52 乱れる呼吸
2017年9月8日 金曜日
二学期の初日、放課後地学部の部員たちが部室に集合した。
堤と宝蔵院も来ている。
小平先生に、知り合いの研究者たちから集めたという情報を教えてもらう約束だった。
「た、から君はぁ、なぁにも、悪かぁ、なかっ、たんじゃ」
まじめで優秀な真理愛は、嫉妬した男性研究者たちから執拗な妨害にあっている。
論文の一部が盗用だと指摘されて助手への道が絶たれたが、研究の経過や論文の日付からして、これは加害者と被害者が逆だと考えた方がつじつまが合う。
その一方でたくさんの男性研究者が真理愛に交際を申し込み、けんもほろろに断られていた。
ふられた男性たちは真理愛を冷遇し、噂を伝え聞いた女性たちも真理愛を無視するようになる。
特に安道という名の資産家の御曹司が彼女を気に入ったことで、玉の輿を狙う一部の女性たちの恨みを買った。
ネット上に悪い噂が流れるようになったのも、安道が真理愛をしつこく誘い始めた頃からだ。
もはや学内に真理愛の味方はいない。
パワハラとセクハラが繰り返される日々。
真理愛が進めていた長崎市での化石発掘も、大学は正当な理由もなく不参加を決定した。
そして真理愛は助手になるどころか、ポストドクターの契約さえ打ち切られてしまう。
悪評が災いし、他の研究機関に応募しても門前払い。
真理愛の学会での将来は、完全に断たれたといえるだろう。
「契約のことは、俺のせいだ。俺が研究室に行ったりしたから」
「いんやぁ、もっ、っと前かぁら、決まっとっ、たらしぃ」
小平先生は次第に滑舌が悪くなっていった。
普段からはきはき話すほうではないが、今日の話し方は明らかにおかしい。
だが歩夢は、自分が犯した罪のことで頭がいっぱいだった。
「先生大丈夫っすかー? 今日なんか変じゃないっすか?」
「顔色が悪いですよ。先生今日はもう休んでください」
堤と宝蔵院の指摘で、歩夢はようやく先生の異常に気づく。
「ぼ、くぁ、なんにぃ、も、し、てやれん、かた。くや、しぃ、のぉ」
小平先生の視点が定まらない。目が血走っている。
男性陣が支えて地学準備室へ連れていこうとするが、小平先生は脚がもつれていた。
痛そうに頭を押さえる。うめき声を上げる。
それを見て叫ぶ歩夢。
「ダメだっ、救急車!」
一之瀬が瞬時にスマホを取り出し、電話をかける。
小平先生は救急車で病院へ搬送された。
部員たちは付き添った宝蔵院からの連絡を聞き、がく然とする。
診断の結果は、脳梗塞だった。
2017年9月9日 土曜日
放課後、地学部員たちは境、宝蔵院と共に板橋区栄町にある病院へ向かった。
そこに入院している、小平先生のお見舞いをするためだ。
全員言葉数が少なく、足取りは重い。
病室の前には、すでに真理愛が来ていた。
薄暗い廊下に、白いブラウスが浮いているように見える。
元々スリムな真理愛が病人のようにやせ細り、首には筋が痛々しく際立っていた。
真理愛は何度も深呼吸してから、険しい表情で病室に入っていく。
小平先生は静かに眠っていた。
白髪の多い髪が乱れている。
その横には、六十代の姉と三十代のおいが付き添っていた。
かん高い声でよくしゃべる姉いわく、命に別状はないが記憶障害が出ていて、身内のことさえはっきりとは認識できないらしい。
「母さん、あの女が例のネットに出ていた魔女だよ」
息子の言葉を聞いたとたん、姉の目つきが変わった。
獲物を見つけた猛きん類の目だ。
「そうかい。あんたが弟をたぶらかせたんだね! なんてことしてくれたんだい! 弟はまじめだけが取り柄の男だった。来年無事に定年を迎えるはずだったのに。でも驚いたわ。相手がこんなに若い女だったなんてね。どうせ弟の退職金でも狙ってたんでしょ。でも残念だったわね。あんたなんかに、誰が遺産を分けてやるもんですか!」
「先生は亡くなったわけじゃないじゃん」
思わず口を挟んだ一之瀬を、宝蔵院が肩を抱き寄せて黙らせる。
真理愛の肩がおびえるように震えている。
「わたしと先生は、決して疑われているような関係ではございません」
「そんなことはどうでもいいんだよ! 誰が弟の介護をするのよ! あんたが面倒みてくれるの!」
「わたしで、よろしければ」
「やっぱり遺産狙いなんじゃない! あんたになんか、びた一文やらないから!」
真理愛は十分以上、姉の毒々しい叱責を受けた。
真理愛はただひたすら謝り続けていた。
「ほんとに悪い女だね! あんたなんか、この世に生まれてこなけりゃ良かったのに!」
じっと黙っていた歩夢だったが、息も絶え絶えな真理愛を見て、がまんが臨界点に達する。
「いくらなんでも、それは言いすぎでしょう。高良先輩はなにも悪くないのに」
「なんだって! この女が全部悪いんじゃないか! なんだい、責任も取れないくせに!」
「日比野、やめなさい!」
宝蔵院に腕をつかまれて、歩夢は歯を食いしばった。
宝蔵院の手も震えていた。
説教は、その後二十分近く続いた。
姉が一段と声を張り上げた時、小平先生のまぶたがゆっくりと開く。
「みぃ、なさん。か、んそっくを、はぁじめま、しょぉ」
「はい、先生。今日はたくさんの流星が観測できそうですね」
「た、から、くん……すまない、なあ」
意識が混濁しながらも自責の念にさいなまれる恩師の姿に、こらえきれず大粒の涙を落とす真理愛。
病室の外に追い出された地学部一行は、肩を落としながら駅までの道を歩いた。
東武東上線大山駅周辺の商店街は長く、夕方は買い物客で混雑している。
「なんだよあのクソババア、言いたい放題言いやがって!」
歩夢は独り言のつもりで毒づいたのだが、つい声が大きくなってしまっていた。
「貴様はなにもわかっていない。あの人は病気の先生をずっと背負っていかなきゃならないんだ」
「だからって、なんの罪もない高良先輩に当たっていいわけないでしょう!」
「だったら貴様になにができるんだ? わたしたちは責任を負うことができない。だからこそ、真理愛先輩はじっと耐えて、やり場のない怒りを受け止めてあげていたんじゃないか」
「責任? なんだよそれ」
「全部、わたしが、悪いんだから。ハア、ハア、ハア」
それは今にも消え入りそうな声だった。
真理愛は呼吸が苦しそうで、だんだん息が荒くなり、胸を押さえて苦しみだす。
真理愛の顔色を見た歩夢の顔も、鏡に映したように蒼白になっていった。
「ダメだ! 過呼吸だ!」
慌てて部員たちが駆け寄り、一之瀬が真理愛の体を支え、宝蔵院が背中をなでる。
「ハア、ハア、ハア、だい、じょうぶ。すぐに、落ち着く、から」
「ダメですよ。今すぐ病院に行きましょう」
「ハア、ハア、ハア、日比野君、わたしは、平気よ。みんな、迷惑、かけて、ほんとに、ごめんね。お願い、だから、このまま、一人で、帰らせて」
必死の形相で懇願する真理愛に、後輩たちは別れの挨拶をするしかなかった。
歩夢はせめてできる限り長い間、真理愛の姿を見守っていたいと願う。
けれど細い背中が人込みに紛れて消えていくのに、たいした時間はかからなかった。
情けない。
あの人の役に立てないんじゃ、俺が生きている意味なんて、ない。