表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/18

特急接近

思いがけないところで告げられた一哉の言葉。唯はどう応えるのか……?



『昔は「可愛い」としか思わなかったけど、綺麗になったなと思って…………』



 ふいに吹いた風に紛れて通り過ぎていこうとした言葉が、風にかき消されることなく唯の耳に届く。一瞬自分に都合のよい聞き間違いかと思ったが、それにしてはこちらを見つめる一哉の表情は、普段よりどことなく緊張感を帯びているもので……。


「……いま…」


 無意識に唇が言葉を紡ぐ。


「あ、よく聞こえなかった? 昔と違って、唯ちゃんが綺麗になったなと……」


「あーっ 聞こえました、ちゃんとっ だから、二度も言わなくていいですっっ」


 気のせいかと思ったけれど、改めて聞き直すと恥ずかしいことこの上ないセリフだった。しかも、それを言ったのが他の誰でもない一哉とあっては…唯にとっては、破壊力は抜群だ。思わず耳に手を当てて、それ以上は言わないでほしいという意思表示をする。周囲が暗くて────付近の街灯やコンビニなどの光はあるものの────よかったと思う。でなければ、これ以上ないというほどに真っ赤に染まったこの顔を、ごまかすすべもなく真正面から見られていただろうと思うから。


「や…やだなあ、一哉さんてば。妹同然の相手にまでそんなこと言っちゃダメですよー、よけいなところにまで誤解を与えちゃいますよー」


 冗談めかして笑いながら言ったとたん、一哉の眉が一瞬不機嫌そうにひそめられたような気がしたが、ほんとうに一瞬のことだったので、確信は持てない。


「─────俺は、唯ちゃんのことを妹…真央と同じように思ったことは一度だってないよ。言っておくけど、それは血の繋がってるほうが大事とかそういう意味じゃないからね。むしろ真央より大事にしたいと思ってる」


「え……」


 それは、どういう意味にとったらよいのだろう。真央と同じように思ったことはない? むしろ真央より大事に思ってる…って、それはとりようによっては唯を他の女性と同じように、ちゃんとひとりの女性として見ているという風に聞こえないだろうか。


「前から、何だか誤解されてるような気がしてたけど、やっぱりそんな風に思われてたのか…。昔からそう思ってたけど、あの頃は唯ちゃんは受験生だったし、俺は就活でお互い忙しかったから何も言えなかったんだ……それに、唯ちゃんなら大学でもっといい男を見つけるかも知れないと思ってたから、君の未来の可能性まで奪う権利なんか俺にはないと結論を出したんだけど」


 途中から自嘲気味な笑顔になりながら、一哉は「もう、遠慮する必要はないよね」と締めた。その内容をゆっくり頭の中で繰り返して、噛みしめるようにその意味を理解しようとする。一哉の言葉は、唯の自惚れでなければ、あの温泉旅行で彼への恋心を自覚して以来、何度も夢に見た自分に都合のよい展開そのもので。これは現実ではなく夢かと思い、危うく自分の頬をつねりたくなった。ギリギリのところで思いとどまったけれど。


「あ…え、と……」


 言葉が、喉にはりついてしまったように出てこない。この際だから告白してしまえ、と背中を押す自分自身と、もし勘違いだったらどうする?と引き留める自分自身とが、心の中でせめぎ合っていたから。確かに、一哉の言葉はそうとられてもおかしくない言葉だったと思うけれど、万が一違っていたら、もう二度といままでのいい関係には戻れないだろう。それを犠牲にしてまで、言っていいものかと思う心が、唯の言葉を封じ込めていた。何か返事をしなければ、一哉だって気分を害するに違いないのに。


「あの…わた、し……」


 街灯の照明によって地面に映し出される自分の影と一哉の顔とを見比べながら、一生懸命言葉を選ぶ。何と言っていいのかすら、自分でもわかっていないけれど。


「……俺のこと、どう思ってる?」


 しびれをきらしたのか、低く穏やかな一哉の声が唯の意味のない言葉の羅列をさえぎった。


「わたし……わたし…」


 言ってしまってもいいの? 口に出してしまったら、もう二度と以前の関係には戻れないかも知れないのに。私…自分の気持ちに正直になっていいの? この気持ちを、素直に伝えてしまっていいの─────?


 自分でも情けないと思うけれど、まるで顔色をうかがうように不安な気持ちを隠すことなく見上げた一哉の表情は、いままでのどんな時よりも優しいそれで。ここで、たとえ唯がどんなことを言ったとしても、すべて受けとめてくれそうなほどの包容力に満ちている気がした。その瞳を目の当たりにした瞬間、唯の中にあった最後の防波堤が崩れ去った。


「あ、の…わたし。い、一哉さん、のこと……」


 もう止められない。震える唇が、ようやく意味のある言葉を紡ぎかけた、その、直後。


「姉貴?」


「!!」


 予想もしていなかった声が背後から響き渡り、唯は身体も心臓も飛び上がらんばかりに驚いてしまった。振り返った視線の先に立っていたのは、この春高校三年生になったばかりの弟の玲司(れいじ)。よもやまさか、こんなところで会うなんて、夢にも思っていなかった。


「玲司……」


「こんなとこで何やってんだよ。ずいぶん遅かったんだな」


「あ、うん、同僚の人が急に盲腸で倒れちゃって。その代わりにお仕事してたら遅くなっちゃった。あんたこそ、こんな時間にこんなとこで何やってんのよ」


「俺は、勉強の合間の息抜きで、そこのコンビニに行ってたんだよ。ついでにダチとノートのコピーし合ったりしてさ」


「弟さん?」


 必死の努力で平静を装って話していた唯の後ろから、まるで動じていなさそうな一哉の声。


「あ、はい。今年高三になったばかりの、弟の玲司です。玲司、こちら会社の先輩の大槻さん。遅くなったからって、夕食もご馳走してくださって、わざわざ遠回りしてまでこんなとこまで送ってきてくださったの。ちゃんとご挨拶して」


 たしなめるように唯が言うと、玲司は数歩足を踏み出してきて、唯の隣に並ぶようにしてから一哉に向かって深々と頭を下げる。


「弟の玲司です。姉が、大変お世話になったようで、ありがとうございます」


「いや、僕はたいしたことはしていないよ。むしろ、彼女にはとても助けてもらって感謝しているぐらいで、こちらこそお礼を言いたいぐらいです」


 一哉も深々と頭を下げた後、一哉と玲司の顔が真正面から向き合う。思春期を過ぎてから何を考えているかわからなくなってしまった玲司が、いま一哉を見て何を思っているのかは唯にもまったく見当がつかない。そのうちに、一哉がふと表情をゆるめて、ここではないどこか遠くを見つめているような瞳を見せた。


「やっぱり弟さんだね。同じ年の頃の君にそっくりだ。まっすぐ前を見据えている目とか、全体的な雰囲気が」


「そ…そうですか…?」


「こんな遅くまで御足労いただいて、ほんとうにありがとうございます。ここからは、俺が責任を持って姉を連れて帰りますので、どうぞ安心してお帰り下さい」


 やはり予想もしていなかった言葉を口にする弟の横顔を、唯は思わず見返してしまう。いつもは唯をからかうようなことしか言わないような弟なのに、いったいいつのまにこんなに大人っぽくなっていたのだろう?


「…そうかい? まあ、中身も体格もこれだけ立派な弟くんが一緒なら、確かに心配はいらないだろうけど。じゃあ小林さん、途中までで悪いけど、僕はここで」


「い、いえっ ここまで送ってくださっただけでも十分ですっ お疲れのところ、わざわざ遠回りまでしていただいて、ほんとうにありがとうございましたっ」


 言うと同時に、玲司の背に手を回して、二人揃って一哉に向かって深々と頭を下げる。それを見届けた一哉は、心底安心したように笑みを見せて、二人に向かって手を振りながら駅への道を戻っていく。まだ終電の時間ではないとはいえ、これからますます混んでいく電車に乗るのは、大変だろう。恩返しをしたつもりが、かえって迷惑をかけてしまった気がして、唯は軽く落ち込んでしまう。


 そんな唯の内心を知ってか知らずか、玲司が「行こうぜ」と声をかけてきたので、横に並んで歩き始める。


「……あいつさ」


 玲司の言う「あいつ」とは、一哉のことに他ならないだろう。


「玲司、失礼な言い方を…!」


 即座に叱りつけようとした唯の声を、玲司はさえぎるようにして続ける。


「こないだ、一緒に温泉に行ったっていう面子のひとりだろ。何で姉貴の高三の頃なんか知ってんだよ?」


 一哉の素性を何も知らなければ、もっともな質問である。


「あたしの高校からの友達の真央。覚えてない? うちにも何度か遊びに来たから、会ったことあるでしょ?」


「ああ、あのちっちゃくて可愛い人か」


「大槻先輩は、真央のお兄さんなのよ。就職したら同じ会社にいたもんだから、お互いびっくりしちゃって。だから、何かとあたしに親切にしてくれるの」


「……あの、姉貴がやたら大事そうにしてるクマのぬいぐるみを射的で獲ってくれたって人か?」


「…!」


 クマのぬいぐるみをもらった話は、確かに家族全員の前でしたけれど……ベッドの枕元に置いて、目につくたびに撫でたり抱き締めたりしていることまで知られているなんて、思ってもみなかった。自分とほとんど変わらないところまで背の伸びた弟の顔を見やるが、玲司はやはり視線すら合わせようとはしない。


「あいつさー、もしかして姉貴のこと好きなんじゃねえの?」


「っ!!」


 あまりにもすさまじい爆弾発言を投下されて、唯の呼吸が一瞬止まる。


「なななななっ 何言ってるのよ!?」


「だってよー、いくら遅くなって年下の女の後輩だからって、普通家まで送ろうとはしないと思うぜ? たとえどんなに親しくてもさ。せいぜい駅まで送ってきて、後はタクシーに乗せておしまいだと思うけど。そうしないってことは、よっぽど別れ難かったんじゃねえの? 俺、声かけないほうがよかったかな」


「…!」


 まさか、という思いと、玲司の言うことを肯定する思いとがせめぎ合って、唯の頭の中は既にキャパシティを越えてしまっている。けれど、先刻の一哉の言葉や様子からすると、後者のほうが正しいのではないかと思えてくるのは、自分の願望が多く影響しているせいだろうか。


「そんなこと…ないわよ。一哉さんは、昔からすごく優しいから……」


 ほとんど無意識に名前で呼んだことに気付いたらしい玲司が驚いたようにこちらを見るが、既にテンパってしまっている唯はまるで気付かない。


「…姉貴、酒でも飲んだ?」


「え? 今日は一滴も飲んでないけど。もしかして、お酒臭い? やだ、繁華街とか通ったからかしらっ」


「いや、そういう意味じゃなくて…」


 何か言いかけたらしい玲司が、「ま、いっか」と口を噤んだことにも、唯は気付かなかった。


 そうして。先刻まではよその家々に阻まれてまったく見えなかった我が家が、月明かりの元少しずつ姿を現し始めた……。



 家に帰って着替えても、入浴をしても、ベッドの上に腰を下ろしても、頭の中を占めるのは、一哉のことばかり。



『……俺のこと、どう思ってる?』



 あの時、自分は何と答えようとしたのだろう。それは、唯にもわからない。


 それとは別に、今夜のお礼のメールを送りたいけれど────藤子や一哉、木内や大崎に至るまで、あの温泉旅行の時に携帯番号もメールアドレスも交換済みだ────もうずいぶん遅い時間になってしまったし、明日の昼間に送ることにして、携帯をそっと枕元に置く。その拍子に、例のクマのぬいぐるみが目について、ほとんど無意識にその頭を撫でてしまう。これでは、玲司に言われても仕方ないかなと、すぐに気付いて頬を赤らめてしまったことは言うまでもない。


 玲司はまだ勉強をしているのか、それとも寝てしまったのか、隣の玲司の部屋からはほとんど物音は聞こえない。いい加減訪れてきた眠気には逆らえず、唯はそっと電気の紐を引いて、真っ暗になった中で布団へと潜り込む。そんなつもりはなかったのに、温泉旅行以来既に日課と化してしまった、一哉の言動を脳裏によみがえらせる行為を今夜も繰り返しながら眠りに就いた…………。




        *      *       *




 翌日の午後。一哉への謝辞のメールを送った後、唯は自室の床にぺたりと座り込んで、ぼんやりとしていた。返信は、わずかな間を置いて届いていて。そこには、唯のメールに対してあまり気にしないでいいからと、優しく諭すような文章が綴られていて……一哉の、度量の深さを見せられた気がしてくる。


 けれど、いま唯の心を乱しているのはそちらの内容ではなくて。追伸として最後に添えられていた、



『昨夜聞きそびれた答えは、また今度の機会に聞かせてほしい』



 という一文だった。


 昨夜はつい、雰囲気に流されそうになっちゃったけど……あたし…どうしたらいいんだろう。


 いままで挑戦したどんな数学の問題よりも難しい問題だと、唯は思った。数学ならば、答えは必ず存在するものだけれど────まれにそうでないものもあるが────心の問題はそうはいかない。


 もう、どうしたらよいのかわからない。



 そして、新しい週が始まる。


 幸い?一哉とふたりきりになる機会もなく、プライベートで話すこともなかったので内心でホッとする。もしいまふたりきりになってしまったら、今度こそ自分の気持ちを抑えられないから。一哉のほうがどう思っているのかもハッキリわからないし、何より就職してまだ一年も経っていないのにそんなことにうつつを抜かしている場合かと叱咤する自分自身もどこかに存在していて、唯の心はいろいろな感情が複雑に絡み合っていて、もはや自分でもほぐすことができないほどだった。


「じゃこれ、お願いね」


「はい」


 藤子に頼まれた書類を受け取った時、来客を受け入れるあたりから賑やかな声が聞こえてきた。


「今日こそはうちの商品、買っていただきたいもんですねえ?」


「それは、ものを見てみないと何とも…」


 物怖じする様子もなく笑いながら言うショートカットの女性と、苦笑しながらも口で言うほど困った様子でもない一哉の姿が、目に入った。


「…お元気な方ですねえ。どちらの会社の方ですか?」


「ああ、S本商事の営業の佐藤さんよ。見た目もだけど、中身も男性並みにさばさばしてて、あの人が本気になったら買わせられない品はないって言われてるぐらいやり手なのよ」


「へえ…営業の鑑というか……」


 一哉に声をかけられてその場にやってきた課長の様子を見るに、佐藤という名の彼女が勧めている商品は、説明を聞くまでもなく既に買うことに決まっているかのように見えた。まあそれも、相手の会社がいままで培ってきた信用と、彼女のセールストークの賜物だろうけど。


「佐藤さん、相変わらず(おとこ)らしいわねえ」


「あたし実はひそかにファンなのよね。ちょっと歳は上だけど、大槻さんとも結構お似合いじゃない? 本人には内緒だけど、さりげなく応援してたりして」


 何も知らない先輩たちが話しているのを聞いた瞬間、唯の胸の奥がズキリと痛んだ。確かに、佐藤の身長は女性にしては高めなほうに入るし、何より大人の余裕が漂う態度は、一哉の持つ雰囲気と似合いに見えた。こんな、「見かけ倒し」と言われる唯などよりずっと……。


 自分の胸中に吹き荒れ始めた暴風雨に唯は翻弄されてしまったので、そんな自分をわずかな間一哉が見つめていたことに、まるで気付けなかった……。



 心がどこか上滑りしているような気分で仕事を進め、藤子と共にいつもは楽しいランチタイムを過ごしても、唯の気持ちはどこか晴れなくて。自分でも、どうしてだかわからないのに、何となく重い気分のままロッカーへ弁当箱をしまいに行くと、マナーモードにしてあった携帯の着信ランプが光っていることに気付いた。誰だろうと思いながら受信していたメールを見て、唯は軽く驚いてしまった。いま同じ社屋の中にいるはずの、一哉からだったから。



『ちょっと用があるので、もし時間があったら資料室に来てほしい』



 端的な内容の文面からは、仕事の用なのかプライベートでの用なのか読みとることはできない。用件がプライベートだとすると腰が引けてしまうが、もしも仕事の用だったらと思うと、無視もできなくて。藤子に適当な言い訳をしてから、ひとり資料室へと向かう。


 資料室には少々いい思い出はないが────あの閉じ込め事件からしばらくの間、藤子が一緒に来てくれていたので、また閉じ込められるのではないかという恐怖感はかなり薄れていた────例の加藤ももうこの会社にはいないことだしと思いながら、そっとドアノブを回して極力物音を立てないように、中へと入る。


「─────大槻先輩? こちらにいらっしゃいますか?」


 返事は、すぐ聞こえてきた。奥の方から聞こえてきた聞き慣れた声にホッとして、ゆっくり中へと進んでいく。


「何か、資料が必要なお仕事の依頼ですか? でしたら直接言ってくださったほうが確実でしたのに」


 木内がいない分の穴を同期の皆で埋めていたので、直接の指導係でない先輩に用を頼まれることも最近では珍しくなかったから、何も気負いのない状態で唯は問うたのだが。置いてあったままのパイプ椅子に腰を下ろしたままの一哉は、気の抜けた表情と声で「んー…」と呟くだけだ。


「…先輩?」


 不思議に思って、唯が首を傾げたその時、一哉が口を開いた。


「午前中……S本商事の佐藤さんが来た時さ」


「はい?」


「何だか泣きそうな顔してたのって…何で?」


「!!」


 予想もしていなかった言葉を投げかけられて、唯の顔にかあっと血が上る。平静を装う余裕もなかった。慌てて反対側に顔を向けて隠そうとするが、間髪入れずに立ち上がって真正面にやってきた一哉の前では、無駄な抵抗だった。木内や他の男性ならともかく、唯より10cm以上も背の高い一哉には、ごまかされてくれることなどあるはずがなくて、せめてもの悪あがきで口元に手を当てて、視線をそらすことしかできなかった。


「ねえ、何で?」


「せ…先輩の気のせいです。でなきゃ、目の錯覚か…」


 やっとの思いでそれだけ口にしたところで、そっととられて口元から優しく手を外されてしまう。


「もしかして……俺の自惚れでなければ、他の女子が噂していた内容が関係してる?」


「!」


 もう、ぐうの音も出ない。先輩たちはこっそり話していたというのに、聞こえていたのか。


「佐藤さんも聞こえてたみたいで────ついでにいうと見えてもいたみたいで、帰り際にこっそり言われちゃったよ。『あんまり大っぴらにしてないけど、自分には最近付き合ってる相手がいるから、そっちもちゃんと誤解は解いときなよ』って」


 もう、限界だった。唯の顔は、もう噴火寸前の活火山の火口のようになってしまって、声すら出せない。


「ねえ…何であの時、泣きそうな顔してたの……?」


 顔をそむけた耳元でささやかれる低く甘い声は、もう反則だと思う。身体の奥深くからも熱が沸き上がってきて、更に背にした壁に軽く押し付けられた片手首からも一哉の体温が伝わってきて、錯覚に過ぎないだろうけどそれすらも熱く感じて、もう全身が熱くて仕方がない。


「わ…わたし……」


 気付かないうちに瞳から涙がにじんできて、今度こそ泣きそうになってしまったその時、午後の始業10分前を告げるチャイムが鳴り響いた。頭上のスピーカーから聞こえてきたそれに、一哉はふいに顔を上げて、そっと拘束していた唯の手首を解放した。


「残念。時間切れか。…顔、すごい真っ赤だよ」


 誰のせいだと反論したかったけれど、もう立っていることすらできなくて、壁に体重をあずけたままズルズルとその場でへたり込んでしまう。くすりと頭上で一哉が笑う気配。再び耳元でささやかれる、甘い声。


「いまの唯ちゃん…めちゃくちゃ可愛い。いまが仕事の合間じゃなくて、更にここが会社でなくて俺の部屋だったりしたら、押し倒したいくらい」


「─────っ!」


 一哉は絶対、わかってやっていると唯は思った。でなければ、こんなに唯の羞恥心を刺激するような言葉ばかり言えるはずがない。


「唯ちゃんは少し落ち着いてからここを出たほうがいいよ。こんな姿、他の男に絶対見せたくないし。見られたら、絶対惚れる男続出だろうし、俺もライバルは増やしたくないし。先に戻ってるから、遅れない程度に休んでからおいで。……続きは、また今度、時間も場所も制限のないところで…ね」


 言うだけ言って、一哉は出入り口のドアへと歩いていって。一度振り返って、ひらひらと手を振ってから、資料室を出て行ってしまった。後には、脚をはじめとする全身から力が抜けまくって、立ち上がることすらできない唯だけが取り残される。


「い……」


 一哉さんの、かば──────っ!!


 唯の、声に出せない心の叫びが、静かな室内の空気を震わせた…………。

少々長くなりましたが、展開の都合上一気にいっちゃいました。

そして。作者が言うのも何ですが…一哉、エロっ!!(笑)

おかしいなあ、初期構想では「萌え」の範囲内で済ませるつもりだったのに…。あんなん食らったら、恋愛初心者の唯なんてイチコロですわな~(苦笑)

そしてさりげなく登場している隠れキャラ。彼女について知りたい方は、『不器用な恋を始めよう』をご覧ください(18歳以上対象作品ですが)。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

誤字脱字報告もこちらからどうぞ
返信は活動報告にて
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ