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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第一の試練 俺は女子高生を抱くわけにはいかない
9/66

9 一点の光

 2015年5月8日 金曜日



 歩夢は予定通りクラスで孤立していた。

 休み時間になっても、彼を食事や遊びに誘う者は一人もいない。

 特に女子は、歩夢をあからさまに避けている。



「ねえ、なんか臭くない?」

「やっぱり~? なんか腐ったような臭いがするよね~」


 歩夢は腕を鼻に近づけ、体臭を確かめる。

 手のひらに息を吹きかけ、口臭を確認する。

 首をかしげ、唇をかじる。


「ちょっとっ、あれに服が当たってるってっ」

「やっだーっ、あたし汚れちゃうぅ。制服洗わなきゃ~」

「そりゃー汚くてすいませんねー」

「うわーっ、今ばい菌がしゃべったよーっ。世界的大発見だわーっ」



 それでも一人だけ、歩夢に対して普通に接する女子がいた。

 明差陽である。


「日比野、机になんか書かれてるよ。なになに、『エロ菌』? やることが小学生レベルだね」

「だな。かわいくて抱きしめたいくらいだけど、吐かれたら困るからやめておくよ」


「高校の裏サイトに、『日比野歩夢は全身が下半身』って書いてあったけど」

「うまいこと言うなあ。でも『全身が性器』、のほうがインパクトあるのに」


「もうそういう自虐ネタやめようよ。それより自分を守る方法を考えたらどうなの?」

「いじめへの対抗策を講じろっていうのか? 俺はいじめの存在自体を否定する。ゆえに対策は不要だ」


「そういう屁理屈、大好きだよね。ただ大げさなだけで、いつも中身がないけど」

「それ以上言うな。人は本当のことを言う相手を、激しく憎む生き物だ」



 二人の会話を耳にした女子が、明差陽の腕を引き歩夢から離れさせる。


「ちょっと明差陽、あれと話しちゃダメだよ」

「なんで? みんなが言うほどひどい見た目じゃないと思うけどな。全然臭くもないし」

「明差陽知らないの? あれに近づくと妊娠しちゃうんだよ」

「近づいただけで妊娠って。そういういかにも悪意で拡散した噂、あたし気にしないから」


 明差陽の態度はき然としている。

 だからこそ、明差陽とはできる限り距離を置こう、と歩夢は思う。



 地学部のほうは、いまだ仮入部のまま。

 時々部室に顔を出しては、命じられるまま日課をこなすだけ。

 もう一人の一年生、黒部は正式に入部し、誰よりも真剣に取り組んでいた。


 放課後、校庭の隅にある百葉箱で気温測定。

 歩夢を三人がかりで指導する。


「どうだ日比野、地学部を続ける気になったか?」

「あの宝蔵院先輩、先輩は知らないみたいですけど、俺ちょっと、女子に避けられていて……」

「わたしたちのほうに問題はないっ。問題なのは、貴様自身の気持ちだっ」


「いや、でも……じゃあ、もう少し、待ってもらえますか?」

「いいだろう。いくらでも悩むがいい。悩むのは我々、思春期にいる者の仕事だ」



 歩夢は校舎へ戻る際、陸上部に入部した明差陽がランニングしているのを見かけた。

 揺れる胸、くびれた腰、よくしまった太ももがまぶしい。


「あの子はこの学校で一番人気のある女子で、この学校の男子全員、一度は彼女でオナニーしたことがあるらしいぞ」


 境の発言に、歩夢は一歩退いた。

 慌てて宝蔵院を探すと、十メートルくらいの間隔を保ちながら歩いている。


「日比野はクラスが同じなんだし、彼女でオナニーしたことあるんだろ?」

「い、いえ……」


 否定はしたものの、間違ってはいない。

 中学の頃から何回お世話になったか、数えきれないほどだ。

 けれどそういう話題には、どうしても触れられたくない。


「ふーん、あくまでも認めないつもりだな~。黒部はどうだ?」


 黒部ははち切れそうな体を小さく縮め、黒く膨らんだ顔を真っ赤にしてうつむいた。


「ぼ、僕は、二次元のキャラでしかできないんです」

「そりゃあまたマニアックだなー。リアルの女もいいと思うけどな~」

「さ、三次元の女性なんて、敵キャラでしかありませんっ」

「そっかぁ。まあ、それもまた正解だー」


 正解じゃねえだろ。

 黒部頭おかしいじゃねえか。

 部長なんだからちゃんと注意しろよ。


「オナニーは素晴らしい」


 こ、こいつ、なにを言い出すんだ。

 部長のほうがもっといかれてた。


「どんなにモテない男でも、オナニーだけは許されている。この世知辛い世の中で、真の平等が存在するのはオナニーだけだ。社会的な成功を意味するセックスなど、青春でもなんでもない。個人的な想像だけでも達成できるオナニーこそ、青春そのものなのだーっ」


「部長、宝蔵院先輩に聞かれてると思いますが」

「あいつは慣れてるから平気だよ~。あいつには武士の情けがあるからなー」


 宝蔵院は険しい表情。

 だが表面上は完全無視を貫いている。


「よし、今日から俺たちはオナニー同盟だー」

「それだけは勘弁してください」


 歩夢と黒部は、堤のことを本人のいない所では「マスター先輩」と呼ぶことにした。

 マスターベーションのマスターである。



 歩夢は一人体育館のトイレに入り、石けんで丹念に手を洗った。

 手洗いは毎日数十回行う。


 中学ではトイレで汚水をかけられ、「汚い」「ばい菌」とののしられたこともあった。

 小六で初めて自慰行為をした時には、自分から飛び出た白い液体がなんなのかわからず、恐ろしくなってずっと手を洗っていた。

 彼の頭の中では、この二つの体験が密接に結びついていた。

 原因は同じなのだと。



 地学実験室へ向かうには、校舎の裏側を通ったほうが近道だった。

 歩夢は木漏れ日がわずかに差し込む草むらを、つまらなそうに歩いていく。

 草むらに日光が届くのは、太陽が西に傾くこの時間帯だけだ。

 それでも勝手に生えている野花が、所々に咲き乱れている。


 誰にも相手にされない雑草たち。

 でも世界で一番生きる価値がないのは、この俺だ。


 一点だけ、明るい光が差してまぶしい場所がある。

 まるで異世界が存在するかのように。


 歩夢は手をかざしながら、陽だまりへ近づいていく。

 もう一つの世界へ導かれていく。


 妖精?


 そこには、髪の長い女性がいた。


 日差しが彼女を照らしているのか、彼女自身が発光しているのか、見分けがつかない。

 光と彼女の体が溶け合って、混じり合って、同化しているのか。


 髪の長い女性は、草原に住む素朴な少女が着るような水色のワンピースを着ていた。


 我が子を見守る母親のような柔らかな視線で、野花を愛おしそうに眺めている。

 そして子イヌや子ネコをあやすように、野花の茎をなでていた。


 歩夢は見てはいけないものを見たような気がして、その場に立ちすくんでしまう。


 女性が気づき、振り返った。

 歩夢は申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。


 振り返った女性は泣いていた。

 いや、泣いているように見えるだけだ。

 たれ目だから、泣き顔に見えてしまうのだ。

 実際には微笑んでいる。

 小さな唇が曲線を描いているから確かだ。


 歩夢は奇跡とか聖人とかいう伝説のたぐいは、こうして生まれるのだと思った。


 汚らわしい自分が、清らかなものに近づいてしまった。

 それは重い罪だ。


 自分を罰したくて、死にたくなる。

 その一方で、永遠に死にたくないとも思う。



 女性が微笑みながら会釈した。

 すべてを許すと伝えているような、果てしなく穏やかな微笑みだ。


 歩夢も無言のまま頭を下げ、静かにその場を立ち去る。


 なんだったんだ? 今のは。

 もうそこから、二度と戻れないかと思った。

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