47 枯れ果てた涙
2017年7月19日 水曜日
現役の部員たちは翌日も、歩夢を家の前まで送っていった。
集合住宅が集積回路のように並び建つ、光が丘の団地群。
その一角にある、築二十七年の五階建て。
その二階の3DKが、歩夢が住んでいる家だ。
「今日もありがとうな。気をつけて帰ってくれ」
建物の入り口の前で歩夢は手を振ったが、部員たちは帰ろうとしない。
「今日は日比野氏の家で遊んでいこうかなー」
「えっ、いや、速見、早く家に帰らないと、ご両親が心配するぞ」
「まだ夕方じゃねえかよ」
「ひ、日比野君、みんなでゲームをやるっていうのはどう?」
「ごめん黒部、俺ゲームには全然興味ないんだ」
「あ、あれ? この前ゲームの話で盛り上がったのに」
「ヘイ日比野っち、メンズがシークレットにしているグッズのことなら、ドォンウォーリー。幸か不幸か、マスター先輩のおかげで免疫ができてしまったんで」
「いやいや一之瀬、そんなものは一つもないぞ。決してそういうことじゃなくて、今日はちょっと用事があってな」
「毎日暇そうにしか見えないけど。まあ日比野っちが一人になりたいって言うなら、あたしはそれでもOK~」
「今日は夜まで日比野氏に付き合おうって言ったの、一之瀬先輩じゃねえかよ」
「シャラァッープ! いいからみんな帰るよ! じゃあバイバイ日比野っち」
「ありがとう一之瀬。みんなありがとう」
歩夢は部員たちを見送り、深いため息をついた。
そして重い足取りで階段を上がり、玄関の前に立つ。
玄関扉の周辺には、消しきれなかった古い落書きの跡がある。
無言で家に入る歩夢。
玄関にある靴は、歩夢のスニーカーとサンダルだけ。
台所にはカップラーメンの残骸が積み重なっている。
歩夢は一年以上、自宅で配達員以外の人間に会っていない。
薄暗い自分の部屋に入った歩夢は、玄関のカギが回る音に思わず首を引っ込めた。
「ただいま。歩夢、いる?」
蚊の鳴くような声が聞こえる。
おびえるように首を縮めて入ってきたのは、母親の幸恵だ。
年々やせていく幸恵は、ほおのこけた顔を厚化粧でおおっている。
その仮面のようなメイクを、歩夢は憎んできた。
家族が家族らしかった時代を否定されたように感じるからだ。
しかしこの日の歩夢には、母親の姿が哀れとしか思えない。
父親はもう六年近く帰ってこないが、母親は月に数回やってくる。
しかしたいていは歩夢がいない時間を見計らって家に入り、荷物を持って愛人の家に戻っていくだけ。
たとえすれ違うことがあっても、会話をすることはない。
幸恵が声をかけても、歩夢が一言も返さないからだ。
だが、この日の歩夢は違っていた。
脳裏には、真理愛や部員たちの顔がちらついていた。
「ネットの件で来たんだろ」
およそ三年ぶりに聞く我が子の声に、幸恵のくぼんだ目が丸くなった。
横を向いたまま時折自分をチラ見している歩夢を見つめながら、胸に手を当て安どのため息を漏らす。
「なんでうちばっかりこんな目にあうのかしら。でも、悪いのはわたしよね。悪いのは、全部わたし……。ごめんね」
幸恵は息子に対する誹謗中傷からの波及被害を受けていた。
しかし自分が置かれている状況の辛さよりも、息子と久しぶりに会話ができる喜びのほうが大きかった。
骨ばった手で顔をおおい、まつ毛についた水分を拭き取る。
「今回の噂は、自分でまいた。迷惑かけて、悪かった」
「それって、自分を痛めつけたいってことなの? お願いよ、それだけはやめてちょうだい」
「そんなんじゃねえ。ちょっと事情があって、そうしたほうがうまくいくからやっただけだ」
「そう。だったらいいのよ。わたしなんて歩夢に、数えきれないほど迷惑をかけたんだから。でもね、あんまり自分を追い込んじゃダメよ」
「平気だよ。慣れてるから」
「あのね歩夢、昔のことなんだけど……」
返事がない。
それでも幸恵は話を続けた。
「あの噂は、全部が全部ウソだったわけじゃない。わたしの親が悪い人たちで……ごめんね、そんなの言い訳にならないよね。でもね、これだけは信じて。歩夢に関係する話だけは、全部真っ赤なウソだから。歩夢は正真正銘、お母さんとお父さんの子よ。それだけは、信じてね」
そんな話、今さらしてんじゃねえよ。
そういうこと思い出すと、またやせちまうじゃねえか。
「わかってる。わかってるから」
「なら、良かった。お母さん、その言葉を聞いて安心したわ。そしたらお母さん、パートの時間だからもう行くね。いつも通り生活費振り込んでおくから。じゃあ、体に気をつけるのよ」
扉が閉まり、歩夢は少しだけ振り返る。
目は赤いが、涙は流れていない。
涙は小学生の時に枯れ果ててしまったから。
2017年8月6日 日曜日
その年の夏休みは、歩夢にとって腐った臭いのする、吐き気をもよおす期間だった。
真理愛に関する中傷記事は、減ったものの消えてはいない。
歩夢の記事も流れているが、家に閉じこもっているから影響は少ない。
自分のほうが楽だという事実が、歩夢を責め立てる。
親と話す気になれたのは、真理愛先輩のおかげだ。
会ってお礼が言いたい。
でもそんなこと、会いに行く理由にはならない。
感謝の気持ちって、言える時に言わないと取り返しがつかないんだな。
黒部がネットに関する知識を駆使して調査した結果、真理愛に関する悪評をたどっていくと、大部分は大学院の関係者から発せられたものらしかった。
真理愛先輩のいる大学に行ってみよう。
大学院の人たちから直接話を聞いて、記事をばらまいている人を見つけて、二度とやらないように説得するしかない。
やったことを認めようとしないなら、暴れるとか、立てこもるとか、強引な手を使ってでも認めさせる。
悪いのはそいつらで、こっちは正しいことをやるだけだ。
両目を血走らせた歩夢が、家を飛び出して走っていく。
ドラムのようなどうきが治まらないまま、地下鉄に飛び乗る。
市ヶ谷にある東京科学大学は、塔のような高層ビルがランドマークだ。
だが大学院のある大学院棟は、他の校舎とは少し離れた場所にあった。
歩夢は中へ入ろうとするが、扉は閉まったまま。人影もない。
しまった、今日は日曜日だった。
なにやってんだ俺。冷静になれ。
歩夢が自分のほおをたたいていると、カギが回る音がした。
扉が開き、中から背の高い男が出てくる。
男は白衣を着ていて、「安道」《あんどう》と記された名札をかけていた。
銀縁のメガネの向こう側にある切れ長の目が、刺すような視線で歩夢を見下ろしている。
「君、そこでなにをしている。ここは関係者以外立入禁止だぞ」
聞く者を凍えさせるほどの冷たい声。
おびえながら見上げた歩夢は、雰囲気が真理愛を駅まで送った男に似ていると思った。
湧き起こってきた感情は、殺意と呼んでも過言ではない。
「今すぐここから立ち去りなさい。言うことを聞かないと警察を呼ぶぞ」
警察に捕まったっていい。
でも今ここで捕まったら、真理愛先輩を助けられない。
クソインテリめ、今日のところは見逃してやる。
「わかり、ました」
二人はにらみ合いながら別れた。
お互いが敵であることを、本能的に感じ取ったかのように。
ここってろくなやつがいないのかもしれないな。
明日またこよう。
一日でも早く、真理愛先輩を助けてあげたい。
歩夢が駅に向かって歩き出した時、大学院棟へ入ろうとする女性がいた。
その女性は「谷中」という名札をつけている。
歩夢を見かけた谷中は「え? 中学生?」とつぶやいて、不思議そうに首をひねった。