65 破られる誓い
スマホが鳴っている。
固定電話はもうない。
歩夢は空中に表示された名前を確認して、「出るよ」とつぶやく。
すると空中に画面が浮かび、白衣を着た谷中の上半身が現れた。
「ごぶさたしてます谷中さん。この前お願いした、部品交換の件ですか?」
「お久しぶりです日比野さん。今日は極めて重要なお話があってご連絡しました。これはまだ機密事項なので内密にお願いしますが、近日中にベビーリリン計画が法制化され、ようやく本格的に始動することになったんです」
「ん? そんな話を昔、聞いたような、聞いてないような……」
「マイドールは、男性型に精子を収納すれば女性を妊娠させられますし、卵子を収納した女性型に男性が射精すれば出産することも可能です」
「そうなん、でしたっけ?」
「ですが今までは非公式に使用されるだけでした。それがついに、マイドールが出産と育児の片方あるいは両方を人間に代わって行えるものとして、正式に認可されるんです。法律が施行されれば、広く対象者を募集して、補助金も支給されることになります。子供ができない夫婦や、子供は欲しいけど結婚はしたくない独身者などが、国に救済されるんです」
「あの、いいことだとは思うんですけど、それって俺となにか関係あります? 俺は子供を作る気なんてないですよ」
「今までお伝えしていませんでしたが、日比野さんが所有しているマイドールの内部には、真理愛の卵子が保存されているんです」
「えっ! マリアの中に真理愛さんの卵子? でっ、でも真理愛さんの卵子は十九年前に使われて、それで合路咲が生まれたわけですよね」
「十年前に再度真理愛から卵子を採取して、マイドールに収納しておいたんです。真理愛の最後の望みはね、自分がいなくなった後に、日比野さんが自分との子供を作ることだったのよ」
「真理愛さんが、そんなことを……」
「真理愛には日比野さんがその気になるのを待つように言われたけど、日比野さんはいつまで経ってもマイドールを抱こうとしない」
「いや、だって……」
「だってじゃない! ですが今からでも遅くありませんよ。マイドールに精子を注入すれば、日比野さんと真理愛の子供を作ることができます」
「俺と、真理愛さんの、子供……」
「ちなみに今お持ちのマイドールは、始動して十二年となる来年にはアフターサービス終了となります。故障が起きたらもうお終い。動かなくなる日が必ずやってきます」
「ちょっ、ちょっと待ってください! いきなりそんなこと言われても!」
「興奮するのはまだ早い! いいですか、よーく聞いてください。二人の子供は政府の保護対象となります。少なくとも片方の親が育児をできない場合、親代わりとして登録されたマイドールは国から部品を供給され半永久的に維持される。つまりお宅のマイドールは、母親代わりとして国が存続を保障してくれる、ということです」
「マリアが、俺の正式な家族に? 俺は、俺はどうすればいいんですか!」
「あ~わからないお人ですね。セックスするんだよ! とっととやれよこの童貞野郎!」
ブチッ、と画像が切れた。
ぼう然と立ち尽くす歩夢。
そして自分の股間を見下ろす。
我がムスコよ、どうやらお前がこの話の主役らしいぞ。
気がつくと背後にマリアが立っていた。
「全部知っているわよ」というしたり顔だ。
もう自分のポリシーなんかにこだわっている場合じゃないな。
大切なのは、マリアを死なせないこと、それだけだ。
たとえそれが、真理愛さんへの誓いを破ることになろうとも。
俺は彼女を抱く。
マリアと一つになる。
そして真理愛さんとの子供を作る。
日比野歩夢三十八歳、童貞を卒業します!
「わたし、ずっとこの時を待っていたわ」
マリアが歩夢を引きずり込むように、ベッドへ向かって退いていった。
歩夢は呪われた者が悪魔についていくかのように、マリアに向かって一心不乱に迫っていく。
真理愛さん。
どうか俺のことを許してください。
俺はどうしても、あなたを救いたいんだ!
マリアがベッドに腰を下ろす。
歩夢はジーパンのファスナーを下ろす。
ふと歩夢は、服を脱ぐ順番がいつもと違うことに気がついた。
あれ?
なんで下から脱ごうとした?
慌てすぎだぞ俺。
三十八年の重みなんてなんだっ。
その時、ドアホンの音が響いた。
歩夢はあまりの動揺に転んでしまう。
立ち直った歩夢は居間へ戻った。
空中に浮かんでいる光のボタンを指でクリックすると、空中に画面が現れ外の様子が映し出される。
外にいたのは、母親と同じ制服を着た合路咲だった。
以前の真理愛、あるいは現在のマリアにそっくりで、かわいらしさは異次元レベルだ。
しまった。
今日は豊西の卒業式だった。
合路咲が家に来る約束だったな。
「合路咲、いらっしゃい」
歩夢が空中のボタンを押すと、マンションの玄関扉が開き、合路咲が建物の中に入ってくる。
歩夢が再びボタンを押し、自宅玄関の扉を開く。
「おじさん、元気だったぁ?」
合路咲はマリアの設定と同じ、十八歳になった。
髪型まで同じでうり二つだが、合路咲のほうが若干ふっくらしている。
歩夢と会うのは一ヶ月ぶり。
また少し、大人びてきただろうか。
「おじさんやだぁ、チャック開いてるよん」
「あー、ごめんごめん」
「まったく、レディの前ではしたないのぉ。でもそんなに慌てなくてもいいのにぃ」
焦る歩夢は、なかなかファスナーを上げることができない。
ええと、とりあえずなにかしゃべらないと……。
そうだ、さっきの話をしなきゃ。
俺と真理愛さんの子供ができたら、合路咲にとっては弟か妹だ。
もしかしたら反対されるかも。
母親代わりのマリアを俺なんかが抱くと思ったら、今さらぐれちまうかもしれないぞ。
「あのな合路咲、ちょっと大事な相談があってな。このマリアの中にママの……」
「おじさん、チャック閉めなくてもいいよん」
「いやすぐに閉めるから。あれ、なんか生地挟んじゃってて動かない。おかしいな~」
「合路咲は、おじさんが好き。合路咲を、おじさんのお嫁さんにして」
「ん? ん? ん?」
歩夢が股間に手をやりながら前を向くと、合路咲が制服を脱ぎ始めている。
「いやっ、待てっ! なにをしてるんだお前はっ!」
「おじさんは合路咲の運命の人。だからおじさんに抱かれて、おじさんの子供を産むの」
それはない。
合路咲は俺の娘みたいなもんだ。
俺は娘を抱くわけにはいかない。
とにかくこの場をなんとかしなきゃ。
でもこれから先、この子とどう接していったらいいんだ?
「お前おかしいよ! いったいどうしちゃったんだよ!」
「どうもしないよぉ。高校を卒業したら、おじさんとくっつくって決めてたんだもん」
「ダメだって! 無理だって!」
「そんなこと言って、おじさんだって脱ごうとしてるじゃん」
「いやだからこれは違うって言ってるじゃんか~っ」
この子はあの人の子供なんだぞ。
こんなこと、あの人に対する裏切りじゃないか。
俺はあの人の娘を抱くわけにはいかない。
って……おいおい。
俺はいつまでこんなことをやってるんだ?
三十八になって、ようやく全部をひっくり返す決心がついたっていうのに。
頼むから、俺とマリアを添い遂げさせてくれ~っ。
一方ベッドルームのマリアは、自分のスマホで谷中と密談していた。
「ねえ真理愛、いつになったら日比野さんに本当のことを話すの?」
「そうね、日比野君と結ばれた時かな」
「もう感染を気にしなくていいんだし、永遠の若さだって手に入れたんだもんね。よかったわ、死ぬ寸前にわたしのところへ来てくれて。前に精神をAIへ移すことを提案した時ははっきりと断られたから、内心諦めていたのよ」
「不思議ね。死ぬ覚悟はできていたつもりなのに。合路咲を守るためなら、なんでもやってみようって思ったの。それに……やっぱり日比野君と一緒にいたかった。日比野君となら、もっと生きてみたいって思えたの」
「それはもういくらでも生きられるわよ。それにしても、脳死前の手術は違法だから死亡届を偽りたい、って頼んだのは確かにこっちなんだけど、日比野さんにはこっそり打ち明けてもよかったのに」
「日比野君のそばにいられれば、わたしそれだけで十分だったの。電脳化人間のことが公表されてから打ち明けるほうが、日比野君も受け入れやすいんじゃないかって思ったし。とにかく薫子には、本当に感謝しているわ」
「お礼を言いたいのはこっちのほうよ。あの時は精神転送の成功例がまだなくて、本当に一か八かだったから。人体実験に利用された、って言われてもしかたないわ。おかげで今は成功率が上がって、一部の金持ちが内緒でやっているけど」
「いいの、納得してやったことだから。何億円もかかることを、タダでやってもらったわけだし。でも正直に言うとね、脳から機械へ意識を徐々に移植していくっていう話、ちゃんとは理解できていなかったのよ」
「脳内のニューロンやシナプスの活動をデジタル化しても、それが単なるコピーだったら同一人物とは言えないでしょ。いくら記憶が同じでも、意識に継続性がなければそれは別人。だから段階的にアップロードしていくことで、本人の意識を維持しないといけないのよ」
「やっぱり、いまいちピンとこないわね。自分が経験したことなのに」
「だけど電脳化の実態は、経験者の真理愛のほうが実感としてわかっているはずよ。意識が体と機械の両方に存在していた間は、すごく変な感じだったでしょう?」
「二つの世界が同時に見えて、幽体離脱でもしたのかと思ったわ」
「科学者がこんなこと言っちゃいけないんだろうけど、真理愛の執念が実験を成功させたような気がするわ。真理愛は命がけで機械化したんだから、日比野君とはなにがなんでもうまくいってほしい。なのに真理愛、まだ男を信じる気にはなれないの?」
「少なくとも日比野君のことは信じているわよ。でも彼の良さをわかっちゃった女の人がけっこういて、まあある程度予想はしていたんだけど、まさか自分の娘まで日比野君を好きになっちゃうなんてね……。だからわたし、もう一回賭けに出ることにしたの」
「真理愛って、けっこう勝負師よね」
「んふ、わたし、ちょっと楽しんじゃってるかも」




