9 一点の光
2015年5月8日 金曜日
歩夢は予定通りクラスで孤立していた。
休み時間になっても、彼を食事や遊びに誘う者は一人もいない。
特に女子は、歩夢をあからさまに避けている。
「ねえ、なんか臭くない?」
「やっぱり~? なんか腐ったような臭いがするよね~」
歩夢は腕を鼻に近づけ、体臭を確かめる。
手のひらに息を吹きかけ、口臭を確認する。
首をかしげ、唇をかじる。
「ちょっとっ、あれに服が当たってるってっ」
「やっだーっ、あたし汚れちゃうぅ。制服洗わなきゃ~」
「そりゃー汚くてすいませんねー」
「うわーっ、今ばい菌がしゃべったよーっ。世界的大発見だわーっ」
それでも一人だけ、歩夢に対して普通に接する女子がいた。
明差陽である。
「日比野、机になんか書かれてるよ。なになに、『エロ菌』? やることが小学生レベルだね」
「だな。かわいくて抱きしめたいくらいだけど、吐かれたら困るからやめておくよ」
「高校の裏サイトに、『日比野歩夢は全身が下半身』って書いてあったけど」
「うまいこと言うなあ。でも『全身が性器』、のほうがインパクトあるのに」
「もうそういう自虐ネタやめようよ。それより自分を守る方法を考えたらどうなの?」
「いじめへの対抗策を講じろっていうのか? 俺はいじめの存在自体を否定する。ゆえに対策は不要だ」
「そういう屁理屈、大好きだよね。ただ大げさなだけで、いつも中身がないけど」
「それ以上言うな。人は本当のことを言う相手を、激しく憎む生き物だ」
二人の会話を耳にした女子が、明差陽の腕を引き歩夢から離れさせる。
「ちょっと明差陽、あれと話しちゃダメだよ」
「なんで? みんなが言うほどひどい見た目じゃないと思うけどな。全然臭くもないし」
「明差陽知らないの? あれに近づくと妊娠しちゃうんだよ」
「近づいただけで妊娠って。そういういかにも悪意で拡散した噂、あたし気にしないから」
明差陽の態度はき然としている。
だからこそ、明差陽とはできる限り距離を置こう、と歩夢は思う。
地学部のほうは、いまだ仮入部のまま。
時々部室に顔を出しては、命じられるまま日課をこなすだけ。
もう一人の一年生、黒部は正式に入部し、誰よりも真剣に取り組んでいた。
放課後、校庭の隅にある百葉箱で気温測定。
歩夢を三人がかりで指導する。
「どうだ日比野、地学部を続ける気になったか?」
「あの宝蔵院先輩、先輩は知らないみたいですけど、俺ちょっと、女子に避けられていて……」
「わたしたちのほうに問題はないっ。問題なのは、貴様自身の気持ちだっ」
「いや、でも……じゃあ、もう少し、待ってもらえますか?」
「いいだろう。いくらでも悩むがいい。悩むのは我々、思春期にいる者の仕事だ」
歩夢は校舎へ戻る際、陸上部に入部した明差陽がランニングしているのを見かけた。
揺れる胸、くびれた腰、よくしまった太ももがまぶしい。
「あの子はこの学校で一番人気のある女子で、この学校の男子全員、一度は彼女でオナニーしたことがあるらしいぞ」
境の発言に、歩夢は一歩退いた。
慌てて宝蔵院を探すと、十メートルくらいの間隔を保ちながら歩いている。
「日比野はクラスが同じなんだし、彼女でオナニーしたことあるんだろ?」
「い、いえ……」
否定はしたものの、間違ってはいない。
中学の頃から何回お世話になったか、数えきれないほどだ。
けれどそういう話題には、どうしても触れられたくない。
「ふーん、あくまでも認めないつもりだな~。黒部はどうだ?」
黒部ははち切れそうな体を小さく縮め、黒く膨らんだ顔を真っ赤にしてうつむいた。
「ぼ、僕は、二次元のキャラでしかできないんです」
「そりゃあまたマニアックだなー。リアルの女もいいと思うけどな~」
「さ、三次元の女性なんて、敵キャラでしかありませんっ」
「そっかぁ。まあ、それもまた正解だー」
正解じゃねえだろ。
黒部頭おかしいじゃねえか。
部長なんだからちゃんと注意しろよ。
「オナニーは素晴らしい」
こ、こいつ、なにを言い出すんだ。
部長のほうがもっといかれてた。
「どんなにモテない男でも、オナニーだけは許されている。この世知辛い世の中で、真の平等が存在するのはオナニーだけだ。社会的な成功を意味するセックスなど、青春でもなんでもない。個人的な想像だけでも達成できるオナニーこそ、青春そのものなのだーっ」
「部長、宝蔵院先輩に聞かれてると思いますが」
「あいつは慣れてるから平気だよ~。あいつには武士の情けがあるからなー」
宝蔵院は険しい表情。
だが表面上は完全無視を貫いている。
「よし、今日から俺たちはオナニー同盟だー」
「それだけは勘弁してください」
歩夢と黒部は、堤のことを本人のいない所では「マスター先輩」と呼ぶことにした。
マスターベーションのマスターである。
歩夢は一人体育館のトイレに入り、石けんで丹念に手を洗った。
手洗いは毎日数十回行う。
中学ではトイレで汚水をかけられ、「汚い」「ばい菌」とののしられたこともあった。
小六で初めて自慰行為をした時には、自分から飛び出た白い液体がなんなのかわからず、恐ろしくなってずっと手を洗っていた。
彼の頭の中では、この二つの体験が密接に結びついていた。
原因は同じなのだと。
地学実験室へ向かうには、校舎の裏側を通ったほうが近道だった。
歩夢は木漏れ日がわずかに差し込む草むらを、つまらなそうに歩いていく。
草むらに日光が届くのは、太陽が西に傾くこの時間帯だけだ。
それでも勝手に生えている野花が、所々に咲き乱れている。
誰にも相手にされない雑草たち。
でも世界で一番生きる価値がないのは、この俺だ。
一点だけ、明るい光が差してまぶしい場所がある。
まるで異世界が存在するかのように。
歩夢は手をかざしながら、陽だまりへ近づいていく。
もう一つの世界へ導かれていく。
妖精?
そこには、髪の長い女性がいた。
日差しが彼女を照らしているのか、彼女自身が発光しているのか、見分けがつかない。
光と彼女の体が溶け合って、混じり合って、同化しているのか。
髪の長い女性は、草原に住む素朴な少女が着るような水色のワンピースを着ていた。
我が子を見守る母親のような柔らかな視線で、野花を愛おしそうに眺めている。
そして子イヌや子ネコをあやすように、野花の茎をなでていた。
歩夢は見てはいけないものを見たような気がして、その場に立ちすくんでしまう。
女性が気づき、振り返った。
歩夢は申し訳ないという気持ちでいっぱいになる。
振り返った女性は泣いていた。
いや、泣いているように見えるだけだ。
たれ目だから、泣き顔に見えてしまうのだ。
実際には微笑んでいる。
小さな唇が曲線を描いているから確かだ。
歩夢は奇跡とか聖人とかいう伝説のたぐいは、こうして生まれるのだと思った。
汚らわしい自分が、清らかなものに近づいてしまった。
それは重い罪だ。
自分を罰したくて、死にたくなる。
その一方で、永遠に死にたくないとも思う。
女性が微笑みながら会釈した。
すべてを許すと伝えているような、果てしなく穏やかな微笑みだ。
歩夢も無言のまま頭を下げ、静かにその場を立ち去る。
なんだったんだ? 今のは。
もうそこから、二度と戻れないかと思った。