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心を解き放つ時



 とある夏の日の午後、皆が終業時間に向けてラストスパートをかけていた頃。



「うおっ!?」


 給湯室から響く、男の声。


「大槻? どうしたの?」


 たまたまそばを通りかかった藤子が声をかけた直後、水を滴らせながら給湯室から出てくる一哉の姿…。


「どうしたもこうしたも…洗い物がたまってたから食洗機使おうとしたら、つないである水道が何故か暴発して、このざまだよ……」


 一哉は前面のみだが、上半身も下半身もビショビショだ。それを目にした唯は、素早く席を立ってオフィスの出入り口へと向かう。


「あー、食洗機何か調子悪いと思ってたんだけど、課長に報告し忘れてたー」


「松村、お前のせいかっ」


 一哉にとっては後輩だが、唯にとっては先輩の松村がへらへら笑うのを見て、普段は温和な一哉もさすがに腹が立ったらしく、その長い腕で松村にヘッドロックをかける。


「痛っ 冷てっ 痛っ 冷てっ ああ、冷たくて気持ちいい~」


 皆の笑い声を背に聞きながら、更衣室の自分のロッカーからあるものを取ってきた唯は、急いできびすを返す。


「先輩、もっと~」


「誤解を招く言い方をするなっ これからお前のことマゾ村って呼ぶぞっ」


「えー、鳴海先輩相手ならそう思われてもいいけど、大槻先輩じゃなー」


「あたしだってそんな趣味ないわよっ!」


 巻き添えを食った藤子が叫ぶところでオフィスに戻ってきた唯は、ついくすりと笑ってしまった。本人にはそういう嗜好はないにも関わらず、どうしても藤子はそういう風に見られてしまうらしい。


「大槻先輩、使った後のもので申し訳ありませんけど、よかったらこれどうぞ」


 言いながら、自分のものらしいハンカチで上半身を拭いていた一哉にタオルを差し出す。夏だし、何に必要になるかわからないからいつも持ってきているものだった。今日は濡れた手を拭いたぐらいで、汗を拭いていなかったことにホッとする。さすがにそんなことに使ったものを他人に貸す気にはなれなかったから。


「あ、ありがとう」


「さっすが唯ちゃん、気が利くー。松村も見習いなさいよね」


「ほんじゃあ先輩、下半身拭くの手伝いましょうか~?」


「やめろバカ、俺にはそんな趣味はないっ」


 「俺だってないっスよー」などとへらへら笑いながら、松村はひょいひょいと席に戻っていく。


「ったく…あ、小林さん、これ洗ってから返すから。ホントにありがとうね」


「いえ、お気になさらず」


 それにしても、と思う。営業のように外に出る必要がなく、制服のある唯たち女性社員なら着替える服もあるが、たとえ事務職であってもそうでない男性社員は大変だろう。いくら夏といっても、冷たいだろうと同情を禁じ得ない。


「大丈夫かい? 大槻くん」


「はい、夏だし、しばらく置いとけば乾くと思うので」


 冬なら何としても着替えを確保しただろうけど、夏だからかそう結論を出したらしく、一哉は再び自分の席に腰を下ろして仕事を再開した。食洗機で洗うはずだった湯呑茶碗などは、藤子が代わりに手洗いで洗うことにしたらしい。それを見届けてから、唯も自分にあてがわれたPCに向かって中断していた続きを再開した。



 そして、終業時間はやってくる。


「あー、今日はノー残業デーですので、皆できる限り定時で帰るように」


 終業のチャイムが鳴り響く中告げる課長の言葉に、皆が明るく返事をする。その様子から、皆余裕で仕事が終わりそうなことがわかって、ちょうどやっていた作業の終わりを迎えていた唯もホッとする。皆がそろって帰っていく中、独りだけ取り残されるのは情けないからだ。


「大槻くん、服は乾いたかね?」


「あ、あとちょっとって感じなんで、少しだけ残ってから帰ります」


「そうっスねー、シャツより生地が厚いからかちょうど股間の辺りがまだ色が微妙に違ってて、まるでトイレで失敗したみたいっスねー!」


 けらけらと笑う松村に、今度は一哉のコブラツイストが炸裂した。


「いだだだだっ!!」


「さーて、バカは放っといて帰ろうかー」


 藤子に促され、他の女子社員と共に更衣室に向かった唯の頭の中では、一哉のことではない何かがひっかかっていて、何となく気になって仕方がない。


 何だろ…何か、大切なことを見落としているような……。


 着替えながら、今日やった仕事の内容を頭の中で反芻する。とりあえず、午前中の仕事ではないようだ。午後は、前半は藤子から回された仕事をやっていて、後半は課長に頼まれた書類の打ち込みをやっていたのだが……ひっかかりは、そこから発生している気がしてならない。他社の名前と製品名その他を打ち込んでいく仕事だったのだが……どの会社の名前も、以前から取引している会社のそれで、そこにひっかかる訳はないと思うのだけれど…と、打っていった順番をゆっくりと思い出して、そうして、やっと気付く。


「あ…あーっ!」


「ど、どうしたの、唯ちゃんっ」


「さっき打ち込んだ書類の、ミスに気がついちゃったんですっ やだ、課長が帰っちゃう前に確認しとかなきゃっ」


 急いで着替えを終えて、荷物を片手に「お先に失礼しますっ」と言いながら慌てて更衣室を後にする。課長は確かさっきまでは、オフィスに残っていたはずだ。運がよければ、帰ってしまう前に会えるかも知れない。息を切らせてオフィスに戻ると、課長と窓際で談笑していた一哉が驚いたような顔でこちらを見た。


「こ…小林くん、どうしたんだね」


「課長、ちょっと確認したいことがありますので、まだお帰りにならないでいただけますかっ」


「あ、ああうん、わかったよ」


 その答えを聞きながら、先刻引き出しにしまったファイルの中から数枚の書類を取り出す。上から順に、一社ずつ社名を確認していき、そしてようやくひっかかりを覚えた部分にたどり着く。


「…やっぱり…! 課長」


「え? ああ、今日打ち込みを頼んだ書類か、それがどうかしたかね?」


「ここなんですけど…」


 言いながら、書類を持って課長の元へ。


「ここの社名、K社になってますけど、K社はもっと先のほうにあるので、こちらは間違いではないかと思うのですが」


「どれ…あ、ほんとうだ! じゃあここはどこの会社だ? ちょっと待っててくれたまえ」


「はい」


 課長が自分の手元にあるファイルを確認している間、唯は自分の持っていた書類をもう一度見直す。これくらいならPCの置換機能を使えばすぐに直せるかと思ったが、既に先にK社が入ってしまっている以上、それを使うとほんとうのK社まで変わってしまうからダメだ。となると、やはり自分の手で打ち直さないとダメか。けれど一社だけだから、そんなに時間はかからないだろう。自分のデスクに歩み寄って、PCの電源を入れる。


「あー、小林さん済まない、こっちはK社じゃなくて、K元社の間違いだ。一文字違いの社名だから、間違えちゃったんだな」


「やっぱりそうでしたか。打ち込んでる時から、何かひっかかっていたんです。他に、ごっちゃになっているところはありますか?」


「いや、ないな。名前だけ直してもらえれば大丈夫だ。…いま直すのかい?」


「記憶が鮮明なうちにやってしまったほうが、時間もかからないと思うんです。タイムカードは押してきましたし、30分もかからないと思いますから大丈夫ですよ」


「そうかい? 済まないねえ。私はこれから会議に出なければならないので、手伝えないのだが」


「大丈夫ですよ、これくらいなら一人でもすぐ終わります」


「いやホント済まない。ついでに後の戸締り他もお願いできるかな?」


「課長、僕も確認しますから、大丈夫ですよ」


「そうかい、悪いが後は頼む」


「はい」


 必要なものを持ってオフィスを出ていく課長を見送ってから、唯はまっすぐにPCに向いて座り、先刻まで打ち込んでいたファイルを呼び出す。こうして改めて見ると、間違いは明らかなのに、どうしてやっている時には気がつかなかったのだろう。その時に気付いていれば、いまこんな二度手間にはならなかったのに。やはりまだまだ自分は未熟だなと唯はつくづく思う。


「大丈夫?」


「はい。先輩も、お先に帰っていただいて大丈夫ですよ、後は私が戸締りしていきますし」


「いや、まだ服が完全に乾ききってないから、もう少しいるよ」


「そうですか、大変ですね」


 ちらりとそちらを見てから、視線を再びモニターに移す。不思議なことに、こうして気分が仕事モードになっている時は、一哉のことを変に意識しないで済む。しばしの間、仕事に没頭しているうちに、完全にひとりの世界に入り込んでしまっていたようで、すっかり訂正を終えて保存した頃には、時計の針は終業時刻から30分過ぎた頃を指していて、思ったより時間がかかり過ぎなかったことに安堵する。


 後片付けをしながら、そこでようやく一哉のことを思い出して周囲を見渡すと、彼の姿はどこにもない。先に帰るにしても、一言もないというのは考えられないので────いくら作業に没頭していたとはいえ、声をかけられて自分が気付かなかったというのはあり得ないと思う────まだ付近にいるはずだが……気付くと、ここのオフィスどころか会社全体が静まり返っていて、今日はどこもあまり残業をしていないのかなと漠然と思う。そんな静寂の中、ふと誰かの息遣いが聞こえた気がした。応接ブースのほうから聞こえたように思えてそちらに足を向けると、横長のソファからはみ出している靴下を履いた足先がまず目に入った。


「…!」


 もしかしなくても…寝ている? できる限り物音を立てないようにして中に入っていくと、足とは反対側に頭を置いて仰向けで寝込んでいる一哉の顔が目に入った。もしかして、服を乾かす間暇で寝てしまったのだろうか。唯は仕事に没頭していたからか、全然気付かなかった。


 …そういえば、一哉が寝ているところなんて初めて見る。例の温泉旅行の時ももちろん部屋は別だったし、非常に珍しいものを見る気分だった。


「…………」


 こうして気を抜きまくって寝ている顔は、何だか普段より若く見えて。一瞬、五年前の彼と見まがうほどだ。そんなはずは、ないというのに。


 起こして、早々に戸締りをして帰るべきだというのはわかっているけれど。何となく、起こすのがしのびなくて、ゆっくりとその肩のあたりでカーペットの上に腰を下ろして、ソファの端に腕を置く。思えば一哉はいつだって自分や真央の面倒を見てくれていて、こんな風にリラックスしたところなんて滅多に見たことがない気がする。更にいえば、ここは会社なのに……唯も近くにいたのに、よく眠れるものだ。それとも…唯がそばにいても、リラックスできるぐらいに気を許してくれているのだろうか? 本人に確かめる勇気なんて、とても出ないけれど。


 あ。髭が、少し伸びてきてる。そうよね、もう夕方だものね、朝剃ったのが生えてきちゃってもおかしくないわよね。そういえば、弟の玲司も最近は朝剃ってたっけ。高三ともなると、やっぱりもう男の人に近いわよね。一哉さんは、初めて会った頃から玲司よりずっと大人だったけど。あ、喉仏。そ、そうよね、男の人だものね、あるに決まってるわよねっ


 最近はクールビズでネクタイもしないし第一ボタンを外していたりするから、きっちり上までボタンを留めてネクタイをしている時より、見えやすい気がする。けれどそれも、これほどの至近距離で見れば、の話だけれど。こんなに落ち着いて、こんなに至近距離で一哉の顔を見たこともなかった気がする。


 ずば抜けてイケメンという訳でもないけれど、内面の性格のよさがにじみ出ているのか、爽やか好青年にしか見えない彼。けれど、ホントの内面の奥は、結構意地悪というか……つい先日、資料室で見せられた彼の意外な一面が思い出されて、ひとり顔が赤くなってしまう。あの時の一哉はほんとうに別人のようで、初めて見る訳でもないいまでも、恐らく唯は平静ではいられなくなってしまうだろう。少女漫画や小説に出てくるような男の人なんて現実にいる訳ないとわかっていても、それでもあんな生々しい男性の顔を見せられると、焦ってしまう。いままで男性と付き合ったことがないせいももちろんあるが、これまで「優しいお兄さん」でしかなかった彼の「男」の面を見せられると、怖さを感じると同時に恥ずかしくて……更にそんな唯を見て彼が楽しんでいるのがわかるから、悔しくて。


 …………だけど。



「──────好き」



 なのだ、悔しいけれど。その他の感情をすべて凌駕してしまうほどに、「好き」という気持ちが上回って、もう抑えていられないほどに、気持ちがあふれてきて……自分でも、もう止められそうにない。


 ささやくように、自分でも無意識に想いが口をついて出たきっかり三秒後、急激に強い力に二の腕をつかまれて引き寄せられて、バランスを崩した唯は思わず悲鳴を上げてしまう。


「きゃ…っ!」


 気付いた時には、温かくやわらかな平らなものの上にいた。一瞬ソファの上かと思ったけれど、ソファはもっとやわらかいし────唯が乗っていたのは、確かにやわらかさもあるけれど、ソファとは明らかに違う種類のやわらかさがあり、同時に固さも備わっていて、安心感すら覚えるものだったのだ────もっと低い位置にあるはずだった。


「…………いまの、ホント?」


 耳のそばから聞こえる声────と同時に、とっさに手を当てた固く平たいものからも響いてくる、声。


「え……」


 唯の頭が、瞬時に混乱に叩き込まれる。目の前にあるのは、こちらをまっすぐに見て楽しそうに笑っている一哉の顔。一哉の胸の上に抱き留められていると気付いた瞬間、自分でも何を言っているのかわからなくなる。


「なっ えっ そ、そのっ」


 とにかく離れたくて起き上がろうとするが、一哉の腕にしっかり抱きすくめられていて、動けない。


「は、放してください、一哉さんっ」


 会社の中だというのに、プライベートの時の呼び方になってしまっていることにも、唯は気付けない。


「嫌だ。唯ちゃんがさっき言ったこともう一度言ってくれるまで放さない」


 唯を抱きすくめたまま起き上がる一哉の腕の力は強く、とても唯の力では引き離せそうにない。いったいいつから起きていて…というより、自分でも無意識だったあの言葉を、しっかり聞かれてしまったのだろうか。ソファの上で膝立ち状態になっている唯の身体を、一哉は強く強く抱き締める。


 もうどうしていいかわからなくて、混乱を極めた唯の耳元で、再びささやかれる優しい声。


「─────唯ちゃんが…好きだよ。多分、五年前に初めて逢った頃から」


 普段の唯であったなら、そうすぐには信じられなかったかも知れなかったその言葉は、何故かこの時にはすとんと心の中に静かにおさまって……ずっとその言葉を待っていたかのように、まるでその言葉が入る余地をずっと空けていたかのように、心の中の隙間をぴったり埋めていくような気さえして。いままで感じたことのないほど大きな安堵感が、唯の心のすべてを埋めていく。


「好きだよ。……唯ちゃんは…?」


 どこか不安げな響きを宿した、一哉の優しい声。もしかして……一哉もずっと、同じ気持ちだった…? 頼りなさげに揺れながらもまっすぐこちらを見つめる瞳から、目がそらせない。涙が一筋、瞳からこぼれて……。またもやほとんど無意識に、唇が言葉を紡いでいた。



「ずっとずっと……一哉さんのことが、好きです──────」

ついに想いを伝え合えた唯と一哉。

ふたりの心は、これからゆっくり交わっていくのでしょうか。

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