↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

彼女は別れを切り札に99回も私を脅し、後輩と婚約式を挙げるためだった

作者: 熾星
掲載日:2026/11/04


 恋人に別れをちらつかされたのは、これで九十九回目だった。


 理由はいつも同じ。大学時代の後輩である岡部晴人と婚約披露パーティーを開きたいから、俺に認めてほしいというのだ。


 俺は冷笑しながら了承した。


 真帆は、ようやく俺が折れたと思ったらしい。晴人を会社に引き留められたら、今度は俺のためにもっと盛大な婚約披露をすると約束した。


 ところが、その話を聞いた晴人は機嫌を損ね、数千万円規模の契約締結の場にわざと姿を見せなかった。挙げ句の果てに退職すると言い出し、真帆は慌てて彼を昇進させた。


 その一方で、契約がまとまらなかった責任は俺に押しつけられ、役職まで三段階も下げられた。


 数日後、二人は遠方で豪華な婚約披露パーティーを開いた。


 事後報告のように、真帆は俺に言った。


「たかが披露パーティーでしょ? 最初はあなたも了承したじゃない。あとから文句を言わないでよ」


「晴人は海外の名門大学を出た優秀な人材なの。会社のためにも、これからの私たちのためにも、ああするしかなかった。私が結婚するつもりなのはあなたなんだから、わかってくれるよね?」


 俺の手の中には、晴人が投稿した写真が表示されたスマホがあった。


 どの写真でも、二人はペアリングを見せつけるように手を重ね、親密そうに寄り添っていた。


 俺は何も言わず、ただ頷いた。


 真帆は満足そうに笑い、帰ってきたら俺のために改めて盛大な披露パーティーを開くと約束した。


 彼女は知らない。


 俺がすでに退職届を提出していることを。


 彼女が初めて別れを持ち出し、晴人との婚約披露を認めろと迫ってきたときから、九年間の関係は終わりに向かっていたのだ。



1



 電話の向こうでは、真帆がまだ何か言っていた。


 俺は返事をせず、Instagramの画面をスクロールしていた。受話口から聞こえる声は、だんだん苛立ちを帯びていく。


「拓海、黙ってないで何か言ったら? 今、優秀な人材を採用するのがどれだけ大変かわかってる? 晴人みたいに海外の名門大学を出た人なんて、そう簡単に見つからないのよ。会社は今、大事な時期なの。あなたも前に、人材を確保する方法を考えたほうがいいって言ってたでしょ?」


「それに、披露パーティーのことだって自分で了承したじゃない。今さら何を怒ってるの?」


 少し間を置いて、真帆の声が和らいだ。


「今回の降格が厳しすぎたのはわかってる。でも、私の立場も考えてよ。私は社長だし、晴人の大学時代の先輩でもあるの。彼は日本に戻ってきたばかりで、社内にもまだ馴染めていない。ある程度、立場を整えてあげないと、これから仕事を進めるのも難しいでしょ?」


「私だって好きでこんなことをしてるわけじゃないの。あなたならわかってくれると思ってた」


 あまりにも自分勝手な説明に、思わず笑いが漏れた。


 晴人が社内で居場所を作れるかどうかは心配するくせに、もともと事業部全体を任されていた俺が、雑用や印刷ばかりの仕事に回されたことは気にも留めないらしい。


 そもそも、社員を引き留めるために婚約披露パーティーを開く会社がどこにある。人材確保の話を持ち出しているが、結局は晴人を特別扱いするための口実にすぎなかった。


 以前、俺が真帆に提案したのは、優秀な社員が長く働けるよう待遇や評価制度を見直すことだった。彼女はその話を都合よく解釈し、晴人との婚約披露を正当化する材料にした。


 晴人の仕事がうまくいかないときも、真帆はいつも彼をかばった。ほかの社員なら期限を守らなければ注意される報告書も、晴人なら後回しで済む。ミスをすれば処分されるどころか、何かと便宜を図ってもらえる。


 数千万円規模の契約締結をすっぽかしたときでさえ、彼は何のお咎めも受けなかった。それどころか、真帆はその場で晴人を昇進させた。


 あの案件は、もともと俺が担当していたものだ。


 契約を取るために何度も工場へ足を運び、何度も提案書を作り直した。取引先との会食にも付き合い、連日の飲酒でひどいアレルギー症状が出たこともある。


 ようやくまとめた案件を、真帆は「それがあなたの仕事でしょ」の一言で片づけ、晴人に引き継がせた。ところが、彼が失敗すると、今度は俺の責任にされた。


 真帆が俺との婚約を口にしたのも、晴人との披露パーティーを認めさせるためだった。


 この半月だけで、彼女は九十九回も別れを持ち出した。そのたびに、晴人のために俺が譲ることを求めてきた。


「もういいわ。今回は我慢してくれてありがとう。晴人との披露パーティーが終わったら、あなたのためにももっと盛大なものを開くから。そのあとは婚姻届を出しましょう?」


 指を動かしていた手が止まった。


 九年間も結婚を先延ばしにしてきた彼女が、今になってそんなことを言う。しかも、晴人の後始末を俺に押しつける話のついでに。


 返事をする前に、真帆が続けた。


「それと、晴人がまとめられなかった案件、あなたが引き継いでくれる? 取引先のことはあなたが一番よく知ってるんだから、きちんと対応してね」


 やっぱり、そういうことか。


 俺は小さく息を吐いた。


 九年間、何度も結婚の話を持ち出してきた。最初の頃は、まだ若いから自由に過ごしたいと言われた。その次は、会社を立ち上げたばかりだから仕事に集中したいと言われた。


 俺は彼女の言葉を信じて待った。


 会社が軌道に乗り、周囲の友人たちが次々と結婚していく頃、俺もそろそろいいだろうと思った。ちょうど大きな契約をまとめたこともあり、改めてプロポーズするつもりだった。


 それでも、真帆の返事は変わらなかった。


「今の関係に慣れてるから、急に夫婦になるのはちょっと不安なの。今までどおりでいいじゃない。私が好きなのはあなたなんだから」


 その言葉を巡って、俺たちは激しく言い争った。


 彼女が家を出ていったあと、謝ろうと思ってメッセージを打っていた。そこへ晴人から動画が届いた。真帆は彼とキャンプに出かけ、テントの前で肩を寄せ合って笑っていた。


 それ以来、俺から結婚の話をすることはなくなった。


 電話の向こうで晴人の声が聞こえた。真帆は彼に返事をするため、急いで通話を切った。


 スマホを握る手に力が入った。


 その直後、Instagramに新しい投稿が表示された。


 商店街を歩く二人の写真だった。真帆は手に揚げ物を持ち、晴人に向かって楽しそうに笑っている。


 添えられた文章には、こう書かれていた。


「最高の人は、ちゃんと自分のところに来てくれるんだね。今なら、その意味がわかる気がする」


 以前、俺も真帆を連れて似たような店に行ったことがある。一時間以上並んで、その土地で評判の揚げ物を買った。ところが彼女は一口も食べず、胃腸が弱いからとゴミ箱に捨ててしまった。


 そのときは、俺の気遣いが足りなかったのだと思った。以来、彼女をそういう店に誘うことはなかった。


 今、晴人と並んでいる彼女の手には、同じような食べ物がある。


 投稿には次々とコメントがついていた。俺が何気なく画面を開いたとき、名前を指定した通知が目に入った。


 そこには、俺を名指しで罵る文章が並んでいた。


「岡部さんがやっと自分のことを発信してくれた。陰で好き勝手言ってる誰かさんとは大違いですね」


「会社の雰囲気が悪いのも、ああいう人がいるからでしょ。いい加減、辞めてもらったほうがいいんじゃない?」


「口だけの卑怯者。文句があるなら直接言えば? @佐野拓海」


 その下では、何人もの同僚が晴人に媚びるようなコメントを重ねていた。


「そういえば、社長の恋人だっていつも自慢してましたよね。今はどうしたんでしょう?」


「岡部さんみたいな優秀な人と比べられたら、居場所もなくなりますよね」


 どれも見覚えのあるアカウントだった。全員、俺の部署で一緒に働いていた社員だ。


 仕事で困っているときは何度も助けてきた。ミスをしても、重大な問題でなければ強く責めず、やり直す機会を与えてきたつもりだった。


 それなのに、晴人が昇進した途端、彼らはあっさり態度を変えた。今まで俺についてきた社員まで、晴人に気に入られようと必死になっている。


 以前なら、一つずつ説明していたかもしれない。だが、俺が何を言っても、最後には後輩をいじめているだの、社長に嫉妬しているだのと話をすり替えられる。


 実際、以前も企画案について同僚と意見が食い違ったことがあった。俺が仕事上の問題を指摘すると、晴人は「先輩風を吹かせて新人を押さえつけている」と真帆に訴えた。


 真帆は事情を確かめようともせず、俺の給料を半月分減らし、さらに一か月間、社内のトイレ掃除まで命じた。


 あのとき、俺は自分が悪かったのかと何度も考えた。今思えば、ずいぶん馬鹿げた話だ。


 スマホをしまい、会社へ向かった。


 オフィスに入ると、あちこちから視線が集まった。ひそひそ話す者もいれば、わざと聞こえるように笑う者もいる。


 俺は相手にせず、人事部へ向かった。


 退職の意思はすでに伝えてあり、引き継ぎ資料もまとめてあった。残っていた手続きを済ませ、私物を段ボールに詰める。ほどなくして退職手続き完了の通知が届いた。


 その画面を見た同僚たちは、また好き勝手に言い始めた。


「社長、あっさり退職を認めたんだな。前から辞めさせたかったんじゃない?」


「岡部さんの投稿、見た? 社長が大事にしてるのはあっちだよ。佐野さんの出る幕なんてないって」


 俺は何も言わず、荷物を抱えてオフィスを出た。


 九年間、真帆の恋人として働いてきた。その間、彼女が晴人をかばうたび、周囲もそれに倣うようになった。俺を責めれば晴人に気に入られ、晴人に取り入れば真帆から目をかけてもらえる。そんな空気ができあがっていた。


 ビルの外に出たところで、スマホが鳴った。



2



 電話の相手は、以前一緒に仕事をした企業の事業副本部長だった。


「佐野さん、退職されたと伺いました。よろしければ、うちに来ていただけませんか? これで十回目のお誘いになりますね。本社の事業部には、あなたのような方が必要なんです」


 桐浜市に本社を置く大手企業で、彼女は以前から何度も俺を誘ってくれていた。


 そのたびに断ってきたのは、真帆の会社を離れることに迷いがあったからだ。彼女は社長として会社を支えていたし、社内にも不満を持つ社員が少なくなかった。俺までいなくなれば、彼女の負担が増えると思っていた。


 だが、今となっては考えるだけ無駄だった。


 真帆は俺の働きを認めず、俺がまとめた案件を晴人に渡した。会社のために残ってきたつもりだったが、彼女にとって俺は都合よく使える人間でしかなかったのだろう。


「わかりました。お世話になります」


 俺がそう答えると、電話の向こうで彼女はほっとしたように息をついた。入社日や今後の手続きについて簡単に話し合い、人事担当から改めて連絡をもらうことになった。


 電話を切り、タクシーで自宅へ戻った。


 真帆と暮らしていた部屋には、俺の服や身の回りのものが残っている。クローゼットを開けると、古びたシャツや色あせたズボンが目に入った。気づけば、ここ数年は自分のために金を使うことさえ惜しんでいた。


 真帆にとって居心地のいい家にしたくて、貯金をほとんど使い、部屋を一から整えたことがある。半年ほど食費を切り詰め、家具の配置やカーテンの色、照明まで自分で選んだ。彼女の仕事が忙しいときも、帰ってきたら少しでも落ち着けるようにと考えていた。


 ベランダには、自分で設計したブランコ椅子を置くつもりだった。完成まで一か月近くかかったが、真帆はとても喜んでくれた。


「これからはずっとここで暮らすんだからね。誰にも勝手に変えさせないでよ」


 あの日の笑顔を、今でも覚えている。


 ところが、晴人が遊びに来たとき、部屋を見回して「ちょっと普通すぎるかな」と言った。それを聞いた真帆は、翌日にはデザイナーに連絡して模様替えを始めた。


「晴人は海外で暮らしていたんだから、センスだってあなたよりあるわ。自分の好みを押しつけないで」


 そう言って、晴人は俺が作ったブランコ椅子を工具で壊した。木片が床に散らばり、ひと月かけて仕上げた椅子は見る影もなくなった。


「たかが椅子でしょ? そんなに怒ること?」


 真帆は俺を見て、面倒くさそうに言った。


 あのときも、俺は自分が時代遅れなのかと考えた。二人が壊したものを見つめながら、こんなことで関係を悪くしたくないと、自分に言い聞かせていた。


 荷物をまとめ、鍵をテーブルに置いて部屋を出た。


 次に向かったのは、結婚のために購入したマンションだった。


 こちらは真帆と暮らしていた部屋とは別の物件だ。結婚後に二人で住むつもりで、時間をかけて探し、家具や家電も彼女の好みに合わせて選んだ。登記も済ませ、俺の単独名義で所有している。結婚が決まったら、共有名義にするつもりだった。


 だが、その話をする前に、晴人から婚約披露の動画が送られてきた。


 豪華な会場の中央で、真帆が晴人に指輪をはめてもらっている。両家の親族も出席し、招待客で埋まった会場の前で、二人は堂々と口づけを交わしていた。


 これが、彼女の言う「形だけの披露パーティー」なのか。


 俺は動画を閉じた。


 マンションに着き、鍵を差し込んだが、ドアは開かなかった。何度か試すうちに鍵が折れ、仕方なく鍵業者を呼んだ。


 作業員はドアを開けると、室内をちらりと見て眉をひそめた。


「こちら、本当にお客様のお部屋ですか?」


「ああ。俺の名義です」


 彼は何か言いかけたものの、結局、道具を片づけて帰っていった。


 俺は首をかしげながら、部屋の中へ足を踏み入れた。



3



 リビングには、ゴミが散乱していた。


 ソファには脱ぎ捨てた服が積まれ、床にはコンビニの弁当容器やペットボトルが転がっている。テーブルの上には食べ残しが放置され、いくつかはカビまで生えていた。鼻をつく臭いに顔をしかめながら奥へ進むと、壁に大きな写真が飾られているのが目に入った。


 写っていたのは、真帆と晴人だった。


 ここは俺が結婚後の生活を思い描いて用意したマンションだ。それが今では、晴人の住まいになっている。


 真帆に電話をかけようとしたところで、向こうから着信があった。


「拓海、婚約用に買ったマンションに行ったの?」


「ああ」


「だったら、もう隠す必要もないわね。少し前から晴人に貸してるの」


 真帆は何でもないことのように言った。


「日本に戻ってきたばかりで、住むところに困ってたのよ。空いている部屋を使わせるくらい、いいでしょ? 会社にも近いし、通勤にも便利なの」


「それに、あなたが結婚後に使う部屋でもあるんだから、晴人が先に住んでいても問題ないじゃない」


 さらに、彼女は当然のように付け加えた。


「せっかく行ったなら、部屋を片づけてあげて。晴人はまだ生活に慣れていないの。多少散らかしていても、責めないでね」


 俺は床のゴミに目をやり、壁に掛けられた刺繍に気づいた。


 母が一年かけて作ってくれたものだった。結婚祝いにと、図案から自分で考え、細かな糸を何度も刺し直して完成させた。婚約が決まったら、この部屋に飾ろうと思っていた。


 ところが、布地には何本もの傷が走り、模様は無残に裂かれていた。


「どうして俺に相談もせず、あいつに部屋を貸したんだ?」


「何よ、その言い方。たかがマンションでしょ?」


 真帆の声が少し尖った。


「会社に近いから、晴人に使わせてあげたの。通勤も楽になるし、仕事にも専念できるでしょ。大学の後輩なんだから、面倒を見るくらい普通じゃない?」


「それに、あなたが前に晴人を今の部屋に住まわせるのを嫌がったから、こっちを使わせることにしたのよ」


 確かに、真帆から晴人を同居させたいと言われたことがある。俺たち二人で暮らしている部屋に、何の関係もない後輩を住まわせるのは無理だと断った。


 そのときは真帆も納得したように見えた。まさか、結婚のために購入したマンションを勝手に使わせるとは思わなかった。


「晴人は海外の名門大学を出た人材なの。今、会社に必要なのは彼なのよ。彼が力を発揮できれば、会社だってもっと成長する」


「結婚したら子どもだって欲しいんでしょ? これからお金がかかるんだから、将来のことを考えてよ」


 もう十分だった。


「真帆、別れよう」


 電話の向こうが静かになった。


「……何ですって?」


「俺たちは終わりだ」


「拓海、またそんなこと言って。マンションを晴人に貸したくらいで、九年間の付き合いを終わらせるの?」


「すぐにそっちへ行くから。顔を合わせて話しましょう」


 彼女はそう言って電話を切った。


 俺はしばらくスマホを見つめていた。


 壁から母の刺繍を丁寧に外し、傷んだ部分を確かめてからケースに入れた。晴人の荷物はまとめて清掃業者に引き渡し、室内の片づけを依頼した。


 その後、不動産会社に連絡し、マンションの売却を正式に依頼した。


 購入希望者はすぐに見つかった。内覧と契約手続きを進め、決済と所有権移転が済んだところで、俺は新しい所有者に鍵を引き渡した。引き渡しに合わせて鍵も交換してもらった。


 すべてを終えたあと、桐浜市行きの航空券を取った。


 この街に残る理由は、もうなかった。



4



 真帆は電話を切ったあとも、しばらくスマホを手にしたまま立っていた。


 拓海が別れを口にするのは、これが初めてではない。少し時間を置けば、いつもどおり戻ってくる。今回も同じだろうと考えていた。


 隣にいた晴人が、不安そうに顔をのぞき込んだ。


「先輩、やっぱり僕のせいですよね。僕が住む場所を見つけられなかったから、拓海さんと喧嘩になったんです。あとで謝ります。殴られたって構いません。二人が仲直りできるなら、それでいいんです」


 晴人はそう言って、自分の頬を二度叩いた。


 乾いた音に、真帆は慌てて彼の手をつかんだ。


「何してるの? 自分を傷つける必要なんてないでしょ」


「あなたは悪くないって言ってるじゃない。拓海が何を言おうと、私がいるんだから気にしなくていいの」


 真帆は晴人の頬に手を添えた。


「たかがマンションのことで、あんなに怒るなんて。少し頭を冷やせばわかるわよ」


 それから、ふと思い出したように尋ねた。


「そういえば、前に投稿した写真は消した?」


 晴人の表情がわずかに曇った。


「私たち、写真を撮るだけって約束だったでしょ。SNSには載せないって話だったはずよ」


「もう消しました。嬉しくて、つい忘れちゃったんです。先輩があまりにきれいだったから」


 晴人はスマホを見せた。真帆が確認すると、問題の投稿は確かに消えていた。


「本当に、先輩と一緒にいると楽しくて。つい浮かれてしまうんですよね」


「口がうまいんだから。今度また写真を撮りに行きましょう。そのときは投稿してもいいわよ」


「本当ですか?」


「ええ。今度は私も一緒に選ぶから」


 真帆は笑った。


 晴人は彼女に見せた投稿を削除したものの、別の写真は残していた。商店街を二人で歩いている写真だ。真帆には見えないよう公開範囲を変え、新しい投稿も続けていた。


 会社の同僚たちは、すでに二人の関係を知っている。真帆だけが、そのことに気づいていなかった。


 やがて真帆は晴人を連れて車に乗り込んだ。


「先輩、やっぱり僕は出ていったほうがいいんでしょうか。今夜泊まるところがなくても、もう誰かに頼るのはやめます」


「何を言ってるの。あなたが出ていく必要なんてないわ」


 真帆は晴人の手を握った。


「拓海には私から話すから。あのマンションも、あなたが気に入っているなら、そのまま使っていいのよ」


「本当にいいんですか? 先輩たちが結婚したら住むはずだったマンションなのに……」


「構わないわ。私たちにはほかにも住む場所があるもの」


 晴人の表情がわずかに明るくなった。


 車はマンションへ向かって走り出した。


 真帆は窓の外を眺めながら、拓海にどう説明するか考えていた。彼は昔から頑固なところがある。けれど、九年間も一緒にいたのだから、最後には自分の言うことを聞いてくれるはずだと思っていた。


 やがて車はマンションに到着した。


 真帆はエントランスを抜け、部屋の前で鍵を差し込んだ。ところが、鍵は回らない。何度試しても同じだった。


「おかしいわね……」


 晴人が後ろから顔をのぞかせた。


「もしかして、拓海さんが鍵を替えたんでしょうか」


「そんなはずないわ。ここは私たちのマンションよ」


 真帆がもう一度鍵を回そうとしたとき、隣の部屋のドアが開いた。


 出てきたのは、体格のいい男だった。トレーニングウェア姿で、片手にはダンベルを持っている。


「さっきから何をしてるんだ? うちのドアをいじっていただろ」


 晴人は反射的に真帆の後ろへ下がった。


「あなたこそ誰ですか? どうして私の部屋にいるんです?」


「ここは俺の家だ。あんたたち、誰かと間違えてないか?」


「そんなはずありません! ここは佐野拓海が結婚のために買ったマンションです。彼を呼んでください!」


 男は呆れたように息を吐いた。


「前の持ち主の知り合いか何か知らないが、ここはもう売買が済んでいる。今の所有者は俺だ。さっさと帰ってくれ」


「信じられるわけないでしょう!」


 真帆が食い下がると、男はスマホを取り出した。


「話が通じないなら、警察に来てもらうしかないな」


 彼はその場で電話をかけた。



5



 真帆は晴人のほうを向いた。


「先輩、さすがですね。僕なら、あんなふうに言い返せなかったと思います」


「拓海が来たら、全部説明させるわ。あの人が勝手に売ったなんて、信じられないもの」


「晴人の仕事だって、これから私がもっと任せるつもりよ」


 二人はまだ、男が警察に連絡したことを深刻に受け止めていなかった。


 男は電話を終えると、玄関先に戻ってきた。


「警察が来るから、ここで待っていてくれ」


 真帆は腕を組んだ。


「ええ。拓海が来たら、全部説明してもらいますから」


 やがて警察官が到着し、双方から事情を聞いた。男は登記事項証明書を提示し、玄関前の防犯カメラ映像も見せた。


 映像には、真帆と晴人が鍵を何度も操作している様子が残っていた。


「これは何かの間違いです!」


 真帆は声を荒らげた。


「ここは私の知人が所有していた部屋です。以前から出入りしていました!」


「その知人の名前を教えてください」


 警察官に尋ねられ、真帆は拓海の名前を口にした。


 しかし、登記資料に記載されている所有者は、すでに別人だった。


 晴人も納得できない様子で口を挟んだ。


「でも、ここは先輩が結婚のために用意した部屋なんです。どうして彼が所有者なんですか?」


 警察官は資料を確認し、売買と所有権移転が完了していることを説明した。


 二人はようやく、マンションが本当に売却されていたと理解した。


 警察官から、今後は所有者の許可なく立ち入らないよう注意を受け、二人はその場を離れた。男も、これ以上のトラブルにはしたくないとして、被害届の提出は見送ることにした。


 署での正式な手続きに進むことはなかったが、真帆にとっては十分な屈辱だった。


 マンションを出た頃には、空はすっかり夕暮れに染まっていた。


 真帆がスマホを取り出すと、会社から電話がかかってきた。


「社長、大変です! 晴人さんが担当していた案件で問題が起きました。取引先の方が会社に来ていて、かなり怒っています!」


「すぐに戻っていただけませんか? このままでは話がまとまりません!」


 電話の向こうは騒がしかった。


 真帆は晴人を見た。


「大丈夫よ。たかが一つの案件でしょ。契約に従って対応すればいいんだから」


 彼女は晴人の肩を軽く叩いた。


「それに、拓海もいるわ。あの人は似たような案件を何度も担当してきたんだから、きっと何とかしてくれる」


 晴人は小さく頷いた。


 以前から、彼が仕事で困ったときは拓海が後始末をしていた。今回も同じように助けてもらえると、どこかで期待していたのだろう。


 二人はタクシーに乗り込み、会社へ向かった。


 到着すると、ビルの前には何台もの車が停まっていた。


 真帆は服装を整え、晴人を連れてオフィスへ急いだ。受付の社員が彼女の姿を見つけ、声を上げる。


「社長が戻られました!」


 騒がしかったオフィスが、一瞬静まり返った。


 取引先の責任者は真帆を見るなり、手元にあった水の入ったグラスを投げつけた。水が彼女の足元に飛び散り、真帆は思わず顔をしかめた。


 周囲から小さな悲鳴が上がる。


 それでも真帆は一歩前に進み出た。


「このたびは、弊社の不手際でご迷惑をおかけしました。まずはお詫び申し上げます」


「契約が成立しなかったことで発生した費用については、事前に取り交わした取り決めに従って対応いたします。補償案も早急に提出しますので、どうかご検討ください」


 取引先の責任者はしばらく真帆を睨んでいたが、やがて怒りを抑えるように息を吐いた。


「今回はこれ以上の損失が出なかったからいい。次に同じことがあれば、法的な手段も考える」


 真帆は何度も頭を下げた。担当社員に補償に関する資料を用意させ、相手を見送るところまで対応した。


 ようやく一段落すると、彼女はオフィスを見回した。


 そこに拓海の姿はなかった。


「佐野拓海はどこ?」


 人事部のほうを振り返る。


「高橋さん! 拓海はどうしたの?」


 高橋俊介は困った顔で立ち尽くしていた。


「社長……佐野さんは、もう退職されています」



6



 真帆は一瞬、言葉を失った。


「何を言ってるの? 私、いつ彼の退職を認めた?」


 高橋は慌てて説明した。


「佐野さんの退職手続きは、すでに完了しています。社長が承認された申請に基づいて、引き継ぎも済ませています」


 真帆は眉を寄せた。


 前日、スマホに退職申請の通知が届いたことは覚えている。晴人と買い物をしていた最中で、申請者の名前を確かめずに承認してしまったのだ。


 まさか、あれが拓海の申請だったとは思わなかった。


 それでも、彼女は自分の確認不足を認めようとしなかった。


「だったら、どうして事前に報告しなかったの? 担当案件の引き継ぎくらい、きちんと確認するべきでしょう!」


「今、会社がどれだけの損失を抱えていると思ってるの? 人事部は何をしていたの?」


 高橋は青ざめた。


「社長、私は手続きに従って進めただけです。佐野さんの退職を無理に引き延ばすこともできませんし、今回の損失を個人で負担することもできません」


「だったら、今すぐ拓海に連絡して!」


 真帆は声を荒らげた。


「会社に戻ってもらって、案件を片づけてもらうの。話がまとまるまで、彼を帰すわけにはいかないから!」


 そう言い残し、真帆はオフィスを出た。


 晴人は彼女の後を追いながら、慰めるように声をかけた。


「先輩、そんなに怒らないでください。拓海さんも、今は少し意地を張っているだけだと思います。あれだけ長く働いた会社を、簡単に手放せるはずありませんから」


 真帆は少し考え込んだ。


「そうよね。仕事には責任を持つ人だったし、あんなふうに急に辞めるなんて考えにくいわ」


「まずはマンションのことを片づけましょう。会社の話は、そのあとでもいいと思います」


 真帆は頷いた。


 二人がビルを出たところで、再びスマホが鳴った。


「社長、先ほど確認したところ、佐野さんはすでに別の会社に入社することが決まっているようです」


「それに、今は桐浜市にいるそうです。先方の役員と食事をしている写真も出ています」


 真帆はすぐに否定した。


「そんなはずないでしょう。拓海が退職したばかりで、もう次の会社を決めているなんて!」


「あなた、暇なら採用活動でも進めておいて。そんな噂話をしている場合じゃないでしょ」


 彼女は電話を切った。


 直後、高橋から画像が送られてきた。


 真帆は画面を見つめたまま、動かなくなった。



7



 俺は新しい会社の事業副本部長と食事をしていた。


 隣には、これから一緒に働く同僚も何人か座っている。今後の業務や会社の方針について話し合い、以前担当した案件についても簡単に説明した。


 相手は細かいところまで興味を持って聞いてくれた。仕事の進め方や今後の展望についても意見が合い、食事の席は終始和やかだった。


 これからは、自分の仕事をきちんと評価してもらえる環境で働ける。そのことを思うだけで、気持ちが軽くなった。


 食事を終えて店を出たところで、俺たちは真帆と晴人に出くわした。


 副本部長は二人を見ると、少し驚いた顔をした。以前から真帆と仕事上の付き合いがあったらしい。彼女は俺の肩を軽く叩き、ほかの社員を連れて先に歩き出した。


 真帆は、その隙に俺の前へ立った。


「拓海!」


 彼女は手を振り上げた。


 俺は一歩横へ避けた。


「何するんだよ」


「何するんだ、じゃないでしょ! どうしてここにいるの? 会社を辞めて、勝手に別の会社へ行くなんて聞いてない!」


 俺は彼女を見つめた。


 以前なら、まず謝っていただろう。けれど、もうそんな必要はなかった。


「俺はもう退職したんだ。どこで働こうと、君に説明する義務はない」


「真帆、俺たちはもう別れたんだよ」


 真帆は驚いたように目を見開いた。


 その横から晴人が口を挟んだ。


「拓海さん、僕が悪かったんです。僕があの案件を引き継いだから、怒っているんですよね? 案件はお返しします。僕は何もいりません。だから、先輩と一緒に会社へ戻ってください」


 晴人は涙ぐんだ顔で俺を見た。


「それに、社内の情報を持ち出したと疑われたら大変ですよ。先輩も会社も困ると思います」


 その言い方に、俺は思わず鼻で笑った。



8



 晴人は心配しているような顔をしていたが、その目には隠しきれない期待が浮かんでいた。


 俺がこれまで担当してきた仕事は、彼が知っているものだけではない。重要な取引先との交渉も、大型案件の企画も、自分の経験を積み重ねて進めてきたものだ。


 晴人が真帆のそばで聞かされてきた話だけで、俺の仕事を理解できるはずもない。


「社内資料を持ち出した覚えはない。必要な引き継ぎも済ませている。それでも疑うなら、会社に正式に確認してもらえばいい」


 俺がそう答えると、晴人は口をつぐんだ。


 そのとき、晴人のスマホが鳴った。


 彼は画面を確認すると、急に表情を変えた。着信の相手は警察だったらしい。


「岡部晴人さんでしょうか。先日ご連絡した件について、改めてお話を伺いたいのですが」


 晴人は真帆のほうを見た。


「警察……ですか?」


 電話の相手は、会社の資料を不適切に取得した疑いについて、任意で事情を聞きたいと伝えていた。


 晴人の顔から血の気が引いた。


「何かの間違いです。僕は何もしていません!」


 彼は電話口で何度も否定したが、担当者は資料を確認したうえで連絡していると告げた。後日、指定された日時に警察署へ来るよう求められ、晴人は渋々了承した。


 真帆は電話が終わるのを待って、俺に詰め寄った。


「拓海、どういうことなの? いったい何をしたの?」


 俺は彼女を見た。


「提出した資料を見ればわかるだろ」


「晴人が社内の資料を不適切に扱ったことも、案件を勝手に変更したことも、記録に残っている」


「それでも、まだ俺に説明させたいのか?」


 真帆は何か言おうとしたが、言葉が出てこないようだった。


 俺はそのまま背を向けた。


 実は、俺は桐浜へ向かう前に、会社の資料を整理して必要な情報を関係先に提出していた。


 晴人が社内資料を不適切に取得した疑いがあること。担当案件の内容を独断で変更し、取引先との交渉を台無しにしたこと。その経緯を示すメールや社内記録、承認履歴などをまとめていた。


 会社に残っていた証拠と照合できるよう、必要な情報だけを整理したものだ。俺自身が会社の機密資料を持ち出したわけではない。


 もともとは、もう真帆たちと関わるつもりなどなかった。


 だが、晴人は母が一年かけて作ってくれた刺繍まで傷つけた。あれは俺の結婚を願って、母が心を込めて仕上げてくれたものだった。


 俺自身が受けた仕打ちなら、もう忘れてしまってもよかった。けれど、母の気持ちまで踏みにじられるのは我慢できなかった。


 それに、今回の案件で損失を受けたのは俺だけではない。取引先にも余計な負担がかかり、会社も契約上の責任を問われている。


 提出した資料については、関係先が事実を確認して判断することになる。


 晴人はスマホを握りしめたまま、立ち尽くしていた。



9



 しばらくして、真帆がようやく口を開いた。


「だったら、どうしてもっと早く私に言わなかったの?」


「会社が何百万円もの損失を出したのよ。あなたにだって責任はあるでしょう?」


 俺は足を止めた。


「真帆、俺たちはもう別れている。それに、俺は会社も辞めた。今さら君に報告する義務はない」


「そんなこと、私は認めてない!」


 真帆は声を荒らげた。


「私たちは婚約してるじゃない!」


 思わず振り返った。


 婚約している?


 披露パーティーを開いたのは、彼女と晴人だ。


「真帆、いい加減にしてくれ。晴人と開いた披露パーティーの写真、もう忘れたのか?」


「婚約指輪を交換して、みんなの前でキスまでしていたよな。あれが誰の婚約披露だったのか、説明するまでもないだろ」


 真帆の顔色が変わった。


「だから、あれは前にも説明したでしょ? どうしていつまでも蒸し返すの?」


「大学時代の先輩と後輩が仲良くしているだけなのに、勝手に疑っているのはあなたじゃない!」


 周囲を通りかかった人たちが、少しずつ足を止め始めた。


 真帆はそれでも、自分の言い分を続けた。


「私はちょっと間違えただけよ。誰だって判断を誤ることくらいあるでしょ?」


「九年間も一緒にいたのに、そんな小さなことで私を捨てるの? 私だってあなたのために時間を使ってきたのよ!」


 俺は彼女を見た。


「婚約披露の写真はどう説明する? 結婚後に住むはずだったマンションに飾られていた写真も、君と晴人のものだった」


 真帆は唇を噛んだ。


 周囲からも小さなざわめきが起きる。


 そのとき、近くにいた年配の女性が声を上げた。


「ちょっと、あなた! 自分で好き勝手しておいて、今さら相手のせいにするの?」


 女性は手に持っていた卵を真帆に投げつけた。


 卵は額に当たり、殻が割れて白身と黄身が髪に流れ落ちた。


 真帆は悲鳴を上げ、慌てて顔を覆った。


 周囲から笑い声が漏れ、スマホを向ける人もいた。


 俺は肩をすくめた。


「これ以上、俺に何を説明させたいんだ?」


 真帆は顔を隠したまま、その場を離れていった。


 俺は追いかけなかった。


 数日後、真帆と俺が街中で言い争っている動画がSNSで広まり始めた。真帆は九年間付き合ってきたことを強調し、自分が一方的に捨てられたかのように話していたらしい。


 しかし、晴人との婚約披露パーティーの写真や、マンションに飾られていた二人の写真が次々と出回り、彼女の説明を信じる人は少なかった。


 会社にも影響が出始めた。取引先の一部は契約の継続を見直し、社内でも真帆の経営判断を疑問視する声が上がっていると聞いた。


 俺は、もうその話を追いかける気にはなれなかった。


 ある日、スマホに真帆からの着信があった。


 画面には九十九件の不在着信が並んでいた。その下には、長い謝罪のメッセージが届いている。


 自分が間違っていたこと。晴人を優先しすぎたこと。あのときは混乱していただけだったこと。俺と別れるつもりなどなかったこと。


 最後には、もう一度やり直したいと書かれていた。


 結婚のことも、家のことも、これからは全部俺の希望を聞く。もう二度と同じことはしない。そう何度も繰り返していた。


 俺は最後まで目を通した。


 読み終えても、何も感じなかった。


 スマホからSIMカードを抜き取り、そのままゴミ箱に捨てた。


 電源を切り、スーツケースを引いて駅へ向かう。


 九年間、彼女のために費やしてきた時間は、もう戻らない。


 それでも、これから先の時間まで差し出すつもりはなかった。


 桐浜市での新しい生活が、もう始まろうとしていた。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。