セルマ
アンジェリーン・トルドーの使用人が数百キロ向こうの名も知らぬ家に派遣されることと相成ったのには、様々な事情が複雑に絡み合ってはいたが、その糸をよく見てみると、結局のところアンジェリーン・トルドーその人の気まぐれと芸術的欲求に帰結していた。アンジェリーン・トルドーは貿易商ダグラス・トルドーの末娘で、彼の愛玩子だった。ダグラスはアンジェリーンにすべてを与えた。はじまりは小さな無人島だった。次は外国から画家を呼んで、アンジェリーンの絵を描かせた。アンジェリーンに国立芸術館の演劇を見せ、それが終わると、今度は別の演劇をノンストップで演じさせた。アンジェリーンが家と言えば家が与えられ、アンジェリーンが使用人と言えば新しい使用人が雇用された。アンジェリーンはそのような環境で、純粋に、そして残酷な子供へ育っていった。
アンジェリーンはある日、一人の使用人を自分の部屋へ呼びつけた。
それはアンジェリーンと同じぐらいの年の少女だった。
アンジェリーンは使用人の名を呼んだ。
「セルマ。あなたは南にいる親戚のことを知っていて?」
「ボジャート様のことでしょうか。それとも、数代前に絶縁状態になっている、アトレ様のことでしょうか。名前であれば、聞いたことはありますが、知っているかとなると、私ではお答えしかねます」
「それでいいわ。うちのつまらない商売相手と競争相手のことですもの。私が言っているのは、そのどちらでもなく、国境を挟んで向こう側にいる、マルシャル家のことよ」
セルマは少しばかり考えるそぶりをした。
「いいえ、そのような名前は聞いたことがありません」
アンジェリーンはセルマに向かって頷いた。
「もちろんそうでしょうとも。それでいいのよセルマ。マルシャル家というのは、一応、私の親戚筋なの。調べてみたら、大叔母様のはとこにあたるみたい。ええ、虫のわいた水たまりと、うちのワイン蔵に所蔵されたボルドーぐらいの関係性しかないけれど、確かに。それで、どうやら向こうで運輸業を営んでいたようだけれど、ひどい詐欺にあって、商売が傾いているようで、持っている資産を次々売却して、どうにかもたせているみたい」
アンジェリーンは続ける。
「でもあまりうまくいかないようでね、とうとう“売ってもいい”資産だけでなく“売りたくない”資産も売ることにしたらしいわ。今は相手を見つけるために東奔西走しているらしいわ」
「その資産を、買いにでかければよろしいのですか?」
「拙速よセルマ。そうではないわ。彼はもうすぐ終わりよ。資産を売却すれば今はしのげるかもしれないけれど、事業をまともに操業できないのであれば、ギロチンで落ちた首がほんの少し呼吸しているのと変わりないわ。だから今のうちに、ふところをまさぐってやろうというわけ。どうやらマルシャルはたくさんの美術品を所蔵しているようなのだけど、どうせ死に体なら、もらってあげるのが芸術のためというものでしょう? あなたにはそれを手伝ってもらいたいの」
「では彼の屋敷へ出向いて、美術品を買いにゆけばよいのですか?」
「ただ買いに行くのではだめよ。本当にいいものを、少しだけ買うの。くずはいらないわ、セルマ。あなたはマルシャルの美術品をすべて見なさい。そのうえで、買うか、買えないのであれば、盗むのでもいい。とにかく持ってきて頂戴」
「はい。お嬢さま」
「いいわセルマ。あなたのいいところは、好奇心の出しどころを心得ているところね、でもサプライズは必要ないでしょうから、あなたに教えておいてあげる。あの家には一人娘がいるの。明日が誕生日よ。そしてここに私が書いた手紙がある。娘の誕生日ならきっと気がおおらかになっているでしょう。マルシャルと会うときはこれを渡しなさい。贈りものもちゃんと用意してあるけど、それは後から届けさせるから。あなたが持つには少し重いからね。じゃ、お願いよ」
▽
セルマはアンジェリーンと話をしてからすぐ身支度を整え、屋敷を発った。日付が変わるころ、国境を越え、朝にはマルシャルの屋敷がある地域へ到着していた。警官へマルシャル家の屋敷がどこにあるか尋ねると、警官は地図まで書いて懇切丁寧に場所を教えてくれた。そのためセルマはすぐに屋敷へつくことができた。
▽
セルマは屋敷を見上げた。マルシャルの屋敷は街の中心から少しずれたところにあり、いたって普通の家屋二つに挟まれて建っていた。その二つが等身大の家だとすると、マルシャルの屋敷は、ミニチュアのカントリーハウスだった。灰色の路面とすすで汚れたまわりの建物と比べ、屋敷は明らかに浮いていた。
セルマは屋敷の前の階段の手すりを指先で撫でた。そのまま体重を支えるでもなく手でてすりを包んだまま、セルマは階段を昇った。
セルマは呼び鈴を押し、手摺りの最後がスカートの中の尻へ当たるほどに下がった。ほとんどの時間を待たず、みずぼらしい恰好の老女が現れた。老女はセルマの姿を見て取ると、あからさまに不審なものを見る目つきになり、セルマの服装や持ち物を上から下までチェックした。セルマはそれまで微動だにしなかった。セルマはこちらから話しかけようなどということはしなかった。セルマのほうがずっと立場が上だったからだ。
老女はセルマが金のあるところから来ていることを見て取り、しかしその金が自分やこの家に恩恵をもたらしそうもないと判断した。老女は渋々ながらセルマに身元を尋ねた。
「どちら様でしょうか」
「私はアンジェリーン・トルドー様の使いでこちらへ参りました。きくところによると、この家にはアンジェリーン様と同年代のご息女がおられるとか。そして、今日が誕生日であるとか。アンジェリーン様は遠縁とはいえ親戚の、それも同年代で同性の方が誕生日に誕生会を開くこともしないと聞いて、大変嘆かれておりました。あいにくながら日について知り得たのが数日前だったのでこちらで催しを開くことは叶いませんが、アンジェリーン様は是非お祝いの言葉を伝えて欲しいと。それでこちらへ参ったのです」
老女はセルマの言葉を聞いてもなお、セルマに疑いの目を向けていた。
セルマはこう付け加えた。
「トルドー家とこちらの一家とは、確かに。これまで交流はほとんどありませんでした。しかしそれは家の話。人がいつも政治の話をする必要があるというわけではありません。アンジェリーン様は政治や、こちらでしている商売に干渉したいがために私を送ったわけではないのです。アンジェリーン様はただ、同年代の話し相手が欲しいだけなのでしょう。しかし彼女にも立場というものはありますから、直接ここへ赴くのは難しいのです。それにアンジェリーン様は、とても慎重な方ですから、突然手紙を送るよりも、まずこの誕生日という記念日に贈り物をすることで、親交を深めたいと思っておいでです」
セルマは二度瞬きした。
老女はセルマの足元を差し、疑問を口にした。
「それにしては、随分軽装のように見えますが。あなたの持っているそれは、ただの旅行カバンではなくて?」
セルマの足元にはチェック柄の小ぶりの旅行カバンがあった。
セルマは落ち着いて言った。
「もちろんです。このカバンの中には私の私物と、アンジェリーン様から預かっているものしかありません。見ての通り馬車は返してしまいましたから、これ以上、荷物が増えるということもありません。実のところ、贈りものを私は持っていないのです」
「まあ!」
老女は芝居がかった驚きを見せた。
「贈りものもなしに来たというのですか?」
「当然、そんなことはしません」セルマは伝えた。「明朝、別のものがここへ贈りものを届けに来る手筈になっています。大きく、重いものです。私はそれがきちんと届けられるか確認することが役目です」
セルマがそこまで言っても、それでも老女はセルマを疑っていた。いや、それは疑いというよりも単に忌避だった。
たとえここに現れたのが自分の娘であったとしても、この家の敷居をまたぐことを許したくはないのだ。老女は、セルマが身元を明かし、事情を明かした時点で、用心深い使用人のステイタスを捨て、自らのみの意志を伝えるにいたったのである。
屋敷の上のほうから声がきこえてきた。
「マルセリン、いったい誰と話している?」
「はい! 歴史あるマルシャル家のご当主、ダーゲリン・マルシャル様! 私はトルドー家から来ました!」
セルマは老女のすきをつき、上階から話しかけるダーゲリン・マルシャルへ、品を失しない程度の声量で叫んだ。
「トルドー? トルドーと言ったか?」
老女の首の動きでダーゲリンが上から下へ降りてきているのがわかった。老女はセルマのほうへ半分体を向けたまま、首で振り返ってダーゲリンと会話した。
「はい。旦那様。この女はそう主張しています。なんでもトルドー家のお嬢さまがスヌークお嬢さまに贈りものを用意しているとか。誕生日の」
「それは素晴らしい! それならなぜおまえはすぐ彼女に歓待の用意に取り掛からないのだ。私たちの偉大な親戚に向けて、マルシャルは礼儀しらずだと知らしめるつもりなのか」
ダーゲリンが老女の後ろに現れる。ダーゲリンは小柄な男で、眼がぎょろぎょろと大きかった。口元にも顎にも長いひげがはえており、髪も伸びるがままになっていた。
老女はすがるようなめつきでダーゲリンを見上げる。
「しかし旦那様、この女は贈りものを持っていません。本当にトルドー家から来たかどうか定かでもないのです」
老女に慎みがなければ、彼女はセルマを指さし、口の端から泡を飛ばしていただろう。しかしそうはしなかった。慎みが邪魔をした。セルマは何食わぬ顔で老女の皺の寄った眉間の辺りを見ながら、こう言った。
「私にトルドー家から来たかどうか証明をお求めですか? でしたら、これを」
セルマは膝をついて旅行カバンを開き、便箋を取り出した。
「正式な書簡などを送付する際につかう封筒です。内側に透かしが入っていて、偽造は難しく、未使用品は家族と一部の人間にしか手に入れられません。中身はアンジェリーン様がご息女にあててお書きになられたお祝いの言葉です」
「私の娘に? トルドーのご令嬢から手紙を頂けるとは……」
ダーゲリンは便箋を受け取った。手紙を開いて何行か読むと、文章の下に書かれたアンジェリーン・トルドーのサインを裏側から指の腹で軽く撫で、便箋のほうへ視線を落とし、透かしを確認した。
この間に、セルマは贈りものが明日届くこと、この屋敷に一泊させて欲しいことなどを伝えた。
「もちろん、そういう事情であれば、客室を解放しましょう。あまり広くありませんが、清潔な部屋だ。それから……ぶしつけな質問をするようだが……私宛の手紙などもあるのだろうか」
「はい?」
セルマは訊き返した。そしてこう続けた。
「心配ございません。アンジェリーン様をはじめトルドー家は暫くマルシャル家と交遊関係にありませんでしたが、あなたがたがどれだけ一族や、国の発展に寄与してきたか忘れたわけではありません。マルシャル家が長く献身の心を忘れていなかったように、もしあなたがたが不条理な苦難にあわれているのであれば、トルドー家には支援の用意がございます。しかし、今日はご息女であらせられる、スヌーク様の誕生日。であれば、主役である彼女をさしおいて、どうして仕事の話などできましょうか。そのような話であれば、いつでもできます」
その言葉を聞いて、ダーゲリンは上機嫌になった。
「マルセリン。どうやら幸運が我が家にやってきたようだ。ほら、早く彼女を入れてやってくれ。それから、客間のシーツを変えて」
「しかし、旦那様……」
「早くするんだ」
「……はい。ただいま」
苛立った様子の主人を見たマルセリンは渋々玄関から退き、セルマが通れるだけの隙間を開けた。
セルマは老女と扉のへりの間を通った。
老女は左奥の廊下へ姿を消した。
ダーゲリンは険しい目つきで老女を見送ると、はあっとため息をついた。
「使用人が失礼をはたらいたようだ。申し訳ない。あれもこの家に使えて長い。相応の思い入れがあるんだ。その間に苦難や不条理や騙される姿をよく見てきた。近頃は立場を弁えない客もよく来る。まったく、金があれば品格も買えると思い込むとは……。必要以上に慎重になっていたのだろう。こちらからよく言い聞かせておくので、どうかあなたにも赦してやって欲しい」
セルマは首肯した。
マルシャルの家は玄関と大広間が直結していた。左右に他の棟へと続く廊下があり、正面に大きな階段があり、昇った目の前のひときわ目立つ場所に肖像画が飾ってあった。
それだけではない。セルマがアンジェリーンにきいていた通り、ダーゲリンは手放したくない美術品を所持したままにしているらしく、壁には等間隔でケリー、ニューマンやリーバーマンといった著名な画家の絵が飾ってある。階段と壁の隙間にある、使用人のための通路には、花瓶の代わりにミューラーの彫像が置いてあった。
セルマはその一つ一つを価値を計るように観察し、検分するように首を動かした。すうと息を吸うと、木とカーペットの匂いの間に、ほのかに絵の具の匂いも混じっていた。
「そういえば、あなたの名前をまだうかがっていなかった。なんというか教えていただけるだろうか」
セルマはダーゲリンを見上げ、名乗った。
「セルマです」
「セルマ? ラストネームは?」
「ヤンガー。ですが、セルマとお呼びください。呼ばれ慣れていないので、返事が出来ないこともあるかもしれません」
セルマの言葉を聞いて、ダーゲリンは訝しげな顔を見せたが、それいじょう食い下がることはしなかった。
「では、セルマ。申し訳ないが、ここで少しマルセリンを待っていて欲しい。長旅で疲れているだろう。少し休むといい。夕食の時間には呼ばせに向かわせる」
ダーゲリンは階段を昇って左へ曲がり、廊下の奥へ消えた。
一人残されたセルマは、階段を昇って飾ってあった絵をまじまじと見た。その絵は、遠目では肖像画に見えたが、近づくと肖像画とは思えない書き方が為されていた。服装は黒いオーソドックスな礼服で、男性であるということはわかったが、眼が異様に落ちくぼんでいて、耳がいやに下の方にあった。顎がつんとつきだしていて、唇がそれについてこれていなかった。
セルマは振り返って壁にかけられた絵を見た。奇妙なことに、壁に飾られていた絵はすべて、写実的なタッチで描かれていた。この絵も線ははっきりとしているが、ダーゲリンの趣味とあっているかと言えば疑問が残った。
「なにをしているんです」
もっとよく見ようと鼻先を近づけたセルマへ背後から老女の声がかかった。
「失礼しました。素晴らしい絵ですね。なんという画家の作品です?」
「それは作品などではありません」
老女は言い、階段下に放置されていたセルマの旅行カバンを持ち上げた。
「客間はこちらです」
老女とセルマは階段をダーゲリンの消えたほうとは逆の方向に曲がり、廊下を通って客間のある棟へ入った。
▽
廊下を抜けた途端、埃っぽさが鼻についた。窓は一応、磨かれているようだが、隅に丸くなった蜘蛛の巣のかたまりが落ちていた。見える場所は遠くなるにつれて、白い靄がかかっているようになっており、カーペットの色がくすんで見えた。
「ここは西棟です。最近はほとんど使っていません。昔ほど泊っていくような客も催しも執り行われていなかったので……この真下は使用人の部屋があるのですが、お察しの通り、わたし以外誰も使っていません」
老女は奥から二番目の部屋にセルマを案内した。
ダーゲリンの言った通り、清潔な部屋だった。小ぶりの、しかしセルマぐらいの女性が寝るには十分なベッドと、ニスがよく塗りこまれた机と椅子があった。ベッドの足元に細長いポールハンガーがあり、頂点に飾り付きの帽子が引っかかっていた。ドアの裏側にもう一つ、テーブルが置かれており、花瓶とマッチ箱が置いてあり、すぐ上にランタンと時計が引っかかっていた。手狭な部屋だったが、埃っぽさはなく、窓も透き通っていた。
「なにかご質問はございますでしょうか」
老女はそう尋ねた。
セルマはどうしてこの一室だけがこんなにも清潔でいるのか質問しようかと考えたが、それを実行には移さなかった。ありません、お気遣いをありがとう。そう言うと老女はセルマをはじめにみたときのように表情を歪め、では、夕食の時間に呼びにまいります、それまでどうぞ、おくつろぎください。と言った。本当はいますぐ叩きだしたいという意志が露悪的なまでに単純に現れていた。
老女はポールハンガーの頂点に載せてあった帽子を取って部屋の外に出た。
セルマは荷物をベッド脇に蹴って移動させ、コートを脱いでポールハンガーに引っかけた。そして伸びをして列車と馬車のせいで凝った体をほぐす。
一先ず屋敷についた。しかし、贈りものが届くまでに用を済ませないといけない。折を見てダーゲリンに美術品売買について訊く必要があるだろう。売却済みでない資産の中から、場合によっては売却済みのものからも、アンジェリーンの好みに合う美術品を選んで持ち帰らなければ。
セルマは旅行カバンを開き、中から布でくるまれた紙を出してぺらぺらと捲った。今、アンジェリーンの資産はセルマ次第となっている。セルマがここに金額を書いて切れば、それだけの金が手に入るのである。アンジェリーンが父親からもらっている“お小遣い”は、この国の成人男性の年収の何十年分だ。軍資金には困らない。
セルマは小切手を布にくるみ、旅行カバンへ入れ直し、カバンはベッドの下へ滑り込ませた。
夕食ができるにはまだ早い時間だから、屋敷を少しうろついてみよう。
自分はこの屋敷のなかで待遇よくしてもらっている。少し出歩いてどこかに入ってもそれほど咎められはしない。
セルマはそう決めて、ベッドに座った。すぐ立ち上がるつもりだったが、予想外に疲れていたのか、眼がうとうととして、足腰に力が入らなくなった。
「少しだけ、休みましょうか……」
アンジェリーンに向けて弁明するように零し、半分閉じた目で時計を捉え、ほんの少しだけ、一時間もないくらい、とつぶやいた。
▽
セルマが目を閉じて数分したとき、セルマの部屋がノックされた。外から咳が聞こえた。二度咳き込み、一拍置いてからまた二度、咳き込んだ。咳は止まる様子がなかった。
ごほ
ごほ
ごほ
ごほ
ようやくそれが収まったとき、セルマは半覚醒の状態にあった。
「もしもし、入ってもよろしいでしょうか」
ごほ
ダーゲリンでないのはもちろん、老女の声とも違っている。
ダーゲリンの娘だ。
スヌーク。
セルマは薄目を開け、ドアの方へ視線を投げた。視界はゆらゆらと揺れ、ときおりブラックアウトした。スヌークが恐る恐るドアをあけ、その後ろから顔を出した。セルマにはスヌークの真っ白な髪だけが見えた。
「もし、もし」
スヌークはベッドに横たわるセルマに声をかけた。
「起きていますか? 眠っていますか?」
スヌークはセルマの肩に手を伸ばし、体を揺らした。
「できれば、今話をしたいのです。父に言われました。あなたが私の誕生日を祝いに来ていると。夕食を一緒に取ると。贈りものも届く予定だと。でもそれは嘘でしょう。あなたは私のことを知りもしなかったはず。けれど、ここへ来た理由などは問題ないのです。私はあなたに頼みごとをしたくてここに来ました。父か、マルセリンに見つかったら私は部屋に連れ戻されてしまいます。お願いです。話を訊いてください。マルセリンもあなたが私を祝いに来たのではないと思っています。あなたを訝っている。もしかすると、すぐここへ来るかもしれないのです」
セルマは眼を開いた。身体はそのまま、天井を見上げ、視界の端にスヌークの頭を捉えた。
「お願いします」
スヌークがセルマの顔を覗き込んだ。
スヌークの白い髪と同じぐらい真っ白な肌が迫ってきた。
「申し訳ありませんが」
セルマが大きく息を吐いた。
「旅行カバンから薬瓶を出してもらえますでしょうか。ベッドの下にあります」
「旅行カバン! 旅行カバンですか? 薬瓶を出したら、話を聞いていただけますか?」
「……もちろん、話を聞くために必要なのです」
スヌークは顔をパッと輝かせ、ベッドの下から旅行カバンを引きずり出した。セルマは布地の裏にあります、その他には触らないでください、と言った。スヌークはカバンの布地の裏から小さな薬瓶を取り出した。スヌークはこれですか、と問い、セルマは瓶はそれ以外に入っていないはずです、と返した。スヌークは瓶をベッドからはみ出たセルマの手に持たせた。セルマはのっそりと起き上がり、瓶を開け、小指の先に液を垂らした。粘り気のない水のような薬だった。セルマは目の周りと鼻の下にその薬を塗り、身震いを起こすと、瓶の蓋を閉めて旅行カバンにしまった。
「失礼しました。もう問題ありません。それでは話を聞きましょう」
▽
スヌークは先ず、自分の名前を名乗った。
スヌーク・マルシャル。
ダーゲリンの一人娘で、今年十六になる。
「頼みというのは、他でもありません。私をこの家から連れ出して欲しいのです」
スヌークが続ける。
「……私はこの年になるまで、一度も外へ出たことがありません。お察しの通り、体が弱いこともありますが、父やマルセリンが許さなかったというのが一番大きい理由です。でも私は、数週間前まで、この生活に嫌気が差すなどということはありませんでした。
……といいますのも、父は実に巧妙だったのです。私の体の弱さに加え、外がいかに恐ろしい場所か伝え、私が退屈しないよう、大量の美術品を買い集め、書籍を取り寄せました。ええ、はい。教育はマルセリンと父の両方から施されました。
父のこの企ては、実にうまく行っていました。最近、恐らく、一年ほど前まではなんの問題もなかったでしょう。父は私をこの家に閉じ込め、父はこの箱庭を維持することが出来ていたのです。しかし一年前、なにかがあったのです。恐らく、商売に関してなにか悪いことがあったのでしょうか。
もう気づいていると思うのですが、この家には使用人がいません。…‥マルセリンの一人だけです。一年前から、使用人が次々とやめるようになりました。そして、私のために買い集めていた美術品が次々と消えて行きました。壁一面にかけられていた絵が、段々歯抜けになっていくのを、私はただ見ているしかなかった……。
そしてある日、マルセリンから奇妙なことを言われました。というのは、マルセリンは私に、その時が来たら、動いてはいけないというのです。その時というのはいつのことかと聞いても、それは今重要じゃないとはぐらかされ、ただ動かず、騒がずいれば、思うよりもずっと早く終わるものだと言いました。私にその意味はわからなかったのですが、少し前に父が私の部屋に参りました。夜ももう深くなっていたときのことです。私はその日、恐ろしい本を読んでいたので、眠りが浅くなっておりました。そこへ、誰かがノックもせず部屋へ入ってくるので、私の身体は緊張で固くなり、呼吸が乱れてしまいました。それでも懸命に瞼を閉じていたのですが、その誰かが私の腕に触れました。不思議なもので、それが誰か確認していなくとも、身近な相手であれば、触れ方で誰なのかわかることがあるのです。私に触れた瞬間、触れたのは確かに父でした。私は部屋に入ってきているのが父だと知り、安心し、眼をあけて父に話しかけようとしました。しかし、その考えは父が私の腕を擦るように撫でた瞬間、逆転し、背筋が凍り付く怖気を呼び起こしました。私にもよくわかりません。よくわかりませんが、私の腕に触れたのは父でしたが、私の腕を擦ったのは、父ではありませんでした。私は父に触られるがままでいて、父はひとしきり私の腕を撫でたあと、私の頬にキスをしてでていきました。いつもされているはずなのに、そのとき、飛び上がって叫びそうになりました。翌朝、父に会ったとき、もうその感覚は、ずっと後ろにあって、父は父でいてくれていたのですが、どうしても腕に残ったなにか――汚らわしいなにかを私は感じずにはいられませんでした。私は父に事情を訊くこともできたのかもしれません。父に事情を訊き、そして、納得と安心を得られたのかもしれません。しかし私には、その時から、今に至る私には、それが信じられませんでした。私はマルセリンに事と次第を話し、どうしたらいいか尋ねました。私はまだそのとき、マルセリンが言ったことと父の行ったことを繋げて考えることができずにいたのです。マルセリンは私に、深く眠るよう言いました。浅い眠りのとき、人の神経は過敏になるというのです。浅い眠りのとき、私は眠りばなに読んだ本のことを思い出し、そして、それは不幸にも私の様子を身に現れた父へ投影されてしまったというのです。私は混乱しました。私はその話を少しだけ信じることができました。マルセリンが言うことですし、父にかかわることです。しかし私がその話を信じようとしたあとも、感覚は残り続けていました。
私はずっとここで過ごしてきました。想像してみてください。生まれてからずっと、この屋敷から出ることなくすごすことを。私はきっと既にこの家の一部なのです。そして今、この家は崩壊の一途へ動いているのです。そうなったとき、私はどうなるのでしょうか? だから、お願いです。後生ですから、私を外へ連れ出して欲しいのです。どんなことでも致します。あなたの近くへいさせて欲しいのです」
▽
マルシャル家の一人娘の告白を聞いても、セルマはそれほど驚きはしなかった。マルシャル家の財政状況が悪いことは聞き及んでいたし、ダーゲリンがおかしいこともなんとなく気付いていた。そもそもまともな人間なら、セルマをあんな風に家にあげたりはしないのだ。
スヌークが父親からされたことも、セルマは冷静に受け止めていた。珍しいことだが、まったくない話ではない。
セルマにはまったく理解のできない感覚だったが、それがあるということは知っている。それだけで随分過ごしやすくなるのだ。
「ここに美術品倉庫はありますか?」
だしぬけにセルマがスヌークに尋ねる。スヌークは困惑しつつも、ええ、ありますけど……と答える。あの、私の話はどうなったのでしょうか。
セルマは、もちろん聞いていましたとも、と言った。
あなたの話は計り知れません。
きっと悩み抜いた末の決断なのでしょう。
生家を去るということは、ただそこを離れるという以上の意味がありますからね。
私を頼ろうとするのは必然の流れというものかもしれません。
ただ、ここで簡単にあなたを連れ出し、生活を用意してあげましょう、と言うわけにもいきません。
「私にはそのような権利はありませんので」
ですが、あなたの状況が可及的速やかに解決すべきものであることはもちろん私にもわかっています。だというのに申し訳ないのですが、今すぐにとはいかずとも、私が向こうへ戻り次第、アンジェリーン様にどこかあなたの住みやすい場所を用意できないか、あなたの境遇とあわせて伝えることは、できます。アンジェリーン様は慈悲深いお方です。親戚が不安がっていると聞けば、すぐに手を差し伸べてくださるでしょう。それで今は、了承していただけるでしょうか。
「申し訳ありません」
セルマがそのように言ってスヌークを慰めると、スヌークは不安げに片腕を抱いた。
「もちろん、あなたはそう言うのでしょうけど……。……いいえ、忘れてください。突然あなたが来たものだから私は……。これは私が解決すべき問題なのかもしれません。しかし、どう解決すればよいのか……」
今すぐにというわけにはいきません。ただそう言っているだけです。セルマはそう繰り返し、スヌークはそうですね……と呟いたきり黙ってしまった。
▽
「もう少し、お話をしてもいいかしら」
真剣な話をぶつ切りで終えた後、スヌークは微笑んでセルマの隣に座った。
「構いませんよ」
セルマも同じように微笑みを返した。
「私は、外から来る人と、それも同年代の女の子と話すのもはじめてですから、どきどきしてしまって。本では読んだことあるのですけれど、そういったことはまったく経験がないんです」
「どんな本を?」
「最近読んだのは、古城に住む男性に恋をした女性の話で、その女性は、男性が完璧なので、なにか秘密があるのではないかと思い込むのです。面白いのは、これで本当に秘密などなにもないということです。彼はドラキュラではありませんし、怪物でもなければ、ただその女性を愛しているというだけなのです」
「ああ、その本なら読みましたよ。いい装丁の本でした」
二人はしばらく、他愛もないことを話し合った。セルマは役目も忘れて、美術品倉庫へ行くという用も、アンジェリーンが見ていないのなら問題ないかもしれないと思った。アンジェリーンはあれで全く執念深いということがないので、セルマが素直に美術品倉庫へ行くのをめんどくさがったと言っても、ああそう、で済ませる可能性もあった。
しかし反対に、こだわっていなくとも、そのことを理由にこちらの生皮をはぐような仕打ちをするかもしれないと考えると、やはり黙って行かないでいるのがいいだろうとセルマは結論付けた。
▽
客間を出て大広間へ出ると、手すりを手の中で滑らせ、玄関から左側の廊下へ入った。するとカーペットが途中で切れ、つるつるとした床が現れた。廊下の右側のドアを開くと、食堂を縦断するように設置された長机にはすでにダーゲリンとスヌークの姿があった。
ダーゲリンは机の端、大広間へ近い方の椅子に座り、スヌークはその右斜め前にいた。マルセリンがパンの入ったバケットを持って現れた。セルマはダーゲリンの真正面に座った。
スヌークと話し込んでいたせいで美術品倉庫を物色することはできなかった。スヌークが去った後、改めて疲れをとろうとベッドに倒れたら、もう起き上がる気になることができなかった。
席についたセルマの前に、テリーヌが置かれた。空いた皿の上に老女がパンをのせ、グラスにぶどうジュースを注ぐ。
ひどく質素な食事だった。
老女を除いた全員に食事が行き渡ったことを確認したダーゲリンは、席を立ち、グラスを持ち上げた。
「今日は記念すべき日だ。私の娘、スヌークが今日、十六になる。それだけではない。私たちは、新しい友人を得た。セルマ、そして、偉大なるトルドー家のご令嬢、アンジェリーン・トルドー殿。……マルセリン、私は確信したぞ。私が正しい(・・・・・)。これは120年前の再来だ」
老女が苦痛に満ちた表情を浮かべて俯くのをセルマは見逃さなかった。
「誕生歌を歌うのはどうでしょう。今日はスヌーク様の誕生日です」
老女が言う。
スヌークは有頂天になっている父親と老女を交互に見て、最後にセルマへ視線を投げる。
「うん? ああ、そうだったな」
セルマとスヌークはしばし見つめ合った。スヌークはどうやらセルマにこの場を鎮めて欲しいようだったが、セルマには本来、そんな力はない。
しかし、どういった風の吹き回しか、セルマは口元で何事かを呟き続けるダーゲリンに落ち着いた口調でこう提案する。
「乾杯の前に、お嬢さまの手紙を読んでもらってはどうでしょう。あれはアンジェリーン様がスヌーク様のために筆をとられたものです。スヌーク様がアンジェリーン様からの手紙を私の目の前で読んだと、お嬢さまに伝えることが出来ましたら――、お嬢さまはとてもお喜びになられるでしょう」
ダーゲリンがグラスを掲げた格好のまま眉根を顰めた。自分の話が邪魔されたことに腹を立てているようだったが、同時に、アンジェリーン・トルドーに喜んでもらえるという点を見逃すことが出来るほど錯乱しているわけではない。
ダーゲリンは咳ばらいをすると、マルセリンに手紙を持ってくるよう伝えた。スヌークとセルマはまた目が合った。スヌークはなにも言わなかったが、喜び、興奮しているのが、口元から見て取れた。それを見られるのが恥ずかしくて、目の前の皿に乗っているパンに手を出そうとしたが、直前で思いとどまり、両手で椅子の側面を掴んだ。
「失礼。つい熱くなってしまった。気を悪くしないで欲しい。さあ、一先ず食べだそうか。手紙は、食事のあとで構わないだろうか、セルマ」
「ええ。それはもちろん」
ダーゲリンがグラスを軽く傾け、乾杯、と言い、小さな声で、誕生日おめでとう、スヌーク、と付け加えた。スヌークは軽くうなずき、今度こそパンの表面を食んだ。
静かな食卓で、静かな食事だった。テリーヌは鮭のテリーヌに一口付けた後は、ぶどうジュースだけ飲んでいた。
「テリーヌの味はどうですか? そちらでとる食事ほどではないでしょうが、なかなか美味でしょう。これはマルセリンの得意料理なのです。わたしはこれが好きでね。特別な日はいつもテリーヌにするよう伝えているんです」
そこへ、マルセリンが手紙を持ってやってきた。開封済みの手紙をダーゲリンの皿の遠くへ置くと、自分は部屋の隅に立って食事風景を眺めた。
「とてもおいしいですよ。滑らかな味です」
「それはよかった。んん……」ダーゲリンが咳ばらいをした。「申し訳ない。それで先ほどの話だが……我がマルシャル家は、120年前にも破滅の危機に直面したことがあったのです」
「120年前、ですか」
「そう。正確には128年前ですか。マルシャル家は海運業で財を成しました。私の曽祖父にあたるローレンツ・マルシャルは、この国の海沿いを取り仕切っていました。
国王にも信頼され、国の荷物を任された。マルシャル家は、絶頂期でした。しかしひとつ問題がありました。後継者がいなかったのです。というのも、ローレンツは妻のアナベラとの間に一人息子がおりましたが、これはどうしようもない放蕩息子で、とうてい仕事を任せられなかった。仕方なくローレンツは乗組員の中から後継者を選びました。しかしそれが間違いだった。後継者に選ばれた乗組員はローレンツを排斥しようとしました。ローレンツのあとを継ぐことが決まっていたとはいえ、決めたのはローレンツですし、彼もまだ引退したわけではありません。ローレンツは怒りましたが、どうしようもなかった。排斥こそされはしませんでしたが、会社のなかでの求心力は以前ほどではなくなっていた。そして、身内同士で争っているうちに、とりあっているはずの会社さえも、どんどん規模と影響力を失っていきました。このままではいけない。
ローレンツは長い戦いの中で、真理を得ました。
血のつながらないものを信用してはならない。
混じりっ気のない血を持つ者が、真に家族を救うことが出来る。
実は、ローレンツは姉、私から見れば祖父のおばにあたる人物と子供をもうけていました。その子供こそがアナセマ。私の祖父であるアナセマ・マルシャルです。アナセマは祖父のおばの下で育てられていましたが、ローレンツが表舞台へ立たせ、二人で会社の立て直しを図りました。アナセマとローレンツは互いに協力し、乗組員を追い出しました。これには数年の時間を要した……。
会社を取り戻しましたが、失ったものも大きい。顧客の信用や船、資産……終わったころにはほとんど残っていなかった。しかし、正しき者のもとには天からの使いが現れるものです。ローレンツの遠い親戚に、陸運業をしているものがいました。まだ会社が大きかったころには、彼から荷物を受け取り、ローレンツの船が運んでいた。友人はローレンツの窮状を見て、彼らに援助をした。そのおかげで会社は以前の勢いを取り戻し、ローレンツの時代をはるかに超える規模と影響力を手に入れたのです。
この屋敷に入ってすぐ、正面。大きな肖像画が飾ってあるでしょう。あれが私の祖父、そしてローレンツ・マルシャルの息子、アナセマ・マルシャルです」
話を聞き終えたセルマはナプキンで口元を拭き、笑顔をつくった。
「……なるほど。とても聞きごたえのある話でした」
「そうでしょうそうでしょう。私が120年前の再来と言った理由もわかったはずです」
「ええ。お嬢さまですね」
ダーゲリンは機嫌がよさそうに息を吐いた。
「あなたがここに来た時、まさに今日、ここに来た時、わたしは天啓を得たのです。今なのだと。前々から考えてはいたが、実行にうつすふんぎりがつかなかった。だが、だが! あなたが来た! セルマ! ならばあとは前進するのみ! より濃く! より濃く!」
ダーゲリンが勢いよく左手の拳で皿を叩いた。皿が割れ、破片がダーゲリンの左手に突き刺さった。白いテーブルクロスにみるみる血が浸透していく。血は、意思を持っているかのようにテーブルクロスの内側を這い、ある地点で蛇行して、テーブルの隙間から落ちていった。
スヌークが悲鳴をあげて飛びのき、椅子から落ちて膝をついた。セルマは立ち上がってスヌークの下へ行った。
ダーゲリンのもとへはマルセリンが行っていた。マルセリンはナプキンをダーゲリンの左手に巻き、治療をしましょうと言って部屋から退出させた。
う、う、う、
机の下でスヌークは泣いていた。
近くに膝をついたセルマを認めると、彼女の衣服をぐっと掴み、引き寄せて抱きしめた。セルマはなにも言わず、したいようにさせてやった。どうせ明日にはでていく身なのだ。
そのとき、セルマは床に硬いものが転がっていることに気づいた。歪な形で、それがなんなのか、触れてみてもよくわからなかった。
セルマはその硬いものを掴み、スヌークの背中越しになんなのか確認した。
それは銀食器だった。スヌークが崩れ落ちた際に床に落ちたらしく、そのときに強い力がかけられたのが、持ち手と掬うつぼとが奇妙な方向に曲がっていた。
「……………………はあ」
セルマは感嘆の息を漏らした。
奇麗な銀食器だった。確かに曲がっているが、それでも流麗だった。銀でできているのはそうだが、それだけでなく、柄の部分に意匠が入っていた。かなりの値打ちものだろう。それを知らずに使っているのだ。美術品収集に力をいれているようだが、絵画や彫刻が主で、食器類に関してはなんの知識も持っていないのかもしれない。
「………………」
セルマはスヌークにきこえないよう心のなかでもういちど感嘆し、その素晴らしいフォルムに指先を走らせた。
セルマはスヌークを強く抱きしめてやった。強く抱きしめ、スヌークが泣き止むと、ぱっと離れた。
セルマとスヌークの濡れた目が相対した。
「もしよければ、ここから出る方法を教えて差し上げましょうか」
▽
簡単です。手紙を持っていけばよいのです。
セルマはスヌークにそう囁いた。
明朝、あなたへの贈りものがここへ届けられることはお話ししましたね。
彼らは北セントラル駅のホームから降りてきます。
あなたにその気があるのであれば、あなたは一晩、駅の前で時間を過ごして、彼らを待てばいい。そして彼らに手紙を見せなさい。
それはトルドー家の透かしが入った便箋と、アンジェリーン・トルドーが直筆した手紙です。それを見せれば彼らがあなたを連れて行ってくれるでしょう。
列車は長旅ですが、それが終わればアンジェリーン様の屋敷まではそう遠くはありません。万事うまく行けば、向こうで会うこともできるでしょう。
あとはすべてあなた次第です。決めるなら今です。どうなさいますか?
▽
スヌークはセルマの手を握りしめ、ありがとう、ありがとうと言ってその手にくちづけをした。
このお礼はきっとします。セルマ。
スヌークは何度も何度もセルマにキスをした。
スヌークは便箋を胸に抱き、正面玄関を開いた。スヌークはでていく間際、セルマを振り返り、最後にもう一度、ありがとうと言って玄関を閉じた。セルマは自分の頬をなで、掌の中であの銀食器を弄んだ。
▽
明朝、セルマはマルセリンに叩き起こされた。マルセリンは手にナイフを持っていた。
「どうしたんですか、そんな物騒なものを持って」
「スヌークが! あの子がいない!」
マルセリンはセルマを乱暴に壁に叩きつけ、首にナイフを突きつけた。
「お前が! お前が唆したんだろう! 私の子をどこへやった!」
マルセリンはさらに激しく詰め寄ったが、セルマの首元にナイフの切っ先でできた傷を見つけ、思わずたじろいだ。
解放されたセルマは旅行カバンを開き、中から小さな薬瓶を取り出した。薬瓶をふって小指の先に少量垂らし、眼のまわりと鼻の下に塗ると、セルマは床の上で身震いを起こした。
「あの子は外へ出てはいけないんだ! あの子は体が弱い! ここにも普段は立ち入らせていないんだ! 風邪一つで簡単に死んでしまう! お金も持ってない! それにあの子は、あの子は世間の目に耐えられない! 知っているだろう! あの子の醜い顔を!」
「しかし、出て行ったのです」
セルマは努めて冷静に言った。そして首の傷に触れた。皮が少し切れただけのようだ。
「ダーゲリン氏はどこです。彼と話した方がいい」
「夫は死んだわ」
マルセリンは言った。
「あの子がいないとしってすぐ、窓から飛び降りた。したが花壇なら助かったでしょうけど、運悪く庭石に頭をぶつけて……」
セルマはため息をついた。
「心中お察しします。しかし、どうすることもできません」
「心中、お察しします、ですって? あなたのような子供になにが理解できるというの? あなたに私の気持ちがわかって? ここで一人、夫が狂って行く様を見続けることが! その狂った夫と娘に、使用人扱いされていた気持ちが! それでも私は、二人を愛していたというのに! お前が来てすべてをぶち壊した! 私はここでどうすればいいの!? ただこの屋敷といっしょに朽ちていけばいいの!?」
「ダーゲリン氏のことは謝ります」
セルマは言った。
「しかし、あなたの娘は出て行ったのです。そしてあなたがあの子を探しに行くことができないのは、あなたがここから出ていけないからです」
セルマは続けた。
「あなたの愛を嘘だと決めつける気はありません。私にも愛するという経験はあります。愛というものは、いえ、あらゆる物事は、人間が関わるとき、どうしたって一方的です。どうしてか私たちは、それを思い出せないのです。特に今が不幸であれば、どうしても」
セルマは立ち上がった。
「私はここを出ます。あなたもそうしたらいい」
セルマは旅行カバンを閉め、ポールハンガーからコートをとって羽織った。テーブルでハンカチの上に丁寧に置かれていた銀食器を優しく包み、懐にいれる。
マルセリンは帰り支度を始めたセルマを見逃し、部屋の外に出た。その方向は玄関ではなく、セルマのいた部屋からさらに奥の、埃に満ちた場所だった。
▽
セルマは家を出る際に、大広間から肖像画を拝借した。ダーゲリンの部屋から絵画を運ぶための袋を見つけると、そこに肖像画をいれ、マルシャル邸を後にした。
▽
セルマは駅から列車に乗り、国境をわたった。見たことのある山脈を見るころには、日づけが変わっていた。セルマは昼前にアンジェリーン・トルドーの屋敷のある地域へ到着していた。列車から降りると馬車が彼女を待っていた。
セルマは御者に白髪の少女が降りてきたかどうか尋ねたが、そのような人は見ていないと言われた。駅の周りを少し歩きまわってみたが、彼女らしき影はどこにも見当たらなかった。やがて旅疲れから立ち眩みのした彼女は、御者に抱えられ、馬車に乗せられた。
▽
翌日セルマはアンジェリーンに呼び出された。
アンジェリーンの私室へは
「それで? セルマ。収穫はあったかしら。マルシャルはいい品を持っていた?」
「残念ながら、二流品ばかりでした。ですのでアンジェリーン様の好みに合いそうな絵画を一点、見繕いました」
セルマは絵画袋からマルシャルの肖像画を出し、アンジェリーンへ向けて差し出した。
アンジェリーンは一目見て眉を顰めた。
「なあに? これ。わたし、印象派の絵画は好みではないわよ」
アンジェリーンはマルシャルの肖像画をぽいと投げ捨てた。
「ま、そういうこともあるわ。南の親戚はろくなものを持っていない。それだって立派な収穫だもの。だからがっかりしないで? セルマ。お前は悪くないわ」
そしてセルマに向けて意地悪く笑って見せた。
「でも、ずるいわ。あなたはまた新しい相手を見つけたのね。セルマ。今度のは彼? それとも彼女?」
「もの(・・)に性別はありません。お嬢さま」
「あら。ずいぶん物を言うのね。セルマ! これは失礼したわ。それにしてもあなたって色のおおい人なのね」
「愛は数ではないのです」
「その言葉は嫌いでないわ。セルマ」
アンジェリーンはセルマの不敬を許容し、退室させた。セルマは陽光の差す廊下に出、アンジェリーンの私室から大広間を通り、使用人の部屋がある棟へ入った。
セルマはそこの最奥の、他の部屋と比べて一回りも二回りも大きい部屋の扉を開けると、ヘッドドレスを外し、胸元を緩めた。セルマの私室はベッドとクロゼットを除き、家具らしいものはほとんどなかったが、とにかくそれ以外の物が多かった。
部屋の中心に丸くてぴかぴかした石のオブジェクトが鎮座しており、そこへ覆いかぶさるように自転車が倒れている。壁のそこかしこに金属盾や曲がった剣が立てかけられていた。正面にガラスの付いた棚には、白く真新しい綿が敷かれ、その上に調度品が乗せられていた。セルマはガラスを開き、まだなにも乗っていない綿の上に銀食器を置き、愛おし気にそれを見つめた。
▽
セルマがスヌークを逃がしたのは、彼女がこの銀食器とセルマを結びつける役目を果たしてくれたからだった。セルマは愛を繋げるのなら、誰かを自由に愛する機会がスヌークにもあればいいと思った。
もし、生きているのなら、それがいい。セルマはスヌークが列車の途中で素敵な相手を見つけたのならいいと思った。それであの駅で降りることは無くなったのだと。
そしてもし、その相手と添い遂げるのなら、セルマもまた、新しい相手を見つけることが出来るのだ。
ゴシック小説を書きたくて書いたやつです