アシュリー・ハーツは真実の愛を切り裂いた
癖の強い、ふわふわとした綿毛のような金色の髪がコンプレックスだった。真っ直ぐできらきらさらさらが良かったとべそをかいては両親を困らせていた。それでも彼らは彼女のことをとびきりに可愛い子だと言ってくれた。
憧れの綺麗な顔をした男の子も、彼女のこの髪を素敵だと言ってくれた。
嬉しかった。美しくはにかむ彼の横顔を、いつまでも見ていたかった。
――そう、横顔だった。彼の視線は、彼女の方を向いてはいなかった。
優雅な曲線を描く、燃えるような赤い髪。大粒のエメラルドのようなグリーンアイ。彼の方を見て甘く溶ける猫の瞳。誰よりも美しく、凜とした女の子。
アシュリー・ハーツ伯爵令嬢、初めての恋が破れた瞬間だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アシュリーはハーツ伯爵家の長女である。下に一人、跡取りとなる弟がいた。その為、彼女は結婚して家を出ることが望ましかったのだ。
長い歴史を持つハーツ家と縁を結びたいという家は腐るほどにあった。彼女が十歳にも満たない頃から釣書が当主の執務机の上に山となるほどだ。
両親は初めての子どもである彼女のことを蝶よ花よと大事に大事に育てていた。そのせいなのか元来の性格なのかはわからないが、アシュリーはひどく引っ込み思案だった。茶会に呼ばれても隅の方で静かに過ごしているような子どもであった。
「……いいなぁ」
その日も茶会で一番端のテーブルで他の貴族子女たちを眺めていた。とりわけ自分と同じ色をしたさらさらとした髪を羨ましく思いながら見ていた。
アシュリーは自分の髪が苦手だった。伸ばせば伸ばすほどにくるくるふわふわということを聞かなくなる金色。お付きの侍女が毎朝丁寧に整えてくれるのだが、時間がかかって仕方がなかった。それもお昼過ぎにはまたくるくる復活するのだ。
視界に垂れ下がる髪を見ながら俯く。早くこの時間が終わってしまえばいいのに、と溜息を吐いていた。
「ここ、座ってもいい?」
幼い声とともに青い瞳がアシュリーを覗き込んでいた。ひゃっ、と小さく声を上げて肩を跳ねさせれば、アシュリーの快晴の色をしたそれよりも濃くて鮮烈な、サファイヤのような瞳がくるりと丸まっている。
「ご、ごめんなさい。びっくりさせてしまったかな」
へにょりと下げられた眉はそれでも幼いながらの美しさを一かけらたりとも損ねてはいなかった。ぽぽぽ、とアシュリーの頬に熱が昇る。
「あ、えっと、その……どうぞ」
どもりながらもなんとかそう言えば、彼はありがとう、と一言告げて向かいの席に腰を落とした。ふぅ、と息を吐いた彼をよくよく見れば随分と疲れている様子だった。
「あ、あの。こちら、いかがかしら」
アシュリーはありったけの勇気を振り絞って自分が食べていたクッキーを勧めた。ハニージンジャーのクッキーは彼女の好物でもある。
「ありがとう、いただくよ」
彼も高位の令息なのだろう。紅茶をソーサーに戻すその動きだけでも洗練されているのが見て取れた。花の形をしたクッキーが繊細な指に摘ままれ、白い歯にさくりと噛まれる。
ぼーっとその様子を見ていたアシュリーだったが、ふと視線を感じて周りを見回した。遠巻きに集まっている令嬢たちが皆こちらを向いていたのである。元来小心者のアシュリーはその様子に一瞬怯えたが、直ぐにその視線が全て令息の方を見ていることに気づいた。
すっと通った鼻筋、まだ丸みの残る輪郭。さらさらとした黒髪に、大ぶりのサファイアのような瞳が一際印象に残る。アシュリーと同い年くらいだろうに、既に完成に近い美だった。
「あ、申し訳ありません。自己紹介がまだでしたね。私はフェデル・バスティンと申します」
「あ、えと、こちらこそ。わたくしはアシュリー・ハーツと申しますわ」
慌ててぺこりと頭を下げた。フェデルを見ている視線がアシュリーのことも観察しているように思えて緊張がこみ上げる。
「ハーツ家というと、鉱山で有名なところでしたね。アシュリー嬢のアクセサリーもそちらの宝石なのですか?」
伸びてきた手がそっとアシュリーの髪を耳にかけた。彼女の耳には小粒だが美しくカッティングされたアクアマリンのイヤリングがきらめいていた。
ボッとアシュリーの顔が発火するように赤く染まる。が、フェデルは宝石の方に夢中の様で彼女の様子には気づいていないようだ。
「は、はいっ。そのっ、お母様が、新しくデザインされたものなのです……」
「道理で……アシュリー嬢の瞳ともよく合っていますね」
繊細な指先が今度は額にかかっていた髪を避ける。その瞳とイヤリングを見比べ、フェデルはふふ、と小さく笑った。
「アシュリー嬢の髪と同じようにきらめいていますね。とても素敵だと思います」
宝石の中で角度を変えて反射する光と、くるくると悪戯に渦を巻くこの髪が同じだと。そう言ったのだ、彼は。これ以上ないほどに顔に熱がこもった。
その日のことは、この台詞を境にほとんど覚えてはいなかった。気が付くと寝台の上に寝かされていて、フラッシュバックとして蘇る記憶に転げまわるなどしていた。
絵本の中の王子様のようだった。その容姿も、台詞も、髪に触れたその指先一つに至るまで。
アシュリーは無自覚に自分の髪の一束を握っていた。恐らくそこは彼が触れた場所なのだろう。指に引っかかる手触りが好きではなかったのに、アシュリーは一晩中自分の髪を撫でていた。
その日から、苦痛だった茶会に積極的に参加するようになった。それも隅っこにいるのではなく、きょろきょろと人だかりを探すようになった。もっと人とお話出来るようにと、両親から家業のことについて勉強するようになった。
アシュリーは完璧を目指し始めたのだ。
両親は彼女の変化を喜ばしいものとして歓迎し、全面的に協力していた。弟と一緒に机を並べて領地の勉強をし、母親について回って宝石の加工作業を見てそのセンスを磨いた。
その結果、彼女は巷でも有名な淑女としてますます釣書を積み上げることとなる。
恋とはかくも人を変えてしまうものなのか。アシュリーはフェデルと並び立つために努力を重ね、今までの内気で臆病な自分を脱ぎ捨てた。コンプレックスだったふわふわの髪を更に長く伸ばし、かわいらしく結ってもらうようになった。
素敵だと言ってもらえたその髪を、彼の方が直ぐに見つけられるように。
――しかし、彼女の初恋は言い伝え通り実らなかった。
「レディ、貴女をエスコートする名誉を私にくださいませんか?」
「えぇ、お願いしても?」
アシュリーを簡単に上回る洗練された仕草。優雅なウェーブを描く燃えるように赤い髪。大粒のエメラルドも霞むようなグリーンアイ。緻密に磨き上げられた美しさが、そこにはあった……初恋の君の隣に、誂えたかのようにぴったりと。
初恋の君を射止めたのはバレンティーナ・アヴェール。アシュリーよりもずっと早くから完璧な淑女として有名な伯爵令嬢だ。挑むまでもなく敵わないと本能がそう悟っていた。他の令嬢方も同じである。
彼女は誰よりも美しく、フェデルとお似合いだった。認めることに悔しさすら感じないほどに。
ショックだった。幾つもの夜を泣き濡らした。
恋は実らなかったが、それでもアシュリーは今の自分が好きだった。一時は目標を失ってしまったと思ったが、彼女が身に着けた教養も磨いた美しさも無駄になることはない。
それでもじゃあ次の恋を、と。そういう気持ちにはどうしてもなれなかった。
幸いアシュリーはハーツ家の家業である宝石の加工を学び、業務の一部を任されるようになっていた。装飾品のデザインを考えるのに打ち込むことでしつこく顔を出す失恋の痛みを一時でも忘れられたのだ。
そんなある日。貴族学園への入学を翌年に控えた夏の日のこと。ハーツ家は事業提携の話を持ちかけられることとなる。その相手というのが。
「初めまして。わたくしアヴェール家のバレンティーナと申します。本日はよろしくお願いいたしますわ」
「……は、はい。よろしくお願いいたします」
アヴェール家の、それもよりにもよってバレンティーナその人だった。同い年の淑女同士ということで話がしやすいだろう、という配慮だったのだが、アシュリーはどういう顔でいればいいのか分からなかった。
アシュリーの事情はバレンティーナには一切関係のないことだ。フェデルへの恋心だって誰かに話すこともないままに、儚く散ってしまったものである。彼女を恋敵と思う間もなかったのだ。
これは仕事、これは仕事、と脳内で唱えながら事務的にやり取りをする。実際のところ業務として考えるととても楽しい時間だった。
ハーツ家で行っている宝石の加工においてはクズ石と呼ばれる細かい宝石の欠片が出てしまう。宝飾品には到底使えないサイズのものなのだが、であればドレス等の飾りにしてはどうかと絹で有名なアヴェール家から事業提携の申し入れがあったのだ。
「思ったよりも大きな欠片もあるのですね……これを更にカッティングすることは出来ないのでしょうか?」
「……今のハーツ家の技術では少し難しいですね。あっ、全体ではなく片面であれば、固定具を使えば何とかなるかもしれません」
バレンティーナが摘まみ上げたのは色の濃いサファイアだ。小指の爪先にも満たないような大きさの上に歪な形をしている。宝石としては価値がないというのに、バレンティーナはそれを愛おしそうに見つめているようだった。
恐らく彼女は、アシュリーと同じことを考えているのだろう。ふふ、とバレンティーナが笑う。
「ごめんなさいませ。とっても楽しくてつい……」
「あ……わ、わたくしも、楽しくて、その……」
バレンティーナは博識だ。アシュリーには考えも及ばないような案を簡単に思いついてしまう。それを実際出来る形へと落とし込むためにあれこれと話し合う時間は素晴らしく楽しいものだ。
結婚して家を出なければずっとこうしていられるかしら、なんて馬鹿なことを考えてしまう。彼女とこうして繋がっていられたら、フェデル様とも、なんて。
アシュリーはぷるぷると頭を振った。なんて未練がましいのだろうか。バレンティーナから奪えるだなんて思えもしないのに、彼への愛だけがしつこく胸にこみ上げてくるのだ。
「バ、バレンティーナ様……」
諦めなければ。捨てることはきっと、まだ出来ないけれど。
「遅くなりましたが、バスティン令息とのご婚約おめでとうございます。お二人、まるで誂えられたかのようにお似合いでいらっしゃいますわ」
バレンティーナが瞳を丸める。そうすると、キツい印象の吊り目が年相応に幼く見えた。が、直ぐにいつものように美しく微笑んだ。少し気恥しいのか、頬が淡く染まって見える。
「ありがとうございます。貴女にそんな風に言ってもらえるなんて、とても幸せですわ」
あぁ、本当に綺麗な人だと、そう思ったのだ。こんなにも美しく聡明な人が、彼の人の隣で笑っていることを幸福だと思えた。
その日の夜。アシュリーはアクセサリーのデザイン画を二つ、寝ずに描き上げた。その次の日には両親を通じて職人に頼み込み、特別に作ってもらった。この世に二つしかない特別なペンダントだった。
「バレンティーナ様、こちらはわたくしからの小さな贈り物ですわ。この事業の発展と貴女様の幸福をお祈り申し上げます」
「まぁ、これは……」
バレンティーナは目の前の箱に目を瞬かせた。黒いビロードの上に金と銀の鎖が絡むように二つのペンダントが収められている。
一際目を引くのはそのペンダントトップだ。青から緑、緑から青とそれぞれ美しくグラデーションを描くように小粒のエメラルドとサファイアが金・銀細工でまとめられている。
「お恥ずかしながら、わたくしがデザインしたものですの。気に入っていただけますでしょうか……?」
言いながら不安になってきたのか、アシュリーは段々俯いていく。ペアとなるアクセサリーとはいえ、間接的にフェデルへの贈り物でもあるのだ。勢いのまま作って差し上げてしまったが、不快に思われたりしないだろうか。
そんなことを思っていると、ちゃり、と意識の外で金具が鳴った。つられるように視線を上げれば、豊満な胸元に金でまとめられた緑と青が落ち着いている。
「どうでしょう、似合ってますでしょうか?」
そう言ってはにかまれた瞬間。アシュリーは史上の喜びを感じていた。きっともう一つの銀のペンダントもフェデルの元へ届くのだろう。自分のデザインしたものがかくも美しい人たちに使ってもらえる喜びといったら!
アシュリーは感極まって声も出せないまま、こくこくと激しく頷いた。
「素敵な贈り物をありがとうございます、アシュリー様。わたくし、もっと貴女とお近づきになりたいですわ」
「ッぜひ! わたくしも、バレンティーナ様ともっと仲良くなりたいですわ!」
その時のアシュリーは淑女としては酷くみっともなかっただろう、と。思い返す度に頭を抱えたくなる。だというのに、バレンティーナは変わらず美しく笑って、彼女を受け入れてくれたのだ。
その日から、アシュリーはバレンティーナのことを心から慕うようになった。初恋の人と尊敬する人が結ばれることこそが何よりの幸福なのだ、と。そう己に言い聞かせて、フェデルへの恋心を大事に大事にしまい込んだ。
この恋が、いつか思い出になる日まで。いつか、新しい恋を始められるその日まで。
歯車が狂いだしたのは、その翌年。貴族学園の入学式のことだった。――フェデル・バスティンとヘレン・グレイが運命の出会いを果たしてしまったその日に、彼女の運命は狂ってしまったのだろう。
男爵令嬢であるヘレン・グレイの第一印象は儚げな美少女だった。バレンティーナが宝石の輝きであれば、彼女は花の如く可憐だ。
グレイ家は伯爵家令嬢であるアシュリーでも聞き覚えのないほどの弱小貴族家だ。彼女はその家業を何とかしようとこの学園に入学したらしい。
数世代前に興ったばかりの男爵令嬢と名門と名高い伯爵令嬢。近くにいればいるだけその違いは浮彫になる。ヘレンはより惨めに、バレンティーナはより完璧に。
それでもヘレンは家のため家族のために、バレンティーナとフェデルの傍にいることを選んだ。その根性に関してはアシュリーも最初は評価していたのだ。
故に、家格の差を理由に彼女へ陰口を叩く令嬢をバレンティーナとともに諫めていた。伯爵令嬢であるアシュリーからしてもバレンティーナとフェデルは雲の上の人物だ。そこに近づく努力もしていないようなご令嬢方に、とやかく言われる筋合いはない。アシュリーとて努力と研鑽でもって、バレンティーナの友人の席を勝ち取ったのだから。
最初はヘレンも努力の人なのだと思っていた。自分の家のために頑張れる健気な令嬢なのだと、そう思っていた。
――ただ、それを見つめるフェデルの横顔だけが問題だった。アシュリーは彼のその横顔に見覚えがあった。そしてその視線の先にいたのは、バレンティーナでない。
その上、ヘレンは悪意にくじけてしまった。負けてしまったのだ。バレンティーナが傍にいるというのに、泣いてフェデルに縋っていた。みっともなく、弱さをさらけ出して。
それは。それだけは、駄目だった。フェデルの傍にいるのは完璧でなければならない。ヘレンでは駄目だった。少なくとも、アシュリーにとっては。
彼らは結ばれてはならなかった。そうでなければ、アシュリーが己を磨いた意味は、涙に暮れた夜は、どうなるというのだ。
アシュリーの願いも虚しく、やがてバレンティーナとフェデルの婚約は破棄された。フェデルたっての願いで円満解消ではなく破棄という形を取られたが、実際のところバレンティーナが身を引いたのだ。
――たかが、男爵令嬢のために? 美しくて聡明なあの人が?
完璧な淑女が駄目だったのに、可憐なだけの女は彼の傍にいることが許されるというのか。なら、アシュリーは?
そんなことを悶々と考えているうちに、ヘレンへの攻撃は苛烈さを増していった。バレンティーナの庇護がない今、アシュリーとて彼女を庇う理由はない。
いい気味だと思ってしまった。彼女が泣いて怯える度に胸のすくような思いだった。それと同時にそんなことを考えてしまう自分を、酷く嫌悪していた。
どうしてバレンティーナは身を引いてしまったのだろう。彼女であれば、アシュリーは祝福することが出来た。敵わないから、素敵な人だからと諦めることが出来ていたのに!
「貴女、わたくしとバスティン令息の婚約をお祝いしてくれたわよね? 貴女がくれた彼と揃いのペンダント、とっても気に入っているのよ。ヘレン嬢に悪いから人前ではもう付けられないのだけれど……」
バレンティーナはヘレンのためにと、アシュリーが送ったプレゼントすら身に着けることをしなくなった。あの目と髪の色に何よりも映えるようにデザインして、一つ一つ宝石を選んだのに。彼女の胸元で揺れているそれが、いっとう美しかったのに。
「あぁ、そうだわ。貴女、よかったらヘレン嬢のこと、気にかけてくれないかしら? わたくしは少し、二人といるのは辛くて……きっと貴女なら彼女のことも祝福してくれるでしょう?」
あぁ、あぁ! 私は貴女だったから、祝福したのに! 彼の隣に立っていたのが完璧な貴女だったからこそ、この恋を諦めることが出来ていたのに!
祝福など出来るわけがなかった。なのに!
「君、前にバレンティーナ嬢と一緒にヘレンのことを助けてくれていたよね。申し訳ないけれど、彼女のことを見ていてあげてくれないか? 出来れば私が護ってあげられたらよいのだけれど」
アシュリーにとどめを刺したのは、よりにもよってフェデルその人だった。彼はアシュリーの愛に気づきもしなかった。
その瞬間に、宝石箱が音を立てて砕け散った。大事に抱えていた恋心がするりと零れ、地面に落ちて散らばった。その中に閉じ込められていた炎が、酸素を得て一息に燃え広がったのだ。
アシュリーが握っていたのは、きっとその破片だった。
「貴女がッ、貴女さえいなければ……ッ!!」
「キャアァアアアアアッ!」
気が付いた時にはヘレンの顔にそれを振り下ろしていた。花のかんばせが枯れてしまえばいい。そうすれば、きっと、きっと。
そんな妄想は、けれど彼女に必死で駆け寄るフェデルによって砕かれてしまった。
ヘレンの顔に傷は残ったが、フェデルは彼女を愛し抜いた。これこそが、『真実の愛』なのだと。そう誰かが言うのを耳にしながら、アシュリーは表舞台から姿を消すこととなる。
アシュリーの家族は何も知らず、ただただ驚いていた。何か理由があったのだろうと必死に寄り添おうとした。
幸いなことにこの悲劇は真実の愛ばかりが目立ってアシュリーを責めるものはそう多くはなかったのだ。ヘレンがバレンティーナへの裏切りの報いだとして受け入れたことも大きかった。あぁ、何と寛大で可憐な乙女だろうか。
とはいえ、ハーツ家はグレイ家に多額の賠償金を支払うこととなった。乙女の顔に一生残る傷をつけたのだ。ヘレンの口添えで投獄こそされなかったが、アシュリーが社交界に戻るのは絶望的だった。
アシュリー自身、もう社交界へと返り咲くことを望んではいない。ましてや生きる気力すら失っていた。
日がな一日ベッドにこもって虚空を見つめる日々。黄金のきらめきを纏っていた髪は傷んでパサつき、日に日に生気が失われていく。
そんな日々の中。ある日、アクアマリンの瞳に炎が映った。
「愛、ねぇ……まるで呪いのようだわ」
彼女もまた愛を失った人だった。だというのに、何も変わらず凛と美しいままだった。
「ねぇ、そう思わない? アシュリー伯爵令嬢」
ベッドの空いたスペースに腰かけたバレンティーナは、同じくベッドに座ったアシュリーのこけた頬に手を伸ばした。触れた肌の冷たさに、痛々しそうに目を細めている。その手の上に、とろりと涙が伝う。
「わたくしたち、恋をしただけよね。同じ人を愛しただけだわ」
こくりとアシュリーが頷く。それを手のひらで感じながら、バレンティーナは言葉を続けた。
「ごめんなさいね。わたくし、貴女がそんなに思いつめていたなんてちっとも気づかなかった。きっとわたくしが貴女を追い詰めてしまったのね」
責任を感じているのだと、柳の眉がひそめられた。
「ちが、ちがい、ます……わたくし、わたくしが……」
しゃくりあげながらも必死に否定する。自分がこの美しい人に疵をつけるなど到底我慢できないことだった。
バレンティーナはこてりと小首を傾げ、優しい目でアシュリーを見つめる。胸の中の澱が溢れ出して止まらなかった。
「わたくし……ッフェデル様が、好きで……どうしようも、ないくらい、好きで……!」
「愛していたのね、ずっと。それなのに、わたくしのことを祝福してくれた……」
バレンティーナの胸元ではいつかのペンダントがきらめいている。白魚のような指先が、それを大事に扱う様子にまた涙が喉を塞ぐ。
「バレンティーナ様の、ことも……お慕いして、います。本ッ、ひゅ、本当に、貴女とフェデル様、が幸せに、なって、くれれば、って……」
「ありがとう。わたくしも貴女に祝われて、とっても幸せだったのよ」
シーツをぎゅうっと握り締める手に、バレンティーナのそれが重なる。びくりと震えて顔を見上げれば、彼女はどこか不安げな表情をしていた。
「簡単に身を引いたわたくしに、失望したかしら?」
雷に撃たれたような心地だった。言葉を紡げないアシュリーに、目を伏せたバレンティーナが続ける。
「うらやましかったのよ、『真実の愛』で結ばれた二人のことも。『真実の愛』を貫いた貴女のことも」
アシュリーは一際大きくしゃくりあげた。あんな、重くてどろどろと醜いそれを、バレンティーナは何と呼んだのか。
あれが『真実の愛』だと。そう、言ったのだ。この美しく聡明な人が、そう認めてくれた!
「わたくしわからないの、『真実の愛』がどんなものなのか。きっととても美しくて尊いものなのだと思うけれど」
――ねぇ、貴女がわたくしに教えてくれない?
その言葉は天啓のように、アシュリーの脳を貫いた。
次の日。アシュリーの世話係であるメイドは扉を開けるなり悲鳴を上げた。
「お、お嬢様! どうなさったのです、その髪は!?」
腰を抜かしそうなほどに大声を張り上げたメイドの視線の先には、キラキラと長い髪が散らばっている。その持ち主であった彼女の金髪は、肩につくかつかないかというほどに短くなっていた。
「仕事を増やしてごめんなさいね。後ろの方、整えてくれるかしら?」
陸に打ち上げられた魚のように口をぱくぱくとさせていたメイドを余所に、アシュリーはハサミとは反対の手に握っていた髪の束をぱさりと床に落とした。何の未練もないのだと、凪いだアクアマリンが語っている。
メイドは慌てて主人を呼びに走っていった。呼ばれた当主夫妻もアシュリーを一目見て絶句していた。当の本人はどこかすっきりした様子ですらあったのだが。
アシュリーの髪は当主が急いで呼んだ美容師によって迅速に整えられた。ふわふわとボリュームのある髪は重さが無くなったせいか、ぱやぱやと自由に跳ねている。
「アシュリー、急にどうしたんだ? 大丈夫なのか?」
明日でも首をくくるのではないかと戦々恐々としていた当主は本当に心配そうにアシュリーに尋ねる。母親も不安げに彼女の肩を抱いていた。
「平気よ、お父様……ごめんなさい、沢山迷惑をかけてしまったわ」
「迷惑だなんて……」
母はそう言いながらアシュリーの髪を撫でた。少し傷んではいるものの、やはりふわふわと柔らかい。
「わたくし、この家を出ようと思うの」
肩を抱く腕に反射のように力がこもるのを感じ、アシュリーは苦く笑う。
「バレンティーナ様から事業に誘っていただいたの。わたくしはもう、表舞台には立てないけれど、それでもあの方はわたくしを必要としてくださったのよ」
アシュリーは母親の手に自分の手を重ねる。自暴自棄になったわけではないのだと、微笑んだ。
「家門に泥を塗ってしまったけれど、わたくし、まだ……っ、ハーツ家の娘、で、いていいかしら?」
言い終わるよりも早く、当主夫妻はアシュリーのことをただただ抱き締めた。蝶よ花よと育てた可愛い大事な娘なのだと、何があっても愛しているのだと、全身で伝えるように。
それから数日後。アシュリーはバレンティーナがフェデルから譲り受けた領地へと足を踏み入れていた。大きな屋敷の応接室に案内され、そわそわと待っていると、扉が開く。
「まぁ……!」
バレンティーナは扉を開けた途端、口元に手をあてて暫し固まった。アシュリーは恥ずかしそうに短くなった髪を弄っている。
「髪を切ったのね、ふわふわでかわいらしいわ……まるで小鳥のよう」
黄色い綿毛のような鳥を連想したのだろう。バレンティーナは楽しそうに笑っている。
「きっと未練だったのだと思うの。わたくしにはもう、いらないわ」
「そう……今の貴女も、とっても素敵だわ」
バレンティーナはヒールを鳴らしてアシュリーに近づいた。するりと頬を重ねる。甘い匂いがアシュリーへと移った。
ふとバレンティーナの手がアシュリーの首筋へと回る。ちゃり、と小さな鎖の音がした。
「これは……」
揺れる青と緑のグラデーション。それは、バレンティーナの胸元のそれと揃いの銀のペンダントだ。
「フェデル様に我が儘を言って、返してもらったの。これだけはヘレン嬢にも渡したくなくて……貴女が付けていてくれないかしら?」
胸の奥から溢れるように湧き出してくるのは、間違いなく喜びだった。アシュリーは震える手でペンダントトップを握り、何度も頷いた。
「これからよろしくね、わたくしの小鳥。貴女の愛も才能も、わたくしのものだわ」
「えぇ、バレンティーナ様。わたくしのすべてを貴女に捧げるわ」
かくしてアシュリー・ハーツはバレンティーナの最初の小鳥となった。その名が凄腕のデザイナーとして全国に轟くのは、僅かに二年後。バレンティーナが学園を卒業してすぐのことである。
お姉様の小鳥第一号。