、そこまで頑張ったんだからやっぱりすごいよ」
本気で感心しているらしい笑顔で一哉が笑うのを、バックミラー越しにしっかり見てしまって、何だか気恥ずかしくなってしまって下を向いてしまう。一哉にしてみれば、妹の真央を褒めるのと同じような感覚なのだろうに、妙に意識してしまう自分が恥ずかしかった。
やがて、車は唯の家のすぐそばに着いて、二人に丁重に礼を告げてから車を降りる。
「じゃ、唯、今日はほんとにお疲れさま。これからもよろしくねーっ」
「唯ちゃん、大変だとは思うけど、できるだけでいいから手伝ってやってもらえるかな」
「あ、はい、一度引き受けたことですし、ちゃんと最後まで手伝うつもりでいますけど」
「…ありがとうね」
「それじゃ唯、また明日ねーっ」
助手席に移って、窓から手を振る真央を乗せて、車はゆっくりと走り去っていく。唯の心に何となくあたたかい何かを残して。
…いままで身近にお兄さんみたいな人がいなかったから、きっとそれでよね。
胸の中にほのかに灯るあたたかい気持ちをそう結論付けて、唯はそっと自宅の門扉を開けて中に入っていった…………。
* * *
そんなことを思い出していたから、唯は藤子が呼んでいる声に気付くのが遅れてしまった。
「ゆーいちゃんってばっ」
「あっ あ、すみません、ちょっとぼーっとしちゃって」
「なに、昔のことでも思い出しちゃった?」
「ええ、まあ…。大槻先輩も、当時よりずいぶん大人っぽくなったなーって思って…いえ、当時も高校生の私からすれば、よっぽど大人だったんですけど」
当時の一哉は、大学四年生になったばかりで、これから大学に入ろうとしていた唯からしてみればずいぶん大人だったと思う。中古とはいえ車にも乗っていたし、就職活動にも意欲を燃やしていて────実家の飲食店は、元から料理が好きだったという双子の弟が継ぐことに決まっていたし、一哉は外で働いてみたいということで、精力的に就職活動を行っていたのだ────当時の唯には追いつけないくらいだった。
「でも唯ちゃんだって、いまはもうすっかり大人じゃない。そんな可愛い頃を知ってる大槻もびっくりしたんじゃない?」
ふふ、と楽しそうに笑う藤子に、唯は思いきりかぶりを振る。
「そ、そんなことありませんって! 先輩からしたら、あたしなんて妹の真央と同じようにしか見えてないですよ、きっと」
「そうかなあ」
「そうですってっ」
この時の唯は本気でそう思っていたから、そう結論付けて、いつしか藤子に言われたこともすっかり忘れてしまっていた。
それから数日後の週末の夜。
唯が配属された総務部では、簡素ではあるが新人歓迎会が居酒屋で催されていた。部長が指揮をとって乾杯した後は、よくある無礼講というヤツで、藤子の隣に座った唯の前には、先輩たちが入れ代わり立ち代わりやってきていた────唯のほうから挨拶に行こうとしていたのだが、藤子が「新人さんは黙って歓迎されてればいいの」と引き留めたからだった。
そのうちに、マナーモードにしてあった藤子の携帯が震え、発信者を確認した藤子が立ち上がりかける。
「もしかして、彼氏さんですか?」
「うん、ちょっとごめんねー。明日約束してるから、そのことだと思う」
電話をかけにそそくさと店の外に出ていく藤子を笑顔で見送って、唯はグラスにわずかに残っていたビールを一気に喉に流し込んだ。お酒は、大学時代に覚えたが────もちろん生真面目な唯らしく成人してからだ────やはりビールはあまり好きではないなと唯は思う。まあ、飲めなくはないけれど。適度にほろ酔い気分になってきたので、そろそろソフトドリンクに切り替えようかと思っていた矢先、空いたグラスにビール瓶から注ごうとする存在に気付き、ハッとする。
「あっ 私はもうお酒は…!」
「何言ってるの。新人さんは、先輩に注がれたら絶対飲まなきゃいけないんだよ?」
一応の面識はあるが、一言二言しか会話をしたことのない男性の先輩だった。確か、平井といったか。唯より背が高かったので、印象に残っていた。
「そう…なんですか?」
「そうそう、社会ってのはそういうもんなんだよ」
何となく慣れ慣れしく感じる笑顔で注ごうとする平井の前から、唯のグラスを取り上げる存在が現れたのは、次の瞬間のこと。瓶の注ぎ口からこぼれそうになったビールを、平井は何とか食い止めて、一瞬ホッとしたように息をついてから顔を上げる。
「!?」
同じようにそちらを見上げた唯が見たものは。心なしか瞳を険しくして、中腰になっている平井を一直線に見下ろしている一哉の姿だった。
「そんなルール、聞いたこともないぞ。何も知らない新人だからって、嘘を教えるんじゃない」
「な、何だよ、大槻には関係ないだろ!?」
さっきまで余裕顔だった平井が微妙に慌てだしたように見えるのは、気のせいだろうか。
「関係なくはないな。同じ課の新人が質の悪い男にだまされるのを、みすみす見逃すほど俺は間抜けでもないんでね」
質の…悪い男? もしかして、平井のことだろうか?
「あら? ちょっと、どうしたのよ?」
そこに、何も知らずにのん気な声を出して戻ってきたのは藤子。
「鳴海さん、後輩に仕事以外のこともちゃんと教えてやった方がいいよ。もう少しで、可愛い後輩がこいつの毒牙にかかるところだったんだから」
一哉がそう告げたとたん、藤子の表情が一変した。
「平井っ! あんた、去年も新人のコ酔いつぶして、いかがわしいところに連れていこうとして注意されてたわよね、まだ懲りてなかったの!?」
いかがわしいところ? とは、それはもしかして…。数秒考えてからやっと結論にたどりついた唯は、顔が一気に紅潮していくのを止めることができなかった。そして、一哉が止めてくれなかったり気付かなかった場合を考えたとたん、自分も同じようなこと────いや、もしかしたら最悪の結果になっていたかも知れないというところにまで考えが至り、今度は一気に血の気が引いてしまった。
「今度という今度は、もう許さないからねっ」
「じょ、冗談だってばよ~っ」
憤怒の形相で迫る藤子から、平井は座敷のあちこちへと小走りで逃げていく。それをぼんやりと見ていた唯は、いまごろになって両手が小さく震えだしたことに気付く。自分でも、遅いと思うけれど。
そんな唯の頭を、大きな手が優しく撫でてくれたことにハッとして顔を上げると、優しい瞳で笑う一哉と目が合った。
「相変わらず……素直に信じちゃうんだなー」
「え…」
「すみませーん、こっちにオレンジジュースお願いします」
唯から手を離し、店員に向かってそう告げた一哉は、唯の目の前にそっとグラスを戻して、一言ぽつりと呟いてから再び自分のいた席へと戻っていった。
「だから、放っておけないんだよ─────」
オレンジジュースが好きなことを、いまだ覚えていてくれたなんて思わなかった────言ったのは、例の五年前の一度だけだというのに。妹のように思われている、とは単なる比喩だったけれど、もしかして真央と同じくらい気にかけてくれていたのだろうか。
店員がオレンジジュースを持ってくるのと、藤子が戻ってくるのはほぼ同時で、唯は再び赤くなってしまった顔を元に戻すのに、とてつもない苦労を強いられてしまった。
「ごめんねー、あいつのことちゃんと言ってなくて。今度はしっかり部長に報告しておいたから、次はないと思うわよ」
「すみません、お手数おかけして…」
「いいのいいの。あいつ、あたしや大槻と同期なんだけど、あたしらが入った頃からさんざんあたしや他の女の子にも声かけてきてさ。『彼氏がいるから』って何度も断ったのに、しつこいったらなかったのよね。だから今度は、まだ世間ずれしてない新入社員に目をつけ始めたんでしょ。まったく、女の敵もいいところだわ」
憤慨しながら藤子は再び唯の隣に腰を下ろして、飲みかけの自分のビールに口をつける。そのうちに、唯の飲んでいたものにも気がついたようで、問いかけてきた。
「あ、これは大槻先輩が注文してくれて…」
「へえー。相変わらず、気配りの細かい奴。唯ちゃん、やっぱり大事に思われてんじゃないのー?」
藤子の楽しそうな顔のおかげで、何となく居心地が悪い。
「そ、そんなことありませんて。きっと、他の新人のコにも同じようにするんですよ。大槻先輩って、そういう人ですもん」
「まあ、それはあるかもね。顔はずば抜けたイケメンって訳でもないけど結構さわやか好青年だし、背も高いし、気も利いてるし、地道にモテるみたいなのよね、あいつ」
それは…そうかも知れない。この会社のイケメン双璧と言われているのは、営業部と企画部の男性の先輩二人だが、一哉がモテるのもわかる気がする。顔は心の鏡とよくいうように、一哉の優しい心根が外見に顕れている気がするから。きっと、素敵な彼女もいるのだろう。そう思ったとたん、胸の奥底がちくん…と痛んだ気がして、唯は戸惑ってしまう。
「……焦った? 大丈夫よ、あいつはいまフリーだから~♪」
にやにやにや。すっかり藤子にからかわれていたことに気付いて、ハッとする。
「ふっ 藤子先輩、からかったんですねーっ!? 先輩、酔っぱらってるでしょうっ」
「酔っぱらってるわよー、あー楽しいっっ」
「もーっ」
一哉のことを好きな訳じゃない、と唯は思う。昔からこの身長と真面目過ぎる性格のせいであまり女扱いされたことのない自分を、ほとんど初めてまともに女の子扱いしてくれた男の人だから、意識してしまうだけだと自分で自分の心に言いきかせて。
唯は、それ以上考えることをやめた…………。
変わるものもあれば、絶対変わらないものもあるようです。