あなたのためにできること
唯と一哉が想いを通じ合わせて、数日経った頃だった。
「長らくご迷惑をおかけして、ほんとうに申し訳ありませんでした!」
急性虫垂炎で入院、自宅療養していた木内が復帰してきた。
「木内ーっ 生きてたか、お前ーっ」
「もう大丈夫なの?」
「体力はちょっと落ちちゃいましたけど、とりあえず日常生活に支障はない程度には回復しましたー」
「とはいっても、何にしてもまだ病み上がりだからな、皆無理をさせないようにフォローしてやってくれ」
課長の一声に、木内以外の面子が元気よく返事をして、木内が深々と頭を下げたところで皆平常の業務に戻った。
「でもホント、元気になってよかったわ」
木内の向かいのデスクに座っていた唯がそう言うと、木内は一瞬意味深な視線を隣の一哉に向けてから、いつもの人懐っこい笑みを見せた。
「うん、大槻先輩にはいろいろとお世話になったし。これから、ばんばん恩返ししなきゃだー。あ、もちろん小林さんや鳴海先輩にもね」
「そんなこといいから、とにかく身体を元に戻すことを最優先に考えろ」
「はい」
一哉のおかげ? 仕事の面だけではなさそうな雰囲気を感じさせる木内に、唯は思わず首をかしげる。あとで一哉に訊いてみようと思いながら、再び仕事へと戻った。
「いやー、その後真央ちゃんが、仕事帰りとかにちょこちょこっとずつだけどよく顔を出してくれてさ。それが嬉しくって、早く元気になんなきゃって気になって」
昼休み。復帰したばかりの木内を気遣って、社員食堂で一哉も加わって食事をしていた唯と藤子の前で、木内がほんとうに嬉しそうな顔で話してみせる。真央が…そんなにちょくちょくお見舞いに? 唯とは何日かに一度はメールを交わしているが、真央からそんな話を聞いたことはなかった。
「そうなの? 真央本人は何も言ってなかったけど」
「本人の意思というより、『よかったらたまには顔を出してやってくれ』って大槻先輩に言われた結果らしいんだけど、それでも…俺には嬉しかったから、いいんだ」
「…………」
いくら兄に頼まれたからといって、もし木内にまったく好意を持っていなかったら、真央は絶対にそんなことをしないと思うのだけど……もしかして…真央は木内のことを…?
そんなことをふと思うが、真央本人が何も意思表示をしていないのに、唯が勝手に憶測を口にするのはよくないと思い、結局それ以上は口にしなかった。
「先輩、ちょっといいですか?」
昼食が終わってから、弁当箱をロッカーにしまいに行く前に立ち去ろうとした一哉を呼び止めて、他人の邪魔にならない廊下の隅に藤子も一緒になって身を寄せる────ちなみに木内は、手洗いに行くと言って既に立ち去っていた。
「真央のことなんですけど」
「真央がどうかした?」
「真央ってああ見えて、すごくハッキリキッパリした性格してるじゃないですか。その真央が、いくらお兄さんに言われたからってちょくちょくお見舞いに行くって、それってやっぱり……」
そこまで言えば、一哉にも唯の言いたいことがわかったらしい。意外にも、一哉も少々驚いたような顔をして唯を見返してきた。
「うん、俺も木内に聞いて初めて知ったんで、驚いてたんだ。これは、もしかしてもしかすると……」
木内が一哉や一斗に対して「お義兄さん」と呼ぶ日が、ほんとうに来るかも知れないということだろうか。
「ねー、そっちのことよりさー」
それまで黙っていた藤子がふいに口を開いたので、一哉と共にそちらを見る。
「はい?」
ほんとうに予測もしていなかったところに、藤子の声をひそめた爆弾発言が投げ込まれたのは、次の瞬間のこと。
「あんたたちこそまとまっちゃったってのに、あたしに報告すらないってのは薄情なんじゃないのー?」
「!!」
その言葉を聞いた瞬間、考える間もなく唯の顔が瞬間湯沸かし器のように真っ赤に染まった。
「なっ 鳴海さんっっ」
一哉も珍しく慌てふためいた声でその名を呼ぶ。
「藤子さんの眼力をなめないでよねー。ほんのささいな態度の変化も、見逃してないわよ? 注意して見てりゃわかるっての」
「そ、それは、もう少し落ち着いてから報告しようと思ってて……」
「あー、やっぱりそうなんだ。完全には確信が持てなくて、半ばカマかけのつもりだったんだけど、あたしの勘もまだまだ鈍ってなかったみたいねー」
「…っ!」
これは完全に、藤子にしてやられてしまったらしい。自分はともかく、一哉までひっかけるとは、やはり藤子は侮れないと唯は思う。
「黙ってた不義理は、唯ちゃんが行ったっていう美味しい喫茶店のケーキとお茶でチャラにしてあげるわ。ついでに真央ちゃんと木内くんにも報告しといたほうがいいんじゃない? あんまり黙ってると向こうはあたし以上に大騒ぎしちゃいそうよ~」
弁当箱を持っていないほうの手を後ろ手で振りながら、藤子はスタスタとその場を去っていく。その背中からは、「まあ仲良くやんなさいな」とでも言いたげな空気が漂っているように見えたのは、唯の気のせいだろうか。
「すみません……私がすぐ顔に出ちゃうタチなばっかりに」
やはり自分は単純過ぎるのだなと思い、唯はうなだれてしまう。そういえば藤子には一哉との初デートの時に着る服を買いにも付き合ってもらったので────もちろん一哉と付き合いだしたことは話してはいなかったが────気付かれてしまったのだろう。
「いや、俺も浮かれて隠しきれてなかったんだろう、仕方ないよ」
それにしても、食事をねだられるんじゃなくてよかったと、一哉が続けたところでハッとする。そうだ、藤子に木内、真央にまで奢るのでは、いくらお茶代だけとはいえ決して小さくはない出費だ。
「あ、あの私…!」
自分も代金を払う、と続けようとした唯の思惑など、一哉にはお見通しであったらしい。言いかけた唯の唇をまるでおしとどめるかのように、そっと当てられる一哉の人差し指。皆が通る側には唯は背中を向けていたから、一哉が何をしているのか気付く者はいなかっただろう。
「それは、俺にまかせといて」
それだけ言って、唯の唇から指を離し、そのまま唯の真横を通り過ぎていく。ハッとした唯が、振り返った視線の先で見たものは。たったいままで唯の唇に触れていた指を、今度は自分の唇に当てている、楽しそうな一哉の笑顔…………。
ようやくおさまっていた唯の頬の紅潮が、再び顔全体を覆っていく。
「今回は、これで十分だよ。残りはまた今度ね」
「────っ!!」
とっさに他の社員に見られる前に、一哉に背を向ける形で、唯は再び誰もいない方向を向く。とてもではないが、今度の赤面はそう簡単におさまりそうにない。
うそうそうそ! 何てことするのよ、一哉さんてばっ あれって、間接…てヤツよね!? 真昼間の会社で、誰に見られるかわかんないところで、何てことしてくれるのよ~っ!!
とてもではないが、彼氏いない歴=年齢であった唯には、耐えられない恥ずかしさだ。それがわかっているのだろう一哉は、「じゃ、また後で」などと涼しい声で────恐らくは表情も同じように涼しいそれであることを、唯は振り向かずとも確信していた────言い残して去っていく。一応恋人と呼んでいい間柄とはいえ────否、だからこそ、自分とは段違いに余裕に満ちている一哉の態度が、悔しくてたまらない。実際には、一哉自身にも余裕などほとんどないことを、この時の唯が知るはずもなく、後で本人に聞かされるまでその複雑な思いは続くのである。
* * *
一哉との初デートは、映画だった。一哉は唯の家の近くまで車で迎えに来てくれたものの、「人の目がないところで長い間ふたりっきりでいると、何するか自分でもわからないから」などと冗談めかして言って、市街地の映画館へと車を走らせた。
そうして入った世界的に有名な監督の最新作だというアクション満載の映画は、とてもしっとりとした雰囲気になどなれるものでなく、隣に座る一哉を必要以上に意識しないで済んでよかったのだが、さすがにクライマックス間近のヒーローとヒロインが想いを通じ合わせたシーンでは、一哉も自分たちのその時を思い出したのか、そっと唯の手の上から自分の手を重ね合わせてきたので、唯の胸の鼓動もクライマックスを迎えてしまった。
後で冷静になって考えると、唯を怖がらせないように少しずつふたりの仲を進めようという一哉の優しさだったのだろう。だから唯も、少しずつでもいいから勇気を出そうと決意したのだった。
「……と、いう訳で。黙ってて悪かったけど、付き合い始めました」
週末の帰り道。例の高遠の店に唯と一哉、藤子と木内、真央、大崎まで加わって立ち寄って、報告する羽目になった。皆の祝福と好奇の目にさらされて、並んで座った一哉と共にたいそう居心地の悪い思いを味わってしまう。
「…鳴海さんや真央、木内まではまだわかる。結果的に後押ししてもらったようなものだからな。だけど大崎、何でお前までいるんだよっ!?」
一哉が言ったとたん、大崎が心外だと言いたげな顔で答える。
「冷てーなー、一緒に温泉旅行にまで行った仲じゃん。俺だけ仲間外れにする気かよ?」
「温泉旅行の時だって、お前は呼んでなかったはずだがな」
「ひどい、いっちゃんっ」
「誰が『いっちゃん』だっ」
一哉たち双子が小さい頃は、「いっちゃん」「かっちゃん」と呼ばれていたという話を真央から聞いたことがあったが、大崎もそれを知っていたのだろうか。
「つっても俺は甘いものが苦手だから、コーヒーぐらいしか奢ってもらえないけどさ」
「なら来なきゃいいだろうが。高遠、こいつには一番安いヤツでいいから」
「いっちゃんてばイケズねえ~」
高遠まで悪ノリしたらしくオネエ口調になって言ったとたん、一哉の半袖から伸びる腕に一瞬にして鳥肌が立ったのを、隣に座っていた唯は確かに見た。高遠の後頭部には、件のウェイトレスの女性の放った一撃が炸裂する。
「バカやってないでお仕事してください、マスター」
「相変わらずひどいなあ、なっちゃんは……」
「なっちゃん」とは、件の女性の愛称らしい。
「はいはい、わかりましたよ。で、皆さんご注文はお決まりで?」
「俺はこのレモンムースってヤツでいいかな。唯ちゃんは決まった?」
「あ、私は一哉さんがこの間おすすめしてくださったものでいいです」
「遠慮なんてしなくていいんだよ?」
「いえ、あれがとても美味しかったので、もう一度食べたくて…」
普通にしようと思っていても、皆がそういう目でニマニマと見ている前では、だんだん恥ずかしくなっていってしまって、顔が赤くなり語尾が立ち消えになっていく。一哉もそれに気付いたらしく、忌々しいものを見る目で他の連中を見やった。
「あーもうっ うちの彼女はシャイなんだから、そういう目で見るのはやめろっ」
「そういう目って何よー、あたたかく見守ってるだけじゃなーい」
「そうよー、親友が未来のお義姉さまになるのかなと思ったら、感慨深くなっちゃってー」
「あ、そっか。先輩と小林さんが結婚したら、真央ちゃんのお義姉さんになるのかー」
けけけけけ、結婚!? 人生初の彼氏ができただけで既にいっぱいいっぱいだった唯には、既に許容量オーバーで、それに気付いた一哉が慌てて「これでも飲んで」とお冷やのグラスを手渡してくる。
「だーかーらー、そういうことを言うなっつーの!」
「まー、大槻ってばすっかり包容力にあふれた彼氏ヅラしちゃって……見ました? 宏子奥さま」
「見ましたわ、藤子奥さま。このまま自分の思う通りに育てるつもりかしら。光源氏計画ってヤツ?」
「お・ま・え・ら~っっ」
隣で憤怒に燃えている一哉には申し訳ないが、まるでほんとうの主婦の井戸端会議のような口調で話す藤子と大崎に、唯は思わず吹きだしてしまっていた。同期ならではのコンビネーションというものだろうか。
「ご、ごめんなさい、何だかすごく可笑しくって……」
皆が驚いたような顔でこちらを見るが、止まらない。そのうちに一哉が優しい笑みを浮かべてこちらを見ていたことにも、それを見て皆が微笑ましいものを見る顔になっていることにも、唯はまるで気付かないままで……。
「えっとー、じゃああたしはこのガトーショコラってヤツにしようかな」
「あたしはー…フルーツタルトがいいなー」
「俺は先輩と同じレモンムースってのがいいかな」
「あーもう、何でも好きなの頼め。てな訳で、高遠、飲み物もそれぞれに合うヤツを頼む」
「了ー解ー」
そうして、楽しい時間は過ぎていく……。
* * *
翌日。
「まったくあいつらときたら。ひとの奢りだと思って、遠慮なく食いやがって」
県内のアウトレットモールに一緒にやってきた一哉が、多少不機嫌そうな顔になって言うのが、可笑しくてたまらない。悪いと思うけれど、ついクスクスと笑ってしまう。
「こーら、当事者のもう片方が笑うんじゃない」
「ごめんなさーい」
そうは言うものの、くしゃくしゃっと頭を撫でられるのも嬉しくてたまらない。こんなに幸せでいいのかと、時々怖くなってしまうほどだ。
「ところで、何か買いたいものとかないの? 俺も一緒に入っていいところならつきあうけど」
「買いたいもの……」
こまごまとしたものがいくつか頭をよぎるが、別にいますぐ欲しいと思っているものでもないので、困ってしまう。やりたいことなら、実はひとつあるのだけど……。
「あ」
「何かあった?」
「いえ、買いたいものとかいうんじゃなくて、やりたいことがあるんです」
「やりたいこと?」
「はい、いつも一哉さんにお世話になってばかりだから、もしよかったら、おうちにご飯を作りに行きたいんですけど」
そう。それは、一哉と付き合い始めてからずっと考えていたこと。一人暮らしを始めてそれなりの年月が経つという一哉に、唯が何ができるかと考えていたら、料理など家事くらいしか思い浮かばなくて。会社に一哉の分もお弁当を作っていくことも考えたけれど、ふたりの交際をしばらくの間内緒にしておきたいと言ったのは、唯自身だから────恥ずかしいということもあるけれど、何より今年の春に入社したばかりで仕事もまだまだな自分が、そんなことだけはちゃっかりしていると思われるのも嫌だったから。せめて、自分にもう少し自信がつくまで、秘密のままにしておきたいと言ったのだ。唯の気持ちをわかってくれたらしい一哉は、唯のそんなわがままとも思える願いも聞き入れてくれた。
余談ではあるが、一哉の弁当については、弟の玲司の弁当を作るついでと家族には言い訳をして────もちろん誰も見ていないところで渡して、会社の人には唯が作ったということは内緒にしてもらって────自分のものとは違う雰囲気のものを作ればいいのだという結論に達し、実行に移すのはもう少しだけ経った頃のこと。
「え…うちに?」
ほんの少しだけ一哉の表情が翳った気がして、唯はハッとする。
「あっ やっぱり迷惑ですよね、よけいなこと言っちゃってごめんなさいっっ」
いくら「彼女」になれたとはいえ、やっぱり図々し過ぎたと思って、気恥ずかしさから謝ると同時に早足で先に進もうとした唯の手首を、後ろから制止するように引き留める優しい手。
「え…」
「それは違う。嬉しくは思っても、迷惑に思うことなんて、絶対ない。だから、安心して」
「でも……」
家に来られるのが嫌なのではないかと思った唯の耳に、一哉がそっと顔を寄せてささやいてくる。
「うちに来てくれるのは嬉しいけど、ご飯じゃなくて別のものをご馳走になりたくなっちゃいそうだから、てのが一番の理由なんだけど」
その意図を察した唯の顔が、一瞬にして真っ赤に染まる。
「それは冗談として、実は食器とか調理器具とかが最低限の数しかないってのが大きいんだよね」
はは…と照れくさそうに笑う一哉がとても可愛らしく思えて、唯の胸は思わず高鳴ってしまった。
「じゃあ、今日はその足りないものを買いに行きません?」
「いいの?」
「はい、おじさまたちや一斗さんには全然かなわないでしょうけど、私も一哉さんのために何かさせてほしくて」
あと自分にできることは、変に気負ったりしないで素直に想いを伝えることだと思うから、恥ずかしいけれど隠すことなく本心を伝える。何となく気後れしながらそろりと見上げた視線の先にあったのは。ほんとうに嬉しそうな一哉の笑顔だった…………。
皆があたたかく見守る中、少しずつ、けれど確実に距離を縮めていくふたり。
次回、いよいよ最終話です。