魅了にかけられた王子達はヒロインを追い詰める
「私は男爵令嬢ベリンダ嬢を愛してしまった」
そう婚約者の第一王子、クロヴィスから告白を受けた時、エルマンスは驚いた。
今までそんな素振りは一度も無かったからだ。
同時に、これは何かおかしいと違和感が胸の中に広がる。
言葉を遮らずにエルマンスはクロヴィスを見つめた。
「……だが安心してくれ、私は王族だ。今のままの、教養も作法もなっていない彼女を君の代わりに据えるなど、国を侮辱する行為だと理解している」
次に続いた言葉に、エルマンスは思わず笑いそうになってしまった。
何者かが……順当に行けばそのベリンダが魅了の術でも掛けただろうに、彼の本質を捻じ曲げる事は出来ていない。
そも、魅了の術とは人格を破壊するものではないのだ。
愛に抗えない状態にする事であって、何を差し出すのかは術を行使された本人の裁量。
彼は愛の為に国を差し出す事はしない。
「だから、私は決めた。ベリンダ嬢が君と同等の、いや、君を超える完璧な淑女に育つまで、私は君との婚約を維持し、君に教えを請いたい。……ベリンダ嬢が一人前になるその日まで、私は君を婚約者として丁重に扱い続ける。……これが、私なりの誠意だ」
誠意。
誠意と言えば聞こえは良いが、それは侮辱でもある。
「お話はよく分かりました。ですが、彼女が完成なさった時には、わたくしは貴方の有責で婚約解消をされるという事でございますよね?我が公爵家の後ろ盾はいらぬと仰せですか?」
「後ろ盾を失う危険性など、百も承知だ。だが、今の私が抱くベリンダ嬢へのこの狂おしい情熱は、損得勘定で御せるほど軽くはない。……だからこそ、君という完璧な鑑が必要なのだ。彼女を君以上の存在にまで磨き上げ、君の父上すら平伏せざるを得ぬほどの正妃に育て上げる。それが成った時、私は君に最大の敬意を払い、正式に頭を下げて婚約を解消しよう。……それまでは、君は私を……そして、未来の王妃を支えてくれ」
支えろと言われて、流石にエルマンスは形の良い眉を顰めた。
取るに足らない、より明らかに足りない令嬢に頭を下げろと言われたのだ。
「わたくしが頭を垂れるに足る淑女になった時には仰せに従いましょう。ですが、今の彼女はそれに値するとでも?」
「……いや、正直に言えば、今の彼女は直視するのも耐えがたいほど未熟だ。だが、私の本能は彼女を求めて止まない。……この矛盾を解消するには、私の手で彼女を君の領域まで引き上げる他ないのだ。君という理想を横に置きながら、これほど無能な者に惹かれる自分を、私は許せない。だからこそ、私を納得させるために……彼女を君に並ぶ淑女へと改善したいのだ」
やはり、魅了。
クロヴィスはベリンダを愛しながらも、矛盾について悩んでいる。
それが分かっていても、エルマンスに求めた配慮は不条理だ。
「無駄な時間を費やすと仰せならそれを邪魔はいたしません。ですが、今一度考えてもくださいませ。貴方を横に置きながら、わたくしが足りない男を愛したと、その身を磨き上げようとしたら貴方は赦せるのかどうか」
「赦せるはずがない。君が、私を差し置いて、泥にまみれた石ころを拾い上げ、あまつさえ私を教師役に据えて磨き直そうとするなど……想像するだけで、正気を失うほどの屈辱だ」
「でしたら、お分かりいただけますわね?わたくしはわたくしの矜持がございますの。今の未熟な男爵令嬢…いえ、爵位は関係ございませんわ。尊敬すべきでない相手に敬意を払う事はいたしません。教師役はお断りいたします」
時間の無駄に突き合わされるのは御免である。
魅了という不可抗力に晒されても、軽々に一線を越えたりはしないその姿勢には敬服するが、そこまでだ。
もし、自分の立場であれば、とエルマンスは考える。
(わたくしだったら、家を破滅に招きかねない愛など、切り捨てますわ)
そこは王子の傲慢さでもある。
「拒絶するのも無理はない。君の矜持を傷つけるなど、王族として…いや、一人の男として本来あってはならない不敬だ。……教師役を強いるのは、私の傲慢だった。だが、エルマンス。私は君の高潔さを、今この瞬間も尊敬している。
……教育はすべて私と、私が雇う執行官の手で行おう。君はただ、そこに座っていてくれ。君という理想が視界にあるだけで、私はこの無謀な試みを、正気で続けていられるのだから」
「ただ見ていろと仰るなら従うことに否やはございません。わたくしはただの茶番に付き合うだけの無駄な時間は過ごしませんけれど。外国語の一つでも学習しておりましょう」
「ああ、それでいい」
クロヴィスの教育が目の前で行われるのは、誠意の証であり、捻じ曲げられた彼の悲鳴でもある。
心の均衡を保つために必要だと言われるのなら致し方ない。
エルマンスは心の中で盛大な溜息を落とした。
男爵令嬢ベリンダが、王子を始め高位貴族に愛されている。
そんな噂が立ったのは、ある初夏の日だった。
王子の婚約者エルマンスは、物憂げにその光景を見つめている。
だが、その眼にあるのは、怒りでも悲しみでもない。
「エルマンス様。お時間宜しゅうございますか?」
「フェリシー嬢。ええ、宜しくてよ。貴女は殿下の側近の婚約者ですもの。そんなに畏まらないで結構よ」
エルマンスは優雅に扇で談話室を指し示した。
公爵家が学園内に貸与されているものであり、淑女達の話をするのに使われている。
二人は紅茶の載った卓を前に向かい合って座った。
「調査の結果ですが、やはり魅了の魔法を使われておいでです」
「そう……嘆かわしいこと。それで、解除方法はあるのかしら?」
「はい。ただいま中和する魔法を構築中でございますわ。我がシャトーブリアン子爵家と、リュシニアン侯爵家の人員をお借りして、急ぎ作らせております。閣下には協力を要請した際に、国王陛下に奏上して頂いております」
ほう、と扇の下で吐息を落とすと、エルマンスはその翠玉の瞳を細めた。
「さすがはフェリシー嬢ね。お見事ですわ」
「この後は、どうなさいますか?」
「様子見をさせて頂こうと思っているのよ。両陛下にはわたくしからお話を通しておきます。だって、殿下達は……多分彼女の思った通りにはなっておりませんもの」
二人は顔を見合わせて、扇の下で密やかに冷たい笑みを浮かべた。
王太子クロヴィス・ド・ヴァンドームは、自室でベリンダから届いた手紙を握りつぶした。
そこには「今度の夜会に連れて行ってほしい」という、拙い文字での甘えが綴られていた。
「何だこの虫がのたくったような字は……字すらまともに書けぬのか……!」
比べるのも烏滸がましいが、婚約者のエルマンスの筆致は芸術かと思えるほどに美しい。
特に手紙となると、余計にその美しさを乱さぬよう丁寧に書きあげられているのだ。
それに、とクロヴィスは学園でのベリンダの所作を思い出す。
「……ありえない。あんな、歩き方すら安定せぬ者を、私の隣に立たせるなど……っ!」
背筋を伸ばし凛と、それでいて淑やかに歩むエルマンスとは違い、子供のようにとてとてと歩くベリンダを思い出す。
彼の心臓は、ベリンダへの狂おしいほどの愛着で跳ねていた。
一目会いたい、抱き寄せたいという本能が渦巻いている。
しかし、彼の十数年に及ぶ帝王学が、それを断固として拒絶した。
(私はエルマンスを愛している。彼女は完璧だ。……それなのに、なぜこの無学な娘にこれほど惹かれる? ……いいや、認めん。このような欠陥だらけの者を愛したと認めることは、私のこれまでの人生への冒涜だ!)
夜会になど到底連れて行く事は出来ない。
同行する、しないの問題ではないのだ。
出発点にすら立っていない者を夜会になど連れていけば、それだけで物笑いの種になる。
そんな事は許されない。
上に立つものとして一点の染みも許されないのだ。
図書室の閲覧席、周囲の生徒たちが息を殺して盗み見る中で、宰相の子息であり公爵令息であるマクシムはベリンダが差し出した茶器を一瞥した。
「……マクシム様、一生懸命淹れましたの」
上目遣いで袖を引くベリンダの期待に反し、マクシムは一口もつけることなく、傍らの水捨て用の容器へその黄金色の液体を淀みなく注ぎ捨てた。
「茶葉の開きが不十分だ。温度も、注ぐ速さも、我が家の使用人以下だな。……ベリンダ嬢、私はイザボー嬢を裏切ってまで君に時間を割いている。彼女が今、完璧な所作で茶を淹れ、嗜んでいるというのに、君はなぜこの程度の基本すら身につかない」
「あ……っ」
「泣く暇があるなら、今の動作を慣れるまで繰り返せ。君が有能な淑女にならなければ、私はイザボー嬢に顔向けができない。……さあ、やり直しだ」
その姿を鑑賞しながらイザボーは静かにお茶を嗜みつつ、読みかけの本の頁を捲った。
図書室の閲覧席に隣接する談話領域―そこは、学園が認めた休息のための飲食が許される場所である。
イザボー・ド・クレルモンは、彼らの三つ隣の卓で、一分の隙もない姿勢を保ち、自ら淹れた紅茶を口に運んでいた。
マクシムがベリンダの淹れた茶を迷いなく捨て、厳しい言葉を浴びせるその声を、彼女は頁をめくる指一つ止めずに聞き流している。
「マクシム様、あんなに熱心にベリンダ様に構って……」
「イザボー様の前で堂々と教育なさるなんて、よほどベリンダ様に夢中なのね」
周囲の令嬢たちが、同情と好奇の混じった視線を送っているが、イザボーはぴくりとも眉を動かさない。
目の前でベリンダを躾ける事をエルマンスが許容した事でイザボーもまたそれに倣っているのだ。
「マクシム様。貴方の叱責する声が、皆の読書の邪魔になりますわ。もう少し声を落として下さらない?」
静かな声が響き、マクシムは一瞬だけ動きを止めた。
「……失礼した、イザボー嬢。君の集中を削ぐつもりはなかった。ベリンダ嬢、聞いたか?君の不出来がイザボー嬢の不快を招いている。さらに完璧になるまで練習するように」
ベリンダは泣く事も出来ずに、言われた通りにするしかない。
イザボーは冷めた目でその様子を見送り、手帳に「教育による執務遅延、および茶葉の無駄遣い」と一行書き加えた。
放課後の第一訓練場。
砂埃が舞う中、騎士団長の息子であり自身も騎士であるバティストは、鎧を纏ったままで膝をつき激しく肩を上下させるベリンダを見下ろしていた。
「立て、ベリンダ嬢! あと十周だ。君のその脆弱な足腰では、王城の長い階段を上るだけで醜く息を切らすことになるぞ!」
周囲の騎士見習いたちは、訓練の手を止めて当惑の表情でその光景を見守っている。
「見ろよ、バティスト様……。訓練を放り出してまで、ベリンダ嬢の特訓に付きっきりだぜ」
「この前は彼女の歩き方を『戦場なら即死だ』って叱り飛ばしながら、ずっと横で併走してたらしい。よほど彼女を自分の隣に置きたいんだろう。情熱的すぎるな」
野次馬たちの目には、その猛特訓が、愛する女を片時も離さず、熱心にしごき抜く独占欲という名の寵愛に映り、ベリンダへの嫉妬混じりの噂が広がっていた。
しかし、バティストの瞳にあるのは、逃げ場のない自己嫌悪だった。
「……俺は、クロティルドを愛している! 彼女は、俺と背中を預け合える強き騎士の娘だ! なぜだ、なぜ俺は君のような、転んだだけで泣く女を放っておけない!? 頼む、君がクロティルド以上の強さを備えてくれれば、俺は自分を軽蔑せずに済むんだ……ッ!」
彼は、クロティルドから贈られた籠手を強く握りしめ、自分自身の裏切りを打ち消すように、その苛立ちをすべてベリンダへの猛特訓へと変えてぶつけていた。
訓練場の隅では、当のクロティルドが、涼しい顔で自身の愛剣を磨いている。
「バティスト様、あちらの隅の方が地面が固まっていて走りやすいですわよ。……あ、ベリンダ嬢。今の木剣の振り、腰が入っていなくてよ。わたくしなら、今の三倍の速さで振り抜けますわ」
クロティルドの冷徹な助言に、バティストはさらに顔を赤くして叫んだ。
「聞いたか、ベリンダ嬢! クロティルドの指摘通りだ! さあ、今の振りをさらに百回! 彼女に並ぶ女傑にならなければ、私は君を愛する自分を一生赦さん!」
ベリンダは泣きながら木剣を振り上げる。
周囲の「羨ましい」という視線が、彼女には何よりも鋭い刃となって突き刺さっていた。
放課後のチャイムが鳴り、他の生徒たちが談笑しながら帰路につく中、実習室にはフロリアンの冷たい声が響いていた。
「ベリンダ嬢。今の発火魔術、構成式が三行目から完全に破綻している。なぜここを何となく、で済ませた? 魔術の暴発は命に関わる。君を愛しているからこそ、こんな危険な状態のまま放り出すわけにはいかない。さあ、今の術式を論理的に再構築しろ。正解を導き出すまで、帰れると思うな」
フロリアンはベリンダの震える指先を掴み、無理やりペンを握らせて、机に広げた数式を指し示した。
彼の瞳は魅了で潤んでいるが、その口から出るのは、彼女の知性の欠如を厳しく指摘する言葉だ。
「……フロリアン様、もう三時間も計算しています。数字を見るだけで頭が痛くて……」
「痛むのは、君の脳が思考を拒んでいるからだ。……いいか、君を私の隣に立たせる以上、この程度の基礎理論で躓くことは許されない。さあ、もう一度。完璧な構成式を描けるようになるまで、今日の指導は終わらないぞ」
フロリアンがベリンダを追い詰めるすぐ隣の席。
そこでは婚約者のフェリシーが、一言も発さず、浮遊させた数冊の魔導書を同時にめくりながら、フロリアンが教えているものより遥かに高度な術式を、瞬き一つの間に完成させていた。
「フロリアン様。その箇所の補足ですが、彼女の魔力特性ではその術式は三秒で霧散しますわ。……今の解説では、彼女の理解が追いつくのに一生を費やしそうですけれど」
フェリシーはベリンダを見ることすらせず、手元の魔導具の調整に没頭し始めた。
彼女にとって、ベリンダは競う対象ですらなく、ただの雑音でしかない。
けれど、周囲の目には別の物が映っていた。
「見て、フロリアン様……。ベリンダ様の隣にぴったり張り付いて、手取り足取り教えていらっしゃるわ」
「婚約者のフェリシー様がすぐ隣にいらっしゃるのに、あんなに至近距離で彼女を導くなんて。フロリアン様、彼女を自分と同じ景色が見える魔道士に仕立て上げたいのね。なんて情熱的で、逃げ場のない寵愛なの!」
礼拝堂を支配するのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。
ベリンダは一時間の「沈黙の祈祷」を命じられ、冷たい石の床に膝をついていたが、限界に達した彼女が無意識に微かな溜息を漏らしたその瞬間。
背後に立つエティエンヌの冷徹な声が、その静寂を切り裂いた。
「……今、なぜ溜息をついたのです、ベリンダ嬢」
「えっ……あ、いえ、その……」
「その一息に、君の傲慢な自己犠牲が透けて見えますよ。自分がこれほど耐えているという事実を、無意識に周囲へ誇示し、同情を引こうとしたでしょう? それは聖典が説く無私の献身とは対極にある、醜悪な自己愛の露呈です。……今の溜息一つで、この一時間の祈りは無に帰しました。立ちなさい。次は聖典の第二十三章を百回、書き写すのです。君の指先に、迷いを捨てるほどの重みが宿るまで」
ベリンダは反論の言葉すら見つからず、震える手にペンを握らされた。
エティエンヌは、自らの内側に湧き上がる「彼女を甘やかしたい」という正体不明の衝動を、激しく嫌悪している。
彼はこの不気味な情動を信仰への情熱へと無理やり書き換えることで、自らの理性を繋ぎ止めていた。
何より、真摯に祈りを捧げるユージェニーへの尊敬と愛が心を揺らがせている。
「いいですか。目の前のユージェニー嬢を見なさい。彼女は祈りを始めてから一時間、一度も身じろぎせず、呼吸の乱れ一つ見せていません。 主の御前で、己の存在を消して役割に徹するとはそういうことなのです」
エティエンヌが背後から執拗に、溜息の不純さを詰め寄る目の前。
神の像の前で、ユージェニーは祈りを捧げ続けている。
一度も振り返らず、彫像のような完璧な姿勢で。
彼女は、エティエンヌが自分を納得させるために、あまりに水準の低い説教を必死に繰り返している無様な姿すら、意識の外に置いているかのようだった。
彼女は口を開かない。
ただそこに、一点の曇りもないな存在として、微動だにせず座り続けている。
その静寂こそが、ベリンダの未熟さを何よりも残酷に際立たせていた。
遠くから見た令嬢達は噂をする。
「見て……エティエンヌ様、ベリンダ様のすぐ後ろに陣取って、あんなに熱心に語りかけていらっしゃるわ」
「一刻も離れたくないのね。なんて神聖で、尊い愛かしら!」
ようやく本日の写経を終え、自室の寝台に倒れ込んだベリンダは、筆を握りすぎて赤く腫れた指先を見つめて虚空に叫んだ。
「……意味が分からない! 一文字も、一ミリも、意味が分からないわよ……っっ!!」
学園の廊下を歩けば、令嬢たちから「殿方たちを独占して!」と刺すような視線を浴びる。
昨日なんて、階段でわざと足を踏まれそうになった。
彼女たちは、ベリンダが放課後の実習室でフロリアンに「魔術の論理性が欠如している」と三時間説教され、白目を剥いていたことなど知らないのだ。
一昨日は、手の皮が擦り剝けるまで木剣での素振りをやらされていたのに、近くで見ていた騎士見習い達にすら「バディスト様を独占しやがって」と睨まれた。
騎士見習いにとって憧れの騎士様だとしても、鬼教官であるバティストのしごきを見ている筈なのに。
それに婚約者のクロティルドも騎士に叙勲されていて、ベリンダよりも激しい稽古をしていた。
幼い頃から訓練していた彼らと比べられても。
「何よ!ただの令嬢なのよ!なのに手が擦り剝けたら、根性が足りないって、ふざけんな!根性で手の皮がすぐに厚くなるわけないでしょーが!!」
マメも出来ているし、写経のせいでペンダコも出来ている。
白い美しい手なんてまやかしだ。
「『愛している』『運命だ』『君を離さない』言葉だけは立派だけど、やってることは全部居残り勉強じゃない! 何なのあの人たち! 王子様なら、もっとこう、真珠の首飾りを贈ってくるとか、『君はそのままで可愛いよ』って甘やかすとか、そういうのないの!?」
ベリンダは枕に顔を埋めて悶絶した。
彼女が禁忌の術で手に入れたかったのは、贅沢な暮らしと、周囲を見返せる優越感だった。
しかし、現実は。
「……エティエンヌ様なんて、耳元であんなに熱っぽく囁いてきたと思ったら、『自己犠牲と無私の献身の定義の違いを述べてください』だもん……。私が答えられなかったら、『君がユージェニー嬢に並ぶまで、私はここを動きません』って……。それ、私が嫌いだから嫌がらせでやってるんじゃないの!?」
男たちの高すぎる自尊心が、術による理性の狂いを認められず、ベリンダを理想の婚約者の形にしようと躍起になっている。
その教育という名の虐待は、受けている本人からすれば、もはや怪奇現象でしかなかった。
「……もうやだ。あのエルマンス様だっけ? あの人、三歳で終わらせたって本当? 人間なの? 私、もう何日も暗記させられ続けてるのよ。お菓子も、衣装も、夜会の誘いも一回もなし。あるのは分厚い教科書と、真っ赤に添削された答案用紙だけ……」
いつか送ったクロヴィス王子への夜会に行きたいと甘えた手紙は、綴りの間違いを添削された上で、字が汚い事と文章が汚い事が書き添えられていて、手紙の基本と美しい文字を書く為の本が贈られてきた。
そんな物を贈って欲しい訳じゃない。
もっとキラキラした物を贈るべきなのに。
ベリンダは、ボロボロになった自分の爪を見た。
「……こんなの、物語になるような恋じゃない。ただの強制的な教育よ……。私、絶対にあいつらから慰謝料取ってやるんだから……!」
彼女は泣きながら、明日までに暗唱しなければならない「歴代王妃の家系図」を開いた。
周囲が羨む至高の寵愛の正体は、有能すぎる男たちに目を付けられた無能な娘の、終わりの見えない地獄の補習だったのである。
そして、運命の夜会の前日。
ベリンダの元へクロヴィスからの親書が届いた。
「……信じられない。また、また不合格だなんて……ッ!」
ベリンダは、クロヴィス王子から届いた「明日の卒業夜会への同行拒否」の親書を握りつぶし、寝台の上で転げ回った。
「半年前から一歩も進んでないじゃない! 私、この半年間、お菓子も食べず、遊びにも行かせて貰えず、お茶を淹れて、素振りして、術式を考えて、写経して、倒れるまで足運びの練習をしたのよ!? なのに何よ、『エルマンスの気品には程遠い。今の君を連れて行くのは、君を物笑いの種にするのと同じだ』って……!」
クロヴィスが笑われるのが嫌という訳じゃなく、ベリンダが笑われるのが可哀想だと言っているその気遣いがまた腹立たしい。
自分が一番侮辱しているという事に王子は気付いてすらいないだろう。
ベリンダの瞳に涙が浮かぶ。
彼女は、華やかな夜会で主役になりたかった。
だが、現実は。
「……バティスト様なんて、『今の君の背筋では、正式な夜会用の衣装を着たまま姿勢を保てない』って……。水を入れた桶を両手に、壁に背中をつけて立たせただけじゃない!
マクシム様に至っては、『君の淹れた茶を公の場で出した瞬間、我が家の外交は断絶する』って……。愛してるって言いながら、一回も私のお茶を飲んでくれないし!」
彼らにとって、ベリンダを不完全なまま夜会に出すことは、自らの審美眼の敗北を認めることに等しい。
全員が全員、彼女の同行を断ってきただけでなく、衣装どころか宝飾品一つ、花一輪贈られてこなかった。
愛を奪われたはずの婚約者には贈っているというのに。
「……もうやだ。エルマンス様って本当に人間なの? 五歳で三か国語を学んだなんて嘘よ、魔物か何かなのよ。私、もう半年も、毎日、毎日……」
毎日鍛えられていた。
クロヴィスの教える王宮に関しての歴史や、礼儀作法、舞踏。
マクシムによる、紅茶の淹れ方や外国語に法律。
バティストによる、体力づくりと剣術に馬術。
フロリアンによる、魔力操作と術式解読に構築。
エティエンヌによる、聖典の写経と難問と祈り。
「……結局、明日の夜会も、私は部屋に置き去りなのね。周囲の令嬢たちは『秘密の逢瀬のために、殿下がわざわざ彼女を隠している』なんて羨ましがってるけど……。違うわよ、ただの『出来損ない女の軟禁』よ……!」
彼女は泣きながら、明日までに暗記せよと命じられた「隣国の関税率一覧」の束を床に叩きつけた。
「……いいわ。明日の夜会、勝手に魔法を解いてやるんだから。そうしたら、この半年間の私の苦労を、一銭残らず賠償金として請求してやるわよ……!」
月明かりの下、男爵令嬢の恨み節だけが、虚しく響いていた。
クロヴィスを筆頭とする五人の男たちは、一分の隙もない礼装に身を包み、それぞれの婚約者――エルマンスたちの同行を完璧にこなしていた。
周囲の生徒たちは、その光景を遠巻きに眺め、ひそひそと囁き合う。
「見て……。殿下方は今日も婚約者を連れておいでだわ。あんなに男爵令嬢に夢中なのに、夜会だけは一度も彼女を連れてこないなんて」
「『愛するあまり、汚らわしい社交界の目に触れさせたくない』という深い愛着なのね。……ベリンダ様が羨ましいわ」
だが、当の男たちの心中は、そんな甘いものではなかった。
彼らは魅了の術に翻弄されながらも、その強固な自尊心ゆえに、婚約者の品格に届かぬベリンダを公の場に出すことを、生理的に拒絶していた。
彼らにとってベリンダは、まだ人前に出せる水準に達していない未完成品でしかない。
決して寵愛が理由ではなかったのだ。
そこへ、着古した衣装姿で、髪を振り乱したベリンダが乱入してきた。
「もう限界よ! 魅了を解いてやるわ! この、有能ぶった大馬鹿共!!」
ベリンダが懐から取り出した、術の核である宝石を床に叩きつける。
パリン、と乾いた音が響き、会場を満たしていた微かな桃色の霧が霧散した。
一瞬の静寂。
クロヴィスたちの瞳から濁った熱が消え、正しい感情が戻ってくる。
「……っ!? 私は、何を……」
「これは……一体……」
絶句する男たちを尻目に、ベリンダが怒りと涙を爆発させた。
「愛してるだの運命だの、耳元で甘いこと言っといて何よ! 結局一回もお菓子も買ってくれない! 衣装も宝石もなし! 毎日、毎日、朝から晩まで『エルマンス嬢ならできる』『ユージェニー嬢はもっと清らかだ』って! 私が、どれだけ地獄の居残り勉強をさせられたと思ってるのよ!」
ベリンダは腫れ上がった指先を突き出し、叫び続ける。
「王子様と恋愛を楽しめると思ったのに、待っていたのは強制的な勉強よ! 贈り物は分厚い教科書や参考書! 逢瀬の内容は単語試験! 寝不足で肌はボロボロ、爪はインクで真っ黒! あんたたち、有能すぎて人間じゃないわよ! 早くこの半年間の私の苦労を、一銭残らず賠償金として払いなさいよ!!」
会場中の生徒たちが、あまりの寵愛の実態に凍りついた。
羨望の的だったはずの高位令息との親密な時間が、ただの地獄の補習であったという事実に、誰もが言葉を失う。
男たちは、自分たちが術にかかっていたことへの羞恥よりも、半年間も心血を注いで教育した結果が、この程度の語彙で喚き散らす無様な令嬢だという、教育の完全な失敗に絶望して顔を覆った。
同行されていたエルマンスは、静かに扇子を広げ、俯くクロヴィスを見下ろして呟いた。
「……ふふ。お話はよく分かりましてよ。結局無駄な半年を過ごされたようですわね……さあ、殿方。不快な茶番の清算を、始めましょうか」
エルマンスが前に進み出て、ベリンダに閉じた扇を向ける。
「まずは貴女。貴女に慰謝料は支払われませんわ。王族に対して魅了の魔術を行使するなど言語道断。処刑が妥当な所でしょう」
「え、……えっ!?しょ、処刑ですって?」
「ええ、でもわたくしの言う事を聞くならば、命は助けて差し上げますわ」
ベリンダは立ち尽くしたまま考えた。
誰だって命は大切なのである。
何しろ死んだら何もかも終わりなので。
それにベリンダは知っている。
幼い頃に既にベリンダの何倍もの知識を持っていた化物がエルマンスだと。
「わ、……かりました」
「宜しい。ではそこで話を聞いていらっしゃい」
ベリンダにくるりと背を向けるとエルマンスは婚約者達に向き直った。
「貴方がたの理性は認めましょう。軽々に不貞に走らなかった事は高く評価しております。けれど、良くお考えになって?……マクシム様、貴方が知性を叩き込んでいる裏で、バティスト様は彼女を走り回らせ、フロリアン様は術式を構成させ、エティエンヌ様は神への愛を理解させる。各分野の最高峰であるわたくしたちを基準にして、それを一度に五人分、一人の令嬢に詰め込んで、何かが完成すると本気で思っておいででしたの?」
ただでさえ、長い時間をかけて彼らの婚約者達だって学んできたのだ。
彼らに並び立てるように何年も努力を重ねた。
それをたかが半年で一人の令嬢が習得できるわけもない。
誰か一人を相手にした所で無理である。
才能が有りながらも努力してきた女性達の研鑽を、そう簡単に超える事など出来ない。
男たちは、自分の心臓を直接握られたかのように顔を伏せた。
魅了に浮かされた彼らは、早く自分たちの隣に立たせたいと焦るあまり、一人の人間に五人分の天才性を同時に詰め込むという、教育以前の論理的破綻を犯していた。
「……殺してくれ、エルマンス。……私が、あまりに稚拙だった。……効率と合理性を尊んできた私が、なぜこれほど初歩的な過失を……」
クロヴィスが顔を覆う。
彼らにとっての最大の屈辱は、婚約者の心情を傷つけた事と共に、自分たちが基本的な物事を失念していたという事実を突きつけられることだった。
「……殺したり致しませんわ。殿方達。貴方がたの罰は、その不始末を、生涯かけて自覚し続けることでございます」
エルマンスは、背後で震えるベリンダに、穏やかに微笑みかける。
「ベリンダ嬢。貴女は今日から、わたくしの侍女として働きなさい。そして殿方達。貴方がたは、わたくしの下で彼女が一つずつ、順序立てて教育され、一人前の侍女になっていく姿を、遠くから眺めていらして。……五人がかりで無能を突き回し、結局何も残せなかった貴方たちの教育。わたくしが、正して御覧に入れましょう」
無駄な血を流さなかったのは、ある意味ベリンダが国の役に立ったからでもある。
彼女が何処からか掘り起こした魅了の魔術は、フェリシーの働きによって無効化する術式の構築と、それを埋め込んだ装具によって無効化出来る技術となった。
とはいえ、処刑を免れない罪であったところをエルマンスが救いあげたのは、ある意味において復讐である。
男達が成し得なかった事を、成し遂げる事でそれを見せつけた。
無駄な追い詰め方はせずに、最小限で最大限の力を引き出すように。
一日一日細切れに専門分野を長時間を鍛錬するより、日々の生活に馴染ませてゆっくりと身に着ける方がいい。
何より継続が大事なのだ。
侍女として完璧に礼儀作法とお茶の淹れ方を学んだ後は、外国語を学ばせつつクロティルドによる剣術指南を朝に短時間行わせ、朝食の前に祈りの時間を設けてユージェニーと共に祈る。
午後はエルマンスに仕えながらイザボーの指示で実務を学び、フェリシーの魔術操作を習う。
数年後には優秀な万能侍女として育つことになったベリンダは、結局勉強の日々なのね……と寝台の中で溜息を吐いた。
美味しい所だけを食べたかったベリンダは、クロヴィスがエルマンスエルマンスと病気のように繰り返した理由も理解出来るようになったのだ。
エルマンスは未だに努力を怠らないし、それをひけらかす事は無い。
ただ自然に、彼女はそうあるべきと研鑽を続けているのだと。
最初からそんな人から何かを奪うのは無理なのだ。
たとえ奪う事が出来たとしても、彼女達のような自分を磨き続ける事が出来る人は、必ず次に良い出会いもある。
逆を言えば、磨かない石ころなんて近道をしたところで価値は上がらないのだ。
でも、エルマンスやフェリシー、クロティルドやユージェニー、イザボーという最高級の女性達に囲まれて、たまにお菓子を食べつつ、褒められるのは悪い気がしなかった。
「殿下達の無駄なしごきよりは全然良いわ」
満足げに呟いて、ベリンダは眠りに就く。
もうキラキラなんて追いかけない。
自分が輝けばいいのだから。




