ゆっくり、一歩ずつ
前回、暴走してしまった一哉。唯との関係はどう変わる…?
それは、藤子からの提案だった。
「お見舞い…ですか?」
「そう。木内くん、経過も順調みたいで、うまくすれば来週には退院できるらしいのね。だから、その前にちょっとの時間だけでも様子を見てこようかって、大槻と話してたの」
「大槻先輩も一緒に…ですか?」
一哉との間にあったことは藤子には一切話していないので────というより、恥ずかしくて話しようがない、というのが真相だ────何も知らない藤子は「そうだけど、それがどうかした?」と続ける。
「あっ いえ、何でもありません」
「大槻だけじゃないわよ、真央ちゃんも一緒だって。ほら、木内くん、真央ちゃんのことかなり気に入ってたみたいじゃない。ささやかなサービスだって、大槻も笑ってたわ」
あの温泉旅行以来、木内と大崎から頻繁にメールが来ると真央が話していたことを思い出す。唯から見た感じでは、真央はどちらのこともそれなりにいい友達ぐらいには思っているようだった。
「という訳で、次の土曜日の午後、大丈夫?」
「あ、はい、大丈夫です」
「大槻が車出してくれるって話だから、大槻んちの最寄りの駅前で待ち合わせね」
「はーい」
などと話した後の土曜日、集合する四人の姿があった。
「今日は、大崎さんは誘わなかったんですか?」
温泉旅行以来、彼にも何だか連帯感を抱いていたので問いかけると、一哉が楽しそうに答える。
「奴は今日は、接待ゴルフで来れないんだ。だから、明日じゃなくて今日にしたのさ♪」
「…!」
普段はそれなりに親しくしていても、妹の真央が絡むとまた別の話らしい。相変わらず、親友なのか悪友なのかわからない二人だ。
予想通り、皆が行くと────というより、主に真央の来訪だろうか────木内は喜んで、傷の痛みに顔を歪めるという一幕もあったりして少々焦ってしまったが、何とか元気そうで安心する。
「いやー、仕事に穴空けちゃって、ホントすんません……小林さんたちにも負担かけてるって聞いたよ、ごめんね」
「病気ばっかりは仕方ないよ。それより、いまは療養に専念して、早く治してくれたほうが結果的に皆も助かるから、よけいなことは考えないこと」
「そうそう。とにかくいまは、身体をしっかり治して」
ある程度話したところで、一哉と藤子に促されて、唯は床に下ろしていたバッグを抱え直す。何しろ週末だし、会社の他の面子や木内の個人的な友人たちが来ないとも限らないので、様子を見て安心したら早々においとましようと事前に話していたのだった。お見舞いに来て、患者を疲れさせては元も子もない。
「じゃ、次に会うのは会社に復帰してからかな? ゆっくり英気を養ってから戻ってこいよ」
「あたしたちもできる限りフォローするから、無理はしないでね」
「私も及ばずながらお手伝いしてるから、安心してね」
それぞれ一言ずつ告げてから、病室の出入り口に足を向けながら振り返ると、備え付けの椅子に腰を下ろす真央の姿が唯の目に入った。
「え?」
どういうことかと訊こうとした唯の背を押しながら、藤子が笑顔で病室を出て行く。後に続いた一哉も、真央の行動は了承済みだったようで、とくに不思議に思っている様子もなくドアを閉めた。
「ど…どうして真央だけ残るんですか?」
声をひそめて問いかける。
「不運な木内くんへの、ちょっとしたお見舞いのオプションよ♪ 真央ちゃんひとりだけなら、木内くんもそんなに疲れないでしょ」
「先輩、いいんですか?」
一哉を見上げると、まるっきり不快に思っていないような笑顔で見返してくる。
「うん、木内なら構わないかなと思って。それにここからなら、うちの実家には電車一本で帰れるしね。どうせ『お義兄さん』と呼ばれるなら、大崎より木内のほうがはるかにいいからっ」
大崎にそう呼ばれるのを想像したのか、本気で嫌そうな顔で一哉が身震いをしてみせたので、唯はつい吹き出してしまった。
「という訳で、邪魔者のあたしたちは帰りましょ」
藤子の言葉に従って、三人はそっとその場を後にする。唯にしても、真央本人が木内に友情以上の好意を抱いているなら、友人として反対する理由もない。木内の人柄の良さは、同僚としてよく知っているから。ふたりが幸せになれるなら、唯はいくらでも応援する気持ちになっていた。
「じゃ、唯ちゃんは助手席に乗ってー」
「? はい」
不思議には思ったものの、藤子には何か考えがあるのかと思い、行きは真央が座っていた一哉の車の助手席に何の疑いもなく乗り込む。藤子と一哉にしてやられたと思うのは、それから10分も走った頃。繁華街の近くの路肩に停められた車の後部座席から、自分の荷物を持った藤子が降りてしまったのだ。
「えっ 先輩っ!?」
「実はあたし、この近くで彼氏と待ち合わせしてるのよね。という訳で、ここでバイバーイ♪」
「じゃ、また月曜日に」
「えっ ええっ!?」
唯が混乱している間に、一哉は右へとウィンカーを出して、再び車を走らせ始める。思わず振り返った唯の視界に入るのは、手を振りながらだんだん小さくなっていく藤子の姿……。
「そういう訳で、唯ちゃんにはもう少しだけ付き合ってもらいたいんだよな」
「……っ!」
脳裏をよぎるのは、つい先日の資料室で見た、いままで見たこともないほどに「男」を感じさせた、一哉の姿。唯の手が、ほとんど無意識に小刻みに震えだす。いままで一哉を「怖い」と思ったことなどなかったのに……あの時の一哉は、いままでにないぐらい妖しさを帯びていて、まるで知らない男性のようだった。それを思うと、これまでは唯を気遣って「優しいお兄さん」の面だけを見せてくれていたのだなと、嫌というほど思い知らされる。考えてみれば、一哉だって世間一般の男性と何ら変わらないのだから、女性が一般的に警戒すべきあんな面があるとわかっていて当然だというのに。自分はどれだけ考えの足りない子どもだったのだろうと、唯は自分の浅はかさを再認識してしまった。
車内の、どこか気まずい沈黙を破ったのは、穏やかな一哉の声だった。
「─────ごめん。怯えさせるつもりなんて、なかったんだ。変なところに連れ込もうなんて考えてないから、安心して」
「え……」
一哉には、唯の考えていることなどお見通しだったということだろうか。顔と視線は前を向いたままだったけれど、一哉の声はほんとうに申し訳なさそうに思っているように聞こえた。
「先週末────決して嫌われてないってわかったおかげで、まるで中高生のガキみたいに浮かれまくって。嬉し過ぎて、こないだはつい暴走しちまった。鳴海さんに、『あたしの可愛い後輩に何やった!?』ってシメられたよ……ホントごめん」
「っ!」
藤子には、何ひとつ話していなかったのに、ふたりの間の雰囲気だけで、何かあったことを見抜いたのだろうか。さすが藤子というべきか。そして、唯の知らないところで一哉に注意をしてくれたと聞いて、その優しさに目頭が熱くなる。
「じゃ、じゃあ…どこへ、行こうとしてるんですか…?」
ようやっと手の震えが止まって、何とか普通の声を出すことができた。それに安心したのか、一哉は小さく安堵のものらしい息をついて、いつもと変わらぬ楽しそうな声で答えてきた。
「いいとこ♪」
一瞬息をのんだ唯に気付いたのか、一哉が慌ててフォローの言葉を口にする。二度も同じ失敗はしたくないと思っているのだろうか。
「あっ さっきも言った通り、変なとこじゃないからっ 他の人も多数利用する、普通のところだから、安心してっっ」
その慌てぶりがおかしくて、唯はもう堪えきれなくてクスクスと笑い出してしまった。ふと気付くと、車はちょうど赤信号で停まっていて、一哉がこちらを見ていたので今度は唯のほうが焦ってしまった。
「な…何ですか?」
顔が赤くなりかけるのを決死の努力で抑えながら、極力平静な声で問いかける。
「ん? やっと笑ってくれたなと思って。俺の自業自得なんだけど、唯ちゃんによそよそしくされるのはやっぱり辛くて。そうやって自然にしててくれるのが、一番嬉しいな」
その言葉に今度こそ顔が赤くなるのを止められなくて、思わず俯いたところで、信号が青に変わったらしく車が発進した。
一哉が連れてきてくれたのは、大通りからほんの少しそれた道沿いにある、素朴な感じのする喫茶店だった。以前連れて行ってくれたお店といい、一哉はこういう知る人ぞ知る店を見つけるのがうまいのかも知れない。
「とりあえず、入ろうか」
促されて中に入ると、カウンターに入っていた男性と、フロアで忙しそうに働いていた女性と女の子が「いらっしゃいませ」と明るい声をかけてくれる。唯の姿を認めたとたん、一哉と同年代ほどに見える男性が驚いたように目を見開いたので、一瞬どこかで会っただろうかと記憶をさらいかけるが、その直後彼が発した言葉で、謎はすぐに解けた。
「どうしたんだよ、大槻っ 可愛いコ連れちゃってっ 妹じゃないよな? 前に何度か会ったけど、妹はお前らと全然似てないちびっちゃいコだったもんなっっ」
「高遠…そんなこと言ってたのが本人に知れたら、お前殺されるぞ……。あいつは見た目からは想像もつかないぐらい、気が短くてケンカっ早いからな。ついでにいうとこのコは、妹と同い年だぞ? 実年齢より落ち着いて見えるかも知れないけど」
「へえ、マジで? あ、でもよく見ると、年齢相応に見えるな」
まじまじと見つめられると、どうしていいかわからなくて、思わず背後の一哉を振り返ってしまう。
「あ、ごめん、いきなりこれじゃ驚いちゃうよな。あいつは高遠っていって、高校から専学に行った一斗のダチなんだ。親父さんのやってたこの店を継いで、いまは二代目マスターやってる。高遠、こっちは小林唯ちゃん。うちの妹の親友で、俺の会社の後輩でもある」
「は、初めまして、小林です、よろしくお願いしますっ」
「こちらこそ初めまして。ぶしつけなことしちゃってごめんね、高遠です。いますぐに用意しますんで、お好きな席にお座りくださいな」
「あ、はい……」
一哉に促されて手近な席に腰を下ろすと、どこからか漂ってくる紅茶の葉の芳しい香り。確かに紅茶は好きなほうだけれど、香りだけでこんなにも癒されたのは初めてかも知れないと、唯は思った。それはやはり……一哉がそばにいるからだろうか?
「好きなの頼んで…と言いたいところなんだけど、今日は俺のおすすめでもいいかな?」
「あ、はい。おまかせします」
そう答えると、一哉はにこりと微笑んで、何やら準備を始めていたカウンターの高遠の元へと歩いていった。どんなものが出てくるのかまったく予想もつかないけれど、一哉がそう言うならきっと変なことにはならないだろうという、信頼があったから。何も心配することなく、おとなしく席について待つ。
「はい、お待たせしました。こっちが大槻おすすめの、彼女用のオーダーね」
唯の目の前に置かれたのは、オレンジを使って作ったらしいケーキと、ミルクの入ったピッチャー付きの、ティーポットに入った紅茶。香りからして、アールグレイだろうか?
「オレンジが好きって聞いたから、うちのオリジナルのひとつ、オレンジケーキなぞ。アールグレイのミルクティーと合うんだよ、どうぞご賞味あれ」
「ここのケーキは、ほとんど高遠が作ってるんだ。こんな無骨な顔してるけど、作るものはすごい美味いから、ぜひ食べてみて?」
「言ったな、このヤロ、てめーの分にはタバスコでもぶっ込んでやろうかっ」
一哉の前に別の紅茶を置いた高遠が、唯に見せる表情とはまるで違うそれで一哉ににじり寄ろうとしたその時。背後から、先刻の女性が彼の後頭部を勢いよくトレイで叩いたので、驚いてしまう。
「はいはい、マスター、お客さんに絡んでないでお仕事しましょうねー」
慣れているのか、手際よく高遠を連れていく女性に、唯は目を丸くすることしかできない。
「ああ、いつものことだから、気にしないでいいよ。店主のくせして、親父さんの頃から働いてる彼女にはかなわないんだ、あいつは」
くっくっと笑いながら言って、一哉がふいにこちらを向いたので、どきりとしてしまう。
「あ、紅茶が冷めないうちにどうぞ。あいつの作るものは冗談抜きで美味いから、ぜひ味わってやって」
「あ、はい…いただきます」
言いながらポットからカップに紅茶を注ぎ、ミルクと砂糖を入れて、まずは一口。さすがに本職の人間が淹れただけあって、唯が普段自分で淹れるものとは一味も二味も違う。それから、フォークを手に取って一口大に切ったケーキを口に運ぶ。とたんに、口の中に広がるどこか爽やかな甘酸っぱさ。
「美味しい……」
「だろ?」
満足そうな、一哉の笑み。高遠本人には悪態ばかりついているが、ほんとうに彼の人柄とその腕を信頼していることが伝わってくるような笑顔だった。
素材の味を存分に活かして、余分なものは一切入れず、紅茶とケーキとが互いの味を引き立て合うよう計算されたとしか思えないほど、繊細な味だった。本人にはとても言えないけれど、いかにも男らしい容貌の彼────まあ身長は一哉より少し低いけれど、それでも十分高いと言える身長だった────が作ったとは、すぐには信じられないほどの……。
「何だかんだ言って、親父さんの店を守りたいって思いだけで頑張ってきて、どんな有名店から誘いを受けても絶対乗らないんだよ、あいつは。だから、一斗ともウマが合ったんだろうな」
そういえば、真央から聞いたことがある。真央の兄で一哉の双子の弟の一斗も、時々よその店から引き抜きに来られることがあるが、絶対に首を縦に振らないのだと。喫茶店と飲食店という違いはあれど、二人の思いはよく似ているのかも知れない。
「それはともかく。どうかな? それ、気に入ってくれたかな?」
「はいっ すっごく美味しいです!」
予想外に美味しいものを食べられたおかげでテンションが上がってしまい、唯は素直に笑顔で答える。それを見た一哉が、一瞬不可思議な────驚いたようにも見えるが、それだけではない別の感情をも内包したような、唯にはよくわからない表情だった────顔をしたことに気付いて、「どうかしましたか?」と訊ねてみるが、一哉はハッとしたように一度軽く頭を振ってから、すぐにいつもの笑顔を浮かべて見せた。
「いや、何でもないよ。気に入ってくれたんなら、よかった。高遠にも後で言っておくよ」
「でも一哉さんて、ほんとうに隠れた名店を探すのがお上手なんですね。この間のお店といい、ここといい」
「いや、ここは元から知ってる高遠のとこだから……どちらかというと、一斗の恩恵が大きいかな、あいつは自分が料理人だから、いろいろな店を食べ歩いてるみたいだし。あいつに教えてもらった店も多いな」
「そうなんですか? 一斗さんのほうは、私あまりお話とかしたことがないので……」
休みが合わないこともあり、一哉と真央の家に行っても、一斗はいつも忙しそうに働いていることが多いのだ。なので、挨拶以外でろくに話した覚えもない。
それにしても。そんな風に、本職の料理人にお勧めされた店がいくつもあるのなら、やっぱり他の女性とのデートで行ったりしたのだろうか。別に彼女でもないのだし、一哉の恋愛事情に何か言う権利など唯にはないのはわかっているが、そういうことを匂わせるようなことを聞いてしまうと、何となく心の中にもやもやとしたものを感じてしまう。自分でもよくわからない感情だし、できる限り表面に出さないように懸命に努めるけれど。
「えっと、小林さんだっけ? 面白いこと教えてあげようかー」
そんな唯に、脇からかけられる高遠の声。
「はい?」
「一哉ねー、うちとか知り合いが働いてる店には、いままで女性を連れてったことないんだよー。男女混合の何人かで行くのはあるけど、一対一で、てのはなかったんだ。その意味わかる?」
「え……」
にやにやにや。実に楽しそうに告げる高遠の言葉の意味を理解する前に、顔を真っ赤にした一哉が立ち上がって、そちらに向かって小走りで駆け寄って、その胸ぐらをつかむ。
「高遠、てめ…っ」
「まあまあ。ちょっと奥で話そうじゃないか、一哉くん」
そう言って、「従業員以外立ち入り禁止」と書かれたプレートの貼られたドアの奥へと、二人は消えていって……後には、高遠の言葉の意味を懸命に考える唯だけが残される。一連の流れを見ていた女性と女の子が、苦笑混じりの顔を見合わせて、軽く肩をすくめたことにも気付かないままで。
えっと……男女混合ならともかく、女性と一対一でお知り合いのいるお店に行ったことがないって…言ってたわよね。てことは、もしかしなくても、私が初めて連れてこられた異性ってことで……意味って…えっ そういう意味って思っていいの!?
ようやく結論にたどり着いた唯の顔が、一気に真っ赤に染まった…………。
やっぱり初心者相手に、特急接近はいけません。
という訳で、一哉には酷でしょうが、ゆっくり一歩ずつ確実に進んでもらおうと思います。