初戦
住処を手に入れた翌朝、シュウは窓から差し込む柔らかい日光と小鳥の囀りを受けて優しい目覚めを迎えた。落ち着いた夜を過ごしたことで、これまで曖昧だった暗殺業から離れたことへの実感がようやく確かになってきた。その実感はすぐに、安心感と罪悪感に、ため息に変わった。
「まあ、逃げる気はないよ。」
自分自身に呼びかけるような独白は、小さくも確かだった。ふと、下の階から音がした。また癖で魔力探知をしたが、普通にザックが料理か何かをしているだけなようだ。シュウは簡単に身支度を済ませ、階段を降りる。降り切る前に振り向いて、直ぐに前を向いて今度は軽快に駆け下りた。
「おはよう。」
その一言は、シュウからだった。
「おはよう。」
ザックは静かに返し、新聞らしきものを眺めた。それは新聞かと聞くと、ザックは頷いた。
「だいたい300年前の、トゥテルの新聞だ。お前歴史とか興味あるか?」
「あんまりない。それより、ここは仕事はどうしてるんだ?」
「仕事は特にないな。トリアは結界の維持をしてるし、ノットは魔物狩りをしてるけど、あら趣味だ。お前は何したい?」
シュウはそう言われ、戸惑った。シュウは、やりたいことなど考えたこともなかったからだ。スラム街で孤独に暮らしていた日々に楽しみはなく、貴族に拾われ暗殺者として育てられ始めてからは、もはや指示を聞く以外の行動など何一つなかった。
「まあ、そういう仕事してると鈍るよな。そう言う俺もこれと言った趣味は実はないんだが。」
ザックがうつむきながらそう言うと、2人の間にはしばしの沈黙が淀んだ。
「だからこそ、俺はずっといろんなことやってんだ。いつのまにか、"趣味探し"が趣味になるくらいにな。」
「そうか。」
呟くシュウの目は、ただ純粋に寂しげだった。そしてその脳内に、ノイズが走った。それは泣き声、小さな子供の泣く声だった。記憶とも言えない曖昧なそれを、シュウは何とか形にしようとした。その時、玄関の扉がぶっ飛んだ。踏み込まれた足は、力強い炎の輝きを纏っていた。
「シュウ!!この間は残念だったが、今日はどうだ?」
威勢のいい、高く力強い声はホムラのものだった。シュウは呆気にとられ立ち竦み、ザックは見るからにいやそうな顔をした。シュウが何か声を出す前に、ザックがそれを遮った。
「待て。」
シュウは反射的に動きを止めたが、ホムラは違った。シュウに跳びかかり、首根っこを掴んで家の外に投げ飛ばした。その勢いは、触れてもいない扉シュウはこの時、彼の人生で最も情けない叫び声をあげた。一方、取り残されたザックは心底面倒くさそうに歩いてホムラに歩み寄った。
「待て、って、お前に言ったんだ。」
そう一言言うと、今度はシュウがぶっ飛ばされた方に目を向けた。シュウは道を挟んで反対側の藪に突っ込んだらしく、姿が見えなかった。
「シュウ、大丈夫か。死んじゃないだろうな。」
「手加減はしたぞ。私だっていきなり襲い掛かって殺したりしない。」
「わかってるよ。おいシュウ!!」
返答のないシュウを心配したザックが一層声を張り上げる。
「あ、ああ。大丈夫だ。受け身くらいはできる。」
その言葉を聞いたザックはひとまず胸をなでおろし、改めてホムラを睨んだ。
「ホムラ、お前流石にいい加減にしろよ。俺の家壊すだけなら許せるが、シュウはまだ慣れてない。抑えろ。」
すぐにホムラがむっとしたのは言うまでもないが、意外なのはシュウの反応だった。
「いや、ザック。俺一回やってみるよ。」
ザックは細い目を僅かに見開き、そして小さく頬を緩めてシュウに背を向けた。
「じゃあ、頑張れよ。後悔すると思うが。」
ザックはゆったりと村の中心の方へと歩いて行った。その後ろ姿を見送り、シュウはホムラへ視線を向ける。真っ向勝負は、これまでのシュウにとって避けるべきものだった。最低限の訓練は積んでいるが、目的は勝利ではなくより安全な敗走。この場における思考の仕方を、シュウは知らなかった。しかしホムラの堂々とした出で立ちは、表情は、目は、一切の恐れも不安も宿してはいなかった。シュウは思わず憧れた。すると、勝ち目は無いとわかっていながらも、その胸に仄かな闘志が宿った。
はっ、と、息を吐き、地に這うような低姿勢と共に足裏の魔力を圧縮。自身の最速を発揮する。戦い方は知らない。だから、自分の知る唯一の勝利を、殺意を込めて、懐へと飛び込んだ。魔力の刃がその喉へ触れる寸前、見えたのはホムラの屈託ない笑顔だった。次の瞬間、シュウは鈍い痛みと共に地面へと叩き伏せられた。戦いというにはあまりに刹那的だったが、覗き込むホムラの顔はどうにも満足げだった。
「いいじゃん。センスあるよシュウ。それに、ちょっと楽しかっただろ?」
シュウはそれを否定しなかった。戦いはそんなことなど感じる前に終わってしまったから、実際の楽しめていたのかはわからない。しかし否定する気にもならなかった。曖昧な思考の中で、かつてない感情が体の芯を震わせる感覚は確かに存在していた。
「ほら。立てよ。次だ。」
ホムラはそう言って、手を差し伸べた。シュウは迷いなく手を取った。
「次?」
それから、同じような戦闘が日の暮れるまで続いた。ザックの放った「後悔する」の一言が、シュウの脳内でこだましていた。