幼女の絵
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
きゅっ、きゅっ、きゅっ、と……。
よし、みんなに質問だ。いま黒板に書いた「観賞」と「鑑賞」の違いがわかる人。手えあげて!
お、よ~し、じゃあつぶらやくん頼む。
……ふむ、観賞は見て楽しむものであるけれど、鑑賞はさらに深く入り込んで深く味わって評価するものである、か。なかなかイイ線をついている。
前者が楽しみ、後者が理解に重きを置いているように思えるのは、字面からしても判断がしやすいものだ。そして理解と聞くと、私たちは一段上の思考を持っているかのように思いがちじゃないだろうか。
理解とは相手を分かろうとしている姿勢のあらわれ、とはためにとることができる。それを高尚に思ってしまうのは、自分のことを理解してほしいという我々の根っこにある欲があるためかもしれない。
それに対し、観賞はありのままを見て楽しむこと。受け取った情報をそのまま自分の燃料としていけばオッケーで、少しひねくれた見方をすれば、自分の快楽を優先した代物となる。理解をしてくれる鑑賞に比べたら低い程度に見られるかもね。
しかし、理解とは自分なりの解釈や翻訳が混じるもの。自分に都合のいい受け取り方が入るかもしれず、そいつが「ありのまま」をゆがめてしまうかもしれない。
特に意見や発言を求められることのない、観賞だからこそ受け取れるものもあるんじゃないかと、先生は考えているんだ。
以前に先生が体験した話なんだが、聞いてみないか?
先生はずっと昔。小さいころに一枚の絵を見たことがある。
「幼女」と題をつけられたその絵は、幼いを通り越して生まれたての赤子を思わせる、下着一枚をのぞいて真っ裸な姿が描かれていた。
絵の中であおむけに、大の字となって横たわる幼女なるものは、ぶくぶくに太っていたんだ。
顔も四肢も胴体も、まるで空気を入れられたゴム風船のように膨れ上がっていたんだ。当時、知識があったならばバルーンアートのごとき姿だったと思ったが、当時の先生の頭へぴんと浮かんだのは別のことだった。
――この子、飛びたがっている。
風船が空を飛ぶさまだったら、そこまでに幾度か見たことがある。自分の知識の領域から判断するのに、それが目いっぱいだったのだと思う。
膨張しきった皮膚の中、かろうじて目、鼻、口の形だけを浮きあがらせているその「幼女」は、美醜で判断するなら醜いほうにあたるだろう。
しかし先生はこの子がいつ飛び立つのか、気になって気になって仕方なく、付き添ってくれていた親が引っ張るまで、ずっとその絵の前で幼女を見つめ続けていたんだ。
家の近くにあるギャラリーの、期間限定の個展だったな。入場料もかからなかった。
先生は学校から戻ると、時間の許される限りかの個展へ足を運び、「幼女」の絵を見続けていた。
見張りの意味合いがでかかったと思う。先生は当初に考えた、彼女が飛び立つためにふくらんでいる、という考えに疑いを持たなかったんだ。
ほかの人たちを見るに、この「幼女」の評価はかんばしくないのだろう。たいていの人がちらりと一瞥だけして、ほかの絵を観にいってしまう。足を止めて眺める人も、よくて数秒というところで、先生ほど熱心に張り付く人は現れなかった。
当時の先生は小学校の低学年。その歳から絵にのめりこむ、というのはちょっと珍しい景色だったかもね。
門限までの数時間、先生はじっと幼女の絵全体へ気と視線を配り続けていたよ。いずれ彼女が飛び立つ、その瞬間を見逃したくないと強く心に刻んでいたからね。
いよいよ個展の期間もあと二日となったその日の午後も、先生は「幼女」にくぎ付けだった。
おそらく、この個展期間中で一番「幼女」を観ている客ではないのか、と個人的にも思うほどだ。そもそも、ひとつの個展へ毎日のように足を運ぶ人自体がまれではないだろうか。
絵の中の幼女は、やはりぶくぶくに太った大の字のまま、あおむけに寝転がっていた。門限まであと一時間ばかり。その日もぎりぎりまで粘ってやる気満々だったんだけど。
「……まさか、本当に来ているとはな」
知った声がかけられる。見ると、先生の祖父がそばに立っていた。
祖父は日の出ている間、長い散歩に出かけるのが趣味だった。家をあけている時間のほうが長かったものの、こうして個展に顔を出してくるとは思っていなかったよ。
祖父は、先生がそうしているように「幼女」へ目をやる。
はじめこそ険しい表情をしていたが、やがてその気配はどんどん緩み、穏やかになっていくのが先生にも見て取れたよ。そして、ゆったりと尋ねてくる。
「お前、この子が『飛ぶ』と思っているのだろう?」
だしぬけの声掛けに驚いた。こちらが何も言わないうちから、胸中を見抜かれるとは思っていなかったから。
「ならば、こうも見守るのはいったん止めてやることだな。誰しも、他人や何かに見られているというのは、あるがままの姿を欠く。見栄というか演技というか……本懐を果たすことなく隠してしまう。
彼女を飛び立たせたいなら、あえて目を向けてやらないことだ。最後の一歩は、誰も見ていないからこそ踏み出せる」
個展の最終日。それは先生が個展へ足を運ばなかった唯一の日となった。
ここ数週間、行い続けていたことがぽっかり抜けるのは、妙な感じだったよ。すでに個展へ向かうのは、先生の習慣と化しつつあったのだから。
しかし後日、個展が終わる直前になって起こった異変を先生は耳にはさむ。
絵を片付け始めたとき、例の「幼女」の絵からあの膨れた幼女がきれいさっぱり消えてしまったんだ。
誰かがいたずらで塗りつぶしたり、切り取ったりしたにしては、あまりに絵はきれいすぎたらしい。そのキャンバスはもとからそうであったように、背景の淡いクリーム色ひとすじに染められたのみの表面となっていた、と。
祖父の言っていた通り、熱心に見つめることを先生がやめたことによって、あの「幼女」もあるがままの姿へようやく戻れたのかもしれない。




