61 短い手紙
歩夢は目を閉じて動かなくなったマリアを、彼女自身が持参した大型スーツケースに収納した。
スーツケースは、マリアがピッタリ入る寸法だ。
彼女が持参したグッズは別のバッグに詰め込む。
なにか一つでも記念に残しておきたい、なんて許されないと歩夢は考えたのだった。
今日は遅番だから、まだ時間がある。
タクシーを呼び、丸の内へ向かう。
歩夢は荷物を車の後ろではなく、あえて自分の隣に置かせてもらった。
到着するまでの間、歩夢はずっとスーツケースを抱きかかえていた。
この前マザーリリスを訪れたのが、遠い昔のように感じられる。
マザーリリスは、ちょうど始業時間なのに人影がなかった。
変わらぬ美を誇る受付嬢に、谷中を呼び出してもらう。
「日比野さん、お久しぶりですね。今日はどう、しましたか?」
谷中はスーツケースを威嚇するようににらみながら、歩夢の返答を待ち構えている。
「いただいたマイドールを返却することにしました。オーナーの権限でこのマイドールを、は……は……は……」
「は、は、は? もしかして、マイドールの廃棄処分、ですか? 確かに契約上は、オーナーが希望すれば分解処理することも可能です。ですが、本当にそれでよろしいんですか? お渡ししたマイドールに、なにか問題でも?」
「マリアは俺にとって完璧な女性です。でも、完璧すぎるんだ。あまりにも完璧すぎて……」
悔しそうに言いよどむ歩夢に対し、谷中は沈着冷静を保っている。
「ちょっと理解できかねる理由ですね。もしかして、人間の彼女ができたとか?」
「彼女……どうなんでしょうね。でも少なくとも、守るものはできました」
「やはりそういうことですか。ならしかたないですね。女は嫉妬する生き物ですから」
「どうやらそう、みたいですね……」
「日比野さんもついに恋をした、あるいは愛する人ができたんですね」
空中をさまよっていた歩夢の視線が、谷中に戻る。
「そういえば、前に恋と愛の違いについて話しましたね」
「恋は相手の欠点が見えなくなる、愛は相手の欠点を好きになる、でしたよね。わたし、確かにそうだなって思ったなー」
「それが、最近考え方が変わったんです。恋をするのは自分のため。愛するのは相手のため。だから相手の欠点を好きになって満足するのはまだ恋の段階。相手の欠点を補い支えようとするのが本物の愛だと思うんです」
そう言って歩夢は、スーツケースをじっと見つめた。
「さらに先へ進んだ感じね。そのほうが、目の前の誰かを心から思っているのかもしれないな」
「恋は理想的な夢や希望を見せてくれますが、愛は現実的な日常の努力の中にあるんですよね」
「恋は楽しそうだけど、愛はちょっと地味でつまらない感じじゃない?」
「でも恋は幸福感、愛は幸福そのものなんですよ。きっと」
2027年12月31日 金曜日
歩夢の部屋に真理愛と合路咲が来て、大みそかを迎える。
合路咲は相変わらず黄ばんでいる服だが、真理愛は久しぶりに晴れやかなワンピースだ。
歩夢はあえて、マリアを廃棄したことを伝えなかった。
マリアがいないことには誰も触れない。
だが部屋を見回した真理愛の表情からは、深い安どが読み取れた。
大みそかの鍋も、正月のおせちや煮物も、すでに用意してある。
すべてマリアのお手製だ。
マリアは初めての年越しを心待ちにしていた。
俺が懐かしいのはおふくろの味じゃない。アンドロイドの味だ。
料理を口に入れるたびに、マリアの姿が浮かんでくる。
沈痛な思いが歩夢を襲う。
俺は自分のエゴで、マリアを犠牲にした。
真理愛さんたちには、マリアの分も幸せになってもらわなきゃ。
「俺の……俺の生涯をかけて、必ず幸せにしますから」
歩夢が唐突に放ったその言葉に、真理愛は戸惑いながらも瞳を潤ませる。
真理愛と合路咲は、朝まで歩夢のベッドで眠った。
親子が抱き合って眠る姿は、無限に広がる同情を誘った。
しかし、自分が二人の間に入る余地は一点もないように思える。
俺のことはどう思ってくれてもいい。
真理愛さんには生きる力が足りないんだ。
俺が真理愛さんに、生きる力を与えてあげないと。
俺は待つよ。
真理愛さんに本物の恋ができるようになるまで。
たとえその相手が俺じゃなかったとしても構わない。
本当に愛する人と結ばれるなら、それでいい。
真理愛さんの幸せが俺の幸せ、とはそういうことだ。
歩夢はつい最近までマリアが寝ていたソファに横たわる。
マリアの体温が伝わってくるような気がする。
歩夢は両手で顔をおおい、指の間から嗚咽が漏れる。
それを、真理愛が自分の手をかみながら聞いていた。
一筋の涙がほおを伝わっていく。
ごめんね、日比野君……。
翌朝二人が帰る際、真理愛はいきなり歩夢に抱きついた。
歩夢は腰が砕け、されるがままだ。
「真理愛さん? どうしたんですか? 大丈夫ですか?」
「日比野君、ありがとう。本当に、ありがとう」
真理愛は、どことなく思いつめたような表情で去っていった。
ただ一度だけ振り返った時は、昔と変わらない優しい笑顔を見せた。
歩夢はその姿を、純粋にかわいいと感じた。
やっぱりあの人は光の源なんだ。そう思った。
2028年1月5日 水曜日
夜、玄関チャイムの音が響く。
歩夢は外に合路咲が一人で立っていることに驚く。
「合路咲ちゃん、どうしたの? まさか一人で来たの? お母さんはどこ?」
「ママ、行っちゃった」
合路咲は持っていた手紙を歩夢に突き出した。
「日比野君ごめんなさい。合路咲のことをお願いします。わたしは訳あって旅に出ます。わたしのことは決して探さないでください。楽しい時間をくれてありがとう。わたしは日比野君のおかげで幸せでした」
それしか書いてない。
歩夢にとって、それはあまりにも短い手紙だった。
頭が混乱してなにも理解できない歩夢を、合路咲が揺り動かす。
「マリアに会いたい。ここにいたマリアはどこ?」
歩夢はすぐに真理愛を探そうと思った。
メールしたが、アドレスは抹消されている。
当てはない。
それでもとにかく探すしかない。
しかし合路咲が「マリアに会わせて」と言ってきかない。
あまりに合路咲がしつこいので、歩夢はとりあえず谷中に連絡を取った。
「俺のマリアはまだいますか? あ、俺が返したマイドールのことです。処分は中止してください。まだ間に合いますか?」
「まだ間に合いますよ。そう言ってくるんじゃないかって、わたし思っていたんです」
その言葉は、呪いのごとく歩夢をしばっていた鎖を解いてくれた。
マリアは、まだ生きている。
今まで息を止めていたかのように大きく息を吸い込む歩夢。
「良かった。本当に良かった」
「それと、高良真理愛という女性のことで、お話ししたいことがあります」
「えっ、どういうことですか? なんで谷中さんが真理愛さんのことを?」
「とにかく、弊社までお越しいただけますか?」
歩夢はぐずる合路咲をベッドに寝かしつけ、急いでマザーリリスへ向かう。
そして歩夢は谷中から、事の真相を打ち明けられた。