貴方と私の交差点
間が少々空いてしまいましたが、ついに登場の藤子とその彼氏メインの番外編です。
──────初めて逢ったのは、高校に入学してすぐの頃だった。
「入部希望の人かな? 歓迎します、僕は二年の長谷龍三といいます、よろしく」
そう言って笑ったのは、自分たちよりよっぽど可愛い顔をした男子生徒だった。ロングヘアのウィッグでもつけて、可愛らしい女物の服でも着せれば、誰も男だと疑わないのではないかと思えるほどの……。
「じゃあ、ここにクラスと名前を書いてもらえるかな?」
言われた通りに名前を書くと、それを目で追っていたらしい彼がふいに口に出した。
「鳴海…ふじこさん、と読むのかな? 字は違うけど、あのアニメに出てくる美人と同じ名前だね」
ああ、やっぱりまた言われた。そして、勝手にイメージを抱かれて、自分も同じように悪女のイメージに押し込められてしまうのだろう。いままで何度もあったお決まりのパターンにうんざりしながらも、けれど藤子はそれを表には出さない。何を言ってもどうせ真剣にとりあってもらえないことがわかっていたからだ。思えば、小学校の高学年あたりからずっとそうだった。
けれど、いまさっき初めて会ったばかりの彼は、違っていた。
「美人なのは同じだけど、どっちかというと字の通り、藤の花のイメージかな。綺麗で優雅で、君にぴったりだね」
「え…」
そんなこと、初めて言われた。正確には、年配の相手には言われたことがあったが、社交辞令のようにしか思えなかったのだ。けれど目前の相手に言われると、ほんとうにそう思ってくれているように聞こえて、素直に心に染み入ってくる気がしてくる。
「あ…ありがとうございます」
だから、素直に礼を言うこともできた。
「龍三くんは真逆のイメージだもんねえ」
三年生らしい女の先輩が、多少の同情を含んだ声と視線で彼に告げる。
「そうなんですよ、だから初対面の相手にもいつも年下と思われちゃって」
自分と同じような悩みを抱いている人が、こんな身近にいたなんて。初めて出会えた同士に、藤子は驚きを隠せなかった。
「勝手なイメージ抱かれちゃうのって、ホント困っちゃうよねえ」
「でも失礼ですけど、先輩のお名前もお顔とすごいギャップな気が……」
恐る恐るといった感じで藤子と同じ中学から進学してきた友人が言うと、女子の先輩のほうがもう堪えきれないといった感じで勢いよく吹き出した。
「龍三くんちはねー、ある意味しょうがないのよー」
「だって、二人いる兄が騏一と鳳二なんだよ? それぐらいの名前付けなきゃ、兄貴どもに負けるって父親がさ……だったらもっと普通の名前にしてくれればいいのにね」
困ったもんだよ、と龍三はため息をつく。藤子も似たような────花の名前からつけられたというところは微妙に違うが、名前や外見に振り回されているところはよく似ていると思えたので────苦労をしてきたので、思わず力強く同意を示してしまった。
「わかります、先輩のお気持ちっ ホントは違うのに、勝手にイメージを作り上げられることほど嫌なことはないですよねっ」
「藤子も苦労してきたもんねえ」
友人も苦笑いをしながら補足してくれる。
「よかったじゃない、龍三くん。気持ちわかってくれる人に出会えて。更に龍三くんのお兄さんたちは、近隣の学校に名が知れ渡ってるツワモノだもんねえ」
「そうなんですよねえ。去年僕が入学した時、どれだけの野次馬がやってきたことか…思い出すだけで頭が痛いよ」
よく話を聞くと、龍三の兄の鳳二は龍三と二学年違い、藤子たちと入れ代わりでこの学校を卒業していったらしい。その上長男の騏一も鳳二の更に二学年上で、二人がさんざん学年を問わず同校の生徒や他校の生徒たちともめごとを起こしては学校側を悩ませてきたので、龍三が続けて入学した時にはかなりの騒ぎになったらしい。龍三自身は、比較的真面目な生徒といってよかったというのに、だ。
「でもそのうち人畜無害とわかって、周囲もすぐに安心したけどね」
と、女の先輩が続ける。
「あの歩く核弾頭の兄貴たちと一緒にされちゃ、たまんないですよ」
藤子と同じ悩みに加えて、そんな兄たちまでいるとは……藤子ですら、龍三に同情したくなってしまった。
「でもまあ、似たような悩みを持っている人に出会えて嬉しいよ。こういう悩みは、なかなかわかってもらえないしね」
春のあたたかな陽射しのような笑顔に、胸の奥がほんわかと温かくなったことを、いまでも覚えている。
その日から、藤子と龍三の新しい日々が始まった。
「龍三先輩!」
「はい」
廊下で呼びとめた龍三が、いつもの優しい微笑みで振り返ってくれる。それだけで、藤子の胸はささやかな喜びを覚えるのだ。いつの頃からだろう、この優しい性格と人あたりの先輩に淡い、けれど他の誰に対するものとも違う想いを抱くようになったのは。まだ高校に入ったばかり、それも見かけとはまるで違って恋愛経験が皆無に近い藤子には、その想いの正体はまだわからないけれど。
それでもよかった。ただの先輩後輩でしかなくても、そばにいられて、共に笑っていられるのなら。それは、龍三が男女問わず皆に可愛がられるタイプで、特定の相手の影など微塵も感じさせなかったからかも知れないが。
ちなみに名前で呼ぶのは、「名字で呼ばれると、兄たちを知っている人たちが一瞬どきりとしてしまうようだから」と龍三が語ったがためで、他意はない。
「あ、そういうことなんですか、よくわかりました!」
ちなみに質問は部活の内容に関わることで、意味がよくわからなかったがために藤子が詰まってしまっていたところだった。龍三は性格に違わず優しく丁寧に教えてくれるので、藤子のみならずつい頼ってしまう後輩も多い。
「先輩、どうもありがとうございます! いつも頼っちゃって、すみません」
「別に構わないよ。特に鳴海さんは、理解した部分は必ずすぐに克服して上達していくから、教えるこっちも見ててすごく気持ちがいいし」
「……っ!」
そんなことをしれっと笑顔で言われたら、もう何も考えられなくなって、赤面するしかできなくなってしまうではないか。
「龍三ちゃーん、何廊下で後輩口説いてんのー」
「そんなことする訳ないだろ、人聞きの悪い」
「…………」
そうだ。龍三にとって、自分は数いる後輩の中のひとりなのだ。淋しいけれど、それが現実なのだと、藤子は思い知らされる。
「あ、先輩、教えてくださってありがとうございます。それじゃ、また部活で」
何とか平静を装って笑顔で去っていった自分の背を、龍三が意味深げな視線で見つめていたことに、藤子はまったく気付いていなかった…………。
* * *
それから、しばしの時が経って。藤子は、高校三年生の春を迎えていた。
龍三たち一学年上の先輩たちはそれぞれの道へと旅立っていき、新たな後輩たちも入学してきて、学校は再び活気を取り戻していたけれど。それでも、龍三がいないというただそれだけで、藤子の胸にはぽっかりと穴が空いたような感覚がずっと続いていて、何をしていても心のどこかで虚無感を覚えていた。
告白なんて、できなかった。それでなくても龍三は、同級生や後輩、更には卒業しているのにわざわざ駆けつけた先輩方にもみくちゃにされて、一般的なお祝いの言葉を述べるのが精いっぱいだったから……。
そして、進路指導の時間。
「鳴海さんは、進学希望でいいのよね? いまの成績をキープし続けられればの話だけど、無理なく行けるのはB大にS女子大、もう少し頑張ればM大も夢じゃないと思うけど……」
M大……? 脳裏によぎるのは、龍三の笑顔。M大は確か、龍三の進学先だったはずだ。
「もう少し頑張れば…M大に行けるんですか……?」
「え? ええ、気を抜かず、更にもう少し成績を上げなきゃならないけど…言っておいて何だけど、口で言うほど簡単じゃないし、大変よ? もう少し考えてからでも…」
「いいえ、少しでも可能性があるなら、私やってみたいです!」
「貴女がそこまで言うのなら……私も他の先生方も、できるだけフォローするし」
「はいっ お願いします!」
そうして藤子は、遊ぶ暇もないぐらいにこれまでにないほどの努力をこなして、順調に成績を上げていき、念願のM大へと合格、入学を果たした…………。
動悸が、おさまらない。どれだけ深呼吸をしても、呼吸が整わない。手は無意識に震え、止めるすべすら思いつかない。けれど。ずっとずっと、逢いたかったそのひとが、ほんの数メートルの距離をおいた目の前にいる。藤子にまるで気付かずに、高校の頃からよく一緒にいた他の先輩や、大学に来てからできた友達なのか見知らぬ男性たちと談笑しながら歩いている。
大学は高校とはカリキュラムやシステムが違うから、なかなか姿を見ることすらかなわなかったが、ついさっきやっと見つけたのだ。この機会をみすみす逃すつもりなど、藤子には毛頭なかった。だから、勇気を出して声をかけたのだ。
「──────龍三先輩!!」
その声に反応してか、龍三の歩みが止まる。可愛い容姿のために誤解されがちだが、龍三は身長も全体的な体格も実は標準よりいくらか上回っているぐらいなので、この時も仲間たちの後をついて歩いているというよりは先頭に立って歩いているという感じだったので、龍三の歩みが止まると同時に他の皆の歩みも止まり、自然と視線がこちらに集中する。
「…あれっ 鳴海さんっ!? うっわー、久しぶりだね、もしかしてうちに入ったの?」
変わらない笑顔で言ってくれるのが嬉しくて、藤子はもう何も言えずにこくこくとうなずくだけだ。
「私服だからかな、鳴海ちゃんますます綺麗になったねー」
「おい龍三、こんなナイスバディな美人と知り合いなのか!?」
「『先輩』って言ってたよな、てことは後輩!? まさかの年下!?」
「そう。鳴海藤子さん、僕たちの高校の一年後輩」
「嘘だろーっ!?」
これもいつものことなので、藤子は曖昧に笑って見せる。その内心は、決して平静ではいられなかったけれど。
「信っじらんねー…」
「あっ 俺、龍三の同級で勝田っていうんだけど、もし彼氏とかいなかったら今度一緒にお茶でもっ」
「あっ 勝田てめ抜け駆けっ 俺、佐野っていいます、よかったらメルアドと携帯番号交換してくれませんかっ!?」
「てめーこそ抜け駆けじゃねえか、このっっ」
これもやはりいつものことだけれど、こうもがっついてこられると、外見とは裏腹に恋愛経験がほとんどない藤子には恐れしか感じさせない。それを見抜いているのか、龍三がすかさず間に割り込んでくる。
「こらこら、うちの可愛い後輩にちょっかいを出さないように」
そこに現れたのは、また別の数人の男子学生。龍三たちの知り合いなのか、まず龍三たちに視線をくれてから、藤子に視線を移す。
「あんれあれあれ~? 何、そこの上玉の美人さんてば、龍三ちゃんのオトモダチ~?」
「……横田」
龍三はあまり好意を抱いていない相手なのだろうか、微妙に声音が低く、硬く、冷たささえ帯びたような気がした。一年離れていたとはいえ、二年間、毎日のように接していた藤子だからこそわかる変化だったかも知れない。
「そうだよ、だからよけいなちょっかい出すなよ」
横田と呼ばれた青年は、愉しそうな笑顔を浮かべながら口笛を吹く。龍三とどういう関係なのかは知らないが、何となく嫌な感じのする相手だと、藤子はそっと思った。
「何もしかして龍三ちゃんのイイ女だったりして? わかる気がするなあ、こんだけイイ女だったら、放っておけねえよなあ」
自分を見つめる視線が、何だか獲物を見つけた爬虫類のそれを思わせる不気味なものだったので、藤子は知らず身を震わせる。何故だか、恐怖感を拭えない。
「すっげえエロい顔と身体してるし? 『お姉さんが教えてあ・げ・る』とか言って、食われちまったの~?」
横田が言うと同時に、彼の後ろに立っていた連中が下卑た声で一斉に笑い出した。この横田とは初めて会ったというのに、どうしてこんな辱めを受けなくてはならないのだろう? ただでさえそういう目────いわゆる、下品な性的な見られ方のことだ────で見られることが多いのに、更に悪意をあえてまぶしたような言葉を投げかけられるなんて……。
全身の血液が温かみをなくしたような、そもそも血液がちゃんと全身をめぐっているのかすらわからなくなって、鼻の奥が痛くなってきて、涙が込み上げそうになる。
信じられないことが起こったのは、その、次の瞬間のこと。後になって思い返してみても、とても現実で起こったこととは思えないことだったから、目の前で見ていた当の藤子でさえも現実とは認識するのに時間がかかったほどだったのだ。
それまで藤子の目の前にいたと思った龍三の身体が、ふ…っと消えて────そんな気がしただけで、実際には予想もつかないほど素早い動きで動いただけなのだが────気付いた時には、横田の喉元にみずからの右腕の手首から肘にかけてをすっぽりとおさめて、近くの壁にその身体を強く押し付けていた。
「ぐ、え…っ!?」
「先輩っ!?」
「龍三!?」
驚きの声を上げたのは自分と、ついさっき初めて会った龍三の連れたちだけで、以前から龍三と付き合っている面子はまるで驚くこともなく────それどころか「やっぱり」とでも言いたげな顔で、微苦笑を浮かべていた。
「──────謝れよ」
「……え…?」
「彼女に謝れって言ってるんだよ。彼女はまだ18歳で誰よりも純粋な女の子なんだ、お前ごときに侮辱されるいわれなんかないんだよ」
いままで聞いたこともないような、冷たく鋭利な刃を思わせる声だった。首元を締め上げられた横田が苦しそうに咳き込んだのにハッとして、藤子は慌てて龍三の脇に回った。
「せ、せんぱ…!」
このままでは、窒息してしまうかも知れない。そう思ったのは、藤子だけでなく横田の友人たちも同様だったらしく、藤子の反対側に回ったが、藤子と同じように皆何も言えなく、また動けなくなってしまった。あまりにも、驚きが大き過ぎて。
「……っ!」
そこにいたのは、いままでずっと見てきた龍三ではなかった。いつも見せていた優しげな表情はどこにも見えず、代わりに獲物を仕留める寸前の肉食獣を思わせるような、誰であろうと他者の介入を拒む瞳をした、まるで別人と言っていいほどに変貌を遂げた青年がそこにいた。まるで春の陽射しを思わせる暖かな瞳や笑顔はなりをひそめ、灼熱の炎のような苛烈さと極寒の氷のような冷酷さとを兼ね備えた、触れるだけで何もかもを焼き尽くし、凍てつかせるのではないかと思わせるほどの、恐怖さえ覚えさせるような瞳と表情だった。
「あ…ぐ…っ」
「…………」
横田の瞳の色が少しずつ濁り始め、口の端から泡を含んだ涎が出始めたことに気付いたらしい龍三は、ゆっくりとその腕を外し、力なく下ろした。ようやく解放された横田は、立っている力すらなくなったのか、その場でへたり込んで激しく咳き込んでは荒い呼吸を繰り返している。その様子から、龍三の行為には手加減など大してされていなかったことが安易に見てとれる。
「─────おい」
頭上から降ってきた、まるで調子の変わることのない龍三の声に、横田はびくりと大きく身を震わせてから、それから龍三に視線を合わせることなくゆっくりと藤子のほうを見て、かすれてはいたが十分聞こえる声で────恐らくはそれがいまの彼に出せる最大限の声量だったのだろう────藤子に向かって土下座して見せた。
「す、すいませんでしたあっ!!」
その言葉に感慨を受けた様子もなく、龍三は横田の目の高さに合わせて腰を落とし、まっすぐその目を見ながら告げる。
「今後一度でも彼女を傷つけるようなことしたら、次はマジで潰すかんな。覚えとけよ」
「ひゃ、ひゃいいっ!!」
先刻までの彼とはまるで別人のように怯えきって────別人というだけなら龍三も同様だが────答える横田にはもう目もくれず、少しずつ元の表情と雰囲気に戻っていった龍三は、一連の流れに茫然としたまま何も言えずにいた藤子の片手を取って、短く声をかけてきた。
「ちょっと、来て」
後には怯えきって委縮したままの横田、驚きを隠せないその友人たち、龍三と大学で知り合ったらしい龍三の友人たちと、高校から彼と付き合っている友人たちが残される。その後、高校からの友人である彼らが他の面子に何を語ったのかは、藤子にはわからない。
「……バカだよなあ、お前ら。龍三が、兄貴が恐れられてるだけのただの腰ぬけだと思ってたのか? むしろ兄貴たちより普段激情を抑えてる分、あいつのほうが怒らせるとマジで怖えんだぜ? まさに龍の逆鱗にふれちまったってとこか。わかったら、これからは言動には気をつけるんだな」
* * *
そして、龍三に手を引かれて他の場所に連れて行かれた藤子はといえば。
「せ…先輩っ ど、どこまで行くんですか…っ!?」
いつもの龍三なら決してしないような早足に、藤子はついていくので精いっぱいだ。数分ほど歩いたところで、龍三がようやく歩みを止めてくれたので、思わず大きく安堵の息をつく。
「──────ごめん」
先刻までとはまるで違う、か細い声だったけれど、藤子の耳にはちゃんと届いて…。
「嫌な思いを、させちゃったね。ほんとうにごめん」
「そ、そんなことありませんっ 先輩が代わりに怒ってくれたから、いまはもう何とも……」
「それについても、ごめん。あんなとこ見せちゃって、怖がらせちゃったよね、いままで気をつけてたのにどうしても堪えきれなかったんだ、ホントにホントにごめん」
「そ、そんなこと…っ 確かにびっくりはしましたけど、怖いなんていまは思ってません、ホントですっっ」
そう正直に答えると、龍三ははじかれたようにつないだままだった手を放しながら振り返る。その表情は、普段のものと何ら変わることがなく、彼自身信じられない気持ちでいっぱいだったのかも知れない。
「いまはどっちかというと嬉しい気持ちのほうが大きいです。だって、私のために怒ってくれたんですよね? 普段は一生懸命平静を保っていたんでしょうに、私のために本気で怒ってくれたんだと思ったら……もう嬉しさしか感じないというか…………」
それ以上は言葉にできなくて、藤子は顔を真っ赤にして俯いてしまった。龍三の驚いたような視線を感じてはいたけれど、どうしても顔を上げられない。
「…………明日のいまごろ、もう一度会ってくれないかな。場所は…君のわかるところでいいよ」
「あっ じゃあ…講堂の脇あたりでいいですか? 他のところはまだ完全に覚えきっていなくて」
「うん、いいよ。じゃ、また明日に」
そう言いながら、軽く手を振りながら龍三は去っていく────何故顔を上げないままなのにわかったかというと、西に傾き始めていた午後の陽射しがその影をくっきりと床に映し出していたからだ。
いったい龍三は、どういうつもりなのだろう? 不思議に思いながらも、翌日彼の言う通りに指定の時間にその場に向かう藤子の姿があった。
「…先輩っ」
息をはずませながらその場にたどり着くと、先に待っていたらしい龍三がいつもの微笑みを浮かべて見せた。
「ごめんね、手間をとらせて」
「いえ、そんなことは構いませんけど…」
いったい、何の用があってわざわざ改めて呼び出したのだろう?
「これ」
龍三がポケットから出したのは、陽光にキラリと光る金色の、十円玉から五百円玉くらいの大きさのもの。
「え…?」
「自己満足の極みだけど、どうしても君以外のひとにあげたくなくて、とっておいたんだ」
「手を出して」と言われて思わず手のひらを差し出した藤子のそれに乗せられたのは、見覚えのある金色のボタン────そうだ。藤子と龍三が通っていた高校の制服である学ランについていた、金ボタンのひとつだ。
「これ…?」
「『重い』と思われるかもだけど、僕の学ランの第二ボタン。君にもらってほしいと思っていながら、本性を知られるのが怖くて、ずっと何も言えなかったけど……もう、本性も知られちゃったし、いいかなって。もし迷惑だったら、つっ返してくれて構わないから。君の、正直な気持ちを教えてほしい」
そこで龍三は言葉を切って、いままで見たどんな表情とも違う、真剣そのものの…余裕などどこにも感じられない、それどころか焦りすらにじみ出ているような表情でまっすぐに藤子を見つめてきた。
「僕は、鳴海さんが好きだ。高校の頃からずっと……だけど、その気がないのを縛り付けるつもりもないし、君がこんな僕なんて嫌だと思ったなら、そう言ってくれて構わない。たとえ望む答えじゃなかったとしても、威してどうこうするつもりなんか、まるっきりないし。素直な君の気持ちを教えて……」
龍三が全部言い終える前に、藤子の足は地を蹴っていた。まっすぐ、龍三の胸に向かって!
「えっ あっ うっ?」
龍三の、テンパっているような声だけが耳をつく。
「嫌だなんて思うはず、ある訳ないじゃないですか……私だって、ずっと好きだったのに」
「え」
「どんな先輩だって、嫌いになれないくらい…好きなんだから仕方ないです」
「ホント…に……?」
声と同様、まだ信じられなさそうに力がほとんどこもっていない腕が、藤子の背に回される。
「先輩が、ずっとホントの私を見ていてくれたように……私も、ホントの先輩のことが知りたいです、他の誰よりも──────」
「僕は…しつこいよ? 君が『もう嫌だ』って言ってもずっと離さないかも」
「ずっと……離さないでいてください──────」
長いふたつの片想いが、終わりを告げた瞬間だった…………。
そして。時は、流れて。
「唯ちゃん、金曜日の帰りって空いてる?」
「金曜日ですか? 大丈夫だと思いますけど。何ですか?」
「服とか下着とか見に行きたいんだけど、そういう買い物って彼氏を付き合わせるものじゃないじゃない?」
「そうですねー、そういう時はやっぱり女同士のほうがいいですよね」
そこで藤子は、声をひそめて唯にだけ聞こえる声量でささやいた。
「それに唯ちゃんも、そろそろ勝負下着とか用意しといたほうがいいだろうしねー」
言葉の意味を理解すると同時に、唯の顔が一気に真っ赤に染まった。
「ふ、藤子先輩っっ」
「あっはっはー」
いつものように他愛のない話をしながら、道を歩く二人とすれ違った見知らぬ男性たちがひそひそと交わした言葉の部分部分が、二人の耳に届く。
「…見たか?」
「ああ。すっげーエロい身体の女だよな」
それを聞いた唯がキッとまなじりを吊り上げるのを、なだめるように藤子はその背をぽんぽんとたたく。
「気にしない気にしない。バカはどこにでも転がってるんだから、いちいち気にしてたらキリがないわよ」
「…先輩は大人ですね……何も知らないくせにあんなこと言われて、悔しいとか思わないんですか?」
「前は思ったけどね。いまは、ホントのあたしをちゃんとわかってくれてるひとがいるから」
「惚気ですか? やーん」
「あら、唯ちゃんにだってそういう相手がいるじゃないのー♪」
いつもの場所で笑顔で唯と別れ、いつものように電車に乗って、いつもの駅で降りて改札を出る。そして、いつもの待ち合わせ場所に向かおうとしたところで、背後からかけられる声。
「─────藤子」
振り返った藤子の瞳に映るのは、誰よりも愛しいひとの姿。
「…龍さん」
藤子の表情が、他のどんな時よりも嬉しそうな笑顔に変わる…………。
──────長い人生の中で、わずかな間だけ交差するふたりの道だと思っていたけれど。あの日から、いままでもそしてこれからも。共に寄り添って、一緒に歩いていきたい。ずっと、ずっと………………。
〔終〕
龍三の設定は、連載初期からできていたのでやっと出してあげられて嬉しいです。
ちなみに龍三の名前は、藤子と同じく某アニメのヒーローから。出番がなかった兄たちと共に、意外にお気に入りです。
これで、『素顔のままで』は完全終了です。最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございました。