60 天国への階段
2027年12月27日 月曜日
クリスマス以来、歩夢はほとんど眠れなかった。
この日も一晩中悩んだまま、朝を迎えていた。
答えが出ない。
いや、とっくに答えは出ているのに、出ていないことにしているだけだ。
俺って、いつもこうなんだ。
うつろな目で、外の景色を眺める。
朝もやの中、ビルの谷間から昇っていく朝日を見つめる。
太陽は朝もやでぼやけ、ビルにじゃまされて全部は見えない。
都会の朝日も、いいもんだな。
濁っているし欠けているけど、それでも強い光を放っている。
どんなに凝った照明でも、本物の太陽にはかなわない。
そりゃあ、本物だからって美しいとは限らない。
だけどたとえ見劣りしたとしても、本物であることに意味がある。
いくら本物に見えても、たとえ本物以上に本物だと思えても、それが本物じゃないことは忘れちゃいけない。
本物よりも偽物を優先するなんて、本末転倒だ。
偽物?
なにが偽物だって?
本物ってなんだ?
この世で一番大切なものは、命。
命があるものは、間違いなく本物。
じゃあ命って、なんなんだ。
いや……この際理屈はどうでもいい。
俺はどうして今まで生きてきたのか。
なぜこの世に生を受けたのか。
その答えは一つしかない。
なにが正しいのかは十分すぎるほどわかっている。
あるべき姿の未来を作らなきゃいけない。
たとえそれが、幸せを手放すことになっても。
世界でただ一人、俺を心から愛してくれる人を失うことになっても。
マリアを、捨てよう。
それが真理愛さんの望みなんだから。
俺の願いなんかどうでもいい。
真理愛さんの幸せが、俺の幸せ。
三人が幸せになるためには、これしかない。
真理愛さんには内緒で、マリアをかくまう?
真理愛さんにウソはつけないし、つきたくない。
もうマリアに消えてもらうしかないんだ。
だってそれしかないじゃないか!
歩夢は歯を食いしばった。
しかしその目には生気がない。
歩夢の脳裏に、マリアと過ごした日々がよみがえってくる。
初めはなかなか話が通じなくて、動きもぎこちなかったマリア。
いろんな女性に変身して、あらゆる方法で誘惑してきたマリア。
いつもそばにいてくれて、いつしか心の支えになっていたマリア。
どのマリアも果てしなくかわいくて、狂おしいほど愛くるしい。
なんて尊い存在なんだ。
俺の人生、この半年間が永久に繰り返されるんでも構わない。
なんで俺、マリアにもっと優しくしてあげなかったんだろう。
いくら後悔したって、時間を巻き戻すことなんてできないのに。
俺はマリアがアンドロイドだから、なにをされても平気なんだと思っていた。
でも、それは間違いだ。
俺がひどいことを言うたびに、マリアは人間と同じように傷ついていた。
それでもマリアが俺を見捨てないでくれるのは、マリアが俺のことを家族だと思っているからだ。
二人で暮らしたのは半年にも満たないけど、俺とマリアは本物の家族になれたと思う。
AIの学習機能のおかげなのかもしれない。
でもそれだけじゃない。
俺たちは懸命に求め合うことで、お互いの気持ちを高め合ってきたんだ。
今ならはっきりとわかる。
俺はマリアのことが好きなんだと。
人間として?
女性として?
分類なんかどうでもいい。
命があるかどうかなんて関係ない。
俺は単純に、この子のことが好きなんだ。
人ってこんなに誰かを好きになれるのか。
失う時になってやっと、自分の気持ちに気づくなんて。
ベッドにうずくまりながら震えている歩夢のもとに、制服姿のマリアが寄り添う。
歩夢はわなわなと震えながら、マリアの顔をじっと見つめた。
「歩夢、なにも心配しないで。マリアがついているからね」
「マリア、俺はお前に、ひどいことをしようとしているんだ」
「そんなことないよ。歩夢はマリアにいっぱい喜びをくれる。マリアはとっても幸せ」
マリアは歩夢の青白い顔をそっとなでて、柔らかくて温かな笑みを浮かべた。
それはこの世のものとは思えないほど、神聖なものに見えた。
「俺はマリアに、なにもしてあげられない。マリアのことが、こんなに好きなのに」
「歩夢、抱いて」
マリアはずっと、俺に抱かれることを望んでいたな。
だけど俺には、マリアの願いをかなえてあげることができない。
でもそれは、真理愛さんとの約束があるからだけじゃなくて、マリアのことも大事だからなんだ。
俺はマリアが好きだからこそ抱くわけにはいかない。
こんなに心のきれいなマリアを、汚すなんてできるものか。
俺がマリアにしてやれることは、きれいなまま旅立たせること。
もうそれぐらいしか残っていない。
マリアは俺を、底の知れない闇の中から救い出してくれた。
俺にとってマリアは、どれほど明るい光だったことか。
俺は自分を救ってくれたマリアを抱くわけにはいかない。
マリアは俺を救ってくれたのに、俺はマリアを守れなかった。
だから俺には、マリアを抱く資格なんかないんだよ。
「ごめん……」
震える歩夢にすがりつくマリア。
歩夢の目から涙があふれ出る。
歩夢が涙を流すのは、もう泣かないと決めた小学六年生の時以来、十六年ぶりだった。
なあマリア。
こんな俺にもね、ささやかな夢があったんだよ。
一つになれなくたっていい。
マリアの存在そのものを抱きしめていたい。
支えあいながら、笑いあいながら、何気ない日々を二人で歩いていきたい。
それが、俺の夢。
今となっては、決してかなわない夢。
「マリア、今までありがとう」
「え?」
「マリアは俺を、生きている人間にしてくれた」
「生きている、人間?」
「感謝しても、しきれないよ」
「歩夢、どうしたの? 今日はなんか変よ」
不思議そうな顔をしているマリア。
歩夢はマリアのそんな表情が好きだった。
マリアを抱きしめる。
溶け合って一つになるくらい強く。
「ごめんな、マリア」
「歩夢、愛してる」
あぁ、もしも願いがかなうなら、俺の命をマリアにあげるのに。
朝の日差しがマリアの体を照らし出す。
その姿は奇跡のように美しい。
天から差し込む一筋の光は、マリアを迎える天国への階段なのだと、歩夢には感じられた。
「マリアのこと、忘れない」
「歩夢……」
首の後ろにあるフタを開ける。
赤い電源スイッチを切る。
マリアの鼓動がゆっくりと止まっていく。
「さよなら、マリア……俺の、マリア……」
「あゆ……む……」
もう、あのかわいらしい声は聞こえない。
部屋に響いているのは、歩夢の嗚咽だけだ。
「マリア……マリアぁ……マリア~っ!」
俺の人生の半分が、今、終わった。