63 生きる理由
歩夢の両目から、涙があふれていた。
大量の涙と鼻水で、顔がグシャグシャになる。
彼にとって、一番聞きたくなかったことと一番聞きたかったこと。
それを一度に聞かされたのだ。
涙の止まらない歩夢は、谷中に支えられながら出口へ向かう。
谷中のほおも濡れていた。
エントランスに入ると、柱に隠れる人影があった。
安道が恨めしそうな顔で歩夢をにらんでいる。
だが歩夢は気にもとめず、谷中も構わず歩みを進める。
「そういえば、日比野さんの家にマイドールを運んだ時ね、真理愛も一緒に車から見ていたのよ。真理愛、ものすごく心配そうな顔してたな。自分で決めたことなのにね」
「あぁ……」
「それでね、マイドールは必ず返すけど、AIをバージョンアップする必要があるの。最新の量子コンピューターを利用した大型バージョンアップだから、悪いけどしばらくの間待っていてね」
「そう、ですか……」
「日比野さんがマイドールを必要としないなら、わたしが預かる予定だったのよ。そうすれば合路咲ちゃんは好きな時に母親代わりのマイドールに会えるでしょ。でも日比野さんはマイドールを欲しいと言ってくれた。これで合路咲ちゃんは、日比野さんとマイドールを一緒に会うことができる。日比野さんの決断は、真理愛が一番望んだ形だったのよ」
「でも、真理愛さんは俺と再会する前に、俺とマイドールを同棲させる必要があったんでしょうか。俺の気持ちを確かめたいのなら、直接聞いてくれればよかったのに。そんなことより、俺は一秒でも長く真理愛さんと一緒にいたかった」
「真理愛はね、極度の男性不信に陥っていたの。病的なほどのね。だから日比野さんの愛情をとことん試したかったのよ。真理愛は自分を選んでもらえて幸せだったと思うわ。女として」
「幸せにするって……幸せにするって言ったのに……」
「人ってね、幸せにするって言われた時が、一番幸せなのよ。日比野さんは真理愛に、最高に幸せな瞬間をあげたんだわ。真理愛は最期の時まで、幸せな思い出の中にいられると思う」
丸の内から、地下鉄を乗り継いで成増まで。
歩夢は人目をはばからず泣き続けた。
体のどこにこれほどの水分があるのか、不思議になるほどに。
その後、歩夢は必死に真理愛を探した。
わずかな休日を使い、探偵まで雇って、警察にも捜索願いを出した。
だが結局、真理愛を見つけることはできなかった。
調査から浮かび上がってきたのは、想像以上に孤独だった真理愛の人生だ。
役所の臨時職員をしながら作家を目指していた父親は、夢なかばで病死。
家族のために漫画家になる夢を諦めた母親も、工場で働き続けたあげく病死している。
若い頃は美人で有名だった母親は、やつれ果てた自分の姿を嘆いてばかりいたという。
真理愛は他に家族がなく、親戚とも疎遠だった。
悪評のためか、堂々と友達を名乗る者もいない。
愛されるべき人が、孤独に追い込まれる。
この世界って、なんかおかしいよ。
社会ってさ、彼女のようなまじめな人を、幸せにしなきゃいけないんじゃないのか?
歩夢は谷中と相談し、合路咲を児童養護施設へ預けることにした。
子供を託されたとはいえ、独身男性が父親になるのは無理がある。
マイドールはまだ、育児用としては認可されていない。
谷中いわく、真理愛も養子縁組や同居までは期待していなかったとのことだった。
しかし学費や生活費などの面倒は見たいと、歩夢は考えていた。
歩夢が真理愛に渡した現金は、すべて合路咲名義の預金となっている。
それでも孤児となった合路咲が就職するまでの間、相当の費用がかかるはずだ。
悲しんでばかりいるわけにはいかない。
働いて、稼いで、合路咲になに不自由ない人生を送らせてあげなきゃ。
病を抱え夢を断たれた真理愛さんにとって、子供は唯一の生きる理由だった。
その理由を、俺に譲ってくれたんだ。
歩夢が役所で真理愛の戸籍を確認すると、三月六日長崎県で死亡と記載されていた。
歩夢は長崎を調べ尽くし、真理愛が死の直前まで化石の発掘を続けていた痕跡を見つける。
「お母さんは、星になったんだね」
「うん」
歩夢は合路咲と共に星空を見上げ、真理愛の冥福を祈るのだった。
真理愛さん。
俺は真理愛さんを弔いながら、真理愛さんの子供を守っていきます。
それは真理愛さんを愛している、ということだと思います。
人を愛することで、生きることは使命になりました。
今はそれが、幸せなことなんだって実感できるんです。
でもね真理愛さん。
俺は真理愛さんに憧れ、真理愛さんの分身であるマリアにもひかれました。
他の人とは少し違っているかもしれないけど、それは自分なりの恋だったんだろうなって考えています。
恋をしていると、生きる力が湧いてきます。
こんなに素晴らしいことが、他にあるでしょうか。
真理愛さん。
俺に愛を与えてくれて、ありがとう。
俺に恋をさせてくれて、ありがとう。
2028年3月27日 月曜日
季節は春となった。
雨上がりのすがすがしい朝、家の外にタイヤが止まる音が響く。
歩夢が窓からのぞくと、桜の木の下に黒いワゴン車が停車している。
しばらくして、予想通り玄関チャイムが鳴った。
緊張しながらのぞき穴をのぞくと、そこに立っていたのは歩夢にとって世界一かわいい女子高生だった。
あの人の目だ。
「日比野君」
扉を開く。
優しく微笑むマリアがいる。
歩夢は思わずマリアを抱きしめる。
「あぁマリア、マリア~」
「慌てないで日比野君。これからずーっと一緒なんだから」
「日比野君じゃなくて、歩夢、だろ。なんか、会話がより自然な感じになってるな」
歩夢がマリアの餅のようなほおを握って悦に入っていると、再びチャイムが鳴った。
「おじさーん」
「その声は合路咲だな。まったく、前は『お兄ちゃん』か『パパ』って呼んでくれたのに、今じゃすっかり『おじさん』扱いだよ。合路咲、今日はお友達が来ているぞー」
居間に入った合路咲は、マリアを見つけたとたん全身から喜びを爆発させて飛びついた。
「ママーっ!」
「合路咲、それはママじゃ……」
いや、まだ小さいのに母親を失ったんだ。
アンドロイドのマリアを母親だと思い込んでも無理はないか。
俺もなんとなく、どっちがどっちだかよくわからなくなってきたしな。
合路咲と仲良くじゃれ合うマリアが、歩夢の手を引き寄せる。
歩夢はそれに応え、マリアと合路咲をいっぺんに抱きしめた。
細い体と小さい体が、俺の腕の中にいる。
俺はこの二人を守るために、生きよう。