54 伸ばした手
2017年10月29日 日曜日
生まれて初めて人生の目的を得た歩夢は、自分がこれからなにをすべきなのか思案した。
真理愛先輩って、いかにも体が弱そうなんだよな。
だからまず第一に、健康に気をつけてあげないと。
薬とか栄養のある食べ物とか、時々差し入れてみるか。
本当は俺が料理をして、一緒に食べたりしたいんだけどな。
そうそう、体だけじゃなく、心の健康も重要だ。
真理愛先輩の場合、地学部の思い出が救いになっているんだよな。
高校を卒業したら、毎年地学部のOB会を開くことにしよう。
そうすれば、病気の先生だって元気になってくれるかもしれないし。
社会人になったら、がんばって稼がないといけないぞ。
お金に無頓着そうな真理愛先輩が、いつ生活に困るかわからないからな。
真理愛先輩にはずっと、やりたい研究に没頭していてほしい。
いつでもお金を渡せるように、できる限り貯金しておこう。
前に真理愛先輩、結婚はできそうにないとか言っていたっけ。
だけどどうせいつかは、誰かと結婚しちゃうんだろうな。
その時がきたら、地学部のみんなで盛大に祝ってあげないと。
真理愛先輩の花嫁姿なんて見たら、俺号泣しちゃうかもしれないな。
真理愛先輩に子供……子供?
ダメだ、それだけは想像つかないや。
だって、処女に子供はできないんだから。
子供がいなくても人生が豊かになるように、あれこれ考えておこう。
なんだよ。
これからの人生、やたら忙しいじゃん。
やらなきゃいけないことが山積みだ。
ややこしいから、フローチャートでも作ってまとめておくか。
それで真理愛先輩がこうなったら俺はこうするとか、細かく書き込んでおく。
考えつく限りの選択肢を用意して、どんな事態にも対応できるようにしておこう。
そうすればいざという時、慌てないで冷静に行動できるからな。
俺、肝心な時に限ってパニクっちまうし。
で、俺がいなくなった場合のことも考えておく。
後を託せる人を、あらかじめ選んでおく必要があるな。
たとえ俺が死んでも、真理愛先輩が絶対不幸にならないように。
歩夢は筆記用具を用意し、手書きでフローチャートを作成していった。
真理愛先輩の体や財産が狙われないように、常に監視しておく。
真理愛先輩が借金したら、自分がこっそり返済しておく。
真理愛先輩が研究機関に就職できるように、裏から手を回す。
真理愛先輩が勤める研究機関に、多額の寄付をする。
生命保険にたくさん入って、保険金の受取人を真理愛先輩にする。
自分がいなくなっても真理愛先輩を守れるように、あらかじめボディガードを雇っておく。
そんなことを何百、何千と書き込んでいった。
食事をするのも忘れて、ひたすら書いていった。
フローチャートの書かれた紙が何十枚、何百枚と増えていく。
それぞれの紙は穴あけパンチで穴をあけられ、ひもで結びつけられた。
連結された紙は巨大化し、六畳の部屋を埋め尽くす。
興奮で歩夢は鼻息が荒くなり、顔は充実感で紅潮した。
いつの間にか、ずいぶんたまってきたな。
でもまだまだ足りないはずだ。
それに、本人に気づかれないように支える工夫も考えておかないと。
そういうの、ネットとかに出ていないかな。
歩夢はスマホでネットを検索しようとしたが、いくら探してもスマホが見つからない。
床をおおうフローチャートの紙をめくってみても、スマホはどこにも見当たらなかった。
「ああっ、スマホを見ようとした時仲間に話しかけられて、とっさに机の中にしまって、それでそのまま忘れてきちまったんだ。なんだよ十八で痴呆症かよ。ボケてる暇なんてないのにさ」
歩夢はしかたなく、日曜日の学校へ向かった。
道中、歩夢はいつも通り髪の長い女性に振り返る。
時折立ち止まっては、周囲の風景に目を凝らす。
道路も、公園も、校舎も、すべてが真理愛との思い出につながっている。
道路の隅にも、建物の影にも、空の上にだって、真理愛の面影が見える。
この世界には、あの人があふれているな。
この世に存在するすべての原子の中心に、あの人が存在しているような気がする。
あの人がいなければ、この世界は成立しない。
この世界がある限り、あの人は存在している。
そばにいられないことぐらい、どうってことないじゃないか。
俺が役に立てるかどうかなんて、ささいなことだ。
俺の用意が全部ムダになるくらい、幸せでいてくれればそれでいい。
とにかく元気でさえいてくれれば、幸せは後からついてくるはずだ。
どこかであの人が元気に、幸せに暮らしている。
こんなに嬉しいことが、他にあるか?
それに俺には、あの人との思い出がある。
それだけで、俺は残りの人生を生きていける。
あーでもやっぱ、ちょっとぐらい俺のことを頼ってくれねえかなあ。
そんなわがままなことを願ったら、バチが当たるかな。
思索にふけりながら、歩夢はスマホをつかみ校舎を出た。
校門を出て左に折れ、また左に折れ、校舎の裏側に接する道を進む。
それは駅への最短ルートではないが、静かで歩夢が好む道筋だった。
部活は昼休みに入ったらしい。
辺りを静寂が包み込んでいる。
ふと、甘い香りのするそよ風が歩夢のほおをなでていった。
歩夢は風の来た方向へ振り返る。
ん?
屋上に誰か立っている。
屋上の端に立っている。
ずっと遠くを眺めている。
魂が抜けたような顔をしている。
水色のワンピースが、風になびいている。
歩夢は校舎に向かって走った。
距離は近いようで遠い。
永遠にたどり着けそうにないほど遠い。
女性が、落ちた。
精一杯、手を伸ばす歩夢。
これが空想なら、あの人の体を受け止めてあげることができるのに。
女性は落ちる瞬間、歩夢のほうを見てハッとした顔をした。
手を伸ばし、壁の端をつかみかける。
だが力及ばず、下へ向かって落ちていく。
服のすそがふんわりと風にはためいた。
しかし落下は、残酷なまでに一直線だった。
俺がいるって……。
俺がいるって、言ったじゃないか。
目の前が真っ黒な闇で覆われていく。
この世から物質が消滅する。
世界は完全なる無と化した。
歩夢はこの後の記憶があいまいだ。
ひどく体調を崩したことも、かなりの期間メンタルを壊していたことも、よく覚えていない。
部員や明差陽の尽力によってギリギリ留年を免れたことも、卒業した後にようやく認識できたくらいだ。
ただ当時自分が抱いていた思いだけは、はっきりと覚えている。
俺の人生は、無意味だった。