57 宝石の瞳
2027年11月6日 土曜日
歩夢は生まれて初めて充実した日々を送っていた。
真理愛からのメールは毎日届く。
彼女のメールを読めば、仕事の疲れは消えてしまう。
スマホを抱きしめ、喜びに打ち震える。
約束の夜、歩夢は日本橋のデパートへ急行した。
息を切らせながら獅子の像の前にたどり着くと、今日も変わらず黒の上下を着ている真理愛が、小さな子供の手を引いている。
真理愛によく似た、たれ目の愛くるしい女の子だ。
宝石のような瞳をパチクリさせながら、周囲のきらびやかな装飾に目を奪われ、落ち着きがない。
しかしクリーム色の子供服は汚れていて、小さな靴は横が破けてしまっていた。
「高良先輩、遅れてすいません。あの……その子は?」
「日比野君こんばんは。この子は、わたしの子よ」
目の前の光景が、グルグルと回転を始める。
彼女の姿を追い求め、ようやく再会し、そこで知ったのは彼女の結婚、出産という予想外の事実だった。
だが歩夢は、あくまでも現実に抗う。
それでも彼女は処女なんだ。
たとえ子供がいたとしても。
体外受精したとか?
なんか奇跡みたいなやつがあったとか?
とにかく違うんだ!
「子供なんて連れてきたら、迷惑だったかなぁ。こぶ付きの女なんて、やっぱりいやよね」
「あっ、いやっ、そんなことないです。そりゃ、いますよね、子供……」
「こんなオバサンで、しかも出産までしていたら、もう女として見られないしょう?」
「そんなことありませんって。えっと、お嬢ちゃんは、何歳なのかな?」
「七歳。もうすぐ八歳」
さすがは真理愛さんの娘だ。
童顔で五歳か六歳くらいに見える。
背もどちらかというと小さいほうだろう。
声もくすぐったくなるようなかわいさだ。
天使が天使を産んだのか。
「お名前は、なんて言うの?」
「合路咲」
「ん、ありさ?」
「『アロサ』って言うのよ。アロサウルスから取ったの」
「えーっ、子供に恐竜の名前? 高良先輩どんだけアロちゃん好きなんですか」
「だって日比野君も、アロちゃん好きでしょ?」
真理愛がいたずらな笑みを浮かべている。
歩夢の全身を、期待と違和感が駆け巡る。
母親に背中を押され、合路咲が歩夢の手をつかむ。
その手は小さくて、柔らかくて、存在の弱々しさを強烈にアピールしていた。
歩夢が顔をのぞくたびに、合路咲は子役のような笑顔を作る。
「もうクリスマスツリーが出ているね。合路咲ちゃんはサンタさんに会ったことある?」
「サンタなんて信じたことない。プレゼントをもらえるかどうか。ただそれだけのこと」
「アハハッ。子供なのにドライだなぁ。将来が楽しみというか、末恐ろしいというか……」
人間が苦手な歩夢だが、有寿を相手にしていた経験から、幼い女の子の扱いには慣れていた。
生身の人間の中で、一番得意な種類と言っていい。
合路咲との会話を持続させる歩夢を、真理愛が何度もうなずきながら観察していた。
一方歩夢のほうは、二人の服装が気になってしかたない。
二人とも安物の薄着で、いかにも寒そうだったからだ。
歩夢は、二人が欲しそうに見ていた服ならなんでも買い与えた。
真理愛も合路咲も必ず一度は遠慮して、二度目には型通りの礼を述べる。
三人は閉店時間の近いデパートを急いで回った。
歩夢が両手で持ちきれないほど紙袋が増えていく。
「今度合路咲の誕生日なのぉ。お兄ちゃん、合路咲の誕生日を祝ってぇ」
「もちろんだよ。お兄ちゃん、嬉しいな」
歩夢は親子をデパートの最上階にある老舗の洋食店へ連れていった。
裕福な家庭で育った合路咲は、幼い頃から舌が肥えているのだという。
親子はろくに会話もせず、真理愛は二人前、合路咲も大人一人分の分量を食べ尽くした。
二人の食べっぷりを見ていると、歩夢は気分爽快だった。
大食は健康の象徴だからだ。
真理愛さん、見た目よりは元気そうで良かったなあ。
合路咲ちゃんも健康に育ってるみたいだし。
「食後のデザートも、いっときますか?」
「あら、良かったわね合路咲。じゃあそうね、このケーキとパフェとアイスクリームにしよっか? えっ、パンケーキとワッフルとクレープも食べたいの? ごめんなさいね、日比野君」
「どうぞどうぞ、いくらでも食べてください。高いもんから持ってこいって感じですよ~」
三人が食事を終えてデパートを出た時、時計の針はすでに夜十時を過ぎていた。
「日比野君、合路咲が眠たくなってきたみたいだから、そろそろ失礼するわね」
「あっ、そうですよね。引きずり回しちゃってすいません」
別れを告げながらも、親子はなにかを待っている。
慌ててコンビニのATMに駆け込む歩夢。
「すいません、気が利かなくて。少なくて、すいません。でも、高良先輩、俺……」
「いつもありがとう、日比野君。わたしのことは、真理愛って呼んでくれていいのよ」
「ま、真理愛……さん。俺、俺、がんばりますからっ」
子供のために金と父親が欲しいのか?
必死すぎるよ。
人間はずるい生き物だな。
俺はすっかり都合のいい男だ。
このままじゃ人生破滅だな。
こりゃあ笑うしかないや。
自宅のソファに寝ころんで、歩夢は三人で暮らす光景を思い描いていた。
隣には、和装のマリアがつつましやかに座っている。
冬が迫っているというのに、あまりに無防備な浴衣姿だ。
「今日は寒いだろ。そんな薄着で平気なのか?」
「大丈夫。マリア、暑さ寒さはへっちゃらなの」
「そうか。マリアは平気なのか……」
「だんな様寒いの? マリアが温めてあげる」
「マリアは、いつも俺のことばかり考えてくれるんだな」
「だって、それがマリアの幸せなんだもの」
歩夢には、自分に微笑みかけるマリアのほうが、真理愛親子よりもずっと幸せそうに見えた。