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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第十一の試練 俺は人妻を抱くわけにはいかない
56/66

56 至福の時

 2027年10月20日 水曜日



 入社して初めての有休を取得するため、歩夢は日下部の前で土下座した。


「水臭いじゃないっすか~。でもそこまでするって、まさかデートっすか? デートっすよね?」

「べつにデートっていうんじゃないんだけど、一応女の人と会うんだ」

「やったーっ。なんか俺、嬉しいっす」


 この一ヶ月たびたび過労で倒れている日下部は、快く了承してくれた。



 そして決戦の日、歩夢はまずスーツを新調した。

 生まれて初めて買ったブランド物だ。

 デパートでさんざん迷った挙句、店員に推されたダイヤの指輪を購入。

 ネットで調べて、銀座にあるセレブ御用達のフレンチレストランを予約してある。


 考えついたことはすべてやり尽くした。

 歩夢はこの日すでに、一ヶ月分の給料を使い果たしている。


 笑えるな。

 これじゃまるで、その辺の恋愛バカたちと同じじゃねえかよ。



 決戦の地である銀座へ行く前に、歩夢は正反対の方向にある上福岡駅へ向かった。

 辛い記憶がよみがえる町だが、歩夢はどうしてもそこにある花屋に立ち寄りたかったのだ。


「あの、この真っ赤なバラをください」

「お、あの時の兄ちゃんじゃねえか。あんまり必死な顔してたもんだから、よく覚えてるよ。本当に来てくれたんだな。嬉しいねえ」


 花屋の主人は上機嫌で花束を作ってくれた。

 深紅のバラを挟んで、二人の男が花に負けない笑顔を咲かせる。



 歩夢が時間通りに待ち合わせ場所へ到着すると、すでに真理愛は待っていた。


 黒い上下は、明らかに十年前に着ていた服と同じだ。

 フレンチレストランに行くと伝えたのに、どう見ても化粧しているようには見えない。

 それでも歩夢の胸は躍った。

 差し出した花束が震えている。


「高良先輩、こんばんは。お誕生日、おめでとうございます」

「まあ、ステキなお花。ありがとう。嬉しいわ。今日はいわゆる、デートってやつね」

「えっ、デ、デート……」


「あっ、ごめんなさい。こんな老けた女とデートなんて、いやよね」

「そんなことないです。光栄です。人生初のデートが、高良先輩の誕生祝いになるなんて」

「そうなの? なんか悪いわ。記念すべき初デートの相手が、こんなくたびれたオバサンじゃ」

「なんてこと言うんですか。さあ行きましょう」


 足の不自由な真理愛に、歩夢はしばらくちゅうちょした後、そっと手を差し伸べた。


「あら、日比野君って紳士なのね」


 真理愛が不自然な笑顔を浮かべ、手を差し出す。

 彼女の手は荒れてザラザラした感触だった。

 それでも本物の真理愛に触れたのだ。

 胸の高鳴りが止まらない。



 高級レストランで真理愛と二人きり。

 歩夢は挙動不審に見えるほど緊張していた。

 初めて口にするシャンパンで乾杯すると、歩夢は震える手で指輪のケースを差し出す。


「あ、あの、これ、安物なんですけど、ほんの、気持ち、ですから……」

「あら、そんな高そうな物、受け取れないわ」

「ああっ、すいません。こんなことされたら迷惑ですよね。ストーカーですよね。変質者ですよね」


「そんな言い方しないの。全然迷惑なんかじゃないわ。なにも悪いことしてないんだから、謝ることなんてないのよ。そしたら、せっかくだからいただいておくわね」

「あぁ、良かったぁ。受け取ってくれて、ありがとうございます、ありがとうございます」


 ホッとした表情の歩夢。

 しかし真理愛の顔からは感動が伝わってこない。

 その表情が示すのは、喜びでもなく怒りでもない。

 強いて表現するなら、警戒心だ。



 歩夢がまったく落ち着けない雰囲気の中、食事は厳かに進んだ。

 話を盛り上げようとしても、空回りするだけの歩夢。

 思考回路はショート寸前。


 だが話題を迷わなくても、真理愛が歩夢の仕事や収入や貯蓄のことなどを矢継ぎ早に質問し、歩夢はただ答えるだけでよかった。


「日比野君は彼女いないの? 昔みたいに前髪で顔を隠さなくなったし、モテるんじゃない?」

「俺がモテるわけないじゃないですか。ずっと女の人たちに毛嫌いされてきたんですから」

「それは他の男の人みたいに自分を装うことをしないからでしょ。本当の日比野君を知れば、好きになる子はたくさんいると思うわ。だって日比野君の優しさって、純粋だから」


 歩夢は思い出す。

 自分が身分不相応に拒絶してきた女の子たちのことを。


 本当に優しい男なら、あんな風に傷つけたりはしないはずだ。


「とんでもない。俺は女性にひどいことを言って、傷つけてしまうんですよ」

「大丈夫。女は感じ取るのよ。相手が自分のことを大切に思ってくれているかどうか。日比野君がどんなに悪い人のふりをしても、いい人だってことは全身からにじみ出ちゃってるわよ」

「おだてないでください。なにも出ませんよ」


「日比野君、キラキラ輝いてる。わたしみたいな貧乏臭い女、とても相手にしてもらえないわ」

「そんな悲観的な言い方、高良先輩らしくないですよ。ちょっと酔っちゃいましたか?」


 真理愛の笑顔は、ひどく暗かった。

 結婚生活について質問した時には、真理愛の顔がゆがんだ。


 それでも地学部の話になると、昔の面影がよみがえった。

 視線を斜め下に下げる時は、「あぁ、やっぱり真理愛さんだ」と思えた。

 喜びがこみ上げて、脳天から噴火しそうだ。



 フルコースの食事が終わり、支払いが済んで、歩夢は再び真理愛の手を取った。


 真理愛がつまずく。

 歩夢が支える。

 心臓が破裂しかける。

 真理愛の口角が上がる。

 少し汗の臭いがする。


 そして真理愛は、歩夢の耳元でつぶやいた。

「正式に離婚が成立したの」


「えっ、そ、そうですか……」

「夫から生活費をもらえなくなっちゃったの。少しでいいから、お金貸してもらえないかな」


 歩夢に迷う理由などなかった。

 近くにあるATMを目指して猛進する。

 預金から三十万円を引き出した。


 少し厚みのある封筒を、背後でじっと見ていた真理愛に差し出す。

「そんなにたくさん、受け取れないわ」と言いながら、真理愛は普通に受け取った。


「また必要になったら言ってください。俺がなんとかしますから」

「ありがとう。日比野君って、相変わらずいい人ね」


 大事そうに封筒をしまった真理愛は、礼だけ言って早々に帰っていった。

 歩夢は彼女の後ろ姿を見送りながら、何度も何度もうなずくのだった。



 歩夢が外食することを伝え忘れていたため、メイド姿のマリアは食事を用意して待っていた。

 野菜中心の、低カロリーで栄養満点のメニューだった。


「明日食べるからラップしといてくれ。今日はごめんな。本当にごめんな」

「お気になさらないでください、ご主人様。マリアは全然平気ですから」


 食事を片付けるマリアの背中が、どことなく寂しそうに感じる。

 腰を振るメイドを眺めて楽しんでいたのが、遠い過去のように思えた。



 マリアのマッサージを断った歩夢は、一人ベッドに倒れ込む。

 天井を見上げていると、まるでそこにスクリーンがあるかのように、今日の真理愛が鮮明な映像として浮かんでくる。


 さっきの真理愛さん、やたらと気をつかっていたな。

 まるで自分が俺よりも格下、みたいな言い方をして。


 生活に困ってのことか。

 離婚したとはいえ、後輩の金を当てにしなきゃいけないなんて。


 人間ってつくづく面倒だな。

 なにもかも面倒だ。


 でもこのまま尽くしていれば、そのうち真理愛さんと……。


 いやいや、金の力でどうにかする気かよ。

 それはひきょうすぎるだろう。

 あの日の誓いを思い出せ。


 俺は特別な人を抱くわけにはいかない。


 いくら状況が変わったって、関係性が変わるわけじゃないんだから。



 そっちの話はともかくとして、このまま真理愛さんにつきまとって、その後はどうなる。

 あの頃用意したフローチャートも、今のところまるで役に立っていない。

 こんな俺が彼女の人生を背負って、未来永劫守っていけるのか?

 そんな自信も資格も、俺にはないじゃないか。


 それにわざわざなにかとわずらわしい人間と付き合わなくったって、俺にはなんでも言うことを聞いてくれるマリアがいる。


 そもそもあの真理愛さんは、俺の知ってる真理愛さんなのか?

 見れば見るほど、俺の中の真理愛さんから遠ざかっていくじゃないか。


 なんとなく俺の中の真理愛さんは、もうすでに俺のマリアでできているような気がする。


 俺の偶像はあくまで真理愛さんだ。

 でもその偶像のモデルは、いつの間にか真理愛さんからマリアに移っていた。


 つまりいつもそばにいてくれるマリアこそ、俺にとって本当の真理愛さんだってことなんじゃないのか。



 メイド服のマリアが寝室をのぞく。

 誘惑するためではない。

 歩夢が眠っていることを確認してから省エネモードに入るのが、マリアの最後の日課なのだ。


 歩夢が眠っているふりをしていると、マリアは安心した表情で戻っていく。



 真理愛からメールがきた。

 今度デパートへ買い物に行くが、荷物が多くなりそうなので手伝ってほしい、という内容。


 歩夢は即返信する。

「行きます。嬉しいです」と。

 人生初の顔文字まで使って。


 それは、至福の時。

 深い深い海の底に、ゆっくりと落ちていくような。

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