51 唯一の願い
明差陽に責め立てられた歩夢は、自分の頭の中に反論を探した。
それは自分で自分に言い訳するために並べてきた理屈の数々だ。
「確かに、あの人のことを考える時もあった。でもそれは、お前が言うような性欲を含めた恋愛感情とは違う。あの人は、あくまで人として理想の存在だったんだ」
「女性に対する要求が多すぎて、それに見合う女性は高良先輩だったってことでしょっ」
「全然違うよ。抽象的な存在として、ただ遠くから眺めているだけでよかった。それ以上はなにも望まない。だからセックスしたいなんて思わないし、一人エッチにも使わない」
明差陽は急に黙ってうつむき、見てはいけないものを見るように歩夢を見た。
「だったら、だったらあたしはどうなのよっ。その……一人で……」
「あ……うん……したこと、ある。っていうかしょっちゅう。昨日もしたし」
「えっ」
明差陽は顔から胸元まで一気に赤くなった。
顔を両手で隠し、乱れた呼吸を整えてから手を離す。
「それって、あたしのことが好きだってことじゃない。あんたは、あの人よりもあたしのことが好きなんだよ。だったら好きだって言えよバカ!」
明差陽は怒りをぶつけるような態度だが、瞳はまろやかに潤んでいる。
歩夢は際限なく高ぶろうとする気持ちを抑えつける。
「違うんだ。二人とも恋愛の対象じゃない。性欲の対象だろうが人としての理想だろうが同じだ。俺は誰も恋愛の対象にはしない。なぜなら俺には、恋愛なんか必要ないからだ」
「そうやって、一生自分をだまし続けるつもり? それで死ぬまで一人ぼっちでいるつもりなの? 一生童貞で、あたしとかで一人エッチするだけ? そんな寂しい人生でいいわけ?」
「それこそ、俺にふさわしい人生だ。童貞バンザーイ、一人エッチバンザーイ」
悲しみで満ちた明差陽の顔に、悲壮な覚悟が浮かび上がってくる。
「だったら、あたしが抱かれてあげる」
明差陽は立ち上がり、ブラウスのボタンを外し始めた。
艶やかな肌の垣間見える隙間が、上から下へ広がっていく。
明差陽が脱ぐ?
あの明差陽を抱ける?
いかん、思わず見物してしまった。
俺は友達を抱くわけにはいかない。
バカだなあ。
俺たちはあくまで友達じゃねえか。
友達じゃないなら、一緒にいられないじゃねえかよ。
歩夢は興奮を隠せない表情のまま、ボタンを外そうとする明差陽の手を止めた。
もうちょっとでブラが見えたのにな~。
何色だったんだろ~。
「お前とは、無理だよぉ。俺とお前は、そういうんじゃないだろう?」
「あたしでさんざんいやらしいことしてたくせに、今さらなに言ってんのっ」
「いやっ、それはその、あれだ。一人エッチは単なる生理現象だから。恋愛とは別物なんだよぉ」
「トラウマのせいで誰も好きになれないなら、あたしがセフレになってリハビリしてあげるよ」
「セ、セフレ? ……おいおい変なこと言うなってぇ。お前のナイスバディをそんなくだらないことに使うなよぉ」
歩夢の声には感情がこもっていなかったが、彼のムスコは激情を示している。
明差陽は二人組の犯人を見つけたかのように、歩夢の顔とムスコを交互ににらみつけた。
「やりたいんでしょ?」
「そりゃやりた……やりたくないです」
「この体で楽しみたいんでしょっ」
「そ、そういうことをレディが言うもんじゃないぞぉ」
「あんたみたいなムッツリスケベに言われたくないわ!」
「ムッツリスケベにはムッツリスケベなりの、ポリシーってもんがあるんだよっ」
「なにいばってんの? 本当はやりたくてしょうがないくせにっ」
息を荒げ熱気を立ち昇らせる二人。
歩夢はもう捨て身の戦法しかない、と肝をすえた。
「あぁやりてえよ! やりたくてやりたくてしょうがねえよ! 俺はずっとお前とセックスしたくて、ずっとお前でオナニーしてきたんだから!」
「やだぁっ、日比野ったら、正直すぎる……」
明差陽は怒っているのか恥ずかしいのか嬉しいのか、なんとも複雑な表情だ。
「でも、それでもしない。それじゃダメなんだよ。抱きたいから抱くんじゃない。抱くべきだから抱くんだ。俺はお前を、抱くべきじゃない」
「なんで抱くべきじゃないのよ! お得意の屁理屈でうまく説明してみなさいよ!」
「だってお前は婚約してて、俺たちは付き合ってなくて、俺とお前じゃ不釣り合いで……」
「なにそれ! 今までにあんたが出した答えの中で、一番つまんないわ。クソつまんないっ」
「つまんなくてもそれが正論だ。俺は正論をバカにしたりしない。あくまで正論に従う」
「そんなに難しく考えることないじゃん。どうせ人生投げやりなんでしょ。たまには自分を解放してあげたっていいじゃない」
「そんな簡単に男と寝る女なんか、なんの価値もねえんだよ。相手にしたいとも思わねえな」
「簡単じゃ、ないよ……」
明差陽の表情に暗い影が差した。
歩夢が今までに見たことのない、ナーバスな明差陽だった。
「あたしはね、ずっとバージンを守ってきたんだよ」
「えっ! お前今、なんて言った?」
「あたしはあんたに、バージンを捧げるって決めてたんだよ!」
「なっ……」
明差陽の告白には、信じていた記憶を一挙に崩壊させるだけのインパクトがあった。
歩夢はなにを言えばいいのかわからず、どう考えればいいのかさえわからない。
「あたしはあんたのことが好きだった。自分の気持ちに気づく前からずっと。でもあんたの頭はあの人でいっぱい。全然あたしには興味を示さなかった。あんただって十二年間苦しかったんだろうけど、あたしなんか十三年間、あんたが振り向いてくれるのを待ってたんだよ」
「十、三年……」
なんか、負けたような気がする……。
「だけど、もう疲れちゃった。だから諦めて結婚することにしたの。でもせめて、最初の男になってよ。それ以上はなにも求めないから。今夜だけでもいいから」
歩夢はひたすらショックだった。
自分が明差陽ほどのいい女をずっと苦しめていた。
その衝撃の事実の前に、立ち直れないほどの責任を感じた。
でもな、その「好き」は友情とか同情とかであって、恋愛感情じゃない。
そりゃあその勘違いに便乗したいよ。
でも俺は、お前にふさわしい男じゃないから。
俺は俺を好きになってくれた人を抱くわけにはいかない。
こんな俺を好きになってくれるなんて、いい人すぎるだろ。
そんないいやつに手なんか出せるかよ。
黙って首を横に振る歩夢。
歩夢の腕にすがりつく明差陽。
じっと明差陽を見つめながら首を横に振る歩夢。
涙をためた瞳で訴える明差陽。
その瞳から視線を外さないまま首を横に振る歩夢。
「仲間……」
歩夢の穏やかな呼びかけには、温もりがこもっていた。
明差陽の目から、一筋の涙が流れ落ちる。
明差陽は無言でボタンをとめ、落ちていたバッグを拾った。
そして黙ったまま、振り返らずに家から出ていく。
部屋の中に、歩夢の大好物だった明差陽の残り香が漂っていた。
そうだ。それでいい。
お前は最高にいい女だ。
お前なら大丈夫。
絶対幸せになれるよ。
あーあ。
俺は人生最大の幸運を、捨てちまったんだろうな。
深夜、歩夢のスマホが鳴る。
明差陽からのメールだ。
内容はたった一言。
「友達に戻ってあげるよ」
あぁ、助かったぁ。
もう会えないかと思った。
やっぱ明差陽ってスゲーな。
さて、というわけで今夜も……。
一方、自分の部屋で枕がビショビショに濡れるまで泣いた明差陽は、歩夢の返信を受け取った。
「友達なら嫉妬も別れ話も離婚調停もない。一生俺の大切な友達でいてくれ」
なにこの喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない内容。
だいたいあいつごときがこのあたしをふるなんて、百年早いんだよ。
昔からあたしの体をいやらしい目で見てたくせに。
あいつ、今夜もあたしでするに決まってるわ。