夏の日の邂逅
ついに一哉への恋心を自覚した唯。
胸の奥にしまっておこうと決意した矢先に、起こった出来事とは…?
温泉から帰ってきた翌日、月曜日。
「温泉土産でーす、皆さんひとつずつどうぞー」
職場で二人並んで、皆に土産の温泉饅頭を配る一哉と藤子の姿があった。
「え、まさか大槻くんと鳴海さんの二人で行ってきたの?」
「まさか。俺と木内と鳴海さんと小林さんと、あと営業の大崎とうちの妹とで六人でですよ」
「他の面子はわかるけど、何で大槻くんの妹さんも一緒なんだ?」
「ああ、実はうちの妹は小林さんと学生時代からの親友でして。あれも呼べば小林さんもそんなに気を遣わないかなと思って」
「えー、そうだったのー?」
「はい。だから、会社に入って先輩に会ってびっくりしました」
驚いて声をかけてくる先輩たちに、唯は笑顔で答える。
それは、事前に打ち合わせ済みのこと。一哉との詳しい間柄はともかく、真央との関係はとくに隠すこともないだろうということで、そこまでは会社でも明かすことにしたのだ。でなければ、これから万が一、真央も一緒に三人で会っているところなんて見られたら、何と噂をされるかわからないから。
「木内くんの親戚のお宿で、結構いいところでしたよ」
「温泉に行かれる際は、どうぞご利用くださーい」
冗談めかした木内の声に、課の皆がどっとわいた。
木内の親戚の宿────確かに、宿としては文句のないところだった。ただ、宿泊費などはどうだったのか、料金に見合ったサービスやランクだったのかは、唯にはわからない。何故なら、いざ支払いという段になったら、唯は真央と共に少し離れたところで待たされてしまったから。とりあえず先輩たちにまかせておいて、自分の分は後で払えばいいかと思っていたのだが、いつまで経ってもそのことについて皆がふれないので、さすがにマズいと思って問うた唯が聞かされたのは。「今回は、唯ちゃんの慰労会だから、唯ちゃんとおまけの真央はなしでいいよ」という言葉だった。唯もかなり食い下がったのだが、「いいからいいから」とかわされてしまって、結局払わせてもらえなかったのだ。表向きは一哉と藤子が折半して出したという唯の分の諸経費を、ほんとうは全部一哉が出したのだとこっそり藤子から聞かされたのは、一番最初に送ってもらう予定だった唯の家に着く手前の最後のサービスエリアで寄ったトイレでだった────やはり両親の手前、皆が揃っている時に送ったほうが余計な心配をかけないだろうという配慮からだった。
ほんとうに……一哉さんってば、私に対して甘過ぎると思うわ。
甘やかされて嬉しいと思う気持ちより、申し訳ないという気持ちのほうが先に立ってしまうのは、唯の性格上の問題か、それとも持って生まれた長女気質のせいか。
何か礼をしたほうがいいとは思うのだけど、何をすれば一哉が喜ぶのかわからない。真央に相談でもしてみようかと思いながら、給湯室で片付けものをしていた唯は、いままさに姿を思い浮かべていた当人から背後から声をかけられてどきりとする。
「あ、ごめん、驚かせちゃった?」
「いえ、ちょっと考え事をしていたもので。どうかしました?」
「あ、手が空いてたらでいいんだけど、悪いんだけど、応接ブースにお茶を三つお願いできるかな?」
「あ、はい、大丈夫ですよ。少しお待ちくださいね」
「助かるよ、ありがとう。ホントごめんね」
ほんとうに申し訳なく思っているらしい笑顔で一哉が去っていくのを見送ってから、小さく息をつく。よもやまさか、思い出していた当人からいきなり声をかけられるとは、思ってもみなかった。
普段社員が飲むものでなく、来客があった時用の茶葉で丁寧に茶を淹れて、盆に載せて応接ブースへと向かう。
一哉に対してどう礼をしていいのかわからず、かといってそのままなあなあで終わらせてしまうこともできず、悩んでいた唯の周囲に変化があったのは、それから二週間近く経った金曜日のことだった。
仕事中、近くを通りかかった席に座っていた木内の顔色が、尋常でない色になっていることに気付いたのだ。痛みを堪えてでもいるのか、額には脂汗まで浮いている。
「…木内くん…? 気分でも悪いの?」
唯が問いかけるのと、木内がバランスを崩して椅子から床に崩れ落ちたのは、ほぼ同時であった。
「きゃあっ!?」
「木内!?」
その声と音に気付いた一哉が駆けつけて、木内を助け起こす。
「おい木内、どうした!?」
「…せ、んぱ…腹、が……腹が痛えっス…」
その後、木内は課長と一哉と共に救急病院へと搬送され、後に残された唯たちはどこか重苦しい空気をまといながら、仕事を続けるしかなかった。そんな緊張感も、約二時間後の電話での報せで、吹き飛ばされることになるのだが。
「木内くんは、急性虫垂炎、つまり盲腸だそうだ。しばらく入院になるが、とくに心配はいらないとのことで、いまはご家族の方もいらしたそうなので、課長と大槻くんはこれから社に戻るそうだ」
そう部長に告げられた瞬間、皆が安堵の息をつく。とりあえず生命に関わるような病気でなかったことに、唯は心の底からホッとしてしまった。目の前で倒れるのを見てしまった身としては、気が気ではなかったのだ。
「よかった……」
「盲腸も、よっぽど処置が遅れなければ、いまはかなり軽く済むらしいものね。これだけ周りに人がいる昼間で、よかったわよね」
確かに。木内は一人暮らしではなかったはずだが、真夜中など周囲に誰もいない時にでも発症していたら、危なかったかも知れない。
しばらくして戻ってきた一哉と課長は多少疲れた顔をしていたが、課長は出るはずだった会議が始まっている時間だということで早々に行ってしまい、一哉はやりかけだったという仕事に再び取り組み始めた。唯の記憶違いでなければ、あの仕事は確か今週中に終わらせなければならないと言っていた気がするが……木内の件で時間を大幅に削られた上、アシスト役の木内がいないこの状況では、とても終わらないのではないだろうか。同じことを思ったらしい藤子や他の先輩たちが声をかけるが、一哉は「大丈夫だから」と言って手を借りようとはしない。皆が今日はそれぞれ予定があると話していたことを、慮っているのかも知れない。
案の定、定時になって皆がちらほらと帰り始める中、一哉はろくに休憩もとらずに仕事を続けている。それに気付いた唯は、もう少しで終わるはずだった自分の仕事のペースを故意にゆっくりにして、さりげなく先に帰る皆を見送っていた。そして、フロアのほとんどの社員が帰った中、自分の仕事を一気に終わらせて、そっと一哉の席の脇に立った。
「小林さん? どうかした?」
「あ、あの…私でよければ、木内くんの代わりにお手伝いします。どうせ、何も予定はないし」
「え、でも…」
「……藤子先輩から聞いたんです。この間の、温泉に行った時に誰が私の分の費用を出してくれたのかということを」
それだけ言えば、一哉には通じるはずだと思ったことは、やはり正解だったらしい。「鳴海さんめ…」と呟きながら、苦虫を噛み潰したような顔をした一哉に、唯はなおも続ける。
「お世話になりっ放しなのは、私も心苦しいんです、だから。どうか、お手伝いさせてください」
一歩も退かない覚悟で言い切ると、気迫負けしたのか忙しさからか、珍しく一哉のほうが根負けしたらしい。無言のままで、ス…っと数枚の書類を差し出してきた。
「…じゃあ。悪いけど、甘えさせてもらっちゃおうかな。これ、打ち込み頼める?」
「…はいっ お任せ下さいっ!」
妹のように思われていても、単なる後輩の立場でも構わない。彼の役に立てるのなら。こんな風に、彼が大変な時に少しでも手助けできるなら。彼が困った時に、頼りにしてもらえる人の中の一人になれるのなら。それだけで、構わなかった。
自分の席について、電源を落とさずにいたPCを前に、一度気合いを入れ直してから、迅速に、けれど慎重に打ち込みを始める。同期の間でも、「手堅い仕事をする」と評される木内の代理を自分からかって出たのだから、失敗する訳にはいかない。
だんだんと人が減って、しまいにはふたりだけになったフロアに、ふたり分の打ち込みの音だけが響き渡る……。
* * *
仕事が一段落ついたのは、夜も九時を過ぎた頃だった。
「……ん。よし、これでオッケーだ」
全体をチェックしていた一哉が言うのを聞いていた唯は、思わず安堵の息をつく。
「遅くまで、ほんとうにありがとう。俺一人だったら、下手すると今日中に家に帰れないところだった」
「いえ。お役に立てて、よかったです。では、私も帰ります。先輩も、お疲れさまでした」
それだけ言って深い礼をしてから、席に置いていた手荷物を持って更衣室へと向かう。更衣室の中はさすがに誰もおらず、下手をすると社内にもほとんど人がいないのではないかと思わせる。ちゃんと守衛はいるから、ビルの中に他の誰もいないという事態にはならないだろうが、やはりあまり気分のいいものではない。いつも以上に手早く着替えを済ませ、軽く化粧を直して────いくら後は帰るだけとはいっても、社会人たるもの身だしなみはきちんとしなさいと、就職前に母に口を酸っぱくして言われたのだ────バッグを片手に更衣室のドアを開け、出入口のそばにある電気のスイッチを切って外に出る。できるだけ音を立てないように気をつけながらドアを閉めて、さすがに肩がこったなあと思いながら、すぐ近くの曲がり角を曲がったところで、人影を見つけて一瞬どきりとする。
「お疲れさま。腹減ったろ、遅くなっちまったけど奢るから夕飯食いに行かないか?」
もう先に帰ったと思っていた────男性社員は着替える必要がないから、営業など着替える必要のない社員を除く女子よりよっぽど身支度が早く済むのだ────一哉だった。
「お、奢るって、私は前にお世話になった恩返しをしたかっただけで、そんなことをしてもらう訳には…!」
「うん、それはわかってるんだけど、こんな若い女の子を遅くまで働かせて独りで帰らせるなんて、俺的に嫌なんだよね。それにどうせ俺もこのまま帰っても何も食べるものないし、夕飯つきあってくれないかな?」
初めは食事と言っていたのに、いつの間にか帰る時の話にまでシフトしていることに気付いて、軽く混乱する。もしかして一哉は、家まで送ってくれるつもりなのだろうか? 一哉がいま一人暮らししている家のほうが、唯の家より会社からよっぽど近いのに。
「でも……」
「あ、それとも同僚とはいっても、『男とふたりでメシ食いに行くなんて』って怒る相手がいるとか? お父さん以外で」
「い、いません、そんなひとっ」
「じゃあいいよね。美味い店知ってるんだ」
「…っ!」
何だかうまく煙に巻かれてしまった気がする。せっかく少しだけでも恩返しができたと思ったのに、これではかえって迷惑の上乗せになってしまうような気がして、思わずため息をつく。それを別にしたら、一哉とふたりで帰ったりご飯を食べに行くことは嬉しいことだけれど。複雑な気分だ。
そんな唯の内心に気付いていないような一哉は、楽しそうに笑いながら唯を案内しながら繁華街のほうへと向かっていく。まだこの春に就職したばかりの唯は、ほとんど行ったことのない方面だった。たまに藤子と食事をして帰ることもあったが、「女二人ではちょっと怖いから」と言って────唯はまだ世間知らず、藤子はあの通りのフェロモンばりばり美女なので、酔っぱらいに絡まれた場合は面倒だというのが主な理由だが────そちらのほうへは行ったことがなかったのだ。
案の定、金曜の夜ということもあり、道は酔っぱらいがあちこちで千鳥足を披露しており、まるでドラマや漫画のようだと思いながら見ていたら、その中の一人とはたと目が合ってしまい、「マズい」と思った時にはもう遅かった。
「おネエちゃん、カワイイねえ~っ」
千鳥足ながらも信じられない素早さで近付いてくる中年男性に、逃げ道を閉ざされた唯は焦って思わず辺りを見回すが、少し前まで自分の前方を歩いていたはずの一哉の姿が見えなくて、とたんに不安と恐怖が心を占め始める。
えっ うそ、一哉さんとはぐれちゃった!? やだ怖い、どうしたらいいの!?
ほとんど無意識に泣きだしそうになってしまった唯の肩に、背後から力強く回される誰かの手。思わず顔を上げた唯の瞳に映るのは、普段よりいくらか険しい表情を浮かべた一哉の顔……。
「俺の連れに何か用ですか?」
「へ…」
若いとはいえ、自分よりはるかに背が高い一哉に睨みを効かせられた男性は、
「何だ、男連れかよ~」
などと言いながら、再び千鳥足で連れの連中の元へと去っていく。それを見届けた唯は、知らぬ間にみずからの手が震えだしていたことを自覚した。それに気付いているのかいないのか、ほんとうに申し訳なさそうに思っているらしい一哉の低い声が、頭上から降ってくる。
「ごめん、ちょっと歩くの早かったな。配慮が足りなくて、ほんとうに悪かった」
「そんなことありませんっ 元はといえば、私がよそ見してたのが悪いんだし……」
慌てて否定する唯の手を、いつの間にか肩から離された大きな手が包み込む。
「…俺の前では、無理に背伸びしなくていいよ。怖かったんだろ」
どうしてこのひとは、いつもいつも、唯が胸の奥に隠している気持ちに気付いてしまうのだろう。鼻の奥がつんと痛くなるが、いまここで泣くことだけはしたくなくて、懸命に堪えて頷くにとどめる。それを見ていた一哉は、ふ…っと優しい笑みを浮かべて、唯の手にみずからの手を絡ませて、手をつなぐようにしてそっと下ろした。
「初めから、こうしとけばよかったんだよな。それじゃ、行こうか」
指と指が絡み合って、まるで恋人同士のようなつなぎ方に唯の顔がかあっと熱くなる。一哉はまたしてもそれに気付いているのかいないのか、涼しい顔だ。一哉はわかっているのだろうか? 一哉の一挙手一投足に、唯の胸がもう壊れてしまいそうなほどに高鳴っていることを。自分でも止められないほどに、一哉と触れている部分が熱を帯びて、このまま身体中の血液が沸騰するのではないかと思うほど、全身が熱くて熱くて仕方ないと思ってしまっていることを……。
一哉が連れてきてくれた店は、大きい通りから一本脇に入ったところにある少々目立たない店で、そのせいか客層も静かで穏やかな感じの人ばかりで、先刻見かけたような酔っぱらいのような客はまるでいなかった。
「こっちのほうのお店は、みんな賑やかかと思ってましたけど…こんなお店もあるんですね」
二人掛けのテーブルに向かい合わせで座った一哉にそっと告げると、一哉はどことなく得意そうに笑った。
「結構雰囲気いい店だろ。この隠れ家的なところが気に入っているんだ」
夢のようだと、唯は思う。木内には悪いが、こんなに急に恩返しをできる機会に恵まれて────その後更にお返しをされることになるとは思わなかったけれど────その上一哉とふたりきりで食事ができるなんて。しかもこんな落ち着いた店なら、デートと錯覚してしまいそうなほどだ。
しかも、一哉が「おすすめだ」と言ったメニューはほんとうに美味しくて、緊張で味がわからないのではないかと思った唯の心配は杞憂で終わってしまった。
「ほんとうは酒も勧めたいところだけど、こんな遅い時間に帰すのにそれじゃご両親も心配するだろうから、また今度ということで」
「今度」────今度があると思っていいのだろうか? 唯の心がふわふわと浮足立ち始める。訊いてみたいけれど、もし一哉のほうにそんなつもりがなくて単なる社交辞令だったりしたら、彼を困らせてしまうし何より自分も立ち直れなくなりそうだったので、そっと口を噤んだ。
その後は、時間も時間だったので、すぐに駅に向かい、ふたりで同じ電車に乗る。終電にはまだ早い時間だったが、車内はそれなりに混んでいて、ふたりの身体は密着せざるを得なくて、唯の動悸はもう早鐘のようだった。
「ご、ごめん…離れられなくて」
「い、いえ、こんなに混んでるんじゃ仕方ないですよ…」
赤くなってしまっているであろう顔を見せられなくて、顔が上げられない。だから、唯も気付けなかった。一哉の顔も、唯ほどではないにしても赤くなっていることに。
その後、どれだけ言っても一哉は「家まで送る」の一点張りで、ついに一哉が降りるはずの駅を過ぎてしまったところで、唯も諦めてそれ以上言うのをやめた。ここまで来てから言っても、一哉を困らせるだけだと思ったから。それに、身勝手な気持ちと自覚しつつも、もう少しだけ一哉と一緒にいられるのは嬉しかったから……。
「懐かしいな、このへん。五…四年ぶりか」
唯の地元の駅から出て歩いている途中に、ふいに一哉が言い出した。そういえば、車と歩きという違いはあれど、一哉にしてみれば久しぶりに訪れた地なのだろう。
「でもずいぶん変わりましたよ。以前は酒屋さんだったところがコンビニになったり、全然違うお店になっちゃったところもあるし。ずっと住んでると、あんまり気にも留めないけど、時間が経てばやっぱり変わっていっちゃうものもあるんですよね」
軽く吹いた風のせいで頬にかかった髪を耳にかけながら言うと、ふと横顔に視線を感じてそちらを見る。すると、こちらをまっすぐ見ていたらしい一哉と目が合って、慌ててそらしてしまった。意識し過ぎだと、自分でもわかっているのに。
「─────変わったのは、街ばかりじゃないと思うけどね」
「え?」
「人も同じように変わっていると思うよ。この春久々に唯ちゃんに会った時は、見違えたしな」
「それは私もですよ。一哉さんを会社で初めて見た時、名前を聞くまで思い出せませんでしたもの」
成人はしていたものの、やはりどこか甘えを残していた大学時代とは違って、再会した時はどこからどう見ても立派な社会人だったから。いまにして思えば、あの時既に彼に恋をし直していたのだと思う。絶対に、口には出せないけれど。
「いや、そういうんじゃなくて……昔は『可愛い』としか思わなかったけど、綺麗になったなと思って…………」
「え──────」
ふたりの間を、夏の夜の風が吹き抜けていった………………。
木内、哀れ(いきなりそれか(笑))
ふたりの未来のために、犠牲になってもらいました。
真央を見舞いによこすので、それで勘弁してもらいましょう(大笑)
それはともかく、一哉がついに動くのか? そして唯の反応は?




