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手をつないで歩こう



『ずっとずっと……一哉さんのことが、好きです──────』



 ごくり、と音をさせて喉を鳴らした一哉が、唯をまっすぐに見据えたまま、口を開く。


「ほん…とに……?」


 一哉自身も予想をしていなかったのか、驚いて慌てふためくほどかすれたその声に、唯もようやく我に返ってハッとする。顔が、一気に紅潮するのがわかった。一哉の顔を見ていられなくて、ソファの上で正座をしたまま俯いてしまう。


 ごほん、と少々わざとらしい咳払いの後、穏やかな一哉の声が聞こえてくる。


「ほんとのほんとに? 好意に応えなきゃとか思ってる訳じゃなくて?」


 信じてもらえてないのかと思った瞬間、唯の身体の奥がかっと熱くなった。


「そ、そんな風に思ってたら、自分でも無意識に気持ちが口をついて出たりなんて…!」


 顔を上げてとっさに発した言葉に、自分でも意味を理解したとたん恥ずかしくなって、再び俯いてしまう。そんな唯の身体を、ふわりと抱き締めてくる温かな身体。


「……ごめん。あんまり嬉し過ぎる展開だったんで、現実なのかつい疑っちまった。唯ちゃんの気持ちを疑うなんて、ある訳ないよ」


 ほとんど初めて男性に抱き締められて、唯の頭の中はもういっぱいいっぱいだ。


「あっ ごめん、もしかしなくてもまだ冷たいかな? 俺はもう慣れちまったけど」


 それは、一度はびしょびしょになってしまった自分の衣服のことを言っているだろう一哉の言葉に、唯はふるふると首を横に振る。


「いえ…もう、頭も身体も熱くて、何も感じないです……」


 それは、本心からの言葉。仮にまだ濡れていたとしても、いまの唯ならかえって冷たくて気持ちいいと感じるくらいだろう。そんな唯に、一哉はふ…っと微笑って。


「とにかく、戸締りをしてここを出ようか。もっと落ち着くところで、ゆっくり話したい」


「は、はい……」


 ふたりで手分けをして、あちこちの戸締りや元栓のチェックなどを行って、それからそろってオフィスを後にする。唯は既に帰り支度を済ませていたので、一哉が荷物を取ってくるのを待つだけで済んだ。


 それからふたり並んで会社を出るが、出たとたんにつないだままの手を、一哉は放そうとしない。


「あ、の…手、を……」


「ん? 手がどうかした?」


 一哉はわかってやっているのだろう、何を言われても放しはしないと思っているかのように、きゅ…っと唯の手を握る手の力をわずかに強める。


 ふたりそろって改札を通って、同じ方角に向かう電車に乗ってからも、一哉は手を放そうとはしない─────もちろん他人からは見えづらいようにしながらだが。


「やっと手に入れられた実感を、少しでも早く自分の中に浸透させたいんだ。唯ちゃんはこういうの…嫌?」


「嫌、じゃ…ないです……」


 頬を染めながら答えると、一哉の満足そうな笑み。そんな顔も何だか可愛いと思ってしまうから、重症かも知れない。


 ふと気付くと、一哉のいつも降りる駅が近付いてきても、一哉は降りる準備をする気配がない。駅に着いてドアが開いても立ち上がろうとしないので、問いかけようとする唯の前でプシューッと音を立てて閉まるドア。驚いて、ドアと一哉の顔とを交互に見やる唯に、一哉はにこりと笑いかけてくる。


「いいんだ、今日は。唯ちゃんちのほうの駅まで行くつもりだから。…少しでも、長く一緒にいたくて」


 そんなセリフ、初めて言われたからどんな顔をしていいのかわからない。どう答えていいのかもわからなくて、つい俯いてしまう唯に、一哉は「わかってる」とでも言いたげにつないだままの唯の手を指でなぞった。ぞくりとする感覚が、手から始まって全身に伝わってくる。けれど、決して不快なそれではなくて……。


 やがて唯の家の最寄り駅に電車が着いて、ふたりそろって改札を通り過ぎる。


「あ、の……」


 電車の中では恥ずかし過ぎて、まともに会話することすらできなかったので、ようやく普通に声が出せた気がする。


「ん?」


 以前送ってきてくれた時に通った道を迷いなく行こうとしていた一哉が、ふと振り返る。


「もしかして、家まで送ってくださるつもりだったり…します……?」


「あ、もしかして迷惑だった!?」


 慌てたように問うてくる一哉につられて慌てながら、唯も急いで言葉を紡ぐ。


「いえ、そうではなくてですねっ 私自身、まだ信じられない気持ちでいっぱいなのに、家族や近所の人にでも見られたりしたら、きっと質問攻めにされてどうしていいかわからなくなると思うんですっ だから……」


 だって、まだ夢見ているような気分で、現実味がなかったから。だって、ずっと好きだったと最近やっと自覚した相手も自分を好きだと言ってくれて、いまこうして手をつないで歩いているなんて……唯にだってまだ現実として認識しきれていないのに、こんな状態で家族のみならずご近所さんにでも会ったら────きっとそのまま家族に筒抜けになって、結果的には同じことだろう────とんでもないことになりかねない。


「そっか。このへんは、唯ちゃんが昔から住んでる、馴染みの深い場所だもんな」


 唯の言いたいことを正確に把握してくれたらしい一哉が、手を放してそのままぽんと頭に軽くのせた。


「じゃあ、俺は今日はここで帰ったほうがよさそうだな。その代わり……」


「え?」


 聞き返す間もなく、ぐいと手首を引っ張られて、近くのスーパーの裏手へと連れて行かれる。時々、休憩している店員がいたりするが、この時はちょうど買い物客のピークの時間ということもあり、誰もいなかった。


 一哉のバッグが下に落ちて、思わずそちらを見た次の瞬間、その広い胸の中に抱きすくめられて、一瞬何が起こったのかわからなかった。


「せせせせせ、せんぱ」


「プライベートでは名前で呼んで」


「いち、やさ、ん…?」


「…俺のものになってくれたって思って…いいんだよね? そんなつもりじゃなかった、なんて…言わないよな?」


「…!」


 唯が不安に思うように、一哉もまた、不安に思っていたのだろうか。初めて逢った時から自分よりずっと大人で、何に対しても迷いなんて持っていないように見えた一哉が……こんなに自信なさげに本心を吐露するところなんて、初めて見た気がする。


「そ…それは、私のセリフです……私みたいにデカくて何の面白味のない子、誰かに好かれる訳なんかないと思ってて」


「そうやって自分を貶めるようなことは言わない!」


 予想もつかない厳しい声に、唯の身体がびくりと震えて、肩にかけていたバッグが滑るように地面に落ちた。その音でハッとしたように、一哉が自嘲的な声を発する。


「…ごめん、驚かせて。だけど、前から思ってたんだ。そんな風に、自分を卑下してほしくないって。そのままの唯ちゃんだから、俺だって好きになったし、真央だって鳴海さんだってあんなに好意をあらわにしてるのに。俺たちのためにも、自分のことをそういう風に思わないでくれ」


 いままで何度も言われたセリフだというのに、一哉に言われると素直に胸に染み入るのは何故なのだろう。気付いたら、涙がこぼれだしていて…止めようとしても、止まらない。滲む視界の中、一哉が微笑んでいるのが見えた気がした。


 その矢先に、ふいに前髪を持ち上げられて、額に当てられるやわらかな温もり。


「え…」


「そんな可愛い泣き顔見せられたら、我慢できなくなっちゃうよ。額でこらえられたことを、褒めてほしいな」


 もしかして…いまの温もりは……?


 唯が状況を把握しきれないうちに、一哉は二人分のバッグを拾って、軽く埃をはらってから唯のバッグを手渡してくれる。驚きのあまり、涙は既に止まっていた。


「俺はいま心から、君の背が高くてよかったと思ってるよ? これが背の小さいコだったら、俺はこれからきっと腰痛に悩まされることになりそうだからね」


 半ばぼんやりとした頭でだったけれど、その意味を理解したと思ったとたん、唯の頭に一瞬にして血がのぼった。


「俺の自制心がもつうちに、帰ることにするよ。これから…よろしくね? 妹の友達でもなく、会社の後輩でもなく─────俺の、誰よりも大事な『彼女』さん」


 「彼女」─────初めて言われた言葉の響きに、顔が熱くて仕方ない。


「ん? まだ自覚しきれてないかな? ならもうちょっと、自覚できるように行動に…」


 言いながら顔を近付けてくる一哉から、思わず後ずさる。


「だ、大丈夫です、自覚しましたっっ」


 半ば残念そうな、けれど楽しそうな顔で一哉が笑う。


「せ…一哉さん、私をからかってませんか?」


「えー? からかってなんかいないよ、愛あるスキンシップのひとつだよ」


 それは、からかうこととどう違うのだろうか。


「これから、ゆっくりひとつずつ教えてあげるから。覚悟しておいてね」


「え……」


「じゃ。こんなひとけのないところで、いい加減俺の忍耐力の限界がこないうちに、帰ろうか」


 どこに人の目があるかわからないということで、今度は手をつながないままで、ふたりは駅前の喧騒の中へと歩を進めていく。


「今度の週末は…ふたりだけでどこか行こうか。都合が悪いとかある?」


「いえ。とくに予定はないです」


「じゃあ、どこか行きたいとこ考えといてくれる? 車も出せるから、交通手段とかは気にしないでいいよ」


「はい…」


 すぐには浮かばないけれど、考えればどこかいいところが浮かぶだろうか。けれど、それよりも。


「別にわざわざでかけなくても構わないですけど……い、一緒にいられるなら」


 そう。わざわざどこかにでかけなくても、一哉と一緒に過ごせるなら、唯はそれで構わなかったのだけど。意外にも一哉は苦笑いをしながら、「それはちょっと…」と言葉を濁した。何か、マズいことを言ってしまったのだろうかと思ってしまった唯の心を読んだかのように、一哉は声をひそめてささやく。


「俺の家なら、誰にも邪魔されないで一緒にいられるけど……その代わり、俺の暴走を止める要素も何もないよ?」


 その真意にやっと気付いて、唯は顔を赤らめてしまう。二十歳も越えて久しいというのに、そっちにまで考えが至らなかったことが恥ずかしくてたまらない。大学時代には、男も女もなくそういう話題が飛び交っていたというのに、自分はいつまで何も知らないままなのか。


「ま、そういうところも唯ちゃんの魅力のひとつだけどさ。そんな唯ちゃんだからこそ、俺は安心してそばにいられるんだよ」


 だから、ずっとそのままでいてほしいな。


 そう続けられると、もう何も言えなくなってしまう。その後耳元で続けられた言葉に、唯の頬は再び赤らんでしまうのだけど。


「必要があれば、俺が手取り足取り教えてあげるから。無理に知ろうとしなくてもいいんだよ」


「も、もうっっ」


「ははは、いつまでも馬鹿やってないで、いい加減帰ろうか。後で、電話かメールするよ」


「はい…また明日、会社で」


「うん。それじゃ、また」


 手を軽く振りながら、一哉は駅へ向かう雑踏の中に消えていく。一哉の姿が見えなくなってから、唯はきびすを返して、帰途へとついた……。




          *     *      *




 家に帰ってから着替えて食事を済ませ、入浴も済ませた唯は、早々に部屋に引っ込んで、ベッドの上でごろりと寝転がっていた。いつ、一哉から連絡が入るかわからなかったからだ。こちらからしようとは、思わなかった。もしかしたら、一哉にはあの後用があって、ちょうどいまごろ食事や入浴を済ませているかも知れないと思ったからだ。


 それより、今度の週末にでかけるのならば、もしかしたら服を買いに行かなければならないと思い、ベッドの上で起き上がる。以前藤子と買い物に行った際に買った服は、既に温泉旅行の時に着てしまっているから、週末に着ていく服がすぐに思いつかないのだ。何かなかったかと思い、クローゼットの中を確認しようかとしたところで、ノックされる部屋のドア。


「姉貴ー、ちょっと辞書貸してくんねえ?」


 弟の玲司の声だった。


「勝手に入って持っていっても構わないわよ」


 そう答えると、一拍の間をおいてドアが開いた。玲司の視線が、ベッドの上、ちょうど唯の足の脇に注がれていることに気付いて、そちらを見てハッとする。ついさっき起き上がった時に、お腹の上に乗せていた例のクマのぬいぐるみが転がったことを思い出したのだ。また何か言われるかとドキドキしていたが、玲司はそれについては何も言わず、本棚に向かいながら意味不明な言葉を口にする。


「……時々さあ、おふくろが口ずさんでる昔流行ったっていう女二人組のヒットしたって曲、覚えてるか?」


 女性二人組のユニットの、ヒット曲? もしかして、あの二人組だろうかと思い浮かぶが、確信は持てない。


「確か…ピンク何とかってユニットだったっけ?」


「そうそれ」


 その二人のヒット曲と言われても、何曲もあるのでどれのことを言いたいのかわからない。


「この歳になってみるとさ、あの曲って結構当たってると思うようになってきたんだよな」


「だから、何の話よ?」


 訳がわからなくて問いかけると、玲司は唯とクマのぬいぐるみをちらりと交互に見てから、再び口を開いた。


「『この人は大丈夫』なんて簡単に信じちまったら、危ないんだってよ。優しいクマさんからオオカミに変身する男もいるかもな」


「!!」


 玲司が何を言いたいのかようやくわかった唯は、顔が熱くなっていくのを止められなかった。


「れ、玲司あんた、何をどこまで知ってるのよ!?」


 思わず声を荒げた唯とは対照的に、玲司は涼しい顔だ。


「べっつにー。学校帰りにダチと歩いてる時に、駅前でどっかで見た二人組が話してるのを見かけただけだよ」


「…っ」


 まさか、見られているとは思わなかった。


「まあせいぜい、理性をなくしたクマに襲われないようにな。男の考えることなんて、ただひとつだぜ?」


「玲司っ 失礼なこと言わないでよっっ」


 すっかり一哉との関係をごまかすのを忘れているあたり、唯もテンパってしまっていたらしい。そんな唯に、玲司は軽く肩をすくめて、辞書を片手にドアに向かっていく。


 そのとたん、ローテーブルの上に置いていた携帯が着メロを奏で始めたので、慌てふためいてしまう。そんな様子を見ていた玲司は、無言のままでパタン…とドアを閉めて出ていった。昔は「姉ちゃん、姉ちゃん」といまの芽衣子のように後をついてきて可愛かったのに、いったいいつの間にあんなに生意気になってしまったのだろう。そんなことを思いながら、急いで携帯のオンフックボタンを押す。


「はい、もしもしっ」


『もしもし、一哉だけど…そんなに慌ててどうしたんだい?』


 くすくす混じりの電話越しの声。こんな声、初めて聞いた気がする。


「あ…たったいままで、弟が生意気なこと言うからちょっとたしなめてて……」


『弟くん? この間会った? いまそばにいるの?』


「いえ、辞書を借りに来ただけなんで、もう行っちゃいました。昔は可愛かったのに、いつの間にやら生意気になっちゃって…」


『確か高三って言ってたっけ。初めて逢った頃の唯ちゃんと同じだけど、男と女じゃずいぶん違うからなあ。とくに年上の同性の前じゃ、子ども扱いされたくなくて粋がってみたり』


「あ、ちょうどそんな感じです。今日も、駅前で一緒にいたところを見られてたみたいで…」


『駅前でってことは、ひとけのないところでどうこうってあたりは見られてなかったってことかな? ならよかった』


 意味深な物言いに、またしても顔が熱くなるが、電話では相手からは見えないことに気付き安心する。


『それとも、大事な姉さんをとられるような気がして、俺のことが気に食わないのかな』


「それはわかりませんけど、何か感付いてるみたいで……」


『恥ずかしい?』


「ちょっと……」


 正直に答えると、電話の向こうでふっと微笑う気配。


『それに関しては、慣れてもらうしかないなあ。ずっと欲しくてやっと手に入れられた大事な存在を、手放す気は俺には全然ないし』


「…!」


 ずっと、とは、いったいいつから唯のことをそういう風に思ってくれていたのだろう。


『どうかした?』


「『ずっと』って…いったい、いつから…その……」


 電話の向こうで、小さく笑う声が聞こえてきた。


『唯ちゃんが教えてくれたら、俺も教えてあげるよ』


 唯がなかなかそういうことを口にできないことをわかっていて、あえて言う一哉は意地悪だと思う。けれど、滅多に聞けなかった電話越しの声を、ずっと聞いていたいとも思う。穏やかで、低く胸に響く心地よい声──────。


『ん? どうしたの、急に黙っちゃって』


「いえ…電話で話したことなんてほとんどなかったから、一哉さんの電話越しの声って素敵だなって思って……」


『そ、それはどうも……』


 もしかして、一哉も照れている? どこかくすぐったい気分のまま、他愛のない話に興じていた………………。

ようやく両想いの自覚の出てきたふたり?

このままゆっくりと手をつないで歩いていってもらいたいものです(一哉はもう少し我慢しなさい(笑))。

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