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俺は彼女を抱くわけにはいかない  作者: 生出合里主人
第九の試練 俺は妹を抱くわけにはいかない
48/66

48 魂の宣言

 2017年8月7日 月曜日



 翌日、歩夢はあらためて東京科学大学へ向かった。


 警備員が目をそらした隙に、歩夢は建物の中へ侵入する。

 廊下を進んでいると、研究員らしき人たちの噂話が耳に飛び込んできた。


「やりまくってるらしい」

「誰とでも寝るビッチ」

「とんでもない尻軽女」

「女を武器にしてる」

「助手になるために体を使ってる」

「人の論文を盗用した」


 この上なく嬉しそうに話す人たちをにらみながら、歩夢はエレベーターで六階へ昇り、理工学研究科のフロアに入る。

 そこで歩夢は、またもや安道に見つかってしまう。


「お前、また来たのか。不法侵入で警察に突き出すぞ」


 再びマグマのようにわき上がってくる殺意。

 しかし歩夢は今にも噴火しそうな怒りをじっと抑え、存在さえ認めたくない相手との会話を試みる。


「警察に突き出してもいいですが、用事が済んでからにしてください」

「警察に捕まってもいいだと? なぜそこまで覚悟している。君のような子供が、この大学院になんの用があるというんだ」

「高良先輩が、大変なんだ」


 その名前に動揺を隠せない安道。

 周囲の目を気にして、歩夢を壁際まで引っ張っていく。


「き、君は高良君の、なんなんだっ」

「俺は高校の後輩として、高良先輩を助けなきゃいけないんだ」

「助ける? お前のようなガキになにができるんだ。ふざけたことを言ってないで、とっとと帰りなさい」

「だったらあんたはなにをしたんだよっ。誰が高良先輩を助けるんだっ」


 突風にあおられたかのようにたじろぐ安道。

 神経質そうな顔がけいれんしてこわばっている。


「それで、君はいったいなにをするつもりなんだ」

「高良先輩に対する嫌がらせを止める」

「どうやって止めるんだ」

「最初に嫌がらせを始めた連中に、直接抗議する」


「それは多分、高良君のいる研究室の誰かだろう。まずは高良君から犯人を聞き出してから、その犯人を問いただすべきだ」

「だったらその研究室に行く」

「こっちだ」


 安道は歩夢を真理愛のいる地球科学研究室まで案内し、何度も振り返りながら去っていった。


 あの生意気なガキは、一悶着起こして追い出されるのが落ちだろう。

 この僕でさえ、自分の立場を守るので精一杯なんだから。

 だが騒ぎが大きくなって彼女がさらに追いつめられれば、彼女の弱みにつけ込めるかもしれない。


 世間知らずのガキ、せいぜい派手にやってくれ。

 俺が彼女を手に入れるために。



 歩夢は安道の背中をにらみつけ、次に研究室の扉をにらみつける。

 扉の取っ手を首を絞めるように握り、回し、手前に引く。


 扉の中に見えてきたのは、たくさんの机、イス、パソコン、本棚、骨や鉱石、そして白衣の研究員たち。

 さらに視線を巡らせると、部屋の片隅に会議で使うような平机とパイプイスがある。


 そこに座って古いノートパソコンを打つ、「臨時」という名札をかけた女性。

 黒いスーツの上に白衣を着た、真理愛だ。


 真理愛の顔には生気がなく、ロボットのような表情でじっと画面を見つめている。

 話し声が部屋の中を飛び交っているが、誰も真理愛には声をかけない。

 会話に加わっていないのは、真理愛一人だけだ。


 その姿は自分を見ているようだと、歩夢には感じられた。


 笑い声が響くと、真理愛がビクッと震えて肩をすぼめる。

 そんなおびえた表情の真理愛を、歩夢は初めて見た。

 まるで凶暴な動物の檻に放り込まれた、ケガをして動けない動物のようだ。


「あれ? 僕は誰かな~」

 黙って突っ立っている歩夢に、三十代の女性研究員が声をかけた。


「あっ、あの、ちょっと、高良さんに……」

「え~、あの子、こんな若い子にも手を出したんだ~」

「まったく、手当たり次第だなー」


 あからさまな嘲笑が、部屋の中に充満していく。

 好奇の視線が、歩夢と真理愛へ注がれる。


「え? ……えっ! どうしたの? 日比野君」


 今人間に戻ったかのように驚く真理愛。

 だが自ら飛び込んでいった歩夢のほうが、より驚いた顔をしていた。

 心臓がすさまじい速度で鼓動を鳴らし、歩夢は胸を押さえる。

 もはや入室の目的は忘却の彼方へ消え、頭の中は真っ白になっていた。


「なんだ、これから少年とホテル直行か?」

 研究員たちがこらえきれず吹き出している。


 あぁ、そうか。

 俺はまたやっちまったんだ。

 余計なことをして、あの人を追い詰めてしまった。



 震えている歩夢を見た真理愛は、全力で笑顔を取りつくろう。

「申し訳ありません。高校の後輩なんです。いらっしゃい日比野君。よく来たわね」


 急な目まいに襲われる歩夢。

 発作的に真理愛の白衣の袖をつかむ。


 無理して、笑わないで。

 ここから、出なきゃ。

 あなたは、こんな所にいちゃいけない!


 激しく動揺する真理愛に対し、集団の冷笑が勢いを増す。

 そして歩夢の怒りは限界を超えた。


「あんたたちはなにもわかってない!」


 突然声を上げた歩夢に、観衆の視線が集中する。

 真理愛がひどくおびえている。


「この人はあんたたちみたいに心が汚れていないんだ! これ以上この人を苦しめたら、俺は絶対に許さない! あんたたちが言ったことやったことを、名前と顔を添えて世界中にさらしてやる! 知られて困ることをするな! 自分がされたくないことを人にするな! 恥を知れっ!」


 あっけにとられている聴衆たち。


 このままここにいたら、俺たちは殺される。

 真理愛先輩はもうすでに、こいつらに殺されかけている。


 歩夢は石のように固まっている真理愛を強引に部屋の外へ連れ出し、そのまま建物の外まで引っ張っていく。

 真理愛は無言で抵抗もせず、されるがままになっていた。



 大通りの喧騒が耳に入り、歩夢はようやく自分のしたことに気づく。

「俺、なんてことを……」


「気持ちは、嬉しかったけど……」

 真理愛は焦る気持ちを必死で隠そうとするが、その笑顔は引きつっていた。


「俺、ごめんなさい、俺、俺……」

「気にしないで。退職になることは決まっているから、もうどうでもいいの。駅まで送るわ」


 真理愛の表情はうつろで、作り笑顔も消え失せている。

 歩夢は行きたくない保育園に連れていかれる幼児のように、頭をたれたまま黙って真理愛の後ろをついていく。


 自責の念で青ざめている歩夢。

 彼にかけるべき言葉の選択は難しい。


 しかし真理愛もまた、誰かを勇気づけるだけの心の余裕はなかった。

 極度の混乱に陥っていた真理愛は、胸の内に秘めていた苦悩を独り言のように漏らしていく。


「あのね、笑っちゃうの。わたし、男の人が信じられない。男の人の中にある性欲ってものが、怖くて」


 話さなきゃ。

 なにか気の利いたことを言わないと。

 でもなんて言えばいい?

 なにも浮かばない!


「どの男の人も、女の体だけが目当てとしか思えない。そんなの偏見だって頭では理解しているつもりだけど、もうそうとしか思えなくなっちゃった。わたしが研究者として未熟だから、人としてダメだから、まともに扱ってもらえないんだろうけど」


 絶対にそんなことはない。

 少なくとも俺は違う。

 俺はあくまで人として、あなたを尊敬してる。


「ねえ、日比野君は……」


 真理愛の声に闇がこもっている。

 歩夢は得体の知れない恐怖を感じて視線を上げた。


「わたしと、エッチしたい?」


 歩夢は目を丸くして真理愛の顔を見た。

 真理愛は皮肉な笑みを浮かべながら、悲鳴を上げているように見えた。

 それは痛々しくて、今にも壊れそうな表情だった。


「あっ、ごめんね、変なこと言って。こんなオバサンなんかと、したいわけないのにね」


 そうか。

 彼女に比べれば、俺の苦しみなんかちっぽけなものだったんだ。

 それなのに、俺は彼女を助けたいと願いながら、本当は彼女に助けてもらいたいだけだった。


 俺は忘れていた。

 忘れたかったんだ。

 犯人は俺だということを。


「あの……俺は……俺も男だから、自分の中に性欲が渦巻いているのを感じます。女の人を見れば、いやらしいことをしたいと思ってしまうんです。でも人間の精神には、理性だってあります。理性が働かなかったら、世界はお終いです。理性は本能に勝利して、コントロールしなきゃいけない。男が女の人を守るには、その覚悟が必要なんだ。だから……」


 歩みを止めた歩夢は両足を踏ん張り、両手の拳を握り締め、魂のすべてを言葉に込めた。


「俺は先輩を一生、性の対象にはしません! 絶対にしませんからっ!」


 歩夢の力のこもった宣言に、真理愛は少なからず驚いた。

 だが次の瞬間には、恥ずかしそうに、それでも安心したように、はかなげな笑みを浮かべた。


「ありがとう、日比野君。本当に、ありがとう」



 歩夢は真理愛に見送られながら、自分の人生が決まったことを悟った。


 俺はすべての男性の罪を背負って、あの人に償いをしていかなきゃいけない。

 だって俺はこんなに汚らわしい、男という名の生き物なんだから。



 帰宅した歩夢は全裸になり、包丁を持って浴室に入った。

 そして自分の柔らかなムスコに刃先を向ける。

 迷いはない。

 一思いに突き刺した。

 鮮血が飛び散り、絶叫が響き渡る。


 あまりの激痛に血まみれの床へ卒倒する歩夢。

 それ以上自分に切りつける力は残っていない。

 汗だくになりながら独り言をつぶやくのが精一杯だった。


「許して……俺を、許して……」



 歩夢は医療機関にも行かず、夏休み中ずっともだえるような痛みに苦しんだ。

 幸い感染症にはかからず、ムスコは能力を失っていない。

 しかしなにかのきっかけでムスコが肥大化すると、傷口が裂けて痛みをよみがえらせるのだ。


 彼は十代の間、その呪縛から解かれることはなかった。

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