45 空っぽの心
2017年6月10日 土曜日
放課後、歩夢は高校の関係者専用玄関に入ってきた黒服姿の真理愛を見かけた。
彼女を見た者たちがヒソヒソ話を始めている。
生徒も教師も、彼女を見る目は鋭く、冷たい。
笑いをこらえる友達に背中を押された男子生徒が、ニヤついた顔で真理愛に声をかけた。
「あの、高良さんすか」
「あ、はい、そうですけど」
「誰とでもオッケーなんですよねー。俺の童貞も奪ってくださいよー」
「えっ」
「たまっちゃって困ってるんすよ~。俺のこれもチューチュー吸ってくださいよ~」
顔を赤くして逃げていく真理愛を、男子生徒たちが吹き出しながら見送っている。
歩夢は状況を冷静に判断する余裕もなく、その体格の良い男子生徒たちに体当たりしていった。
しかしそんな無謀な行為は、百倍にして返される。
だが真理愛をからかう男子生徒は彼らだけではなかった。
度重なる敗北の末、血を流し腹を押さえ足を引きずりながら真理愛の後を追う歩夢。
彼が目にしたのは、ひわいな言葉を浴びせられ、指をさして笑われ、しつこく追い回される真理愛の姿だった。
女子生徒たちが高速でスマホを打ち、あるいは動画を撮影している。
それをやめさせようとする歩夢。
驚き悲鳴を上げる女子生徒たち。
だが止めても止めてもきりがない。
悪役は歩夢だ。
彼はか弱い女性の味方として登場してきた男子生徒たちに、正義の鉄拳をお見舞いされる。
職員室で注意を受けた真理愛は、地学準備室で小平先生と話すと、部員たちには挨拶のみで早々に立ち去っていった。
よろけて壁にぶつかりながら進む歩夢がようやく部室にたどり着いた頃には、真理愛はすでに校門へ向かっていた。
真理愛は追いかけてきた歩夢に気づくと、両方の手のひらを突き出して「こっちにこないで」という意思表示をした。
歩夢は壁に当たったように立ち止まり、その場に立ち尽くす。
なんでこんなことになった。そんなわけないのに。
最悪あの男とは付き合ってるかもしれない。
でもそれ以外は全部ウソだ。
彼氏がいたって関係ない。
あの人は、間違いなく処女なんだ。
「日比野っ」
怒りたいのか優しくしたいのかあいまいな、乾いた声が背後から聞こえる。
歩夢が半分だけ振り向くと、赤いジャージを着た明差陽が深刻そうな表情で立っていた。
「日比野さあ、高良先輩には近づかないほうがいいよ」
「はぁ? そんなの、お前には関係ねえだろ」
「でも、今あの人にかかわるとろくなことはないよ。本当はいい人だってわかってるけど、いい人だからって人に好かれるとは限らない。かわいくて純情そうで弱々しくて、そういう男が助けたくなる感じが、きっと女の恨みを買ったんだよ」
「訳わかんねえ。あの人は弱くなんかねえ。なんにも知らないくせに知った口をたたくなっ」
「世間てさ、本当かどうかなんて関係ないじゃん。誰かが自分の都合で話をでっち上げたのかもしれない。多分そうなんだろうね。でも噂が回れば人はそれを本当にしてしまう。社会にはいけにえが必要だから。そんなこと、あんたが一番よく知ってるでしょ」
「あの人は友達ってわけじゃねえけど、俺が一番信用してる人なんだ。信用できる人なら、世界中の人たちが悪く言っても、たとえ最後の一人になったって、味方でいるべきなんじゃねえのか」
「あたしにとってあんたはそう。あんたにとってのあたしも、そうであってほしい。でもあたしは、あんたが他の人の問題に巻き込まれるのはやめさせたいの。だってあたしは、あんたのことが心配だから。心配、なんだよ……」
明差陽のいつになく弱気な口調に混乱した歩夢は、明差陽に言い返してもらえそうな言葉を探す。
「考え方が小せえよ。誰がなんと言おうと正しいことは正しい。それを忘れたら人間お終いだ」
「いくら立派なことを言ったって、たくさんの人を助けるなんて無理。誰だって、自分と身近な人を守るだけで精一杯なの。たまに会うだけの先輩のことなんて、どうにもならないんだよ」
「お前にとっての俺は、大事なもんじゃねえ。俺にとっての俺も、大事なんかじゃねえ。だけど、あの人は違う。俺……世界にとって、一番大事な人なんだ」
「なにが世界だよ。それだって感情論で言ってるだけじゃん。いくら憧れたって、あの人は遠い所にいる人なの。いい加減目を覚ましなよ。あんたなんかに、なにもできっこないんだから」
「だからこそ、せめて信じてあげるんだ。あの人を傷つけるやつを、俺は絶対に許さない」
歩夢は明差陽の制止を振り払い、一人コンピュータ室へ向かう。
一つでも多く、でたらめな記事を消すために。
2017年7月15日 土曜日
「ねえねえ聞いた? あの小平がOGとデキてるんだってさ」
校舎の廊下を歩いていた歩夢は、耳に入ってきた話にがく然とした。
噂によると、小平先生と真理愛が十年以上肉体関係なのだという。
小平先生は三年前に妻を病気で亡くし、子供はいなかった。
来年定年を迎える五十九歳だが、見た目はもっと老けていて、小柄なこともあって弱々しい。
噂を同僚から聞かされて以来、いつも穏やかな小平先生の顔から笑顔が消えていた。
「あのおじいちゃん先生が、やることやってるなんてな」
「OGが先生を財産目当てで誘惑したらしいよ。ああいう大人しそうな女に限って、性格悪いんだから」
生徒の大半は噂を信じているようだった。
さすがに教師たちは噂をうのみにしているわけではない。
にもかかわらず教師たちは、時折その話題を持ち出して会話を楽しんでいた。
「俺も一発やらしてくれねえかな」
体育館の前で男性の体育教師が同僚にそう言っているのを、歩夢は聞いた。
反射的に飛びかかっていった歩夢は、体育教師に素早い身のこなしで取り押さえられ、旧時代的な体罰を受ける。
歩夢の体育の成績は、最低評価となることが確定した。
この日、真理愛は校長に呼び出されていた。
二学期から非常勤講師として採用する話は白紙にする。
ひとまず三ヶ月間は学園への出入りを禁じる。
そう言い渡されたことを、歩夢は後で知った。
真理愛は事実無根を主張するも、ひたすら頭を下げていたらしい。
真理愛は部員たちに顔を見せることもなく去っていった。
歩夢が見たのは、罵声を浴びる真理愛の黒く染まった後ろ姿だ。
お前らあの人のなにを知ってるんだよ。
あの人が過ちを犯すわけないだろ。
お前らなんかと一緒にしないでくれ。
今だってあの人は処女なんだ。
誰がなんと言おうと、それが真実なんだ。
「高良先輩」
校門へ向かう黒服の真理愛に、体操服の明差陽が声をかけた。
怒りに同情が混じった表情だ。
「あぁ、日比野君の、お友達ね」
「あの……もうあいつにかかわらないでもらえませんか」
「うん。そうだよね。なるべくそうするつもり」
「あいつは信じられないくらい傷つきやすいやつだから、このままじゃ先輩を心配しすぎて、壊れちゃう。ただでさえ、辛い人生を歩んできたんだから」
「あぁあの、ご両親が不倫を疑われたこと?」
「本人が気にしてるのは、多分そのことじゃありません」
「まだ、他にもあるの?」
明差陽は一度目を閉じてから、空を見上げながら語った。
「あいつの母親は、高校生の時援交してたんです。避妊に失敗してできた子供が、あいつ。父親はそれを知っていながら結婚したそうです。両親はそのことをずっと秘密にしていたのに、父親の部下がたまたま援交の客で、店を首にされた腹いせに当時の話を言いふらしたらしくて」
「だけどそれってただの噂でしょ? 事実はどうなのかわからないじゃない」
冷静を装う真理愛の反論に、明差陽は何度も首を振る。
「でも近所じゃ有名で、ネットにも流れちゃって、本人もそれを信じているんです。自分は生まれてくるべきじゃなかったって、自分が両親を不幸にしたんだって、そう思い込んでる。だから自分は、人と深くかかわっちゃいけないって考えてるんだわ。そんなあいつが誰かのことを思い続けるのは、苦しいはず。相手が不幸ならなおさら。あたし、これ以上見ていられない」
「日比野君、辛かっただろうな。それに、あなたもね。わたし、いろんな人を傷つけちゃってるんだね」
真理愛の心痛は、その表情を見れば明らかだ。
心を鬼にして訴えた明差陽だが、もうそれ以上相手を責めるだけの根気は残っていなかった。
「失礼なこと言って、すいませんでした」
「いいえ、とんでもない」
後ろめたさを抱えたまま走り去る明差陽を、真理愛がまぶしそうに見送る。
その明差陽の横を、暗い表情の歩夢が通り過ぎていった。
歩夢は明差陽がとっさにつかもうとした手を振り払い、全速力で走っていく。
「あっ、もう。バカっ、わからず家っ、純情男っ……あれ? なんであいつのことほめてんのあたし……」
ようやく真理愛に追いついた歩夢は、足がふらついて今にも倒れそうだった。
「日比野君、顔が怖いよ。せっかくのかわいい顔が台無しね」
「な、なに言ってるんですか。そんなことより……」
「日比野君、あのね、わたしは日比野君のことを理解、なんてできないのかもしれないけど」
「え? なんの話ですか?」
「日比野君の親御さんって、少なくとも日比野君が幼かった頃は、日比野君のことがかわいくてしかたなかったと思うのね」
「はぁ? 今、俺の親の話なんかどーでもいいでしょう」
「だって一度も愛されなかった人が、こんなに優しい人になれるわけないもの」
歩夢は自分の家族をほめる言葉を、生まれて初めて耳にしたような気がした。
そんなことは、永久にないと思っていた。
「優しくないし愛されてないし、そんな話はどうだっていいっ。俺はただ先輩が、先輩が……」
「わたしのことを考えてくれるなら、わたしを一人にしておいてくれないかな」
そうだ。
真理愛先輩は一刻も早くこの場を離れたい、今は誰とも話したくない。
それなのに、自分がすごく大変な時なのに、俺のことなんか心配してくれるなんて……。
「無神経なこと言ってごめんね。心配してくれてありがとう。じゃあね」
無言で立ち尽くす歩夢との距離を広げながら、真理愛は心の中でつぶやく。
彼にはきっと、生きる理由が必要だわ。
でもわたしには、彼にあげられるものが一つもない。
わたしはもう、空っぽだから。




