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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第十一の試練 俺は人妻を抱くわけにはいかない
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55 懐かしい痛み

 2027年10月5日 火曜日



 今日も心身をむしばむ労働が終わった。

 日々すり減っていく心を抱えながら、サンシャインシティの外へ出る。

 うつろな目でイベントのポスターを眺めた歩夢は、皮肉な笑いを浮かべた。


 サンシャインシティでは、長崎市で発掘された恐竜をテーマにしたイベントを開催中。

 長崎市は国内最大級の鳥脚類恐竜の化石が発見されるなど、日本有数の化石の産地となっていた。



 高校卒業から、来年で十年か。


 あの日の後、何度か屋上の柵を乗り越えて、あの人が立っていた所に行ってみたけど、結局俺は飛び降りなかった。

 あの人の記憶がよみがえってきて、踏みとどまってしまうんだ。

 なんでそうなるのか、よくわからなかったけど。


 それからの俺は、ただ惰性だけで生きてきた。

 我ながら、よく生きていたと思う。



 歩夢はいつも通り、髪の長い女性に振り返る。

 ほとんど無意識のルーティーンだ。


 だがその時、歩夢は雷に打たれたかのような衝撃を受けた。

 足を止め、目を凝らし、その女性を見つめたまま動こうとしない。


 まさか。


 その女性は左足を引きずっていた。

 顔の両側に目立つ傷跡がある。

 だがその女性が着ている服は、歩夢の家にもある、初夏の爽やかな風を呼ぶワンピースだ。


「真理愛、先輩?」


 思わず下の名前で呼んでしまった。

 歩夢の震える声に、傷だらけの女性は振り返った。


「日比野、君……」


 真理愛さん、真理愛さん、真理愛さん。

 会えた。

 やっと会えた。

 ついに会えた。


「真理愛先輩……元気……元気で……お元気、でしたか?」



 真理愛は屋上から落ちた時、とっさに屋上の端をつかもうとしたおかげで若干落下速度がゆるみ、地面に生えていた野花がクッションとなって致命傷を免れていた。


 しかし形式上は事故として扱われた落下の後、真理愛の消息は不明となり、無事なのかどうかさえわからなかった。


 歩夢はこの十年間、ただひたすら、真理愛の無事を祈っていた。


 その真理愛が目の前にいる。

 歩夢はそれが真実なのかどうか確信が持てない。



 唇を震わせる歩夢に、真理愛はひどく疲れた笑顔を見せた。


「なんとかね。ありがとう」

「あの、体のほうは……」

「全身を骨折して一年くらい入院してたけど、体にいくつか後遺症が残っちゃって」


 歩夢は真理愛が生きていてくれただけで、心の底から嬉しかった。

 どんな姿になっても、どんな境遇であっても、生きていてくれさえすれば、それだけで十分だ。


「わたし、老けたでしょ。いわゆる劣化ってやつね」


 今どきの三十代女性は、二十代に見えるほど若い。

 もっと上の年代でも、若々しい女性が増えてきた。

 だが真理愛は、三十七歳とは思えないほどやつれて老け込んでいた。

 化粧すればだいぶ若返るはずだが、ほぼノーメイクらしい。

 美しさを誇っていた髪も、痛みが激しくパサパサだ。


 どれだけ苦労してきたんだ。

 どんなに辛い人生だったんだろう。


「そっ、そんなことありません。相変わらず、かわいいです」

「いいのよ。事実なんだから」


 慌てて否定したものの、真理愛に苦笑いをされてしまった。

 歩夢は夢にまで見ていた再会を、苦々しいものにしてしまったことを悔やんだ。


「あの、せっかく会えたんですし、お茶でもしませんか?」

「ごめんなさい。今日はもう遅いから」

「ですよね……。でも、せめて教えてください。今、大丈夫なんですか? 幸せなんですか?」

「幸せ? 幸せねぇ……」



 不敵な笑いを浮かべた真理愛は、暗い声で自分の状況を語った。


 落下の翌年、先輩である安道と結婚した。

 高額な医療費を払ってもらったことが一番の理由だ。

 嫉妬深い夫の命令により、安道家以外の人間関係はすべて断たなければならなかった。


 夫は大学の准教授を辞めて独立行政法人の研究員になり、生活は裕福だった。

 しかし神経質で横暴な夫からはDV、名家の出である姑からは嫁イビリ。

 心労で体を壊し、離婚を申し出た。

 現在は夫と別居し離婚調停中。

 仕事に就くことができず、生活費は夫からのわずかな送金に頼っている。


 懸命に真理愛の話を聞いていた歩夢は、その内容が衝撃的すぎて目が回りそうだった。


 こんなことってあるか?

 こんなにまじめな人が、なんで不幸にならなきゃいけないんだよ!


 俺が今やるべきことは……フローチャート、フローチャート……。

 ちくしょう、いざとなるとなにからやればいいのかわからねえ。



「日比野君がすっかり立派になっていて、わたしビックリしちゃったわ」

「立派なんてとんでもないです。まるで甲斐性のないサラリーマンで」


「そんなことないわ。せっかくだからアドレス交換しない? スマホとか持ってないから電話はできないんだけど、タブレットでメールだけはできるから。今度あらためて会ってもらえれば、嬉しいんだけどな」

「はっ、はい! ぜひお願いします!」


 歩夢は真理愛と連絡先を交換した。

 スマホにタッチする指が震えていた。



 歩夢は池袋駅へ向かう真理愛のやせ細った背中を見送る。

 その後ろ姿に、失いかけていた希望の復活が見える。

 街が色づく。

 止まっていた時間が動き出す。

 懐かしい痛みがよみがえる。


 あの人が、結婚?

 でも夫がいるからってなんだ。

 あの人は処女だ。

 たとえ結婚しても、そんなことはしないはず……。


 それにしても、なんか俺にこびてなかったか?

 この再会を機に、真理愛さんと……。


 いや、ないない。

 離婚調停中とはいえ、彼女はまだ人妻なんだ。


 俺は人妻を抱くわけにはいかない。


 不倫はダメだ、不倫は。


 いや、そもそもそんなハレンチなこと、独身であっても許されない。

 なんで俺の頭に、そんなやましい考えが生まれちまったんだろう。



「お帰りなさい。ア・ナ・タッ」


 帰宅した歩夢を、OL風のマリアが出迎える。

 心から楽しそうな笑顔だ。


 ソファに座ってマリアのなまめかしい腰つきを眺めながら、歩夢は物思いにふけった。


 人間は年を取る。それが自然界の理。

 加齢は残酷だ。


 大半の男は、女性は若いほうが価値があると思っている。

 そういう意味では、年を取らないアンドロイドこそ理想の女性、ってことになるだろう。


 でも年齢の問題だけじゃない。

 彼女と再会して感じた違和感。

 彼女と記憶の中の女性が、同一人物とは思えないからだ。


 俺が探していた女性は、本物の彼女とは違う。

 俺が求めていたのは、俺自身が作った理想の女性像。

 あくまでも俺の想像であって、どこにも実在していない。



 早速真理愛からメールが来た。

「会えて嬉しかった」という社交辞令。


 歩夢が地学部の関係者たちに真理愛の無事を連絡すると、みんな一応喜んだものの、意外に反応が鈍い気がした。


 学生時代の付き合いなんて、そんなものなんだろうか。


 真理愛に「地学部のみんなで集まりましょう」と送ると、「今の外見がひどすぎるから、大勢で会うのは少し先にしたい」と返ってきた。


 そこで歩夢は一か八か「自分に誕生日を祝わせてもらえませんか」と送ってみる。


 返事は「ありがとう。楽しみにしているわ」だ。

 人生初のガッツポーズが炸裂する。


「歩夢、なにかいいことでもあったの?」


 歩夢が嬉しそうだと、マリアはとても嬉しそうだ。

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